漸進の兆候 4
なにがあったのか。新たな魄魔の出現をクアジに告げ、扉が開かれた場所までふたたび戻ったサユの目前。そこには苛立つ至天の姿があった。
「どうしたの?」
「ついいましがた、扉が閉じられた。結界には誰も近づいてねぇし。おそらく結界の向こう、扉のさきにある道から閉じたんだろ」
手の届かない場所で首尾よくしてやられたからか。至天はことさら悔しげだった。
「道からって……。魄魔が扉を閉じたというの? けれどそれって、この扉から出てきた魄魔はまだ近くにいるってことよね。ほかに扉はないのでしょう?」
「いまのところ、ねぇな」
「ファイス・ランドルフとその周囲には何事もなかったのよね?」
ファイスについては、クアジの家の扉を叩く直前に報告を受けてはいたが。あらためて念を押すと、至天の眉間に皺が寄った。
「ああ、問題ねぇよ。それと伝え忘れてたけどよ、今夜の約束は断ってきたぜ」
約束より、目のまえの事態に憂慮を覚えていたサユは適当に頷く。
使族が道と扉を完全に塞ぎきるまでには通常なら丸一日、場合によっては数日を費やすのに。この扉を塞いだ何者かは、わずかな時間で、それも完璧に事を成し終えたのだ。その秀逸な技をまえに得られる手懸かりは皆無だった。ここまで後手に回りっぱなしの至天を目にするのも初めてで、サユはなかば途方に暮れる。
「魔力の残滓すら感じられない。これが魄魔の仕業だというの」
「さあな。扉のさきは俺にも見えねぇし。ただ、そんな行儀のいい魄魔がいたら、いまごろ俺らの仕事も減って楽ができてんだろうぜ」
「そう、よね。ここは使族の誰かが反対側から閉じたと考えるのが妥当、よね……?」
釈然としない状況につぎの行動を決めかねていると、目のはしに白い影が映った。勢いよく駆けてきて、両腕を広げた影にサユは抱きつかれる。
「サユ! ただいまっ」
使いを頼んでいた夏霞が戻ってきたのだ。
「お帰り夏霞。兄さまはなんて?」
「えっとね、ひとつ目は必要ありません。ふたつ目は好きにしなさい、だって」
サハヤの真似だろう。夏霞は愛らしい顔を懸命にきりりとさせ、短い報告を終えた。
サハヤに求めたひとつめの沙汰は、新たに現れた魄魔への対処をどうするかだった。必要ないとは、聖家当主であるサハヤはこの件を別件と判断したのだろう。つまり、今回サユがこなすべき仕事は請け負った事件の解決のみ。それはふたりの魄魔を斃した時点で達成されている。
穿たれた道や扉を放置するなどあってはならない話なので、道や扉への処置はやって当然。だが、それ以外は再度依頼がない限り動く必要はないという意味だった。予想どおりの答えだったが、うしろ髪を引かれる思いをサユは断ち切れなかった。
それに対し、ふたつ目は気が抜けるほどあっさり許された。サユは休暇が欲しいと願ったのだ。
休暇が取れたわりに浮かない顔をしているサユを、夏霞が窺うように見上げる。
「それからね、サハヤが言ってたよ。三日のうちは呼び戻すつもりはありませんから、心置きなく休んでくださいって」
「ええ。ありがとう、夏霞」
礼を口にしたサユだが、心ここに在らずだと至天には気づかれたようだ。面倒事の予感でも覚えたか。けして晴ればれとは言えない顔でサユを見ていた。
「で? せっかくの休みを、お前はなんに使うつもりだ?」
返答の内容を正確に予測しているであろう至天の問いに、緑の双眸には真剣な光が浮かぶ。
「八年前の事件を調べ直してみようと思うの。消えた魄魔の行方も気になるしね」
「ほんとにお前はよ。たまにはさぁ、しおらしくして欲しいぜ」
至天が億劫そうな呟きを漏らしたが、サユは聞こえない振りを決め込んだ。
*****
「このまま、お戻りになるのですか?」
低く唸るような男の声が、主であるリターナに問うた。
それを聞いているのか、いないのか。住み慣れてしまった街並を隠す城壁をまえに、夕暮れの迫る空を見上げたリターナの関心は思慮のなかにあった。
「わたくしを追ってきたのかと、思わずお邸に踏み込んでしまいましたけれど……。あの無礼極まりない存在には覚えがありますわ」
「あのかたの許に来ていた地精のことですね。たしか、主は聖家の娘でしたか」
今度は男の声に頷き、リターナは妖艶な微笑みを見せる。その指先には、ひと粒の透明な石が抓まれていた。なんの加工も施されていない原石ながら、傾きかけた陽に翳した石には、価値を知らずとも見入ってしまう魅力があった。
「これがなにか判りまして? 以前、あのかたに頂いた石を使わずに取っておきましたの」
「それは
従者の返答にリターナは満足の表情を浮かべる。
「もう一度。つぎはあのかたにも見つからぬよう。参りましょう、
リターナは従者の真名を呼び、身を翻した。
「御意に」
あとを追い、従者が唸った。
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