【16】……〈Baby, I want you.〉
【16】――さあ踊ろう 濡れてきちゃうくらい 喜びで狂おしいほど震えるさ
【16】
延々と眼前に迫り来る闇をつんざいて。
スライダープールめいた螺旋の斜面を滑降していった果てに、ぶふわっと身体が宙に投げだされる。どうやら岸壁に開いた脱出口からシュートで飛びだしたらしい。
しばし飛行。やがて眼下に白っぽい地面が迫り、ズザゾゾザーッと隕石落下のような長い痕跡を穿ちつつ着地した。
砂浜だった。
夜明間近の薄明かりに照らしだされた海岸線が臨める。
お尻周りの砂を払っていると、ひと足先に到着していたらしい朱羅が波打ち際を走っていくのが見えた。
「あははー、待て待てー」「ほーら捕まえてごらーん」(水パシャーン)「こらー、やったなー」(バシャバシャッ)「うふふ、こっちこっちー」
そんな夕暮れのビーチで戯れるドバカップルの無邪気さとは真逆の心情だったけど状況的にはイコールだ。
「あははー、待て待てー」
一切の感情を排した冷徹な声音で呼びかける。
ギョギョッと振り返った朱羅は、あたしの帯びた殺意オーラに恐怖したらしい。
「ヒェッ……!」
途端に砂を蹴立ててスピードアップ。見事な腕振りのランニングフォームで疾走する背中を、あたしも超高速で左足を引きずりながら負けじと追いかける。
「ほーら捕まえるぞー」
どうにか手を伸ばせば届くほどに近づいて――タックル! 砂浜に引き倒した。
「ひいぃっ……!」
「あははー、捕まえたぞー」
「ちょっ……嬢ちゃん、やめてぇな! 放しぃや!」
ごろんごろん転がって、砂まみれのビーチで組んずほぐれつのキャットファイトを展開する。
「はっ、放せっちゅーとるに!」
クワッと指を開いた朱羅の熊手が、あたしの顔面を掴んでくる。真紅ネイルの引っ掻き攻撃かと思いきや、眼を潰す気満々だった。
アブい! アブい!
顎をのけ反らせて逃れる。
「うらぁクソガキぃっ! 逃げんなや!」
だけど執拗に眼ばかりを狙ってくる。これは堪ったもんじゃない。
「こらー、やったなー」なんという棒読み台詞。
紅蓮のロングヘアを引っ掴む。
思いっきり手前に引っ張って――ドッカ! 迎える拳で殴りつけた。
さらに顔をぐりぐり砂面に押しつけ
「ぶふべぇっ」
その隙に掌の中へと握り込んだ。
百兄ィから貰った〈ワニ地獄〉のおみやげを。
それは――〈ジャノメワニ〉の牙だった。
生半可なナイフよりも、ずっと鋭利な錐形を指の間から突きだして拳を固める。
「うへぇ……ぺっぺっ。あんまムチャしいなや、ジブン……」
砂まみれの無防備づらを上げたところに。
食らえっ! ジェットアッパー!
「げぶゥーーーッ!?」
朱羅の顎が撥ね上がった。
そしてワニの牙を突き入れたままっ……!
そのまま抉り込むようにっ……!
殴り抜けるっ……!
天空高く浮いた朱羅の身体が、ずさりと砂地に落下。
「なっ……ジブンなにしさらして……くれて……ん……?」
思わず喉元に手をやって確かめる。
顎下から喉にかけて、ばっくり裂けた創傷から、ぬらぬらの肉色が覗いていた。
「ちょっ……どないなってん……これ」
その声は口から発されるというよりも、むしろ夥しい出血とともに喉の奥から湿っぽく漏れでてくるようだ。
ワニの牙を握り直す――拳を整える。
半身を起こしている朱羅の傍に、ずーるずるずる
「せ、せやから、あんまムチャし」
ドグワシャー! 眉間めがけてストレートで打ち下ろす。
メゴリッ……頭骨が砕け折れるナイスな手応え。
だけど容赦なんてしない。
そのままグリグリ揉み込んで、額を穿つように抉っていく。
「いったあああああぁぁぁーーーーーッ!?」
突き放そうと、もがいて暴れる。
だけど不安定な砂場で均衡が崩れるので思い通りの力は作用しない。右足で搦め捕るようにして、朱羅に馬乗りになった。
「いった! ホンマ痛いってぇ」
拳骨の釣瓶打ち――顔中がささくれていく。
頬の丘陵も掘削されて、どろりとなだらかな紅い沼地に変じる。
「ちょっ、顔はやめぇや、顔はっ」
サムラゴーチ発症してるから聞こえません。
庇う腕ごと、指ごと突いては切り裂いた。ばっくりと断ち割れた瞼の下から、ぐるぐる目まぐるしく動いている剥きだしの眼球が覗ける。
ざっく! ざっく! ざっく!
ざくざくざくざくざくざくっ……!
ずっと、あたしのターン!
「ジブンっ……」
撓めた足をあたしの臍下に割り込ませて、
「えええええぇぇ加減に――せえぇっ!」
思いっきり蹴り離した。
満身創痍のあちこちが疼く――たまらず拳がほどける。
ごろごろ横転で逃れた朱羅が、素早く立ち上がって遁走ダッシュ。
「ジブンどないな躾けされてきたん!? ホンマ、びっくりするほど論外やわ! 『親の顔が見たい』っちゃ、このことや!」
砂浜からジャングル方面へと逃げ込んでいく。
もちろん後を追った。
だけど密生した植物のカーテンに阻まれて、すぐに後ろ姿を見失ってしまう。
それでも問題ない。
下生えのあちこちに滴々としたたった赤黒いしずくが〈ヘンゼルとグレーテル〉のパン屑よりも歴然と、トラッキングするべき痕跡を残してくれていた。
■
「あのさぁ……」
ビククゥッ!
いきなり木陰から声をかけたら飛び上るほどに驚愕する朱羅だった。
「日々の鍛練を怠ってんじゃん。それとも、もういい歳だからかな? かな?」
沼のほとりで大樹にしなだれかかって、げえげえと息を荒げている。
その呼気に伴って喉元から噴いている血泡まじりの出血も、かなり深刻なレヴェルだ。
「ジブン……あんましメチャクチャしぃなや」
言葉と一緒に、だぼだぼ口許から吐血をこぼした。
じりじり距離を詰めてやる。
片手で喉元を押さえたまま、血まみれの掌を不可視のなにかでも押し留めるように突きだしてきた。
「ちょっ、ちょう待ってぇ……」
血の気が引いた顔には、もはや気の利いた軽口を叩く余裕が微塵もないらしい。
「ふーん。《紅蓮の魔女》も、そんなに蒼くなるんだねー」
「うっ……ウチや」
急に真剣な作り顔。
「実はウチが、嬢ちゃんのホンマモンのオカンなんやっ……! おおっ、我が娘ザクロ……恐ろしい子!」
そんな口から出任せをほざきだした。
ダース・ヴェイダー気取りか、こら。
「この伏線がやね、あとあと続編で活きてくるけん……な? 気になるやろ、他にも回収しきれんやった数々の伏線が」
「どうでもいいです」
「そ、そうや! ウチと《闇姫》はんの因縁を〈
「そんなの1ミリも、1ミリ パラベラムバレットも需要ないから」
あ、思わず使っちゃったよ謎のオモシロ単位。
「じゃ、《邪の眼》は決して滅びへんよっ! あまねく、すべての人の心に暗黒があるうちはなっ!」
もはや懐柔できる余地はないと知るや。
豹変して悪し様に喚き散らし始めるのだった。
「そしてジブンらも、どのみち逃げられんっ! すでに《邪の眼》各エリアに応援を要請したったけなっ! それに、いずれアメリカの《EOE》本部からも、新手の刺客どもが次々と命を狙ろうてきて、心休まる暇なんかのうなるんや! ジブンら、ゼッタイに逃げられんよっ……!」
「いらないから、そんなコケ威し」
あたかも盛夏に銀のスプーンで口に運ぶイチゴのかき氷がごとく。
冷ややかな、そして清らかな眼で、しっとりと見つめる。
「もう、やめようよ」
「なん……やって……?」
「もう、やめようっての。誰かを殺されたら殺し返して、また殺されて仕返しで殺して殺して殺してって……そういうのは、もうやめにしない? そんなイタチごっこ、いつまで続けてても、ただの復讐ガイジじゃん」
「ど、どないな意味やのん……それ」
「今さら朱羅さんの命を奪ったって、あたしのママは……なつせママは戻ってこないから。だから、もうお終いにしようよ」
「へっ……」
言葉の意味を噛みしめてか、ジワーッと歓喜が拡がった。
「ほっ、ほんまにっ!? ほんまにウチを許してくれるんやね……?」
「うん。いいよ」
「ありやすっ……! ザクロ嬢ちゃん、ホンマにできた子やわぁっ……ありやす、ありやすぅ~~~っ!」
感極まって、あたしの足許に跪いて頻りに頭を垂れてくる。
「でもね」
「はいィッ!?」
「ひとつだけ、お願いがあるんだけど」
「な、なんですのん」
露骨な警戒……なにか恐ろしいことでも想像したのだろう。
「張り扇」
「はいィ?」
「張り扇……っていうの? あれ持ってないかな」
「あー……なんや“ハリセン”かいな。そらウチも、これでも関西女芸人の端くれやし? ハリセンの一本二本は常に携行しとるけども」
ヴェルヴェットドレスの裾から、マジックショウよろしくなにやら取りだした。
蛇腹状に折り込まれた紙の一端をガムテープで巻いてグリップ化し、反対側を扇子状に開いている。
たしかに、お馴染みのあれだった。
「それでさ……1回だけ、朱羅さんをどつかせてもらえるかな」
「へっ……?」
「それで今までのこと全部チャラにするよ。そうしない?」
「そ、そりゃあ……そげなことぐらいでええんやったら、お安い御用やけど」
怪訝な顔で、おずおずと張り扇を手渡してくる。
軽く素振りしてみると案外、手に馴染むようだった。
「じゃあ、頭だしてよ」
両手でバットのように構える。
「ちょっ……なんや怖いなぁ。ホンマ、1回だけやで」
「うん。マジで1回だけ、1回だけだからね」
ただの一撃――それだけで充分。
それ以上は必要ない。
「いっくよー」
後頭部めがけて――フルスウィング!
スッパーーーン! 小気味の良い打擲音。
思いっきり振り抜いていた。
その衝撃で、すでにかなり裂けていた朱羅の両瞼から。
ダブルの眼球が――スポポーン! 揃って勢い良く飛びだした。
「ちょっ……なんやのん? 眼ェ……よう眼ェ見えへんのやけど? どないなっとるの?」
いきなり訳も解らずに視覚を喪失してしまい、片手で目許を押さえつつ、残る手で辺りを探っている。
「ウチの……メダマ……メダマ……」
地面をさするように手を泳がせて、おろおろと及び腰で歩を進めている。
その先は――〈デス ピラニア〉が群れた沼のほとり。
だが気づかずに、ざぶざぶと自分から入水していくのだった。
たちどころに血の臭いを嗅ぎつけたピラニアの群体が騒めいた。バシャバシャ荒ぶる水面で、銀色の鱗腹をくねらせて水面上に魚影が躍る。
「ちょ……なんやのん……?」
我先にと食らいつき、貪り狂う獰悪な淡水魚がビチビチと跳ねまわった。
度を逸した熱狂でファンに揉みくちゃにされる往年の来日スターさながらの喧騒に、撥ねあがる水飛沫が濃厚な緋色へと染まっていく。
「なんか……ウチの身体……軽うなってく……?」
深紅に剥けた肉体がアングラ舞踏のように狂おしくもがきながら断末魔を舞い踊る。
そして死のダンスが続行されている限り、見る見るうちに肉体の質量は減じていくのであった。
やがて。
ピラニアたちの狂宴は唐突に終わりを告げた。
沼地の舞台では、ほとんど骸骨と化した踊り子が、ゆらゆらと不安定に揺れながら名残惜しげに舞っているばかり。
狂躁が去った後の寂寥感を伴いつつ、穏やかに均された水面では、無惨に毟られた《紅蓮の魔女》の残り滓が、たぷたぷ儚く揺蕩っているのだった。
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