5-2 黒川仁
スタートラインに立ったところで、耳元で零山の声がした。
「さて、もうお楽しみタイムは終わったかい?」
「おいおい。お楽しみにはこれからだろ?」
「いいねえ、黒川氏。気合充分じゃない? さて、電チャリの電源はいれた?」
僕はハンドルの液晶メーターを確認する。画面が表示されていれば電源はオンになっている。
「OK」
「よし。ギアの変え方はさっき教えたよね?」
「右のシフトグリップを手前に回してシフトアップ。奥に回してシフトダウン」
「そうそう。ギアを変えるときはペダルを踏むのやめてね。電チャリはスタート時にアシストがかかるから……」
「はじめから五速でいいんだろ?」
「そうそう」
「ペダルを回して、スピードが上がってペダルが空回りしだしたらシフトアップしていけばいいんだよな?」
「マーベラス! 完璧だよ黒川氏。あとはちゃんと前を見て走れば大丈夫。フラットバンク手前で横に避けるタイミングは俺から指示を出すから。避けるのは右側だよ」
「了解」
「あ、神室氏から話があるって」
「あの!」
「ああ。さっきはポカリありがとう」
「いえ。あの……私のせいでこんなことになってしまってこんなこと言うのはおこがましいのですが、黒川くん、がんばってね」
「うん」
「御来屋さんと私を屋上から運んでくれたのも、ありがとう。御来屋さんにも同じこと伝えてください」
「伝えるよ」
ガサゴソと耳障りな音がして、さらに耳障りな声がイヤフォンから届いた。
「じゃ、そういうワケで。スタートのタイミングは任せるよ」
「おまえはいちいち声がデカイな」
電動自転車のトップチューブにまたがる。サドルの位置が高いのでペダルを踏み出してからサドルに座るのだ。ここに来る前に何度か練習した。ママチャリしか乗ったことがないのでやはり多少の……いや多大な不安がある。しかし、その不安を後ろにいる御来屋さんに悟られてはならない。ハンドルバーの右側先端に取り付けられた小さなバックミラーの角度を調整すると、御来屋さんもBMXにまたがり静かに深呼吸を繰り返してるのが見えた。ミラー越しに僕は彼女に語りかける。
「神室さんが、助けてくれてありがとう。がんばってください、だって」
「がんばるわ。もうそれしか出来ないもの」
「準備はいい?」
「いいわ」
「じゃあ、さん、にい、いちでスタートするから」
「ラジャー」
僕はペダルに足を乗せて、少しだけ逆回転させて位置を調整する。電動自転車は少しでもペダルを踏み込んだ途端予想もしない力でアシストがかかるのでブレーキを強く握りこんでから、右足にやや力をいれた。ブレーキを離して踏み込めば、そのまま発進する。
準備OKだ。
あとはもう、がむしゃらにやるだけだ。
「よし。いくよ。せえぇーの! ゴー!」
ブレーキから力を抜いて、右足を踏み込んだ途端、誰かに強い力で背中を押されたような強いアシストがかかり電動自転車はまたたく間に発進した。
さん、にい、いち、じゃなかったことなんて、テンパッていて僕はその間違いに気づきもしなかった。
何度かペダルを漕いだだけで、すぐに踏み込みが軽くなったことを実感した。液晶メーターを見ると二〇キロを過ぎている。既に普段の乗り慣れたママチャリではめったに経験しない速度域に達している。
ペダルを止めてシフトグリップを手前に回す。
ガチャリと音がしてギアが変わる。六速。踏み込みに抵抗が増す。液晶メーターに意識が行きがちになるが、前を見ないと危ない。無心でペダルを回す。あっという間に電動アシストが切れる時速二十四キロを突破する。
下までの総距離は約一キロ。もう二百メートルは過ぎただろうか。
一瞬だけバックミラーを確認する。ほんの一メートルも満たない距離に御来屋さんがいる。下り坂でこれほど前を走る自転車に近づける度胸に驚く。
このときは周りを見る余裕がまだあった。御来屋さんを気づかえるゆとりがあった。
ペダルを踏み込む抵抗がなくなったので、さらにシフトアップする。
七速。液晶メーターを見ると三八キロと表示されていた。道の両脇から覆いかぶさるように枝を伸ばす木々が、かたまりとなって流れていく。残り五百メートル。
「頭を下げるんだ! 前傾姿勢になれ!」
イヤフォンから零山の怒号が響いた。あれほどうるさいと思ってた声が風の音で聞き取りにくくなっている。
いや、これは風ではない。
空気だ。空気の圧倒的な壁だ。その壁を切り裂くように走る音が、この風のような音だ。
時速四〇キロに近づき、ついにその壁が牙を剥いたのであった。
自分ではかなり頭を下げたつもりだったが、足りないらしい。ついに後ろからも御来屋さんの絶叫に近い声が届いた。
「ハンドルバーに頭がつくくらい下げるの!」
必死にハンドルバーを手繰り寄せて頭を近づける。確かに上半身を起こしているときよりも空気の抵抗が軽くなった。手と腕に痛みが走る。登るときはフラットに思えた路面の、目には見えない細かい凹凸が何倍もの衝撃となってハンドルバーを揺らすからだ。
強く握っていないと引き剥がされそうだ。
視界が次第に狭まっていくのを感じる。
アスファルトの灰色が視野を覆い尽くす。残りはおよそ二百メートル。
余裕などなくなった。
「下を向くな! 前を見るんだ」
イヤフォンから聞こえてくる零山の声に反射的に従う。前を向く一瞬前に液晶メーターを見た。時速五十五キロ。ほとんど空回りしていたペダルにようやく気付き、最後のギアを入れた。
八速。
ごうごうとただ風の音がする。
空気の壁をこじ開けていく。
何も考えずに、何も考えられずに、ただペダルを回す。風が直撃する目が痛い。
にわかに脳内に噴きだしたアドレナリンのせいか不思議と恐怖心はなかった。息が上がって汗が噴き出るが構わずに必死にペダルを踏み込む。
視界の先が開けた。
灰色の終点が見える。
あと百五十メートル。
ペダルの抵抗がふっと無くなった。もうこれ以上回すことができない。
遠くにフラットバンクが見えた。
あそこまで。あそこまで御来屋さんを運ぶんだ!
ペダルを回す足を止める代わりに、あごをハンドルバーにつけた。もうこれ以上は頭は下げられない。あとは重力の力を借りるしかない。この激坂の斜度に頼るしかない。僕はすがるように、慎重かつ迅速に液晶メーターを確認する。
時速六十七キロ。
いけた!
あとはフラットバンクの手前で右側に避ける。左側から僕を抜いて御来屋さんがジャンプする。それで終わりだ。残り八十メートル。
ぐんぐんと終点が近づいてくる。フラットバンクの奥の体育館が視野に入った。
「よし、黒川氏! 避けるんだ」
指示に従い、ブレーキレバーに緩く力を込めようとしたときだった。
それと目があった。
時速六十七キロで突き進む世界で、確実に時が止まったと思った。
僕が避けようとした進行方向の先、灰色のアスファルトの路上に、赤いスカーフを巻いた黒猫がこちらを向いて佇んでいたのだ。恐怖に完全に硬直している黒猫が。
うすいウグイス色の目が、僕を射抜いた。
見間違いようがない。
あれは……。
ジャックだ。
二ヶ月と少し前のゴールデンウイークに……。
僕が殺した猫だった。
僕は、シュレディンガーの箱を最悪なカタチで開けてしまった、罪深い人間なのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます