モボスの門
灰色の丘をいくつか越えると、ゼノは遥か小さくなった修道院を振り返った。シビールは「ここに来るものは皆、異端【ゼノ】と呼ぶ。」と言っていた。
もしかしたら、自分以外にも誰か人が居るのではないかと期待したのだ。
この異常な世界で一人だけというのは、酷く精神的に堪える。誰かまともな、話の通じる人間と言葉を交わしたかった。
しかし、やはり待てども待てどもあるのは灰色の景色ばかりで、その期待は淡くも崩れ去った。
ゼノはため息をつくと、重い体を引きずりながら、また歩き出した。
ふと、一瞬、灰色の丘が黄金色に色づいたように見え、ゼノは目を瞠った。
たわわに実った麦の穂が、風に揺れて、金色の波を作っている。その中を、少女と少年が魚のように金色の海の中を泳ぎ、跳ね回る。
――早く!***!
――待ってよ!あっ!
――ああ、ほらもう。どんくさいんだから!男の子のくせに、転んだくらいで泣かないの!立派な騎士様になれないわよ!
――うん、ありがとう。
小さな手の感触を手のひらに感じた時、ゼノの視界にはもう灰色の景色しか映ってはいなかった。
「あれは……。」
麦畑を走り回っていた少女は、あの悲しげな瞳の少女と瓜二つであった。しかし、雰囲気は別人だ。儚く、今にも溶けてしまいそうな面影はなく、あの少女は生命力に満ち溢れ、溌剌としたものだった。
これが過去の記憶というのなら、あの少年は自分なのだろう。
そして、何があの少女を変えてしまったのだろうか。
「神よ。私は……許されるのでしょうか。」
不意に口をついて出た言葉に戸惑う。何故この言葉が出たのかすらも分からなかった。
「モボスの門とは……これのことか……?」
灰色の草原を抜けると、遠くに、巨大な石造りの門が見えた。その向こうには、剣の切っ先が連なっているかのような険しい山々が見えた。
その門は、積み上げたような継ぎ目すらなく、まるで巨大な岩からそのまま切り出したかのような滑らかなアーチ型だ。
人間が作ったものとは到底思えないほどに、完璧な半円を描いている。
「神の御業か、悪魔の所業か……。」
呆然としながら、ゼノは門に近づく。近づけば近づくほどに、門の巨大さがよくわかる。まるで自分が蟻になったかのようだ。
天高くそびえるアーチの足元に近づき、すぐに違和感に気付いた。一番重要な門番が居ないのだ。
あるのは、真ん中に立ちはだかるようにそこに立つ石像だけだ。それは辛うじて人型を保ってはいるが、風化し、苔生して細部までは分からない。
よくよく見れば、剣を胸の前で掲げた騎士のように見える。
「門番に聞けと言われたが、まさかこれではないだろうな……?」
恐る恐る、石像に近づく。こつりと、足に何かが当たって下を向くと、石版が草の中から顔を覗かせていた。
所々欠けてはいるが、文字は何とか読めそうだ。
「……ここはモボスの門。この門を通るものは一切の希望を捨てよ。そして、己が力を示せ。」
嫌な予感がした。まるで読み終わるのを見計らったかのように、ゴリゴリと音を立てて目の前の石像が動きだした。
石像は、長い年月そこに居た証である苔と土をバラバラと落としながら、ゆっくりと掲げていた剣を下した。
「……やるしかないようだな。」
覚悟を決め、ゼノは腰の剣を抜き放ち、盾を構えた。
ずしり、という音を立てて、台座から石の騎士が降り立つ。
ゼノの背丈のおよそ3倍近くはあろうか。体を覆っていた苔が落ちたその姿は、鎧をまとった騎士なのだろう。風化し、ひび割れた姿が痛々しくもあった。
石の騎士が、剣を頭上に振りかぶった。
ゼノは盾で受けることはせず、そのまま横に飛びのく。
ずん、という地響きを立てて石の剣が地面にめり込んだ。
その威力を間近に見て、ゼノの背筋に冷たいものが流れた。そのまま受けていたら盾ごと潰されて、あのゴーレムの時の二の舞になっていただろう。
――おそらく、剣で闇雲に切り付けても刃すら通らないはずだ。
石の騎士の一撃は、重く、当たればひとたまりもない程の物だが、幸いなことに動きはそう速くは無い。
むしろ関節の至る所に入り込んだ苔や土のせいで、ようやく動いている風なぎこちなさが感じられた。
ゼノは、一撃一撃を確実に躱しながら、注意深く石像を観察した。
――どこかに、急所があるかもしれない。
バラバラと、飛び散った土塊が顔に当たるが、そんなものお構いなしに、ゼノは石の騎士と徐々に距離を詰めてゆく。大きく、動きの遅い敵は、懐に入ってしまうに限る。
横薙ぎの一撃を身を伏せて躱した時に、石像の右脇あたりに、最も大きな亀裂があるのが見えた。
――よし!
ゼノは渾身の一撃を、騎士の片足首、風化が酷い部分に叩き込んだ。脆くなっていた石は細かい破片となって砕け、足首が粉砕された。
がくりと石の騎士が体勢を崩した。
「おおおおお!」
ゼノが咆哮を上げながら、剣を亀裂めがけて剣を突き上げた。硬い音を立てて剣先がめり込んだが、まだ浅い。痛みに悲鳴を上げるかのように、石の騎士が大きく体を震わせたので、手から柄が離れてしまった。
思わぬ動きに引きずられたゼノは地を這うように体勢を崩した。しかし、まだ石の騎士は倒れてはいない。
砕けた足首を無理矢理立てて、石の騎士が立ち上がろうとしていた。
ゼノが体を起こす。剣は未だ騎士の脇に突き刺さったままだ。
「これで、どうだ!」
思い切り、ゼノは石の騎士めがけてぶつかった。鋼の肩当てが剣の柄にぶちあたり、さらに深く突き刺さった。瞬間、ピシッ!という何かがひび割れる音が響き、騎士の動きが止まった。
騎士の動きが止まり、その場には、ゼノの荒い呼吸と枯葉が擦れ合うだけが響いている。
すると、突き立てた剣の場所から徐々に深い亀裂が次々と入り、石の騎士は砂のように崩れ去った。
それに呼応するかのように、腰のランタンが蒼く燃え上がる。
小さく、か弱かった焔がしっかりと燃えるのを見届けると、ほう、と大きく息をついた。やはり、このランタンは、魂のようなものを糧に燃えているとしか考えられない。
この焔がもっと大きくなれば、何が起こるのだろうか。
そんな事を考えていると、うず高く積もった灰色の砂の中に、何かが光ったのが見えた。
「……?」
冷めやらぬ戦いの高揚感に震える手で、砂をさらさらと払うと、中から蒼い石をあしらった首飾りが現れた。
首紐は何の変哲もない鞣した革紐だったが、その石は 、澄んだ湖の滴がそのまま結晶化したかのように蒼く、ゼノもその美しさに見惚れるほどだった。
「なんと美しい……。」
うっとりと呟き、それを首にかけると、大事そうに胸当ての中に仕舞った。
「う……!またか!」
またあの頭痛が襲ってきたと同時に、頭の中に聞き覚えのある、子供の話し声が響いてきた。
――見て見て!この前泉で見つけたんだ!
――うわぁ!綺麗ね!
――ラクリモサって言うんだ。泉の聖女が流した涙なんだって。
――へぇ。……でもどうして、聖女は涙を流したのかしら。哀しい涙なら、可哀想……。
哀しげに表情を曇らせるその少女を見ると、何故だか胸が切り付けられたかように痛む。
知らぬ間に、ゼノは石を握り締めていた。
あと少しで何かを思い出せそうなのに、それができない事が酷くもどかしく、腹が立った。
前を見れば、巨大な門の向こう側に、険しい山道と連なる山々が見えた。
門番を倒したゼノは力を示したのだろう。門に一歩一歩近づいても特に何が起こるわけでもない。
ゼノは蒼い石の存在を胸の中に確かめると、もう一度モボスの門を見た。
希望を捨てよ。この門の先でその言葉の真意を知ることになろうとは、今はまだ知る由もなかった。
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