《極東 I LOVE YOU》
【12】……〈夜想〉
【12‐1】――孤島 ~ 渚にて
【12】
ざらつく砂のしょっぱい塩味が口中を充たしていた。
気がつけば。
波打ち際、濡れた砂浜に半ば顔を埋めて伏臥した身を、寄せては返す波にひたひたと洗われている。
そして、この左手にたしかな感触――ぬくもり。
すぐ傍らに同じように倒れ伏している楼蘭の身体があった。
すでに夜は明けており、雨こそ降ってないものの暗鬱さを助長させる曇天の空が覆い被さるように頭上に拡がっていた。
ざらざらする身体を起こして辺りを確認する。
砂浜の海岸線。浜辺の奥側は岩石質が剥きだした小高い土手で、その上は下生えから雑木林になっているようだ。
黒ベロアのフリルスカートと純白だったシルクブラウスは当然ぐしょ濡れ砂まみれ。くたくたになった黒×紫ボーダーのニーソックスは脱ぎ捨てて、素足に直でショートブーツを履き直した。
いくつか携行していたはずのキッチンナイフの類いは、すべて海中でロストしてしまったらしい。
それにしても、どんだけ無茶かよと思ったけど意外と助かるもんだよね。
しばらくは覚醒しそうにない、ぐったり昏倒した楼蘭の身体を引きずって、ひとまず木陰に寝かせておいた。
その間に付近を探索してみる。
肉眼で視認できる範囲内には、陸地や他の島影は確認できず茫漠と煙った水平線があるばかり。
磯の香りというか、海藻の腐敗臭が噎せるほどの海沿いを歩いていくにつれ、湾曲した海岸線の形状から推察できるのは。
どうやら陸地と地続きの浜辺じゃない……ってこと。
なんとガチで孤島みたい。とんだロビンソン・クルーソー気分だ。
あの〈トーチャークルーズシップ〉の航路も不明なので、ここが海域上どの辺りに位置するのかも、まったく判然としない。
やがて足許は砂地から険しい岩礁へと変じた。
ちょっとした築山ぐらいはある岩場をよじ登って、身を乗りだした途端――。
ひぇっ……思わず首を引っ込める。
切り立った断崖を穿って加工した、あきらかな人工的建造物――〈ドック〉があった。
しかも、そこに乗り入れて停泊しているのは例の暗黒クルーズシップだろうか……?
いや。違う。
遠近感の錯誤で正確なサイズは把握しづらいけど、どうやらもっと小型のクルーザーのようだ。
しかも、その船首付近には見覚えあるデザインのレリーフが施されているじゃあないの。
眼球に絡みついた2匹の大蛇――《邪の眼》の紋章だった。
すなわち。
漂着したこの孤島自体が《邪の眼》絡みの施設というわけですか。
なんと逃れたつもりで、逆にまんまと連中のテリトリーへ飛び込んでしまったらしい。
■
これ以上、不用意に接近するのはヤバいという状況判断で、そのまま岩礁地帯から引き返して土手を上り、木立側の奥へと向かう。
そしたら、ほんの少しばかり踏み入っただけで、これは雑木林はおろか、よもや森林程度どころじゃないのだと知れた。
木漏れ日すら届かないほどに鬱蒼と繁茂した枝葉が、嫌な圧迫感を伴って頭上に伸しかかる。青々とした草いきれを孕んだ空気が妙に息苦しく、鼻腔を初めとする呼吸器系統を不快に侵食してきた。
樹木の狭間に垂れ下がる、それ自体が生き物めいて息衝いているような不気味な形状の蔦植物。腰の辺りまで叢生し奇怪に絡み合った下生え。
足許の道なき道では得体の知れない羊歯植物が踏みつけるたび、ジクジクと粘っこい汁を滲ませている。
これじゃほとんど密林……どこの亜熱帯ジャングルだよ。
そんなものを掻き分けつつ進んでいるうちに、樹木のカーテンが開けた空間にでた。
沼地だ。
ちょっとした開放感を愉しむ間もなく、とにかく潮臭く汚れた顔を洗いたくて、ほとりに駆け寄る。
水中へ無造作に手を差し入れようとして……ハッと身構えた。
なにかしら嫌な予感に捕らわれるまま、手近にあった小石を放ってみる。
ゴポンッと没した水面が、途端にけたたましい水飛沫で騒めき始めた。
夥しい数の魚影――肉食魚〈ピラニア〉だった。
しかも、せいぜいブルーギル程度の魚体が無数に群れているのを想像していたのだけれど、もっとずっと大きくて各々の個体は体長5~60cmぐらいのサイズはありそう。
すると。
そのうち1匹が勢い余って跳ね上がり、浅瀬の水辺をビチビチとバタ狂っている。そのままキレた暴れ
ふと見やれば。
ほとりに突き立てられた看板には、
『危険! 〈デス ピラニア〉出没注意!』
そう大書きされ、カトゥーンめいた凶悪な〈デス ピラニア〉が吹きだしで「じゃけん、気をつけましょうね~」と、ご親切にも注意を促しているのは少々いただけないユーモアだ。
陸地で暴れ跳ねている〈デス ピラニア〉を下手に刺激しないように息づかいすら噛み殺して、じりじりと後ずさる。
ブーツの踵――メゴパッ。なにかを踏み割った。
泥土で薄汚れた白っぽい陶器めいた物体は、あきらかに人間の頭蓋骨の形をしていた。
よくよく見渡せば、浅瀬の水際には似たような人骨パーツが散乱して、泥濘から黄ばんだ質感を覗かせているじゃないの。
この類いの危機感の高い生物が偶然にも野生しているとは考えがたいし。
そもそも肉食性とはいえ、本来〈ピラニア〉は臆病な性質であり、こんなふうに人間を襲って食い殺すなど考えられない事態なのだ。
要するに、なにか暗黒なアミューズメント目的で《邪の眼》の連中が改良・飼育している特殊な“品種”に違いなかった。
■
物騒な湿地帯から遠ざかる方向に歩を進めていると。
さららっと耳をくすぐる清流のせせらぎ。
反射的に、努めて意識しないようにしていた喉の渇きが甦ってくる。
苔むした岩場の狭間を落ちてくる渓流――清水だ。
あー……おいしそ。普通に美味しそう。
透き通った浅い水の中にピラニアだとか人面魚といった、なにかしら良からぬ水棲動物の魚影がないか用心深く確認してみるけど、それでも渇望には抗えない。
冷たい水辺にひざまずくと両掌の器で浴びるように……いやもう溺れる勢いで飲み下した。
■
「それでさ……百兄ィはどうしたの」
砂まみれの黒髪を洗い流している端正な横顔に問うた。
髪を梳かす指の動きが、はたと止まる。
ようやく正気づいた楼蘭を渓流の場所へと案内した後で。
・クルーザーが停泊したドックの存在
・この島が《邪の眼》の拠点らしい
・人喰いピラニア放し飼い
そういった要点事項を伝え終えてから、途絶していた話を蒸し返した。
「とりあえず、あたしらが助かってるのはいいけどさ。まだ、それ聞いてなかったよね」
「そうだったな」
濡れ髪を垂らしたまま幽然と向き直る。
眉間に苦渋を刻んだ、憂いの濃い面持ちで口を開いた。
「いいかい……ザクロくん。これから僕が語ることを落ちついて聞いて欲しい」
「まさか――死んじゃったっての!?」
「違う。そうじゃない。だから、そんなふうに逸らないで、ただ落ちついて、僕の話の内容によく耳を傾けてくれ。
そして……自らの良識に鑑みて、冷静に判断して欲しいのだよ」
なによ。やけに引っ張るじゃん。
「問題なのは僕が拉致されたときの状況だ。すでに述べたようにザクロくんをGPSで追跡し、港湾にて待機していたときのことだよ。
ややあって百目くんが、少々その場を離れた。
それから程なくして……連中の強襲だ。まるで僕が独りでいるところを狙い澄ましたかのようにね」
「なにそれ。百兄ィが楼蘭さんを《邪の眼》に売ったって……そういいたいわけ?」
「明言はしたくない。しかしタイミング的に現状そう判断する他ないのだが」
「なに適当いってんの」
ムカッときた。
「百兄ィはそんなことしない。するわけないじゃん」
だけど楼蘭は気まずそうに言葉を続ける。
「僕と彼との関係は友好的とは云いがたいものではあったし、結果として無理からぬことではあると思う」
「だから、そんなことするようなやつじゃないって。百兄ィのこと、よく知りもしないくせに変なこと云わないでよ。あたしら、何年一緒に暮らしてきたと思ってんの」
こんなふうに楼蘭に当たり散らしてもしようがない。
それは解ってはいたけど。
「百目くんへの信頼は、かなり鉄壁なようだな」
「あたり前じゃん」
「いいだろう……では、もっと克明に状況を説明するとしよう」
鋭利な眉の直下で三白眼が見据えてくる。
「ただでさえ、こんな極限の局面で……僕はきみの憂い顔を見たくはなかった。だからといって虚偽は口にできない。
ゆえに……あえて、いくつかの事実には意図的に触れないままの説明をしたのだ。
だが、今ここで無為な希望を持たせてしまうことは、かえって後々余計につらくなるだろう。ならば正直にすべてを述べようじゃあないか」
「なによ。もったいぶってないで早く述べなよ」
なにか、ひどく嫌な予感を覚える。
だからこその軽口だった。
「港湾で《邪の眼》構成員たちに身柄を拘束された後で、僕は百目くんの姿を目撃した。
いや、さらに正確に詳述するのならば……後ろ手に手錠をされ、ただちに目隠しの麻袋を被せられたのだがね。
ひざまずかされた僕にそれを被せてきたのが――。
誰あろう……百目くん自身だったのだ。
酷薄な薄ら嗤いで見下ろしながら、そして彼はこう吐き捨てたよ。
『残念だったな。あんたはザクロのハートに近づきすぎちまった』……とね。
だから、その後で百目くんがどうなったのか。僕のあずかり知るところではないのさ」
はぁ……ッ!?
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