第二章 東洋哲学研究部――そして御来屋らんの孤独な闘い
2-1 黒川仁
私立藍上高校は全校生徒九百人ほどの小ぢんまりとした高校である。
創立からは三十年ほど。進学校と言われてるが田舎なもので程度は知れてる。太平洋に注ぐ藍上川の生んだ扇状地の扇端に開けた街の外れ、御零山というこれも小ぢんまりとした山の麓に建っている。
校舎は、職員室や化学室や地学室といった各教科室が集まった教科棟、一般教室が集まった新棟、文化系の部室が集まった部室棟(旧棟)の主に三つに分かれる。
昇降口がある教科棟を中心にして、東側に新棟、西側に部室棟といった具合にコの字を描くように配置されている。コの字の真ん中が中庭で、中央にけやきの木がそびえ立つ。校舎の間に挟まれているのでみんな中庭と呼んでいるがこちら側に正門があるので、前庭と呼ぶのが本来ならふさわしいかもしれない。
三階建ての部室棟はもともと、各階五教室計十五教室を擁する校舎だったが、一般教室は全て新棟が出来上がるのと同時にそちらに移動したので部室棟として再利用されることになった。
部室化にあたり、各教室の真ん中にパーティションを設けて二部屋とし、計三〇部屋が文化系の部活に開放された。もともと体育会系の部室は校庭の方に建っていたし、文化系の部活にしても音楽室の吹奏楽部やら地学室の地学天文部など、教科棟の教室を活動の場に使っていた部活がほとんどだったので実は空き部屋が多い。移動の便の悪い三階はどうもこの『東洋哲学研究部』しかないようだ。
さて、東洋哲学研究部である。
トイレから逃走した我々は、いけすかない男子生徒の案内でここに案内された。
ドアを開けると、まず正面の窓際に広いPCデスクがあり四枚のモニターとデスクトップPCが鎮座しているのが目に入った。椅子は贅沢にもアーロンチェアである。左手にはスチールラックの本棚があり、申し訳程度に書籍が並んでる。右手にはなぜか大型冷蔵庫と腰くらいまでの高さの高級そうな収納棚があり、棚の上にはいまどき古風なコーヒーサイフォンと、今流行のエスプレッソマシンが並んでいた。あとのスペースはがらんとしている。端的に言うとブルジョアジーだ。益々いけすかない。我々プロレタリアートは断固階級闘争をせねばなるまい。
にっくきブルジョアジーの男は奥のアーロンチェアにどすんと座ると、
「その本棚の横に折りたたみの長机とパイプ椅子があるから、適当に出して座ってよ」
と言った。あくまで自分は動かないつもりだ。しかし腰を落ち着けたい衝動は抗いがたく僕は渋々従った。ちっちゃい女の子はおずおずとするばかりで何もしない。女の子でなければ怒鳴り散らしたいところだったが、逆に言えば御来屋さんとの共同作業のチャンスである。パイプ椅子を取ろうとした二人の指が触れてしまうチャンスもあるかもしれない。ハプニングを期待しながら僕は長机を出したが、広げるのに苦戦してしまい結局御来屋さんがパイプ椅子を三脚とも出し終えてしまった。つくづく思い通りにいかない日だ。
全員が座ったところで、また例のブルジョアジーが口火を切る。
「んじゃ、自己紹介ね。俺は1Aの零山彪真。ここの部長ね。よろしく」
「1Fの御来屋らん」
「おなじ……く……」
「1Cの神室アイです」
御来屋さんの次に自己紹介しようと思ったのにちっちゃい女子と被ってしまった。最後まで言葉を続けられない。これもコミュ障の限界だ。
「1Fの黒川仁です」
「え? 黒川くん?」
神室アイと名乗ったちっちゃい女子がこちらを向いて驚いたように言った。しかし僕にはあいにく彼女に心当たりがない。しかしこの子、よく見ると可愛らしいのだ。今の今まで御来屋さんに心奪われて全然気づかなかった。しかしなんだろう? 僕は知らぬ間にかわいい女子の間でウワサになっているのだろうか。
「え? なんですか?」
「いや……ごめんなさい。私の勘違いでした」
いささか興奮気味に僕は神室さんに尋ねたが、彼女は何故か僕から視線を逸らすとそう言った。耳の裏がチリチリする。今でこそぼっちに零落れた僕ではあるが、こと恋愛となるとポジティブシンキングが信条であるので、もしかするとこの子は自分に気があるのかもしれないと前向きにとらえた。思うだけならタダだ。
にやけ顔の僕を横目で小馬鹿にしたように見ながら、ブルジョアジー……零山が語りだす。
「でさあ、さっきのあれは何なの?」
と零山は急にアーロンチェアから身を乗り出して手を顔の前で組むと続ける。
「俺、気になりますっ!」
僕は彼の芝居がかった言動の元ネタが分かったが無視をすることにした。女子二人は知ってるのか知らないのか微妙な沈黙が続いた。
時間はもう昼休みをとっくに過ぎて五時間目の授業も半ばを過ぎた頃である。
ちなみにこの部室に避難してまもなく校内放送があった。いわく、緊急職員会議を開くので五時間目は全校自習とする。生徒は決して教室から出ないように。だそうだ。
たぶん部室棟三階のトイレが派手に破壊されたのがバレた。つくづくあの時、他の生徒や教師に鉢合わせしなかったのは僥倖であった。職員会議となったのは、生徒のイタズラにしては度が過ぎるし、かといって老朽化による自然崩壊とも言えず途方に暮れているからであろう。我々が教室にいないのは不自然かもしれないが、そうかと言って今から戻るのも不自然である。それに目立つ。一度恐る恐る部室のドアを開け、廊下の窓から中庭を挟んで新棟の一般教室の様子を伺ったが、割と自由に大勢の生徒が教室内を歩きまわっていた。全校一斉自習なんて生徒にとって天から降って湧いた美味しいプレゼントにすぎない。気づいているのかいないのか、改めて校内放送による注意もない。こうして我々は安心してこの部室への篭城を決め込んだのである。
さて、沈黙を破って語り出したのは御来屋さんだった。
「あのへんな鳥はちょっとイレギュラーなので、普段私が何を見ているのか、からはじめて、この学校で一体何が起こってるのかを話した方がいい気がするの。長くなるかもしれないけど聞いてくれるかしら」
あ、長くなるの? と言って零山はふいに席を立つ。冷蔵庫からミネラルウォーターとパックに入ったコーヒー豆の粉を出すと、コーヒーサイフォンをセットする。御来屋さんの言葉はそこで途絶え、なんとなく零山を待つ空気になった。
やがてコーヒーサイフォンがこぽこぽと気持ちのよい音を立てはじめる。
準備を終えると、零山はまたアーロンチェアにどっかりと座り沈み込んだ。
「あ、悪い悪い。続けて」
「見えない人には信じてもらえないから言わないようにしてるんだけど、さっきのはどういう訳か少なくともここにいる人たちには全員見えたようだから言うわ。私はね、簡単に言うと霊が見えるの」
「御来屋さんもやっぱりそうなんですか?」
と神室さんが言う。御来屋さんが答えた。
「どうやらあなたもみたいね。でも今日のみたいな、あんなキテレツなものは初めてだわ」
「そうなんです。私も初めて見ました。いつも私が見るのはもやもやとした白い霞のような人影です」
「それは私もそう。だいたいは白い人影よ。それがただ至るところに佇んでいるわけ。移動したり不意に出たり消えたりはするけど、大抵はそこにいるだけで特に何をするってワケでもないわね。人畜無害よ。出る場所に意味があるのかと思って、いろいろ調べたこともあって。例えばそこで人が事故で亡くなった、とかね。結果はあったりなかったりね。むしろない方が多いくらいで。人の死と場所に相関性はないと思ったほういいくらい。だから私は、幽霊と呼ぶのは相応しくないと思ってそれらをフェノミナって呼んでるわ」
「フェノミナ?」
耳慣れない言葉に僕はオウム返しに尋ねた。
「『現象』とか『事象』って意味ね。見える人は限られるけど、それは何らかの法則に則ってこの世に具現化している現象としか言えないのよ。ところで黒川くん、あなたは幽霊についてどう思う?」
僕は答えに窮する。どう思うと聞かれても漠然としすぎて答えにくい。
「別の聞き方をするわ。あなたは幽霊を信じてる?」
それならば答えられる。
「信じてないよ。正体見たり枯れ尾花ってやつだな」
「そうね。それが普通よ。三十年前ならいざしらず、このネット情報社会で心霊現象なんてナンセンスにもほどがある。たとえば心霊写真なんか、あれはほとんどトリックや単純な光学現象で説明がついてしまうものなのよ。タネが分からないと超能力にみえる手品と一緒ね。昔はタネが分からなかったからあれが心霊写真だって皆信じたの。でも今じゃテレビで心霊写真が紹介されたら次の日にはネットでトリックが見破られてるわね。だから今時それを信じるのはほんとうにお人好しよね」
零山が割り込んで続けた。
「俺も以前こんなものにどうして人が騙されたのか気になって、古本屋で心霊写真がたくさん収録された昔の本を買ったんだよ。お決まりの二重露光とか、片足を後ろ側に伸ばしていたのを奇跡の角度で撮ってしまったから足が片方なくなって見えるとかさ。でも一番多いのはピンボケ写真なの。そこに、ま確かにボケボケだけど人の顔が見えてますね、てのが写ってるってモノばかりなんだよね。最近じゃデジカメの顔認識機能に応用されてるけど、丸の中に点が三つ逆三角形に並んでいるだけで、人はそれを顔と認識してしまうんだ。だからどれも地面の凹凸や波の影なんかが、いい加減なピントと露光のせいで却って良い味が出て顔に見えるだけなんだよ。こういうのはデジカメ全盛の時代じゃ無理だよね。高解像度だし、基本性能もいいし。ピントも露光も自動だしね。ケータイやスマフォのカメラだってやたら高解像度で、ぱっと見で顔に見えても拡大したら、あこれは葉っぱの影だったね、ってすぐ分かるもの。それに第一、素人がPCで簡単に合成写真を作れる時代だから、ハッキリ人影や顔が写った写真はまず合成が疑われるね」
「それはその通りで、だから心霊写真は人の顔がハッキリと写ったものより、なんだがワケの分からないモヤや光が写ってるってものが実は今の主流なの。これは二〇〇九年頃くらいの話なんだけど、テレビで『アステカの祭壇』って心霊写真が話題になったの。とある霊能者のところに同時多発的に同じような光が写った心霊写真が送られてきたってのが発端で。まったく関わりのない人たちから、まったく違う場所で撮ったものなのに、まったく同じような祭壇みたいな形の光が写った写真が送られてきたって話でね。これ自体はカメラの中に何かの拍子に光が入っちゃって、フィルムが感光しちゃうって単純な話なんだけど。フィルムカメラなんかどれもだいたい同じ形状だから、同じように光が漏れて同じような形の光が写っちゃうって、ただそれだけの話で。それに『アステカの祭壇』なんてそれっぽい名前をつけて、さも同時多発的に写されてるなんてバックストーリーを考えた人はほんとうに偉いと思うわ。発想の勝利ね。でも、これなんか逆に三〇年前じゃ見向きもされなかった事例だと思うのよ。やっぱり、人そのもののカタチがハッキリと写ってたほうがインパクトあるからね」
「今じゃそれが、逆に合成写真だと思われてしまうという」
零山がそう言いながら席を立った。いつのまにかコーヒーサイフォンの湯は下に落ちきり、琥珀色の美味そうな液体がフラスコを満たしている。零山は収納棚からカップとソーサーを一組出すと、フラスコからカップへなみなみとコーヒーを注いだ。ちょうど一杯分だった。いったんその場で一口啜り、満足気な顔でカップとソーサーを手に椅子に戻る。
お前の分だけかよ!
僕は心のなかで全力でツッコミを入れた。御来屋さんと神室さんの様子を伺うと同様に何かもの言いたげな顔をしている。
「あ。気が利かないで悪いね。あいにくこのサイフォンは一人用なんだ。冷蔵庫にお茶のペットボトルが入ってるから飲んでよ。紙コップは戸棚にあるから」
たぶん今の棒読みセリフは猫型ロボットが出てくる漫画の例の金持ち息子からの引用だろう。しかしあっちは三人用なので、それよりも心が狭い。
「あの、私やります」
神室さんが立ち上がった。彼女は戸棚から紙コップを出すときに一度制服のポケットからハンカチを出して手で握り、わざわざハンカチ越しに戸棚を開いて紙コップを出した。彼女は彼女で、なにやら複雑な事情がありそうである。
ともあれ、神室さんの手によって長机の上に紙コップが並べられ、お茶が入った。
喉が渇いていたのか御来屋さんがお茶を一気飲みすると、また語りだす。
「心霊写真はね、時代を経るごとに、リアリティの許容度が明らかに縮小していってるのよ。ここで言うリアリティってのは、心霊写真としてのリアリティね。この写真は作りものでなく本物ですよって信じられること。たとえば……心霊写真とはちょっと違うけど、ホームズを書いたコナン・ドイルがね、子供が作った妖精写真ってのにコロッと騙されて本物認定したことがあるのよ。イギリスの少女の姉妹がね、紙に妖精の絵を描いて切り抜いたものを、そのへんの木の枝なんかに貼り付けてふざけて一緒に写真を撮ったのね。今見ると笑っちゃうくらいハッキリと妖精が写ってるのよ。そんなんでコナン・ドイルが騙されたってんだからほんとうに笑い話ね。でも百年前くらいだとそれはリアリティがあるものだったの。零山くんが見た昔の心霊写真の本は、だいたい二、三十年前だと思うんだけど、ピンボケ写真の中にヒトっぽい姿が写ってるのが真実味のあるリアリティだったのね。で、現在はなんだか分からない光のモヤモヤがギリギリ許されるリアリティなの。印刷技術や写真技術が発達して、テレビなんかは地デジになって、タレントの毛穴まで映しそうなくらい高解像度になったのに、これは逆行よね」
話の途中で神室さんによって注ぎ足されたお茶をまた一口飲むと、御来屋さんは続けた。
「で、話を心霊写真からもっと広い心霊現象に広げると、テレビの心霊特集なんてのは減ったわよね。テレビは映像で出してナンボの世界だし、地デジ画質であからさまな心霊映像なんか出しちゃうと作り物感がすごいのよ。ウソっぽいのよね。だから今たまにテレビでやっても、今時VHSテープレベルの荒いホームビデオ映像だったり、あとは防犯カメラ映像とかちょっと前のケータイのムービーね。あれも解像度が低いからそれっぽく見えるの。でも、合成だったりトリックだったりはやっぱりすぐネットでバレるわね。だけど、ここが面白いんだけど、だからと言ってインターネットの世界で、心霊現象はべつにオワコンじゃないのよ。心霊体験談とか、怖い話だとか、心霊スポット紹介みたいなサイトはすごく人気があるの。だけどこれってほとんどテキストサイトなのよね。体験談なんて主観的なものだから、本当だと証明できない代わりにウソだとも証明できないのよ。唯一映像が掲載されてるとしたら、心霊スポットの紹介サイトだけど、これも不気味な風景を写した現地写真は載っけても、心霊写真はほとんど掲載してないわ。上手いものよ。下手に心霊写真を載せるよりそっちのほうが何倍もリアリティがあるのよ。でもウソと分からないからリアルだなんて、ずいぶんと消極的な話よね。それに、言ってしまえば江戸時代の妖怪談とか怪談話と本質は何も変わらないのよ。単なる伝聞なんだから。これもひとつの逆行現象よね」
僕は御来屋さんが語り続けるのをいいことに、彼女の横顔を眺め続けた。しかし意外である。彼女がこれほど饒舌に語ることなど教室では一度も見たことがなかった。意外といえば、彼女のトレードマークである眼鏡を、今はかけていない。
「この逆行現象って、言い換えると、ディテールの消失なの。最初はハッキリとしたものだったのに、どんどん曖昧模糊としたものになってるってことなの。やっぱりつまらないわよね。どーんとビジュアルがあって、これが心霊現象です。って言われたほうが楽しいもの。でもね、何でそうまでして、つまらなくしてまで心霊現象にすがるのかって、やっぱり人は信じたいのよ。心霊現象を。信じる余地を残したいの。たとえば恋人を亡くしたひとが、恋人の幽霊に出会って、今までありがとう、愛してました、なんて話しかけられたら、それは嬉しいことじゃない? そんなのはただの幻覚ですって言われるより、幽霊だと思っていたほうが何倍も救われるもの。心霊現象ってだいたいは怖いものだけど、基本はそういう人間のロマンティシズムに根ざしてると思うの。不思議なものは、不思議なもののまま受け入れたいのよ。だから、ネットの掲示板に心霊体験談は日々綴られていくの。それでね、黒川くん、話は全然変わるけど観測問題って知ってるかしら?」
心霊話からあまりに乖離した話題に少々面食らったが、知っているか知らないかの二択なら答えるのは簡単だ。しかし僕はちょっとは知的なところを見せようと少しばかりひねって回答する。
「そりゃ、あれだ。シュレディンガーの猫とか?」
「そうね。一番有名な思考実験ね。もっとも名前のカッコよさが先行してるだけって気もするけど。それに私はその話は猫が死んでしまうから好きじゃないの」
――猫が死んでしまう。そのフレーズに僕は胸に疼痛を覚えた。
「私が好きなのは、亡くなった映画監督のエッセイで読んだものなんだけど。だーれもいない広大な森が広がっているの。そこには天を衝くような巨木が所狭しと並んでいて。でも一本の老木が朽ち果てて根本から折れるの。ねえ黒川くん、想像してみて。その巨木が倒れるシーンを」
僕は想像する。森閑とした木立の奥で、一本の老木が倒れる様を。
「想像した?」
「うん」
「じゃあ、黒川くん、その木が倒れるときに音はした?」
音? 想定外のことを聞かれたが、天を衝くような巨木が倒れるんだもの、折れた幹は悲鳴をあげるだろう。さらに周りの木々の枝を巻き込みながら倒れるのなら、壮大な音を立てて崩れ落ちるだろうと思う。
「……する、と思う」
僕の答えに御来屋さんは少し残念そうな顔をした。望んでいた答えではなかったようだ。それにしてもこれじゃまるで教師と生徒だ。
「ブー。残念。はずれです。音はしないのよ。誰もいない森だもの。観測者がいないの。観測して、そこではじめて事象が確定するという世界じゃ、聞く人がいなければ音も存在できないの」
まるで詭弁だ。じゃあなぜ木は倒れたのか。誰もいないなら木が倒れることすら観測されない。納得出来ないという僕の顔を敏感に読み取ったのか、御来屋さんは言った。
「私も詭弁だと思うわ。でもね、もう一回想像してみて。広大な森の真ん中で、一本の老木が音もなく倒れていく情景を。それって何だか詩的でとても美しい情景じゃない? だから私はこっちの話のほうが好きなの」
「あの、私には難しくてよく分かりません」
唐突に神室さんが言う。
「あ、ごめんなさい。観測問題ってのは量子力学の問題なんだけど。たとえばここに箱があってね、中身は分からないの。箱を開けることによって……つまり観測することによって中身が確定するのよ。猫ちゃんがいました、とかね。箱を開けるまで中身は絶対に分からないから、これってつまり箱が閉じた状態だと、可能性がいろいろある……猫ちゃんかもしれないしワンちゃんかもしれないし、言ってみれば何もない状態なの。箱を開けて観察してはじめて中身……事象が確定するの。観測という行為自体が事象を確定するのね。逆に言うと、観測しない限り事象は確定できないの。だから、森の話に置き換えると、誰もいない……観測者がいない状態ってのは何事も確定しないのだから、言ってみれば何も起こらない状態と変わらない訳で、だから音もしないってことなんだけど……」
「やっぱりよく分かりません。箱の中身はずっとそのまま変わらないと思います」
「うん。もともと量子力学の世界を、身の回りのものに置き換えるのにちょっと無理があるわけ。実のところ私にも分からないわ。分からないことが分かった、って理解でいいのよ。だから我慢して聞いてもらえるかな?」
「はい」
「で、森の中で倒れる老木の話を読んだ時に私は思ったのよ。今私がその森にひとり迷い込んだとして、誰もそのことを知らなかったら、つまり観測者がいないわけなのだから、私という人間は存在しない、ということにならないかしら、って」
僕は考えた。観測問題に照らし合わせるならそういうことになるのかもしれない。しかしそう考えると僕の今の状況はひどく空恐ろしいものにならないか? 教室の中で誰からも自分の存在を無視され、路傍の石に成り果てた自分は、観測者がいない状態と変わらないのではないか? すなわち自分は存在しないということにならないか。
「ちがうね。それこそ詭弁だよ。人という存在は無から突然生まれないのだから、この世に産まれ落ちた時点で事象は確定しているよ。その時点で観測されてる。そのあとに森へ行こうが何しようが、それまでと同じように存在し続けるんだ」
するどく指摘したのはそれまで黙っていた零山だった。
「そうなの! 誰だって何だって、一度その存在を認められた以上は、死なない限り何があっても存在し続けるわ。で、別の角度からまた考えてみてほしいの。観測が事象を……その存在を確定するなら、たとえ幽霊でもそれは何らかのカタチを与えられた存在だと言えると思うの。恋人を亡くした人が、その恋人の幽霊を見ました……それが客観的にはただの幻覚だとしても、主観的にはやはり観測された事象よ。その人にとって、その恋人の幽霊は存在するの。この二十一世紀の世の中では、もう幽霊は死者の霊魂が実体化したものであるとか、そういう客観的な事象にはなり得ないの。科学万能の世の中では、どうしたって否定されてしまうわ。でも、そうではなく、誰かが観た主観的な体験そのものを幽霊だと考えれば、その存在は少なくとも否定は出ないわ。そして、観測が事象を確定するなら、誰かの主観的な体験の中であったって、それは存在を一度認められたものなのよ。ここまでは分かるかしら?」
御来屋さんの視線の先には神室さんがいた。神室さんは答える。
「あの……個人的な体験談は、ホントだとも言えない代わりにウソだとも言えないってことですよね」
「そうね。そして、誰かに見られたということによって一度事象が確定されてしまった幽霊が、それ以降は観測者の存在に関係なく存在し続けなければならないとしたらどうなるか? 何十年も経って、最初に観た人も亡くなって、誰もその存在を忘れてしまって……どんどんディテールが奪われて、曖昧模糊とした存在になって、最終的にそれはただそこに存在し続けるだけの白い人影になってしまうと思うの。心霊写真の逆行現象と同じようにね。一番最初に私は、直接的に人の死とは関係ないし、幽霊と呼ぶには相応しくないからフェノミナって呼んでるって言ったわね? だけど、厳密に言えば、そんな、かつて誰かが主観的体験の中で観た幽霊という存在の骸が、フェノミナだと私は思ってるの」
「なにそれ、つまりどこの誰かは分かんないけど、勘違いや幻覚といった主観的体験だろうけど、誰かが観た以上は幽霊はどこかに存在し続けて、んーで時間経過で形骸化していったそれを一手に御来屋氏が引き受けて見てるってワケ? それに御来屋氏の説だと誰かの主観的体験がある限り幽霊は生まれ続け、未来永劫残るってことになるけど、それはエントロピー増大の法則からみて無理があるし、そのへんどうも都合良過ぎない?」
話が一気に抽象的になりすぎたので僕はいまひとつ理解が追いつかないが、零山には理解が出来たらしい。
「神室さんにも見えてるので私が一手に引き受けてるわけじゃないけど、そうね。もともと理屈で説明できるものでもないしね。だから誰にも言わないのよ。ただ私にはこの宇宙の一番根底に意識という層があって、みんな気づいてないけど、生きとし生けるものは全て……時間も空間も超越して……それを共有しているんじゃないかって感じるの。虫の知らせとかよく言うでしょ? ああいうのはどこかで人の意識がつながってないとダメだと思うのね。人の意識ってつまりは主観のことだから、私はそのレイヤーを通して視覚情報に変換されたフェノミナが見えてる気がするのよ。意識の問題ならエントロピー増大の法則みたいな物理法則も関係ないし」
「どのみち全て推測で、ご都合主義には変わらないけどね。ま、だいたい言いたいことは分かったよ。それで、御来屋氏の個人的な問題については理解できたけど、この学校で起きてることってどういうことなん?」
続けて零山が尋ねる。
「うん。フェノミナに関しては私は小さい頃からずっと見ていたし、慣れっこなんだけど。この学校にはそれが多すぎるのよ。それも日に日に増えてくるの。まるで集まってきてるみたいに……」
その刹那。
計ったかのようなタイミングで世界が白い霞で覆われた。いや違う。天井から床から壁から、部室のありとあらゆる場所から霞のような白い人影が無数に這い出てきたのだ。あるものは両手を前に差し出し、別のあるものは地面を這い、あるものは直立不動の姿勢のまま、筍のように床からゆっくりと生えてくる。次から次へと現れる。音も立てずに我々を包囲し、飛び回るそれは声にならない痛烈な叫びだった。
僕は仰天した。
しかし。
――フェノミナ。これが彼女の言う、かつて誰かが観た幽霊の残骸なのだろうか。
観測者を失って、ただずっと永遠に近い時の中を彷徨っているだけの存在なのだろうか。
「やべえよ……やべえよ……」
芝居がかった声で零山が呟いたが、さすがに顔に焦りがある。神室さんは目を見開いて突然のなりゆきに呆然としてる。僕は床から這い上がってきたフェノミナが自分の足を飲み込もうとしてるのを見てパイプ椅子の上で座りながら片足ずつ足を引っこ抜いたり戻したりしていた。
ただひとり御来屋さんだけが冷静だった。椅子から静かに立ち上がって、言う。
「って本当に集まってきたわね。あの鳥の嫌がらせかしら。でも大丈夫。こいつらはさっきの鳥と違って基本何もしてこないわ。取り憑いたりもしないから黒川くんは足を戻してもいいわよ。神室さん、平気?」
「だ、だめですう。数が多すぎますう。こんなの私ははじめてですう」
「零山くん、眼鏡ある? サングラスでもいいけど」
「あるよ! PC用のブルーカット眼鏡があるよ。度は入ってないけど」
「ちょうだい」
PCデスクの上に置いてあったそれを零山は御来屋さんに投げた。宙を漂うフェノミナを二、三体通過したところを彼女が片手でキャッチすると、すぐさま神室さんに向かって「これをかけて」と言う。言われるまま眼鏡をかけた神室さんは不思議そうにあたりを見回した。
「あれ、見えません。ふぇ……フェノミナがいません」
「やっぱりね。これから見たくないときは眼鏡をかけるといいわよ。私も普段はそうしてるから」
――私の場合、逆に見えなくしたいのよ。
僕は御来屋さんが言った言葉を思い出した。あれは、そういう意味だったのか。
「で、黒川くんと零山くんは動けるかしら?」
「……なんとか」
「バッチコーイ! バッチコーイ!」
害をなさないのを知って零山は元気百倍であった。御来屋さんは声のトーンを上げて力強く言う。
「数が多いけど、倒すわよ。手伝って」
「倒す? どうやって?」
僕は尋ねた。御来屋さんが即答する。
「物理攻撃よ!」
そう言いながら御来屋さんは左足を軸に身体を回転させ、右足をするどく上方に蹴り上げた。
「え?」
「とにかくぶちのめすの!」
回し蹴りが宙を舞っていた数体のフェノミナにヒットし、シャボン玉がはじけるようにそれは霧散した。一目瞭然のお手本であった。なるほど。ぶちのめせばいいのか。
「「合点承知!」」
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