鬼胎
揣摩臆測
第1話
わたしが生まれたときも、そうだった。
今時、出生前に
父は、わたしの受精から出産までのすべての過程について、人工子宮の中で育てることにした。何不自由なく育てられたわたしは、成人し、独立した。
父は、あまりわたしと話そうとしなかった。兄や、母ともそうだったように思う。わたしがまだ10歳頃――保健省の官僚から天下り先の研究機構に行った後も、父の忙しさが絶えることはなかった。
わたしは父を尊敬していたのだと思う。
「いい子にしてないとお父さん帰ってこないよ」
毎日のようにそう言われて、毎日のようにいい子にしていた。けれど、お父さんが帰ってくるのは大抵わたしが寝てしまった後で、翌朝お母さんから、
「いい子にしてたって聞いて喜んでいたよ」
とだけ聞かされる。わたしはいい子であり続けた。少なくともわたしの思う限りでは。
父は帰ってこなかった。
父は帰らぬ人となった。
液晶画面の真ん中に座っていた母は、ずいぶん老け込んでしまっていて、もはや涸れる涙もないといった様子だった。
「どうして」
口腔内の水分が、いつの間にかどこか彼方へ消え去っている。前頭葉は凍り付いたように冷え、告げられた事実について理解を拒むように凍り付く。
「どうして、死んだの」
わたしの問いは、母に曲解された。
「突然、車にひかれて……」
そう言う意味で、わたしは聞いたのではなかった。死因ではなくて、理由。父の死はそれに値する理由があったのか、ということだった。泣きわめく母の声を遠くに聞きつつ、わたしは言いようのない怯懦を覚えた。父の死。受け入れがたい事実だろう。
けれども、その感情は父の死というそれだけで説明できるようなものとは思えなかった。
「こちらになります」
嘱託の初老の警官が、神妙な面持ちでわたしと母、兄の三人の前に現れた。ひどく寒く感じる霊安室には、壁一面に遺体を収容したロッカーが置かれている。
初老の警官の振る舞いは慣れたもので、一種のプロフェッショナリズムを感じさせるその手際にわたしは感心していた。粗雑と大仰のきわどいところで、皺の寄った手が、銀色の箱を引き出してくる。
「わたしが開けます」
ファスナーに手をかける初老の男の手を制した兄は、それから一瞬ためらうような仕草を見せて、大きく息を吐いた。ファスナーを握りしめ、それを開く。
ああ、と嗚咽が聞こえた。
母は棚にもたれかかるようにして崩れ落ち、兄は歯を食いしばって目の前の現実を凝視している。
死体は見慣れているはずだった。それにもかかわらず、わたしはこみ上げてくる吐き気に目眩を覚えていた。ファスナーは少しだけ開かれ、父の上半身だけが明らかにされている。けれど、それで十分だった。
安寧とはほど遠い最期であったことは、見ればすぐにわかる。目は閉じられているが、複数に及ぶ骨折は顔の形を複雑に変形させていたし、血は引き裂かれた首周りにほとばしったままだ。
「苦しまなかったはずです」
老年の警官は、いっさい異論を許すまいという確信を持って言った。父が即死したという事実は多少の慰めにもなったが、それでも眼前の悲惨さは揺るぎようもない。
圧倒的な破壊力の前に八つ裂きになった死体を見て、苦しんだかどうかを気にする余裕が遺族にあるかどうかは、また別の種類の問題だ。
つとめて冷静な風を、わたしは装わねばならなかった。母も兄も、この場で泣き叫び始めないだけ立派と言うものだろう。ここで取り乱せば、きっとこの二人のタガも外れてしまう。赤の他人の死体を見続けてきたわたしなら、父の遺骸を前にしてもきっと平静でいられる――そう思っていたのは数分前までの話だ。
「………………」
深呼吸をした。それによって心中にざわめきたった波風は幾分収まったが、しかし奥底で滞留した慨嘆が消え去るわけではない。父は依然として、眼下に死体となって眠り続けている。どうもこれは、今にも「冗談だ」と言って起きてきてくれそうにはない。
思わず、わたしは天井を仰いでいた。
流失してくる液体で歪んだ視界に映った父は、安らかな姿だった。
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