5-3 黒川仁

 ジャックはクラスで飼っていた猫だ。


 入学間もない頃の話だ。


 クラスの女子が通学路の途中の公園で拾ってきた。里親が見つかるまでという話で、密かにクラスで相談して学校で飼うことにした。さすがに教室で飼って教師にバレては不味いので、部室棟の屋上で飼うことになった。


 ジャックは、連れて来られた時点でほとんど成猫だった。

 捨て猫というより、野良猫だったのだろう。


 ジャックは人懐っこくて、そして賢かった。


 昼休みにはクラスの連中で屋上に集まりジャックと遊んだ。その頃はかろうじて僕もクラスの輪の中にいられたので、皆に混じってジャックを撫でたり、パンのかけらをやったり、芸をさせて遊んでいた。


 里親なんて誰も真剣に探してなかった。


 ジャックの幸せを願えば、里親のもとできちんと育てられたほうがいいに決まってる。しかしそこに集まったのは中学生に毛が生えた程度の、十五、六歳の少年少女だ。誰もがただ無邪気に昼休みや放課後にジャックと遊べる楽しみを選んだ。刹那的な快楽に身を委ねた。そして誰かが抜け駆けしてジャックを連れ去ってしまうことを恐れていた。


 声に出さずとも、そういう空気があった。


 ジャックは賢く、芸ができた。


 誰かが持ってきた軟式のテニスボールを拾ってくるなど朝飯前だ。ボールを投げると一目散にボールに駆け寄り口にくわえて持ってくる。それどころか飽きるまで投げることを人間に要求する。


 さらに極めつけの芸があった。


 ジャックに向かって指でピストルのカタチを作り、パーンと射撃する真似をする。するとジャックは全身を硬直させた状態でコテンと横に転がる。硬直したまましばらく横になって死んだマネをする。すぐに飽きてしまうので気が向いたときしかやってくれないが、誰がピストルを撃つマネをするかでアミダくじを引かなければならないほど、人気がある芸だった。


 いつの間にか、クラスの女子の手によってジャックの首には赤いスカーフが巻かれた。


 ジャックはほんの数週間で、クラスのアイドルの座に君臨する。


 里親を探すという目的はいつの間にかなし崩しにされ、えさやりの当番表が配られる始末だった。


 クラスで小銭を出しあい、カリカリを買って掃除用具入れの上の棚に隠していた。缶詰も小遣いに余裕のある有志が用意して、常に何缶かストックのある状態になっていた。


 えさやり当番はクラス有志の持ち回りだった。


 朝と放課後に餌をやる。休みの前には多めに入れた。


 当番は部活のない帰宅部や、比較的時間に融通の効く文化系の部活に所属する生徒が中心となっていた。僕も有志メンバーの中にいつの間にか入れられ、たまに朝はやく家を出て餌をやりにいったりした。


 全然苦ではなかった。むしろ望んでやっていたと言っていい。


 四月の終わりに当番の持ち回りにちょっとした問題が起きた。

 今年のゴールデンウィークは当たり年で、最大五連休もの休みがあった。さすがに五日分のえさと水をまとめて置くことは出来ないので、誰かが休みの日に出てこなくてはいけないことになった。


 当番は帰宅部と文化系部活の生徒が中心で、文化部は運動部と違い休みの日に部活するほど熱心な部活はない。つまりだれかが、餌やりのためだけに休みの日に登校しなければならない。


 だれがやるかで、少しだけ揉めた。

 ジャックは可愛くても、休みの日にわざわざ学校へ行くのはいやだ。

 当然の事だった。ジャックを本気で思うのなら、いつまでも飼い殺しにしておくのではなく、里親探しをするべきだったのだ。ただ可愛がるだけでなく、本気で愛してくれる家族を探すべきだった。


 名乗り上げるものはいなかった。


 だから、僕が手を上げた。


 特に予定もない。餌やりのついでにジャックと戯れることもできるので好都合だった。


 五連休の初日、僕は眠たい目をこすりつつ学校へ出向いた。


 前日の深夜遅くまでFPSをやっていた。オンラインで銃をドンパチ撃ちあうゲームだ。あまり上手くはないが、かと言って絶望的に下手でもない。昨晩は割と調子よく、どうしても取れないでいた実績も取れたし、その日は眠たいながらも機嫌は良かった。


 FPSの興奮が抜けきっていなかった。


 人気のない校舎を歩くうちに興奮が蘇ってきた。僕は誰もいないことをいいことにエアFPSを開始する。ここは戦場だ。僕はMP5を手にテロリストを殲滅する兵士だ。サブマシンガンを抱えたふりをしながら、ときおりタタタッ、タタタッと三点バーストを繰り広げテロリストたちをなぎ倒す。傍から見るとただ滑稽なだけのごっこ遊びだった。高校生にもなって何を、と普通なら我に返るが、人気のない校舎の非日常性と、昨夜の興奮の名残と、寝不足のぼやけた頭がその遊びを継続させた。


 部室棟屋上のドアの前に立つ。ノブ回して少し開いてから、右足で盛大に蹴って飛び出す。持っているつもりのサブマシンガンの銃口を死角に向けて「クリア!」と叫ぶ。


 サブマシンガンを抱えて小走りする。

 給水タンクの裏に隠れてるテロリストに狙いを定める。

 レーザーサイトを覗きこむ。

 正確に敵を倒していく。

 おっと後ろから銃声だ。しかしマガジンは空だぞ。こういうときはハンドガンに持ち替えて振り向きざまに何発かお見舞いするのだ。


 僕は指でピストルのカタチを作って、振り返る。


「パーン!」


 僕の心が一気に凍りついた。


 指を向けた先、屋上の端のアルミの手すりの上をジャックが歩いていた。


 賢いジャックは、四肢を硬直させていつもの通り芸を実行した。

 そのまま手すりの向こう側に重力に任せて落下する。


「ジャック!」

 僕は叫びながら手すりに走った。


 猫だもの。高いところから落ちたって平気だよ。三階程度の高さだもの。

 自分に言い聞かせながら走る。


 しかし不安がある。


 あの芸をするとき、ジャックは身体を硬直させてしまうのだ。そのまま重力に任せて倒れこみ、倒れた後もそのまま身体を硬直させている。


 それは、痛ましい事故の一因となるおそれを僕に抱かせた。


 猫らしくくるんと一回転して華麗な着地を決める余裕もなく、なすがまま頭からコンクリートの地面に叩きつけられてしまう可能性を含んでいた。


 水を張った水槽に墨汁を垂らしたかのように、黒い不安が次第に広がる。よろけながら手すりに思いっきり身体をぶつけて僕は下を覗き込む。


 あとのことはよく覚えていない。


 黒い不安は、たちまち赤で塗りつぶされた。


 冷たいコンクリートの地面に広がっていく赤い血で。


 ただひとつ覚えているのは、その赤の色だ。視界が赤で埋め尽くされた。


 赤。

 あか。

 アカ。

 ただ赤い、それだけの世界。


 ジャックを殺してしまった、僕。


 シュレディンガーの箱を、最悪のカタチで開けてしまったのは僕。


 それがゴールデンウィークの事件。


 連休明けに僕を待っていたのは、僕の存在など始めから無かったとでもいうような教室の空気であった。


 それは僕という罪人に、教室の生徒たちの無言の意思……空気という総意が下した死刑判決だった。

 

 こうして僕は、教室カーストの最底辺、完全無欠の路傍の石、誰からも相手にされないぼっちへと落ちぶれたのである。

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