第3章

泡沫の平穏 1



 紅い花を咲かせた月紅草を、まざまざと目に映したその翌朝。


 ろくに眠れないまま、サユは夜明けを迎えた。休日を満喫する気分になどなれるはずもなく、緑樹亭で朝食をとったあと、サユは夏霞と連れ立ちクアジの家へと向かっていた。八年前の話が聞けそうな人物を紹介してもらうためだ。


 ひととおりの話はファイスから聞いていたし、新たな情報が都合よく得られるとは考えていない。それでも自分自身の目と耳で確認せずにはいられなかった。八年前の事件はこれで終わったのだという確証が、どうしても欲しかったのだ。


 幸い、昨日現れた魄魔が事を起こした様子はない。いまはただ、平穏を取り戻した村に災いが降りかからないことを祈るばかりだった。


 サユは、横を歩く夏霞の緩く波打つ髪に目を向ける。


 精霊は個として生まれ出でたときから取れる姿が決まっている。成長もしなければ纏う色も変えられない。その事実が、ファイスに疑いの目を向けるサユを支えていた。あの、少年の姿に満月の夜を纏った風精が、ファイスであるはずがないと。それは手合わせをしたときに確信してもいた。


 だから迷う必要はないのに。群青の双眸を見るたび、サユは逡巡を繰り返す。

 そこでサユの視線に気づいてか、顔を上げた夏霞は上機嫌な笑みを見せた。


「サユの調べもの、ナツも頑張ってお手伝いするね!」

「ええ、頼りにしているわ」


 サユは夏霞の存在に安らぎを覚える。緑樹亭を出て、数日ぶりに夏霞自ら姿を見せてくれたときには日常を感じもした。

 至天とは大違いだ。そのようにサユが癒やされていたところ。夏霞から袖を引かれる。


「ねえ、サユ。あっち——、なんだか騒がしいよ」


 夏霞が示した方向に視線を巡らすと、牧草地のさき、道に沿って走る水路があった。水路には石橋が架かっており、その上や周囲に人集ひとだかりを見つける。


「なにかしら」

「行ってみよう、サユ!」


 駆け出した夏霞のあとを追い、サユも騒ぎの中心へと足を向ける。けれど辿り着くまえに、人垣から外れて歩いてくる人影が目に映った。それが青年であり誰であるのか。サユがファイスだと気づくのにさほど時間は要さなかった。

 歩く所作だけでも、いちいち目を惹くのだ。ただ、顔も服も泥で汚れており、膝から下に至ってはずぶ濡れのようだった。


 あまりにも酷い出で立ちに、サユと夏霞はその場で立ち止まり、しばしファイスの動向を窺う。別の道に行ってしまうかとも思ったが、ほどなく気づいたらしく、彼は笑みを浮かべ、進路をサユのいるほうへと変えた。


「いまから帰るのかい?」


 サユの目のまえに立ったファイスからは、泥汚れを気にする様子はまったく感じられなかった。


「そういえば、伝えていなかったわね。しばらくリシュウにとどまることにしたの。それより、その恰好。なにがあったの?」


 サユに問われ、ようやくファイスは自身をかえりみたようだ。顎を引き、己の様相を確認していた。


「ああ、見苦しくてすまない。妊娠中のキャシーが誤って水路に落ちてしまってね。この時期の水の冷たさは胎児にも母体にも危険だろう。慌てて、ご近所総出で救助活動だよ」


 ファイス越しに水路を見やると、集まっていた人々が散り始めていた。


 あんなに人が集まるなんて大事おおごとだったのかもしれない。サユは本気で心配になった。雪に閉ざされる日など滅多にないこの地方だが、ファイスの言葉どおり、朝方にはまだ薄氷が張るほど水は冷たい。


「大丈夫だったの?」

「母子ともに事なきを得たよ」


 その返答にサユはほっとしかけたのだが。


「ちなみに、キャシーは牛なんだけど。彼女、いいお乳を出すんだ」


 さらりとつけ加えられた事実に耳を疑う。頃合いを見計らったような言いかたには引っかかりを覚えた。だが、すぐに昨夜のクアジの言葉を思い出し、大人気ない行動は慎もうと、サユはことさら平静に務めて口を開いた。


「てっきり人間の妊婦だと勘違いしてしまったわ。でも、それならその汚れようにも納得がいくわね。どちらにしろ無事でよかったわ」


 ここは笑顔のひとつでも見せておいたほうがいいだろうかと、サユが表情をつくろうとしたその矢先。

 明らかに残念そうな顔をファイスがしてみせた。


「今日は怒らないんだね」

「今日は……ですって?」


 出しかけた笑顔が引き攣るのを、サユは我慢することができなかった。

 昨夜、誠実に話をしてくれた彼の姿勢に、無責任で軽い男だという見解は改めるべきかもしれないと本気で考えていたのに。


「私を怒らせて、なにが楽しいの?」

「なにって。君は怒ると相手の目をまっすぐに見るから。ほら——。いまみたいにね」


 頬に跳ねた泥も、彼の魅力を汚すことは不可能のようだ。ファイスは、けちのつけようがない綺麗な微笑みを見せた。


 間違いなくからかわれている。サユは無性に腹が立ってきて頬が熱くなるのを感じた。なのに目は逸らせず、文句のひとつでも投げつけてやりたいのに言葉も出てこない。

 自分でも理解できない歯痒さを抱え、沈黙したサユの代わりに夏霞が口を開いた。


「それ。ナツがキレイにしてあげようか?」


 サユの背後に隠れ、顔だけを覗かせた夏霞にファイスの視線が注がれる。


「その子も君の使精?」

「ええ、紹介するわ。水精のナツカよ」


 そのときにはすでに、夏霞の申し出に便乗してしまおうとサユは決めていた。これは憂さを晴らすための、ちょっとした仕返しだと——。


「夏霞。遠慮なくやってあげて」

「はぁーい!」


 諸手を挙げ返事をした夏霞の姿が霞んで溶けた。同時にファイスの頭上にはつぎつぎと水の粒が生まれる。ついには陽の光を受け輝きながら、はらはらと落ち始めた。結果、水の粒は雨となり、空を仰いだファイスへと降り注いだ。

 しきりに降る雨は彼の髪を濡らし、頬を伝っては泥を拭う。そして少しずつ彼の繊細な輪郭を露わにしていった。


「……きれい」


 サユは思わず声に出してしまう。瞬時に我に返り口を噤んだが、もう遅い。ファイスが微笑むのが見えた。


「あなたじゃなくて、そのっ!」

「この雨のことを言ったんだろう? 僕も、綺麗だと思っていた」


 確かにサユは、雨を指して綺麗だと呟いた。だが、手のひらで水滴をすくい受け、流れ落ちる様を俯き加減に眺めるファイスの横顔は、悔しいけれど、やはり綺麗だと感じた。


 夏霞が降らせた温かな雨が上がると、ファイスの髪や指先、服のはしからは絶えず雫が滴っていた。なのに存外気持ちよさそうにしている態が、サユは少しだけ面白くなかった。

 そこに全身濡れそぼったファイスが、額に張りついた髪を払い近づいてくる。サユの目前、手の届く距離で立ち止まると腕を組んだ。かと思えば、不意にサユへと顔を寄せた。


「ところで。汚れは落ちたようだけど、このあと、どうしてくれるのかな」


 間近で顔を覗き込まれ、サユが息を呑んだその直後。


「それ以上サユに近づいたら、だめえぇっ!!」


 夏霞の声が響き渡り、満水の桶をひっくり返す勢いで、大量の水が落下してきた。

 その洪水はサユとファイスに分け隔てなく被害を及ぼし、全身をずぶ濡れにした。宣言はあったものの予測困難にして手加減なく通りすぎた災禍に、サユとファイスはお互い向き合ったまま顔を伏せ、しばし呆然とする。


 だが、無言の時間はそう長くは続かなかった。


「やりすぎちゃった」


 茶目っけたっぷりな夏霞の声が聞こえ、サユとファイスは同時に顔を上げた。ふたりの視線がはたとかち合う。

 そして瞬息の沈黙ののち、揃って吹き出していた。





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