漸進の兆候 3



 ランドルフ家別邸は、村の北側に位置する小高い丘にある。邸からは村が一望でき、あたり一帯の土地が南に向かい緩やかに下り、傾斜しているのが見て取れた。


 そこに建つ館の一室。壁に大きく開けられた格子窓を通し、午後の暖かな陽の光が射し込む部屋で、ファイスは長椅子に座り書類の束に目を通していた。

 窓が閉めきられているにも拘わらず、ふと空気の揺れを感じて顔を上げる。ファイス以外、誰もいなかったはずの部屋。しかし感じた気配は気のせいではなく、視線のさきには長身の青年が静かに立っていた。


「誰かと思えば、君か。なにか問題でも?」


 不意に現れた青年、精霊である至天に、ファイスは驚きもせず話しかけた。


「いましがた新しい扉が開いた。お前に心当たりはあるか」


 至天は前置きもなく本題を持ち出した。

 突然姿を現しておいて非礼を詫びる気はないらしい。それも当然か。と、ファイスは腹を立てるでもなく納得する。明らかに疑っている様子の至天からは目を逸らし、考える素振りをしてみせた。


「心当たり……ね。ありすぎて困るな」

「訊くまでもなかったな。どっちにしろ、あいつとの約束はなしだ。迎えにも来るな。つうかよ、二度とあいつには近づくな。いいな」


 一方的に要求を突きつけたかと思えば、至天はすぐさまこの場から去ろうとした。それをファイスは呼び止める。


「ねえ、君。僕にもなにか手伝えることはあるかい?」


 きわめて友好的な姿勢を取ったつもりだったのだが。至天から向けられたのは無愛想な顔だった。


「お前さぁ。昨日の夜、泉にあいつがいるのを知りながら来たのか?」

「だとしたら?」


 ファイスは長椅子の背凭れに体を預け、微笑んでみせた。

 だが、含みのある言いかたが気に食わなかったのか、舌打ちで返される。


「相変わらず、かわいげの欠片もねぇ」


 吐き捨てられた台詞に、ファイスは笑みを消す。


「君も、相変わらず精霊らしくないね。だけど昨夜の君の反応は楽しませてもらったよ。彼女に対しては、やけに柔順じゃないか」

「そういうところだよ。お前はらしくて虫酸が走る」

「そうかい? 僕は君からなにを言われようと、称讃にしか聞こえないけどね」


 事実、精霊である至天の台詞にファイスは痛みを感じたりしない。そんな瑣末ごとより、興味をそそられるのは至天の主。


「……彼女。本当になにも知らないようだね」

「あいつに余計な話はするな」


 至天の声がいちだんと低くなった。


「余計って、どの話のことかな」


 言い終えて得心がいく。


「そうか……。だからこそなんだね。彼女があんな瞳をしていられるのも」

「いいか。あいつは間違いなくお前の正体を疑ってる。自分の身が大事なら、これ以上あいつには近づくな」

「僕を心配してくれているわけじゃ、ないよね。ならば断っておくけど、彼女に会うつもりなんて、僕には欠片もなかったんだよ」


 すぐさま疑いの目を向けられるも、ファイスは気にせず続ける。


「一度目は偶然。使族が来たら話をしてくれるよう、村長に頼みに行ったところだったんだ。そこに彼女は来た。使族の対応がこんなに早いとは思っていなくてね。しかも彼女ひとりだけが派遣されてくるなんて、それこそ思ってもみなかったよ」

「二度目は」

「二度目は必然。だって僕はもう、このリシュウで、彼女に逢ってしまった」

「ふざけるのも大概にしろよ」


 足を踏み出し、至天がファイスに詰め寄る。長椅子に座るファイスは、真上から見下ろされる形で至天と向き合っていた。


「手を出すのかい? 主の命もないのに」

「関係ねぇ。あいつは止められなくても、お前の自由を奪う方法ならあるからな」


 いまにも胸ぐらを取りそうな至天と、ファイスは正面から顔を突き合わせる。


「僕は真実、君が羨ましいよ」


 口調は穏やかさを保てたが、群青の瞳は夜の色を濃くし、苛立ちを隠しきれずにいた。


「現状のままで、これからさきも彼女を護れると、君は本気で思っているのかい?」


 その問いには沈黙したまま、至天からの返答はなかった。

 目を伏せ、ファイスは自嘲気味に笑う。


「話は終わりだね。どうやら客人のようだ」





   *****





「お待ちください! 勝手に入られては——」


 ランドルフ家別邸の玄関先。この邸で家令を務める初老の男、マイルズに止められそうになったのを振りきり、彼女は強引に館へと足を踏み入れた。


 煌びやかな金髪が左右に揺れ、気の強そうな淡青色の瞳が行くさきを見定める。若々しく女性らしい体型を強調する服装は目を惹き、顔立ちも美しく華やかだった。けれど下卑た印象はなく、彼女、リターナは高貴な家柄の令嬢といった雰囲気を感じさせた。


 マイルズに追われながらも、リターナは目的の部屋まで行き扉を叩く。もどかしさから返事を待たずして扉を引き開けた。


「あぁ……! いけま……せ——!」


 息切れしたマイルズの声が聞こえたが構わない。部屋のなかに逢いたかった青年を見つけるとリターナの顔は綻んだ。


「ファイスさま!」

「リタ。久しぶりだね」


 ひとり寛いでいた様子だったが、ファイスはすぐに長椅子から立ち上がり、笑顔でリターナの愛称を口にした。


「本当に。ようやくお会いできましたわ」


 ファイスに歩み寄ったリターナの微笑みにはあでやかさが増していた。優雅な仕草でファイスへと右手を差し出す。その手が取られることをリターナは疑っていない。そして裏切りなく伸ばされたファイスの右手にリターナの手は収まっていた。


 そこでファイスの顔が部屋の入口へと向けられる。


「悪かったね、マイルズ。下がっていいよ」


 追ってリターナも目を向ければ、廊下に立ち息を整えたマイルズが姿勢を正したところだった。するとマイルズは詮索の言葉ひとつなく扉を閉め、この場を辞していった。


「座って」


 手を引かれ、リターナは長椅子へと促される。そこにファイスも並んで腰を下ろす。


「リタ。どうしてここに?」

「ギニエスさまがオウトウにお戻りになると伺いましたので、わたくしてっきり、ファイスさまもご一緒かと思っておりましたの」

「仕事の都合をつけたら戻ろうとは思っていたよ。だけど君も聞いているだろう? 魄魔の脅威に晒された村を、立場上、放置するわけにはいかなかったんだ」

「……すっかり、この村に馴染んでしまわれたのですね」


 リターナは拗ねた顔をしてみせ、ファイスの腕に触れるかどうかの距離まで胸を寄せた。上目遣いに不満を視線で訴えつつ、ファイスの腿にすっと片手を滑らせる。まもなくその手は温もりに包まれていた。

 触れた温もりは重ねられたファイスの手。おのずと向かい合い、間近で見つめられ、リターナは恍惚として頬を朱に染める。そこに優しくファイスが囁く。


「田舎暮らしも悪くないよ。君も一度、経験してみるといい」

「ファイスさま。それはわたくしを、こちらに呼んでいただけるということでしょうか」


 期待を込め、吐息を零すように愛しい者の名を呼んだリターナに、ファイスからは慈愛に満ちた微笑みが向けられる。


「そのまえに聞かせてくれるかい。君はまだ、僕の質問に答えていない。どうして君がここにいるのか、僕はその理由が知りたいんだ」

「それは……」


 ファイスの微笑みに心を奪われたリターナは、群青の瞳から目が離せなくなっていた。


「いいかい、リタ。君は誰よりも僕の想いを知っているだろう?」


 ファイスの指先がリターナの髪をひと房すくい上げた。


「君の髪は絢爛に咲く花にも優り、誘う唇は糖蜜のように甘い。煽情を誘う眼差しも、僕を惑わせ、ついなく溺れていたいと思わせる」


 せつせつと贈られる讃辞に合わせ、ゆっくりと横髪を払い、頬を撫でたファイスの指先に、焦れたリターナの鼓動は速まっていく。

 そこにファイスが色を増した声音で甘く語りかける。


「でもね、リタ」

「……ファイス……さま?」


 ファイスの綴る言葉以上に、この世界にリターナの心を躍らせるものはない。なのにどうしてか。傍目にも判るくらいリターナは青ざめていた。


「君には告げたはずだよ。ここに来ることだけは許さないって」


 確かにまだ、ファイスの唇は笑みを刻んでいた。しかしその目は少しも笑っていなかった。いつもは静寂に包まれた月夜のように穏やかな双眸が、いまは見た者を一瞬で凍らせる、冷酷で暗い色をしていた。


「理由は、そうだな。誰に気兼ねするでもなく僕との時間を過ごしたかった、などとは言わないよね。そんな浅はかな理由で君は動いたりしない。そうだろう?」


 断定的な問いにリターナは息を呑んで口を噤む。声を発することすらファイスは許していなかった。だからこそリターナは沈黙を守った。


「そういう聡いところも好きだな。その謙虚な姿勢に免じて、今回だけは見逃してあげるよ。だけど覚えておいて、リタ。君に、二度目はないから」


 そう言ってリターナから手を離したファイスは、いつもの穏やかな瞳を見せた。だが、解放されたはずのリターナは青ざめたまま、硬い笑顔を返すのが精一杯で。


「それじゃあ行こうか。近くまで送っていくよ」


 ファイスから向けられたのは微笑みだったが、リターナには頷くしか選択肢はなかった。





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