第2話
「おい
霊安室を出たわたしを呼び止めたのは、知り合いの刑事だった。警視庁捜査一課の近藤伝太は、わたしよりたった三歳年上の三一歳でありながら、既に頭角を現しているノンキャリアの捜査官だった。危なくなり始めた前髪を気にしつつ、近藤は顎で「こちらに来い」と示す。
「なに?」
「親父さんのことだ」
表情が変わったことは、悟られただろうか。こんな時でさえ、わたしの無意識は、自らの感情をなるべく人に悟られまいと作用していた。無言で刑事の方へ歩き出したわたしは、あらゆる想定を脳内に走らせている。父について。おそらくは、その死について。わたしの胸中に、知らせを聞いた時と同様の怯懦にも似た情動が湧いてくる。
「父が、どうかしたの」
「もちろん、口外するなよ」
わたしの無表情に少し不審を抱いたらしい近藤は、そんな当然のことを口走った。数回うなずいた被害者遺族の様子を見て、心を決めた刑事は重々しい口調で言った。
「犯人がどうも、おかしい」ずいぶん大味な説明だとわたしは思い、近藤の次の言葉を待った。「……いや、ありえるはずはないんだが」
この男に似つかわしくない、煮え切らない態度だった。広い肩幅の上に乗った七三の頭が、逡巡するように左右に揺れる。わたしは初めそれを、この男が単にもったいぶってそんな真似をしているのだと断じていた。だが、文句を言おうと息を吸い込んだその時、近藤が急に顔を上げた。
「先天性の、知的障害者だったんだよ」
今度ばかりは、無表情を装えなかった。言葉を失ったわたしを見て、近藤は同感を示す首肯を数度繰り返した。知的障害者。しかも先天性の。この国から、ほとんど駆逐されたはずの人種。それが父を殺したというのだ。
「身元は?
「わからん」
「どうして」
「死んじまったんだよ」
死んだ、と無意味に言葉を反芻する。父を殺した人間も、すでにこの世にない。わたしは自分の中にあった復讐心が急速にしおれて行くのを――そもそも復讐心が知らぬ間に芽生えていたことを――自覚する。あまりに理不尽ではないか。父を殺しておいて、勝手に死ぬなんて。
「とにかく、俺が言えるのはここまでだ。なにか分かったら、またお前に連絡するよ」
「……ええ。頼むわ」
踵を返そうとした刑事は、なにかを急に思い出したかのように頭を振ると、申し訳なさそうにうつむいた。
「今回の件……残念だ。順番が狂っちまってすまない。動揺してたもんだから」
「ううん、大丈夫。――ありがとう」
出来るだけ、疲弊を感じさせない声音を意識する。近藤は少しだけ微笑んで「心配なさそうだ」と言った。去っていくトレンチコートを見送る間、わたしは胸を去来する感情の整理に悩まされた。無残な近しい人の死、そしてその犯人。父の死を受け取るだけで精いっぱいだったわたしの容量は、限界を超える水量に決壊寸前にある。
それ以上心になにも入ってこないように、わたしは両の手のひらで顔を覆った。
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