4-2 黒川仁

 僕は御来屋さんの手を引いて廊下を走っている。


 ガラスの薔薇が廊下のいたるところに咲いていた。間違ってぶつからないように注意して走る。しかし、意識はどうしても繋いだ手に集中してしまう。ひんやりとした華奢な指に触れているのに、全身が熱を帯びたように火照ってくる。鼻の下が自然と伸びる。女の子の手を握るというのはこんなにも幸せなことなのか。状況は逼迫しているが、桃色のスウィートライフの片鱗を味わえたこの瞬間を、しっかりと胸に刻まねばなるまい。


「手」

 後ろから御来屋さんの声がする。

「え?」

「走りづらいから。手、離して」

「あ、ごめん」


 名残惜しい。名残惜しいが、ここで理由をつけて手を繋ぎ続けることは変態の所業である。ぼっちであるが、変態に身をやつしてはいけない。最後に全身全霊を傾けてその指先の感触を記憶に焼き付けてから、僕は手を離した。御来屋さんが言う。


「黒川くんの手、あったかいのね」

 あったかい? そりゃあ女の子の手よりは、あったかいだろう。その意味深な言葉を何度も頭に反芻する。あったかい。あったかい。頭のなかがフワフワする。その言葉に返事を忘れていると、御来屋さんが続けた。


「私、目の前で起こった出来事にあっけにとられて、全然神室さんのことなんて考えてなかった。黒川くんだけが神室さんを探していて、それを知って、ずいぶんと虚を突かれた感じがした。自分が情けなかった。それで零山くんにあたったりして、ますます情けなかった。だから、こうして連れ出してくれたことには本当に感謝してるの」


 彼女の言葉を受けて、走りながらも僕は答えた。


「いいんだよ。僕にだって分からないこともあるし、考えてないことだって山ほどある。零山だって、やり方は悪いにせよ、御来屋さんにも僕にも出来ないことをやってのけてる。だから御来屋さんも自分ができることをすりゃいいのさ。気負うことも、後ろめたく思うこともない……と思う」


「そうなのかな」


 屋上への階段をふたりで駆け上がりながら、僕はさらに答えた。


「そうさ。考えてみれば僕たちはそれぞれの理由で今までは一人ぼっちだった。僕は教室から無視されて、零山はあの性格だし、神室さんは人を避けてるし、御来屋さんも……なんというか人を寄せ付けない空気があるから。だから、隣に人がいるということに慣れてないだけさ。なんでも自分で完璧にこなすんじゃなくて、互いに欠けた部分を補完していくことが、今は重要なんだ」


「そうかもね」


 そこで我々は、屋上への扉の前に到着した。いつのまにか自分も、思ったことをそのまま口に出すことに慣れてきた。たった半日で偉大な進歩だといえる。これも愛の力のなせるワザかもしれない。僕は扉のノブにそっと手をかけ、おそるおそる開いた。数センチほどの隙間から覗くと、ちょうど正面にうつぶせで倒れている神室さんが見えた。そして、さらに奥に体育館の屋根で羽根を休めている巨大なシロフクロウがいた。


 ふと、僕の顎の真下にふんわりと良い匂いがする栗色の髪がなびいた。ドアと僕の身体の狭い隙間に強引に御来屋さんが身体をねじりこんできた。顔が近い。


 どくん、と胸が暴れる。


 反射的に距離を取ろうとして、身体をひいた瞬間バランスを崩して転んだ。


 隣に御来屋さんがいることに慣れてきたとはいえ、こういう不意の接近には驚いてしまう。それにしても、すきあらば彼女の抱きしめたいと思っている心とは裏腹に、本能が避けてしまうのはなぜなのだろう。これも、ぼっちでコミュ障である自分の、孤高なる精神のしからしむるところか。


「ちょ、なにやってんのよ?」

 先ほどちょっとばかり格好のよい言葉が言えたかと思ったら、ここでまさかの大減点である。

「いや、ちょっと、驚いて……」

「まあいいわ。ええと、鳥は向こうを向いている。チャンスかもしれない。せーので飛び出すわよ。零山くんの読みが当たってるなら、私たちをあの薔薇にすることはないと思うけど、何かあったら私が鳥の気を引きつけるから、黒川くんは神室さんを背負って逃げて。いいわね?」


 御来屋さんもだいぶペースが戻ってきたようだ。僕に指示を出す顔に迷いがない。それが僕の言葉の効力か、神室さんの姿を目の当たりしたがゆえの強さかは分からないが、こういう御来屋さんのほうが、より彼女らしいと思う。


 野に咲く花は、凛としていてほしい。


 手折ることをためらうほど、強く咲いていてほしい。


 僕が無言で頷くと、御来屋さんは扉の向こうへ振り返った。そして神室さんとシロフクロウをあらためて目視で確認すると、いさましく告げた。


「じゃあ、いくわよ。さん、に、いち、ゴー!」


 せーのじゃないのかよ! 一瞬ずっこけたが、僕を待つ様子もなく御来屋さんは扉を押し開き脱兎のごとく屋上へ駈け出した。僕も追う。しかし、不幸の星の下に産まれた自分は、飛び出すやいなや、足元に転がったテニスボールに足をすくわれて、またもや盛大にこけた。したたか腰を打つ。痛い。死にたい。だが痛い痛いとのたうちまわっていられない。御来屋さんはこちらを振り返らずに神室さんのもとへまっすぐに全速力で走っている。


 自分のできることをやらねばならない。


 起き上がりふたたび僕も駆け出す。御来屋さんが神室さんへ到着する。しゃがみこんで少し肩を揺さぶっているが神室さんが気づく気配はなかった。シロフクロウはどうしている? まだ我々に背を向けている。心臓が早鐘を打つ。これは恋の高鳴りではなく、極度の緊張だ。恐怖心がのそのそと足元から這い上がってきている。


「はやく、こっち!」

 御来屋さんが神室さんの両脇に腕を差し込み抱え上げようとしていた。僕は滑りこむように二人のもとに駆け込んだ。


「息はある。気を失っているだけよ。さあ下にしゃがみこんで、神室さんを背負って」

 神室さんを抱えた御来屋さんに背を向けてしゃがむ。

 繊細な手つきで抱えられた神室さんがふわりと僕の背中に着地する。しかし、意識のない人間は実際以上に重く感じる。というより、女の子を背負ったことなどこれが人生初なので重いとか軽いとかそんなことは分からない。分からないが重い。いいや、でもそんなことはない。たぶん軽いはずだ。一五〇センチに満たない痩せっぽちの神室さんだ。背中に感じる胸の膨らみも控えめだ。だから、これは軽いのだ。


 一瞬の葛藤の後、僕は気合で立ち上がる。大丈夫だ。立ち上がったら、しゃがんでいた時よりもさほど重さは感じない。とにかくあの扉まで走るのだ。背中は御来屋さんに預けた。


「鳥はまだ気づいてないわ。走って!」


 僕は無我夢中で走った。僕の顔の横で、神室さんのくりくりとウェーブがかった髪が揺れる。頬に髪が触れる。さらさらとして気持ちいい。よこしま方面に意識が行きがちだが、どくどくと脈打つ心臓の音は、これは恐怖と緊張からだ。先ほど転んだテニスボールを恨みがましく横目に見ながら僕は一気に駆け抜ける。冷静に自分の体力と運動神経を秤にかけて考えれば、傍目にはヨタヨタ走りに見えているだろうが、気分的には砲弾飛び交う戦場を、負傷兵を負いながら走る英雄だ。


 扉を抜けた。


 これでまず一安心か。僕は神室さんを背負ったまま振り返る。御来屋さんの安否を確認する。


 するとどうしたことか、御来屋さんは我々に背を向けて、左足をぴーんと上方に突き出していた。星飛雄馬の投球フォームだ。次の瞬間、弾丸のように彼女からボールが発射された。僕が足を取られたあのテニスボールだった。あろうことか、御来屋さんはテニスボールを全力でシロフクロウに向けて投球したのだ。


 スライダー気味にテニスボールがシロフクロウへ着弾する。が、さすがにそれを確認せずに御来屋さんはこちらへ駆けてくる。シロフクロウの首がゆっくりと旋回する。当然のごとく、我々の存在にシロフクロウが気づいた。シロフクロウはこちらに身体を向けつつ、緩慢とした動作で羽を動かしてギターを抱えた。


 あれが来る!


 御来屋さんが扉にたどり着き、うしろ手でノブを掴んで閉めた。


「逃げるわよ」


 予想外の出来事に一瞬フリーズした僕であったが、御来屋さんの言葉に我に返り、神室さんを背負い直すと、慎重かつ迅速に階段を駆け下りた。三階への踊り場でターンしてさらに駆け下りた時、爆発音が上から連続して響いてきた。きっとシロフクロウがあの銃弾を放った。屋上に次々と着弾している。とりあえず、とりあえず三階の廊下へたどり着くまで足を止めてはいけない。恐怖心に足の感覚が薄れる。自分の足じゃないように空回りして頼りない。が、僕の背中には神室さんがいる。この華奢な女の子を守ることが、今の僕の使命だ。


 ようやく、三階の廊下へたどり着いた。途中で僕を追い越していった御来屋さんが足を止めたので僕もそこで止まった。がん! と一際大きな音が頭上で鳴り、がらんがらんとモノが階段を転げ落ちる音が続いた。振り向くと先ほどターンした踊り場の壁に、屋上出口の鉄扉が突き刺さったのが見えた。遅れて、白煙が階段を下ってくる。シロフクロウのギターから発せられた、あの目には見えない銃弾が被弾したのだろう。シロフクロウと同じくスケールアップしているのなら、それは銃弾ではなく砲弾だ。まさに砲弾と呼ぶに相応しい破壊力だった。


 攻撃はそこで止まったようだ。


「ど、どうしてボール投げたの?」

 それ以上の攻撃がないことを悟って僕は御来屋さんに尋ねた。


「気を引きつけたのよ。気を」

 そういうことじゃないだろうと思ったが、彼女なりに一矢報いたかったに違いないと、自分を納得させた。


 それが御来屋さんのやり方なのだ。

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