茨の修道院

細い獣道には既に枯れてはいたが、茨の蔦が縦横無尽に這い回っていた。硬く鋭い棘を持つその姿は、立ち枯れてもなお、進もうとする者の往く手を阻んでいるのだろうか。


男は、鬱陶しそうに篭手で払う。ぶちり、と絡まった蔦を引きちぎった。


鎧がなければ、今頃は血だらけになっていただろう。しかも、この獣道は勾配が激しく、重い鎧と盾を背負っている身にはずいぶんと堪える。


急な斜面を登ろうとすると、カラン、と腰に提げたランタンが音を立てた。


蒼いぼんやりとした小さな炎が揺れている。小さすぎて灯りにもならない。消えないのが不思議なくらいだ。


―――まるで、魂そのものが燃えているようだ。


冷たい光を放つランタンを結わえ直して、男は、藪の中を進み続けた。



薄暗い茨のトンネルに、ようやく終わりが見えてきた。ぽっかりと開いた穴には薄く光が差している。


「……やっと、抜けられそうだ。」


安堵の息をつきながら、男は足を速めた。既に生い茂っていた茨は殆どない。


もう少しで出口だというその時、男のこめかみに鋭い痛みが走った。立っていられないほどの激痛に、思わず男は膝をついた。


「ぐ……な…なんだ?」


ずきり、ずきりと痛みは酷くなる。目の前が段々と暗くなってきた。その意識の向こうで、かすかに木剣を打ち合う高い音を聞いた。



それは、決して大きくはないが、丁寧に作られた石造りの家であった。庭には、ラベンダーやローズマリーの花が咲き、爽やかな香りを風が運ぶ。


青々とした若いオリーブの木には、暗めの金髪を短く刈った壮年の男がその逞しい体躯を寄りかからせており、その目の前では、二人の少年が木剣での立ち合いをしていた。


猛禽のような鋭い目線の先には、身の丈に合わぬ木剣をひたすらに振るう金髪の少年がいた。


少年は、自分より背の高い少年を俊敏さで翻弄していたが、いかんせん力の差があり過ぎたのか、4合目にぶつかり合ったとき、力負けして剣を取り落としてしまった。


木剣の切っ先が、手首を抑える少年の喉に突き付けられた。その顔は痛みより、悔しさがにじんでいた。


それまで。という静かだが威厳に満ちた声が響き、背の高い少年が、金髪の少年を引き起こす。



――×××よ。お前が何故負けたか解るか?


――……私は小さいし、非力です。それにトマスは父上の一番の従者です。敵うわけがない。


――それは違う。腕の問題ではない。心だ。どんなに腕が立とうとも初めから心が負けている者は、決して勝てない。


――はい。父上。


――古の王、アレクセイの乗騎であったアンヴァルとグラネは、炎の中も、矢の嵐にも怯まずに駆け抜けたそうだ。獅子の心を持つ駿馬となれよ。


そういうと、男は少年の肩を優しく叩いた。ごつごつとしていたが、温かい、大きな掌だった。



冷たい風が頬を撫でる感触に、男は身震いした。明るい光が、瞼を透かして突き刺さる。


「……父上。」


思わず出た言葉に、男ははっとした。しかし、結局のところ、その言葉は酷く寒々しい、虚ろなものでしかなかった。


「……あれは、私の記憶なのだろうか……だめだ。なにも…。」


体を起こすと、頭痛はすっかり消えていて、体も心なしか軽くなっていた。だが、夢のせいで酷く心は重かった。どうしようもない欠落感に苛まれる。まるで、自らの体の一部を失ったかのように。


徐々に意識がはっきりしてくると、周りの異変に気付いた。


あの茨のトンネルで倒れたはずなのに、周りは吹きさらしの丘だけで、何もない。いや、遥か向こうに教会のような建物が見えた。


「あれが、《茨の修道院》……?」


男は、盾を担ぎなおすと小高い丘を降りて行った。



《茨の修道院》は、小高い丘の上にあり、文字通り、くすんだ鉛色の石壁にはびっしりと茨の蔦が這い回っていた。美しかったであろう石造りの花壇は手入れされておらず、枯れた草が悲しげに揺れていた。


遥か昔に打ち捨てられた廃墟のようであり、人など住んでいる雰囲気には見えない。


重そうな扉の鉄製の飾りや蝶番が所々錆びており、開くかどうかも怪しい。



意を決して、男は扉を叩いた。


「誰か!誰かおらぬか!」


――開いてるよ。


すぐ耳元でしゃがれた女の囁きが聞こえたような気がした。驚きに目を開き、振り返ったが、朽ちた木々ばかりで誰もいない。


おそらく、風の音を聞き違えたのだろうと自分自身に言い聞かせ、今度はゆっくりと扉を押した。


耳障りな音を立てて扉が開くと、思わず男は息をつめた。

どれだけの年月を経たのか、元の模様すら分からぬ床からは、堆積した黴と埃が舞い上がり、猛烈な煙となって外の世界へ逃れようとしていた。


激しくせき込みながら、鎧に包まれた厚い胸をドアの隙間に滑り込ませ、急いで扉を閉めて息を吐く。


「……人など居るのか?こんな所に……?」


分厚い埃の層を踏みしめながら、注意深く中を探索する。ひやりとした冷たい空気と黴臭いこの陰気な雰囲気は、修道院というよりも、地下墓地のそれだ。


程なく、巨大なエントランスに出た。蜘蛛の巣と埃のレースに彩られたシャンデリアや、埃の積もった調度品、そして様々な精密に刻まれた彫刻が静かに男を見つめていた。


それらは、長い年月をかけて緩やかに死を迎えているかのようだ。


呆けたようにドーム型の高い天井に描かれた、壁画を見やった。所々欠けてはいるが、黒い鎧を纏った騎士が、捩れた角を生やした悪魔に、剣を突き立てている絵だった。それは美しいが、夥しい魔物や人の死体を踏みしめながら戦うという凄惨な構図だった。


「――…それは深淵の闇と対峙した、蒼き騎士ガラハッド。彼は深淵の闇を倒したが、代償に闇に穢れて堕ちていった。」


背後でいきなり聞こえた声に、男はびくりと飛び上がりそうになった。


振り返れば、さっきまで埃だけしかなかったロッキングチェアの上に、小柄な老婆が座っていた。


言葉も出ないまま、男は老婆を見つめる。老婆はくすんだ灰色の修道服に身を包み、ゆっくりと身を起こした。


きい、とロッキングチェアが揺れる音が妙に大きく響く。


「ようやく来たかい。《ゼノ》。待っていたよ。」


皺枯れたその声は、扉の前で聞いたあの声そっくりであった。


「……今、私を《ゼノ》と……?それが私の名前なのか?」


聞き慣れない名前だ。それが自分の名前だと聞かされたとしても、どこか空々しく聞こえて、ぽっかりと空いた記憶の穴は埋まる気配もない。


その言葉に老婆が嗤った。地を這うような不気味な笑い声だった。


「ここに来る者はみな、異端(ゼノ)だ。お前の名など知らぬわ。」


異端。その言葉が何故か胸につき刺さった。


「あ、貴女がシビールか?」


老婆はそれには答えずに、男の前をゆっくりと横切ると、祭壇の前に立って祈りを捧げた。低いその声は聞いたことのない言語で、何を言っているのかすらわからない。



「そのランタンを持ってきな。」


枯れ木のような腕が差しだされ、男は戸惑いながらも腰のランタンを渡した。


祭壇に置かれたランタンに、灰褐色の手のひらがかざされる。


「祝福せよ。祝福せよ。新たなる巡礼者の標とならん事を。」


ぼう、と蒼い焔がランタンの中で燃え上がった。その光の中に、男は、あの少女の姿を見た気がした。


白金の長い髪をたなびかせ、水色のドレスの裾が捲れるのも気にせずに走っていた。その顔は酷く怯えていて、何かに追われているようにも見えた。


「……待ってくれ!」


居ても立っても居られずに、手を伸ばしたが、少女の幻影は蒼い焔とともにかき消えてしまった。

老婆は、その事には何も触れずに、男にランタンを渡した。


「そのランタンは、《標》だ。失くすんじゃないよ。失くせば深淵から還ることはできなくなる。」


何が何やら分からずに、男は元の小さな焔に戻ったランタンを腰に提げ、老婆を見た。


「私は……私はどうすればいいのだ。教えてくれ、シスター・シビール。」


灰色の修道女は、数多の皺が刻まれたその顔を上げると、低く嗤った。


「《ジュダスの環》へ往け。異端(ゼノ)よ。深淵の底のその先へ。そこに、お前が求めるものがあるだろう。」


求めるもの。それは何であったか。金、家族、名誉、武功。その全ての単語を用いても、しっくりくるものはない。だが、それは酷く尊いもので、自らの命よりも大切だったような気がしてならないのだ。


――全ては、あの少女が鍵なのか。


「ここから北へ往けばモボスの門にたどり着く。その先は門番に聞け。」


シビールの言葉をどこか遠くで聞きながら、巡礼者 ゼノは、静かに剣の柄を握り締めた。どのような苦難が降りかかろうと、無くしたピースを取り戻さなければならない。


全てを失くした男の、過酷で、虚ろな巡礼の旅が始まろうとしていた。

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