虚空の満月 1
小窓から空を仰ぐと、棚引く雲が、沈む太陽に赤く色取られ始めていた。
行方の知れない魄魔の報告も兼ね、八年前の事件に詳しい人物を紹介してもらおうと、クアジの家までやってきたサユだが。派遣初日にも通された客間の出入口で立ち尽くしていた。
その原因。ゆったりと腰掛に座り、優雅にお茶を飲む先客は、我が家のように寛いで見えた。その姿を目にし、この場から立ち去りたい衝動に駆られる。だが、用も済んでいないうちから帰るわけにもいかず、けれど一瞬の躊躇いはサユの足を止めた。
そんなサユを、先客であるファイスは笑みを浮かべて迎えてくれる。
「困った事態になったようだね。なにか進展はあったかい?」
「簡単な報告なら、クアジに済ませたところだけれど——」
よく、呑気にお茶など飲んでいられるわね。サユはその言葉を口にしかけて踏みとどまる。
「ここへは、クアジと魄魔対策の相談をしに来たの?」
「そうだよ。とりあえず、ここ。座りなよ」
向かいの席へと片腕を伸ばし、軽く二回、指先で卓上を叩いたファイスは、そのさきにある腰掛に座るようサユを促した。
ファイスとの同席に身構えたものの、とくに断る理由も見つからず、勧められた席に向かう。席に着くと、当然だが卓越しにファイスと目が合った。新たな魄魔が出現したこの状況を、彼はどう見ているのか。ファイスの双眸に緊迫した色はなく、平素と変わらず穏やかだった。
「早速だけど本題に入ろうか。魄魔について、新しい情報でも持ってきてくれたのかな?」
「ええ。けれど、悪い報せよ」
扉が知らぬまに閉じられたこと。いまだ魄魔の行方は掴めていないこと。サユはそれらを隠さずに伝えた。最後に、もっとも切り出しにくい用件をつけ加える。
「もうひとつあるわ。今回の依頼だけれど、私の仕事はここまでよ」
「行方の掴めていない魄魔については別件扱い、ということかな。なら承知しているよ」
落ち着いた様子で返されたファイスの言葉に、サユは懸念を口にする。
「この件に従事しない私が訊くのは筋違いなのだろうけれど。これからの対策は決まっているの?」
「うん。村の人たちには報せないと決めたよ。念のため再依頼の準備は進めるけど、目的も判らないし、実害が出たわけでもないからね。報せたとして、皆が怯えて家に引き籠もってしまうほうが僕としては困るんだ」
「どうしてあなたが困るの?」
「農作物の収穫に影響が出ると、上納金を徴収できない。ただでさえ、ここ数日がそうだったんだ。そろそろ日常を取り戻して励んでもらわないと。結果的に苦境に立たされるのは、この村の人たちだから」
困る理由に関しては私的な感情が大部分を占めているのかもしれないが。真剣に話をするファイスを見ながら、こんな一面もあるのかとサユは思った。それに、その内容は簡単に口を差し挟み意見できるものではなかった。
作物の不作は生活に直結する死活問題だ。収入を得られないばかりか自給の食糧まで事欠くかもしれない。それはサユにどうこうできる問題ではなかった。だが、魄魔の行方さえ掴めていれば、この件に関しては不安を取り除けたはずだと、歯痒さを感じてもいた。
そこにクアジが、お茶を載せた盆を手に客間へと入ってくる。
「サユさまが気になさらずともよいのじゃよ。わしらはずっとそうやって暮らしてきたし、よそと比ぶれば、この村は平和で恵まれとる」
話が聞こえていたらしく、クアジの言葉はサユを気遣ってのものだった。
「だけど、不安だけを残してしまったわ」
「真面目だね、君は」
目を伏せたサユにかけられたファイスの声は、冷淡にも聞こえた。
「いかに君が頑張ろうと、魄魔を根絶やしにしない限り、真の終わりは来ないというのに」
視線を上げ、サユは緑の双眸でファイスを見据える。
「私のやっていることは無駄だというの?」
「無駄とは言っていないよ。君たち使族に救われた者が大勢いるのも事実だからね」
「そうじゃない者も、いるって言いかたね」
「君はもう少し現実を知ったほうがいい」
「現実なら、
「その台詞は、君が狭い世界で生きてきたからこそ軽々しく口にできるんだろうね」
どうして彼に、そこまで貶められなければならないのか。すぐさま反論すべくサユが口を開こうとしたそのとき。
「おふたかたとも、大人気ないですぞ」
睨み合うふたりを見兼ねたクアジが仲裁の言葉を投げた。その直後、サユとファイスは同時に口籠もり、お互いから目を逸らす。
「……食ってかかって悪かったわ」
サユはすぐに謝罪していた。ファイスは事実を述べただけだというのに。むきになった自分が恥ずかしく思えた。
ファイスもクアジの言葉が効いたようで反省を見せる。
「いや、僕のほうこそ言葉の選びかたが悪かったよ」
だが、それきりサユもファイスも沈黙してしまい、その場には鬱いだ空気が流れた。
そこでクアジが話題を変える。
「そうじゃ。さきほどサユさまが知りたいと仰った、八年前の事件の詳細じゃが。村の誰よりもファイスさまがお詳しいはずじゃよ」
その話題も楽しいものではなかったが、沈黙を破るのには成功する。
サユはクアジへと目を向けた。
「どうして彼が?」
サユの疑問にはファイス自身が答えをくれた。
「今回の事件の報告書を作るついでに、八年前の話も村の人たちに訊いて回ったんだよ」
それは手間の省ける話だった。サユがやろうとしていたことを、ファイスがさきにやってくれていたのだ。
調子がよすぎるだろうか。サユはそう思いながらもファイスの顔を窺い見る。
「明日、話をする時間をつくってもらえないかしら」
「僕なら、いまからでも構わないよ」
ファイスの顔にはなんの含みもない無害そうな笑みが戻っていた。かと思えば、唐突に空の茶碗を持ち上げる。
「クアジ。悪いんだけど、もう一杯、お茶をもらってもいいかな」
「わしが淹れる粗茶でよろしければ。じゃが、もう言い争いはせんでくだされよ」
戒めの言葉を残し、クアジは客間を出ていってしまった。
クアジに席を外させるなんて。目的があっての振舞だと思うが、なにを企んでいるのかまでは見当もつかず、サユは先手を打とうと口を開く。
「そろそろ陽も暮れたころよ。夜が深くなるまえに、自邸へ帰ったほうがいいと思うわ」
「そうだね、僕を案じてくれるのは嬉しいけど——。ねえ、サユ。約束はまだ、履行可能かな?」
「可能もなにも、月魄ではなく魄魔がいるかもしれないのよ。なんの保証もできないわ。塞がれたといっても、扉があったのはあの泉の近くなのだし」
「僕が住んでいるのもその近くだよ。それに、邸のなかが安全という保証もないだろう?」
「それは、そうだけれど……」
迷いを見せて口籠もったサユのほうへ、卓上で腕を組んだファイスが身を乗り出す。冷然とした群青の瞳がサユを縫い止めた。
クアジに聞かれるのを避けるためか、声を落としファイスが囁く。
「僕はひとりでも行くつもりだよ。それでもし、僕が危険な目に遭ったとしても、君が責任を感じる必要は爪のさきほどもないからね。自己責任だ。そうだろう?」
彼はなぜ、そこまで泉へ行くことに固執するのか。やはり、なんらかの目的があるのだろうか。ならば疑念を払拭するためにも、この機会を逃すべきではない。ファイスの言動は、サユにそう思わせた。
そこにふたたび、ファイスが囁く。
「もう一度だけ訊くよ、サユ。泉までつき合ってくれるかい?」
「いいわ。約束どおりつき合うわ」
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