5-4 黒川仁
ほんの一瞬の間に、僕は僕の心を木っ端微塵にうち砕いたゴールデンウィークの事件を回想した。
ジャックは死んだ。
僕が殺した。
だから、あれは、ジャックのフェノミナだ!
実態のない、ただそこにあるだけの、もとのジャックとは関係のない贋物。神室さんが望んだカタチであの鳥が再度現れたように、潜在意識の中で、僕が無意識のうちにジャックのカタチをしたフェノミナを呼んでしまったのだ。
ジャックと瓜二つの紛い物を、僕は召喚してしまった。
だから、このままハンドルを少し右に切ってあれを轢いてしまえば、他のフェノミナと同じようにシャボン玉が弾けるように消えてしまうだろう。
しかし僕にはジャックを二度も殺すことなんて出来ない。
「おい! 早く右に避けろ!」
零山の叫び声がする。その声に我に返った。
しかし頭に入ってこない。
風の音が蘇る。
腕が、足が、頭が、僕の全てが硬直している。
ハンドルが動かせない。
気づけばあれほど遠くにあったフラットバンクがもう数メートル先に迫っている。
ジャックのフェノミナもあっという間に通り過ぎた。
もう間に合わない。
でもこれで良かった。
ジャックをまた殺さずにすんで良かった。
僕は時速七十キロ近くのスピードのままフラットバンクに突っ込んだ。
重力の束縛から開放されて僕は宙に放り出された。
腰がサドルから離れて浮く。
重たい自転車が落ちようとしている。
咄嗟に僕はハンドルから手を離した。
身体の上下が逆になる。
御来屋さんが身体のバネを使ってフラットバンクから思いっきりジャンプするのが見えた。
次の瞬間には、また僕の身体は上下あべこべになり今度は電動自転車が体育館の壁に激突するのを見た。
ほんの一瞬の出来事がスローモーションのように引き伸ばされる。
僕は死ぬのか?
このまま走馬灯とやらが繰り広げられるのか。
僕は目を閉じた。走馬灯の開始を待った。
衝撃。
身体のあちこちに痛みが走る。どこが痛いのかもよく分からない。
僕は転がっている。
固い何かの上を転がっている。
地面に落ちたのか。ここはどこなのか?
すぐ耳元で何かの音がした。
固く閉ざしていた瞼を僕は開いた。
まずBMXのタイヤが見えた。僕の鼻先数センチのところでそれは止まっていた。次に見えたのはローファーの靴。ひざ下までの白い靴下。
夢心地で視線を上げる。
見えるものと確信していたパンツは鉄壁の防御で見えなかった。スカートをサドル側に織り込んで座っている。あの激しいアクションでどうしてそこまで鉄壁の防御ができるのか。細い腕はしっかりとハンドルとブレーキを握っている。
もちろん御来屋さんであった。
するとここは屋上か?
僕も屋上へのジャンプに成功したってわけか?
成し遂げたのか!
感情が堰を切ったように動き出した。最初に感じたのは笑いだ。笑いが次から次へとこみ上げてくる。
腕に力を入れて身体を起こし、四つん這いの姿勢になってみる。それほど痛みはない。大きな怪我はなさそうだ。身体を捻って御来屋さんとは逆方向を見る。
間近で見ると改めて畏怖を覚える白い巨体があった。
シロフクロウだ。
シロフクロウが感情のない目で僕と御来屋さんを見下ろしている。
「ホウ。また酔狂な……」
シロフクロウが言った。僕はともすれば直ぐにでも挫けそうになる気持ちに喝を入れて、ありったけの大声で叫んだ。
「チャリで来た!」
「見れば分かる」
シロフクロウが答えた。冗談の通じないやつだ。しかし、むしろ冗談が通じないということで僕の中で少しだけ余裕が生まれた。少なくとも僕はシロフクロウより冗談を解することができる。相変わらず四つん這いの情けない体勢であったが、わずかに勝機を見つけたことで……冗談の分かる分からないで勝負がつくかはこの際棚に上げて……澱のようにたまった不安が少しだけ薄れるのを感じた。
そこへ、BMXに乗ったままの御来屋さんから手が差し伸べられた。
「黒川くん、立てる?」
僕は遠慮なく彼女の手を掴んで、そのやわらかい感触を味わいながら立ち上がった。制服のシャツはホコリまみれになっているが、やはり怪我はないようだ。怪我はないどころかピンピンしている。無傷と言ってもいい。御来屋さんの手を離しながら僕は彼女に伝える。
「ありがとう」
「黒川くん、やったね。私たち飛べたよ。背中を押してくれてサンキュ」
御来屋さんが僕にウィンクした。誇らしい。僕まで屋上まで飛べたのは誤算だが、結果的に自分も屋上にいる。チャリで来た。厳密にはチャリは体育館の壁にぶつかって零山への言い訳を考えると頭が痛いが、兎にも角にも僕はここにいる。
それは、取りも直さず、ジャックがここへ導いてくれたからだ。
本来ならば来るはずのない屋上に僕はいる。
だから、それは意味のあることなのだ。僕がここで成し遂げるべきことがきっとあるのだ。
僕は改めてシロフクロウに対峙する。
五メートルの巨体。レスポールのギターはストラップで今は背中側に回っている。臨戦態勢ではないがまるで背中に剣を背負った騎士のようだ。
見上げるとシロフクロウと視線があった。金色の瞳からは相変わらず一切の感情が見えない。しかしその目で射すくめられると、まるでこちらの全てを見透かされているような、あるいはその虚無の瞳に自分が吸い込まれていくような錯覚を覚える。
「ホウ、それは猫か」
シロフクロウが言った。
金色の虹彩の中の瞳孔が広がっていく。僕はますますその瞳から目が離せなくなった。口の中が乾いていく。猫とはジャックのことか。シロフクロウは僕の目の中から何を盗み見たのか?
「何の話だ?」
自分の中の動揺を悟られないようにできる限り強がって口から出た言葉は、カラカラに乾いていた。
「その猫だ。赤スカーフの猫。ホウ、こちら側の少年よ。また君は随分と都合の良い勘違いをしているのだな?」
話に飲まれてはいけない。僕は考える。シロフクロウがギターを抱える前にどうにか説得できないか? 御来屋さんがBMXであの鳥に物理攻撃を仕掛ける前に、決着はつかないか?
「僕の話はいい。それよりもこの状態をもとに戻すことは出来ないのか? 空もあの薔薇も、こんなのはあっていい世界じゃない。だからお願いだ。世界をもとに戻してくれ」
「可笑しなことを言う。この世界はあの小さき少女が望んだ世界そのものではないか。吾輩が世界を変えたわけじゃない。あの少女が変えたのだ。そこに吾輩の意志も願望も一切介在していない。むしろ少年よ、我々は……君たちはフェノミナと呼んでいるようだが、そのフェノミナの我々には意志も願望もないのだよ。ただそこにあるから存在する。それが我々だ。世界を変えてきたのは君たちじゃないか?」
「こんなのは……こんなヘンテコな世界なんて誰も望んでいない!」
「いいや望んでいるのだ。こちら側の少年よ。我々は鏡なのだよ。君たちの深層を映す鏡だ。誰かの希望がすべて綺麗事のはずはなかろう。希望とは己の欲望だ。そして欲望は罪深い。誰もが目を覆いたくなる、望んだ当人ですら目を背けたくなる、それが人の真の望み、本当の願いだ」
「詭弁だ」
「そうかね? こちら側の少年。君こそ世界を、自分でも気づかずにねじ曲げているではないか?」
「いったい何の話だ!」
「猫だよ」
「ジャックは関係ないだろう! ジャックは死んだんだ! 僕が……僕が殺したから」
「殺した? ホウ。滑稽だな。そして悲しい。吾輩には感情がないので尋ねるが、ここは嗤うところかね? それとも泣くところかね?」
「ふざけるな!」
「フン。まあそう腹を立てるな。ときに少年よ。吾輩を前にしてこう思ったことはないか?」
「………」
「少年よ、なぜ君には吾輩が見える?」
なぜ、見えるのかだって? それは……。
「君は横にいるその威勢のよい少女や、この世界を望んだあの小さき少女と違ってオブザーバーではないのだよ。にも関わらずなぜ吾輩が見える?
」
それは、神室さんが……いや、僕は神室さんに一度も触られていない。それどころか、最初にあのトイレで邂逅した時から、つまりはじめからシロフクロウが見えていた。
「気づいたか? 少年。つまり君ははじめからこちら側なのだ。こちら側だから見えるのだ。もっとも我々と違い君には実体があるがね。魂という名の実体が」
「どういうことだ」
「フン。たとえば少年、君は昨日の夜何を食べたかね?」
「何の話だ!」
「夕食だよ。では今日の朝食は。覚えてないかね?」
「……忘れることだってあるだろう!」
「いや忘れたのではない、そもそも君は食べてないのだよ。それどころか君は家にすら帰っていない。少年、なぜか分かるかね?」
「―――」
「それだと困るからだよ、少年。君が家に帰って家族に会うとたちまち気づいてしまうからだ。だから君は見ないことにした。見たくないものに目を閉じることで、都合の悪いことを考えないことで、今の自分の存在を強固にした」
昨日僕は家に帰って何を食べた? おふくろや親父と何を話した? いつ風呂に入っていつ寝た? なんで僕はそんな当たり前な日常をまったく思い出せないのだ?
「最近教室で教師に指されたことはあるかね? 級友が話しかけないのは君が猫の件で無視されているからだとして、教師にまで無視されるのはおかしくはないかね。君の生活は矛盾だらけなんだよ。でも君はそれに気づいていない。いや、気づかないふりをしているんだ」
「違う……違う……」
「分からんかね少年。だいたいその猫であるが、猫が三階程度の高さから落ちただけ死ぬことはまずなかろう。つまり君は、ありていに言ってしまえば……」
僕はその言葉の続きを待った。
「ダメ! 聞いちゃダメ!」
御来屋さんの叫び声が聞こえた。
BMXが動き出すのが見えた。
しかしシロフクロウの反応もはやい。瞬時にギターを背中から前に回すと翼で数弦爪弾いた。シロフクロウの前の屋根に見えない銃弾が炸裂し弾幕を張る。
BMXで鳥に突進しかけた御来屋さんは弾幕の手前で急ブレーキを踏みハンドルを大きく右に切り避けた。
軽い弾幕だったので屋根の上の埃を舞わせただけであった。
ほこりが煙幕のように漂う。
その煙の向こうでシロフクロウが目を細めて言った。
「少年よ。死んだのは猫などではない。君自身だ。君は死んだ。つまり君は幽霊なのだよ」
耳の後ろ、うなじのあたりに雷が落ちたかのような衝撃が走った。僕はその場に膝から崩れ落ちる。
僕が死んだって?
幽霊だって?
「ウソよ! 黒川くん。それはウソだわ」
御来屋さんが痛切な声で僕に語りかけるが、全然耳に入ってこない。
僕だって嘘だと思いたい。
僕は自分の両手を見つめた。
この手も、この身体も、全てまやかしだった。
僕は世界をねじ曲げた。自分が死んだと認識することを拒否した。
ジャックを殺してまで。
いや、ジャックは死んでいない。
だから僕は殺していない。
だけど僕は自分が死んでいないと思いたいがために、ジャックを死んでいたことにしていた。
世界をねじ曲げた。
それはジャックを殺してしまったのと同然だ。
めまいを覚えた。
周囲すべてが歪んで見えた。
足元がどろどろと崩れる。
温度のない漆黒の沼に落ちていく。
そう。
たった今理解した。
僕は幽霊なのだ。
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