第五章 対決――そしてついに明かされる黒川仁にまつわるエトセトラ
5-1 黒川仁
ふわりと風が肩を撫でた。
空を仰ぎ見ると、相変わらずの漆黒の闇であった。梢が揺れている。正常な空であればあの梢の隙間から漏れ出る太陽の光がたいそう眩しかったことであろう。いや、もう夕方なので木漏れ日という時間でもないか。
「はーい。OKでーす。そちらはどうですかあ?」
耳に付けたヘッドセットイヤフォンから聞きたくもない零山の声が響いた。
僕は答える。
「だからいちいち声がデカイんじゃ」
「お、まだそのキャラで押し通しているんですね黒川氏。感度良好感度良好。映像もバッチリだよ。いやあつくづくこのカメラでは黒川氏の勇姿が望めないのが残念ですねえ」
「僕も零山の阿呆ヅラが見られなくて寂しいかぎりだよ」
御零山中腹の零山の大邸宅の真ん前に僕と御来屋さんはいた。零山が重複したが前者が山の名前で後者がやつの苗字である。聞いちゃいないが要するにこの山まるごとあいつの家のものなのだろう。門からは家本体が窺えない大豪邸というのもはじめて見た。
まったく金持ちってやつは……。
ここに我々が来るまでも一悶着があったが、つまりまるで働かない零山を尻目にほとんど僕一人が汗だくになって準備に奔走したってだけだ。例のフラットバンクとやらがことのほか重いということが身にしみて分かった。唯一良かったことがあったとすれば、神室さんがスポーツドリンクのペットボトルを最後に差し入れてくれたことだ。「あの、がんばってくださいね」と笑顔で差し出されたそれに僕は「あ、自販機ってこんなときでも動くのか」とトンチンカンな返答をしたがそれは言うまでもなく照れ隠しである。女子から差し入れなど、万年帰宅部の僕からすれば奇跡である。帰宅部には女子マネはいないのである。そのペットボトルの蓋を開け、一口ぐっと流し込んだ。緊張で乾いた喉が潤う。さてそろそろ、舞台の緞帳が開こうとしている。御来屋さんはというと、さっきから無言で屈伸運動などをしている。僕の視線に気づいたのか御来屋さんが僕を見た。思わず視線を反らしそうになるが堪える。いい加減に慣れねばならぬ。すると御来屋さんの表情が崩れてぷっと吹き出す。
「それ、外しちゃったら?」
自分の額をとんとんと指さして御来屋さんが言う。僕の額にゴムバンドで取り付けられた零山のスマフォのことだ。よほど珍妙に違いない。自分もできれば外したいが悔しいことに零山の指示がないのは不安である。なにか答えようと口を開きかけたところでまた耳元であいつの声がした。
「だめっすよー。これから俺が当意即妙かつ迅速丁寧な指示をバシバシ飛ばすんだからね」
僕は溜息をついて、耳元のイヤフォンを指さしながら御来屋さんに言った。
「だめだそうだ」
「そう」
僕と御来屋さんは、並んで足元に続く坂道を見下ろした。
道の両脇には木々が並び、青々と茂った枝が邪魔して真下にあるはずの体育館は望めなかった。長い一本道だ。零山の言うとおり、ストレートで下っていくその坂道は路面状態も良い。小さな段差に転ぶ心配もなさそうだ。あとは六十五キロのスピードで、下のフラットバンクまで御来屋さんを導けば良い。
できるのか?
自分に問う。しかしやるしかないのだ。出来なくてもやるしかない。
「不安?」
御来屋さんが尋ねてきた。
「御来屋さんは怖くないの?」
僕は質問に質問で返した。正直な気持ちを言うのが怖かった。
「……怖いわ」
あまりにも正直で、正直であるがゆえ彼女らしくないその答えに驚いて僕は彼女を見た。
俯いて、自分で自分の身体を抱くように両腕を組んだ御来屋さんがいた。
「正直ね、私の手に余るわ。あの馬鹿げた鳥も、この空も、そしてこれから坂を自転車で下って体育館の屋根までジャンプするなんてことも……」
御来屋さんの肩が震えていた。両肩にのしかかる不安に打ち震えていた。
なんて言えばいい?
僕は彼女に何をしてやれる?
「おい! クソ童貞! チャンスだろ!」
耳元で当意即妙のアドバイスとやらが響いた。僕は自分の右手を見つめた。じんわりと汗ばんでいる。制服のシャツで汗をぬぐってから僕は恐る恐る、右手を震える彼女の肩に回した。そのまま自分の方へ引き寄せる。
力を入れればすぐに壊れてしまいそうな華奢な肩だった。
すとん、と御来屋さんの頭が僕の肩にあずけられた。未だかつてない勢いで心臓が早鐘を打つ。このまま死んでもいいとも思うが、このままじゃ死にきれない。二律背反に思考回路がショート寸前であるが、彼女は僕のすぐ横にいる。僕は言った。
「あの、逆上がり、御来屋さんはできる?」
「え?」
「僕はできないんだ。逆上がり。恥ずかしながら、この黒川仁、逆上がりは今でもできない」
御来屋さんが顔にハテナマークを浮かべて首を傾げた。僕の顔を至近距離から覗き込む。ありったけの勇気を振り絞って僕は彼女を見つめながら続けた。
「それで、逆上がりができないと、誰かが僕の後ろに背中合わせに押してくれて、そうすると自分の身体がふわっと浮いて気がつくと鉄棒を一回転するんだ。ああ、逆上がりってこうなのかって。でもそれをやってもらったところで、逆上がりできるようになるかって、できっこないんだよ。自分一人じゃ逆上がりすらできないんだよ」
うん、と御来屋さんが頷く。
「でも、逆に言えば背中合わせで押してもらえるだけで、たったそれだけのことで、逆上がりってできるもんなんだね。僕にとってどんなに不可能なことでも、そんなえらく簡単な助けで可能になる。だから、僕には御来屋さんの背中を押すくらいの簡単なことしか出来ないけど、絶対出来るさ。怖くなんかない。不安になることもない。だって、背中を押すだけで不可能が可能になるんだから」
瞬きもせずに僕を見つめてた御来屋さんが不意に顔をゆがめた。僕の言葉に感動して泣き出すのかと思ったら、大きな声で爆笑を始めた。抱き寄せた僕の腕からするっと抜けだして、腹を抱えて笑い続ける。そんな御来屋さんの様子を眺めながら、ぼくは安堵と、すこしばかりの落胆を覚える。もう少し、御来屋さんの感触を楽しんでおきたかった。
「ばかにしないで!」
ひとしきり笑い続けた後、右手で僕を指さし、左手は腰に当てて仁王立ちのポーズで御来屋さんが僕に言った。
「逆上がりくらいできるわよ! ていうかあんな簡単なこと、高校生にもなって出来ないなんて信じられない。特訓ね。今度特訓するから。できるまで帰さないわよ!」
「お……お手柔らかに」
「だから……」
御来屋さんの声のトーンが一段落ちた。
「だから今回は私の背中預けるから。ちゃんと押してよね……ありがと」
御来屋さんのその言葉に、僕は精一杯の笑顔を返した。
そうして僕たちは、零山の邸宅の塀に立てかけていた二台の自転車をスタート地点と決めた道路の真ん中へハンドルを手で押して移動した。
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