《殺シノ調べ》
【5】……〈独壇場Beauty〉
【5‐1】――一発屋のベストセラー作家センセイ〈高M〉悶え苦しんで死なないかな? かな?
【5】
「身体のこと……心配しなくていいからね」
カウンセリング担当の女医さんの気遣わしい言葉は、当時は膣や肛門の裂傷といった肉体の外傷についてだと思っていたけど、それはたぶん妊娠の有無だったんじゃないかと今にして思う。
“不幸中の幸い”――そんなありきたりのクリシェで括れる問題じゃないけれど。
あるいは本当は妊娠してたのに、あたしのあずかり知らないところで適切な処置が施されたのかもしれない。
なんにせよ、個室の角に押し込んだパイプベッドの、さらに隅っこで壁に額を押しつけて路傍の地蔵化しているあたしにとっては、もはやなにもかもすべてが他人事だった。
■
犯人――あいつに関しては、もう何度も何度も何度も繰り返し、しつこく訊かれたけれども。
本当に、なんにも具体的なことは思いだせないんだ。
あいつの相貌は、あらゆるものを際限なく吸い込む暗黒の闇だった。
もしかしたら黒マスクでもしていたのかもしれない。
小柄なのか巨漢なのか……体型も外貌もなにもかも、記憶から一切合切が欠落してしまっている。
あたしにとってのイメージは、腐れた汚物の泥濘を捏ねくりまわして拵えられた漆黒の〈泥人形〉……そんな感じだった。
「なんでもいいから、なにか覚えていることを書いてごらん」と試みに画用紙とクレヨンを与えられると、赤と黒の2色のみしか使わずに、握りしめたチャコールがへし折れるまで紙面いっぱいをただひたすらグヂャグヂャに塗り潰す。
そんな状態で犯人の似顔絵やモンタージュなんて、どだい無理な話だったろう。
あいつは甲高い奇妙なトーンで喋る、頭のトロけた気味の悪いやつ。
そして哀切なメロディを伴って執拗に繰り返されていた、あのフレーズ。
“ジャノメ”――たった、それだけ。
■
正直なところ、医療施設に収容されていた期間のメモリーは10世代ぐらい前のPCみたいに低スペックで、食事/排泄/睡眠といった最低限の生活ルーティンをただただ茫漠とこなしていたという印象しかない。
逆算してみると、だいたい2年弱ぐらい。
ちょっと長い気もするけど、どうやらメンタル方面のダメージがそれなりに深刻だったらしい。
で……なんとなく恢復が兆してきたところで、あたしにはもう帰属するべき家庭がないという問題がある。
没交渉だったのか、あるいは端からいなかったのか。
両親ともに親類縁者関係はアウツのようだった。
とりあえず〈みなしご〉属性になってしまったあたしは、中学に進学すると同時に適宜しかるべき施設に放り込まれる羽目に。
■
千葉県船橋市にある《恩寵ひかり園》という児童自立支援施設が、次なるあたしの生活舞台になった。
だけど、そこは《バズボックス》的な文言作法に則って述べれば〈ぐう畜〉すなわち「ぐうの音もでないほどの畜生」行為が平然となされる、まさしく苛酷な場所だった。
今でこそ《恩寵ひかり園》の悪名は巷間に周知されているけれど、それが表沙汰になったのは当時中学2年生のあたしが施設から逃亡したときの傷害事件が契機になったからだ。
それで警察の捜査が入り、さらには卒園生の証言などから、園長と職員らによる、児童に対しての日常的な暴行/性的虐待/強姦といった不祥事がようやく明るみにでたってわけ。
ちなみに、ここでもそれなりのエピソードあったんだけど『理不尽な暴力』『弱者からの性搾取』っていう、だいたい想像つく上に他と似たような気まずいトーンになるだけだし端折るね。
■
とにかく《恩寵ひかり園》から水色ジャージ姿のまま脱走したあたしは暗がりに潜み、始発を待って最寄り駅から渋谷まで行った。
ひとまずコンビニで、お泊まり用の使い捨て歯ブラシセット/焼きそばパン/500mlパックの特濃ミルク/アロエヨーグルトを購入。
早朝の公園――やけに空気が冷たく澱んでいる気がした。
ベンチで腹ごしらえしつつ、これから名乗ることになるだろう新しい〈名前〉に思い巡らせながら、開店までの時間を潰して東急ハンズへ。
なけなしの現金をはたいて建築用の大型刃カッターナイフを手に入れる。
あとはハンズの洗面所で念入りに歯と舌をブラッシングして、これからの行動に備えた。
■
「ちょっといいかな」
駅前コインロッカーのところでしゃがんでポケーとしていたあたしに声をかけてきたのは、ムサい天然パーマのオヤジだった。
黒ジャケットで暖色系シャツをタックインしたライトブルーのジーンズにスニーカーだとか。
無理して若作りしても余計に無様になってりゃ世話ないし。
「もしかして暇なのかな。さっきから、ずっとここで座ってるみたいだけど」
「あのさ」
「なんだい」
「一匹も釣れないのに一日中ずっと釣りをしてた賢者と、それをやっぱり一日中眺めてた愚者のシチュエーションコントってあるじゃん」
「え? はぁ、いや……どうかな」
「そのオチ知ってる?」
「いいや」
「ふたりは意気投合して、一緒にご飯食べに行ったんだって」
「はぁ」
「おじさん……あたし、なんかお腹空いちゃったなぁ」
立ち上がると前屈みで膝を伸ばす。
いたずら仔猫の上目遣い――仄かに媚びをくるむ。
「ねっ……?」
「あ……あぁ、いいとも」
ようやくオヤジは合点がいったようで頻りに頷いていた。
■
「なんかさ……きみってオッパイ大きいよね」
ステアリングを駆りながら、チラと視線を寄越した天パーオヤジが、フヒッとシャックリみたいな下卑た笑い声を漏らした。
「いやはや失敬失敬。ついつい、その……眼がね。いっちゃうの」
なんなのこいつ。
まだ会って1時間足らずで早くもエロい地金が透けだしてるし。
三十代の半ばぐらいに見えるオヤジは【
本気で阿呆か。
天パーのモッサリ頭と、爬虫類系の変なベッタリ感のあるキモい顔が生理的に嫌すぎる。
サイドウィンドウを開けた。
潮風――甘ったるいヘドロの臭い。
「なんだか結構オトナっぽく見えるけど、実際いくつなの」
「知らない方がいいんじゃん。あとで『まさか中学生だとは思わなかった』で通るかも」
「ははは……さりげなく怖いこというなぁ。じゃあ名前も訊かない方がいいのかな」
「ザクロ」
ハンズの開店待ちをしてるときに公園で考えた名前を答えた。
〈るかぞう〉――あたしのお気に入りだった呼称 《RUKAZO》→《ZAKURO》のアナグラム。
そして言葉の響きと字面のエッジが気に入った。それだけ。別に深い意味とかない。
「ザクロちゃん……ね。それってハンドルネームみたいなのかな」
「普通にあたしの名前だけど」
「あぁ……そう。そうなのかい。今どきのキラキラネームってやつかな。うんうん。いい名前だね」
名前に関しての話題は、それでおしまい。
どうせ、あたしのことは家出少女かなにか程度にしか認識してないだろう。
■
そもそも運動会じゃあるまいし上下ジャージはどうよってことで、原宿〈竹下通り〉界隈のセレクトショップをいくつか巡って、衣服を買ってもらった。
豹柄ワンピに編み上げロングブーツ。
さらにアウターとしてショート丈のダブルライダースジャケット。
それで総額¥10万ちょいぐらいはいったと思うんだけど「最近の服って高いんだね」だとかの小言ひとつ述べずにカード払いする辺りがオヤジの財力を物語る。
挙句に“連絡用”という口実で、あたし用のスマホまでオヤジ名義で買わせて「ドライヴしたいな」と水を向けた結果――湾岸を走っているというわけ。
「おじさん、なにやってる人なの」
そんなこと、これっぽっちも知りたくないけど、サイレント無言行は余計に気が滅入る。
だから会話の糸口として訊いてみただけ。
そしたら「今はもうなにもやってないよ」「だけど、お金は死ぬまで遊んで暮らせるほどあるんだよね」だとか吹かし始めた。
高P(笑)が得々と喋ったところによると、初めて書いた小説がたまたま奇縁が重なって出版されたらしい。
そしたら期せずして空前の超ヒット。
コミック化を経ての深夜アニメ放送に、はたまた実写映画まで製作されて、その一作だけの印税や権利収入で相当な金額なんだとか。
「それ、なんて本なの」
あたしは読んだことないけど、たしかに爆発的にヒットしたらしいベストセラーのタイトルだった。
でも、だったら職業は作家さんじゃないの? そう訊くと「いや、もう小説なんて書く必要はないんだ」と答えた。
「あれ一作だけで、ずいぶん稼いだからね」
「へー。小説家って、そんなに儲かるんだ」
「まさか。無名の新人の、それも賞すら獲ってない作品が超ヒットするなんて例外中の大例外だよ」
「そうなの」
正直どうでもいいけど。
「しかも、まだ好景気の余波が辛うじて残留している頃だったから僥倖だった。新芽ひとつ生えてこない旱魃の荒れ野みたいな今の出版不況下で、いまだに〈小説〉だなんてコストパフォーマンスの最悪な代物をちまちまと書き続けていなきゃならなかったらと考えるだに、心底ゾッとするねぇ」
だとかホザいたシャクレ顎と寄り目がちのキモい粘稠づらが得意げでイラッとくる。
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