1-5 黒川仁
トイレが爆発した。
崩壊した壁の向こうから御来屋さんが現れてまた消えた。そして御来屋さんは『敵』とお取り込み中だ。どうやら御来屋さんはピンチなのだ。まったく状況が分からないが、世の中状況が分からないことの方が多いのだ。なんでも知っている風のやつはかえって怪しいのだ。
それよりも僕にとって僥倖だったのは、御来屋さんからトイレットペーパーを投げ入れて貰えたことだ。大急ぎで僕はトイレットペーパーを手に取るとミッションを遂行する。四〇秒で支度は出来た。僕の危機は脱出だ。
さて。
読者諸兄も経験がおありだろう。授業中のあの空想を。テロリストが占拠した学校で自分が八面六臂の活躍をして悪をなぎ倒し、意中のあの子のハートをゲットする空想を。
無論僕も数百通りのシミュレーションを頭のなかで繰り返していた。
そしてこの状況だ。壁の向こうの相手がテロリストかどうかは不明だが、僕の数百に及ぶシミュレートの中で、敵は凶悪立てこもり犯から包丁を持った通り魔、果ては宇宙人まで攻略済みである。テロリスト以外でも十分対応できる。今こそ空想を現実のものとするチャンスである。ぼっち生活から脱却して桃色の高校生活をエンジョイするまたとない機会である。僕はズボンのファスナーがきっちり上がってるのを確認する。ヒロインを救出にきたヒーローのファスナーが全開などという事態は避けたい。この状況でファスナーに気をつかえるほど僕は冷静だ。大丈夫だ。いける!
僕は意を決して壁の大穴から女子トイレに踊り出た。
え?
御来屋さんが対峙していたのはテロリストでも凶悪犯でもまして宇宙人でもなかった。
ギターを抱えたシロフクロウだった。
はて?
僕はギターを抱えたシロフクロウを倒すシミュレーションをしたっけか?
おまけにシロフクロウの後ろには背のちっちゃい女子がこっちを見ていた。第三者の存在は想定していなかった。だが……うん。彼女もついでに救ってしまえばいいのだ。ヒーローが救う人数は多い方がいい。しかしそこに更なる乱入者が現れた。トイレ入口に近い男子トイレ側の壁の裂け目から、またひとり男子生徒がひょっこりと現れたのだ。
「うわあ……たまげたなあ」
のんびりとした口調で乱入者は言う。
「あえっと、そこにいるのは御来屋氏だったっけ? で、これ何なの? 剥製?」
乱入者にこの場の会話の主導権をすっかり奪われてしまった。瓦礫を避けながらそのままヤツはシロフクロウに歩み寄り、片足を上げるとつま先でそのフクロウをさした。
「知らないわ。でも敵よ。こいつらが物理干渉してくるなんてはじめてだもの」
御来屋さんが答える。くそう。誰だか知らんが御来屋さんに気安く話しかけやがって。
「物理干渉? じゃこれ、この鳥がやったわけ? すげえな」
乱入者は肩をすくめた。この大爆発をこの鳥が引き起こしたというのならそれはそれでヤバイ状況ではあるのだが、コミカルな鳥の扮装のせいか、いまいち危機感がない。
「え? 皆さんその鳥が見えるんですか?」
今度はちっちゃい女子だった。僕はまるで会話に入り込めない。
「もちろん見えるわ。あなたにも見えるのね」
「あ、これ? すごく……フクロウです」
御来屋さんと乱入者が答えた。僕が答え遅れたので皆の視線が集まった。
「あ……僕にも見えて……りゅ」
不覚にも噛んでしまった。視線が集まることに慣れてない。まして発言が求められることなんて月単位でなかったことだ。仕方ない。不可抗力だ。
長らく置物のように動かなかった鳥の頭がくるりと回転した。びっくりした。僕も剥製か何かだと思っていたのだ。頭は僕の方に向いて止まる。ギロリとした三白眼で僕を捉えると鳥は言った。
「ホウ。君はこちら側か」
「うわ喋ったあああ」
先に反応したのは乱入者であった。ヤツは何かにつけて反応が早い。思ったことをすぐ口にするタイプの人間のようだ。いずれにしてもそれでは僕のターンが回ってこない。僕は鳥が喋った驚きよりも、ヤツへの怒りで頭が真っ白になる。
「ていうかそっちのお前は、あれ? なんでここにいるの? お前確か……」
「黙って」
乱入者が僕に問いかけたのを御来屋さんが一喝した。
「あなた達が思ってる以上に、その鳥は危険なの」
空気が変わった。乱入者の顔にも緊張が浮かんだ。一瞬の沈黙を破ったのは鳥だった。
「まあそんなに邪険にするんじゃない。吾輩としても手荒な真似は信条ではないのだ」
「じゃあもう出て来ないで」
御来屋さんが答える。
「それは出来ぬ相談でね。我々はそこにあるから存在しうるのだ。そこに我々の意志は介在しないのだよ」
「そんな詭弁に付き合ってられないわ」
言うが早いか、御来屋さんは鳥に向かってジャンプする。腰の高さで身体が水平になる。鳥に向かって渾身の飛び蹴りが一閃した。当たったと思ったが鳥はまるで瞬間移動でもしたかのような動きでそれを避けた。そして鳥が右の羽を高々と振り上げる。
「やれやれ……言っても分からぬか」
鳥がそうつぶやくと、それまでと違う、恐ろしく深く通る声色で続けた。
「コンビネーション・オブ・ディミニッシュスケール!」
そう唱えると同時に振り上げた羽根を下ろしてギターをかき鳴らした。どういう理屈であの羽根で弾けるのか謎だが、ギターから不安定な響きのフレーズが大音量でほとばしる。
「逃げて!」
御来屋さんが叫ぶ。その場にいた全員が反射的に走った。半拍遅れて、まるでギターのフレーズの一音一音に対応するかのように圧縮された空気の銃弾が舞った。目には見えないが空気を切り裂く音がする。壁に床に天井に縦横無尽に着弾すると、破片が飛び散り銃痕を残す。そのひとつが、僕の頬をかすめた。冗談抜きで死ぬと思った。転がり出るようにトイレから脱出する。
おかしい。
こんなはずじゃなかった。
僕は迫りくる敵をちぎっては投げちぎっては投げて成敗し、絶体絶命のヒロイン、御来屋さんをお姫様抱っこで救うはずだったのだ。
なのに、何も出来なかった。会話にすらほとんど入れなかった。それどころかひいぃと声にならない悲鳴を上げて、尻尾を巻いて逃げ出しただけだ。無力であった。ギターを抱えたシロフクロウというへんちくりんな敵を前に、僕はあまりにも無力であった。これでは御来屋さんからの心象は悪くなるばかりではないか。
全員がトイレから脱出した。幸いけが人はいない。
鳥からの追撃もない。
「なんなんですかこれ? 何が起きてるんですか?」
不安そうな表情でちっちゃな女子が言った。
「私にもよく分からないのだけどね。それよりもここを離れましょう」
御来屋さんが答える。鳥の追撃も怖いし、それに部室棟にいる生徒は少ないとはいえ、これだけの騒ぎだ。他にひとがやってくる可能性は高い。教師が現れるといよいよ苦しい。この惨状がすべて我々のせいにされてしまうのは自明の理である。へんな鳥が壊しました、で許されるはずもないのだ。僕としてもここから離れるのは大いに賛成するところである。そこまで考えて僕は会話に参加しようとする。しかし言葉が出てこない。話しはじめるまでの思考が多すぎるのだ。どこから口にしたものか迷っていると例のいけすかない乱入者が言った。
「俺さぁ、部室……あるんだけど……とりあえずそこに退避しない? すぐそこだから」
妙に芝居がかった口調で言うのであった。どうもこの男はネットスラングから引用して喋るのが好きらしいが微妙に分かりにくい。ともあれ、特に異存もないので我々は彼のあとについていった。そいつが案内した先は一番奥の『東洋哲学研究部』とプレートがかけられた部屋だった。そこで僕は思い出す。ああこいつ、何度か廊下ですれ違ったことのあるやつか。顔は忘れていたが、一番奥の部室に消えたことは記憶にあった。
それにしても。
僕に会話の機会がないのはどうしてなんだ?
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