1-4 神室《かむろ》アイ

 私はコンプレックスだらけだ。


 まず背が低いのが嫌だ。通学の電車が息苦しい。電車の中で天井を見上げて、私よりも新鮮な空気を吸ってる背の高いひとたちがいつも羨ましいと思う。牛乳が嫌いなせいなのかもしれない。おかげで胸も小さい。それに、ゆるくウェーブがかかったくせっ毛が嫌だ。ストパーをかけてもすぐに戻ってしまう。ほっとくと教師にパーマだと疑われて追求される。校則違反だそうだ。他に校則を破ってそうな生徒なんていくらでもいるのに、私だけが集中的に責められる。なめられてるのだ。でもいつも上手く言い返せない。その自分の頭の回転の鈍さも嫌いだ。考えればまともな思考もできるのに、リアルタイムでの会話では頭がうまく回ってくれない。


 そして一番嫌いなところは……。


「アイちゃん返事考えてくれた?」


 昼休みに中庭のけやきの木の下のベンチでジュースを飲んでいたところだった。


 声をかけてきたのは、同じクラスの中垣くんだ。スケボーを脇に抱えている。馴れ馴れしく肩に手を伸ばしてきたのを、上半身をひねってかわした。こういう動作がほぼ条件反射で無意識に出来てしまう自分が嫌だ。私は人に触られたり、人を触ったりするのが何よりも嫌なのだ。男子にだけではない、仲の良い女子からだろうが、家族からだろうが半ば病的に接触を避けてしまう。対象は人だけでない。不用意にモノに触るのも極力避けている。そして、度の過ぎたこの潔癖症じみた癖のせいで私から友達と呼べる存在が離れていってしまう。一番嫌いな私のコンプレックス。


「ウ、ウワサどおりの潔癖症だね。でもふたりでゆっくり解決していけると思うんだ」


 中垣くんから返事を聞かれるのはこれで五回目だ。先週の昼休み、私はここで彼から告白された。こんな私なんかを好きになる理由が分からない。返事を聞かれるたびに私は断ってるつもりなのだけど、どうも諦めが悪い。たぶん毎日ここへ足を運んでいる私が悪いのだ。そんなことをすれば相手に希望を持たせてしまうことは分かっている。ならここに来ないければいいと思うのだけど、つい昼休みになると足が向いてしまう。


 春先に観たあの光景が忘れられないからだ。


 昼休みの終わりに教室でみんなが窓際に集まって中庭を見下ろしているのに気づいて、私も見た。


 女の子が、自転車で空を飛んだあの光景を。


 カッコ良かった。単に空を飛んだということだけではない。あれは、いろんなものの呪縛から解き放たれたかのような飛翔だった。あのジャンプを間近で見ることが出来れば、私を私という檻に閉じ込めているコンプレックスという呪縛を、すべて打ち砕いてくれるように思ったのだ。


 あの飛翔をまた見てみたい。

 そして、私の呪縛を打ち砕いてほしい。


 だから、毎日けやきの下のベンチで待った。


 私のその願いは今のところ叶えられていない。逆に、といえばいいのか、意に反してというべきか、毎日昼休みに中庭のベンチで待っている、というその行為が中垣くんに誤解を与えてしまったらしい。中垣くんは中庭で仲間数人と昼休みに毎日スケボーで遊んでいた。どこから引っ張り出してきたのか、フラットバンクと呼ばれるジャンプ台みたいなものも用意してそれなりに本格的なものだった。そのバンクに突っ込んでいって宙でターンを決める中垣くんの姿は確かにキマっていた。でもやっぱりあのときのあの女の子の自転車のジャンプと比べると見劣りしてしまう。なにより私のコンプレックスの檻を壊してくれるものではなかった。


 ただ、ほかに見るべきものもなかったので、私は毎日けやきの下のベンチでそのスケボーを見るとはなしに眺めていた。それがどうやら、中垣くんの目には熱心なファンに映ったらしい。


 だから、告白された。


 自分のファンならすぐに落ちるとでも思ったのだろう。別にあなたを毎日見ていたわけではない。そう言えれば良かったがつい相手を傷つけないように、だとか自分が非難されないようにだとかを考えて口を濁してしまう。結論を先延ばしにしてしまう。そんな宙ぶらりんな状態が一番相手を傷つけるかもしれないのに。じゃあ逆に付き合うのはどうか。他に好きな人もいない。もしかしたら中垣くんのことを好きになれるかもしれない。でもやっぱりダメなのだ。付き合うとなれば、手くらいは繋がないといけないだろう。手なんか繋がなくたって心がつよく結びつくことはあるかもしれないが、相手は同じ高校生で、見るからにチャラい系で、そんな大正時代の純愛じゃ満足できるわけがない。でも、手をつないでしまうと……良くないことが起こる。そして絶対に嫌われる。私は、私が好きになるかもしれない相手にまた嫌われてしまう……それが怖かった。


 でもほんとうに怖いのはそんなことじゃなく……。


「ごめんなさい。やっぱり中垣くんとはお付き合いできません」


 勇気を振り絞って、私は言った。そしてベンチから腰を上げると昇降口へ向かった。もうここに来るのはやめよう。三ヶ月待ってあの女の子は現れなかった。あの女の子あの女の子と言ってるが私は彼女の名前を知っている。BMXで飛んだ彼女の名前は瞬く間に知れ渡っていたのだ。御来屋らんさん。私がこんな体質でなければ、私の方から近づいて彼女と友達になれたかもしれない。そんなことを考えていたら中垣くんが私を追って手を差し伸ばしてきた。それを条件反射で避けて私は立ち去る。彼をフッたことで変なうわさ話が広がるかもしれない。でもいい。ただの潔癖症の変わり者だと思われている方がいい。私が一番恐れているのは、一番のコンプレックスの原因……私の特異体質がみんなにバレてしまうことだった。


 特異体質。


 物心ついたころからそうだったと思う。いや、もう私の記憶が定かでない幼少の頃からの話だ。母がたまに言うのだ。小さい頃のおまえは変だったと。あの頃のおまえはなにか変なものが見えていた、と。あのお化け、まだ見えるのかい? と母は笑い話のように聞いてくるが私はそれを聞いてくる母の目が笑ってないことを知っている。なぜなら、きっと母も見ていたからだ。


 私は霊感体質だ。

 この世のものでないものが見えるのだ。


 だいたいは白いもやのような人影だ。ふわふわとしていて実態がない。後ろが透けて見える。特に害はなさない。ただそこに突っ立ているだけだ。そして、どこにだって現れる。霊感スポットじゃなくてもそれはいる。日常の中に紛れている。私がお風呂に入っている時に窓の外にぼんやりと立ってるのはやめて欲しいが、それだって慣れた。


 私はそれを今ではひた隠しにして生きている。


 思春期特有の幻覚だとか、脳の見せるイタズラだとか言うのはカンタンで、私だってできることならそういうことにしたい。ただ、私にはもうひとつそこから派生したとある体質があって、それを考えると私一人の幻覚として片付けることができなくなってしまう。


 それはこの霊感体質が人に感染してしまうことだ。


 私が少しでも触れたものには、すべて霊感体質が感染してしまう。


 私はそれを、長い経験の中で知った。はじめは皆、見えるのかと思ってた。実際私が見た不思議なものを友達も全員見ていたから。ところがだんだんそうじゃないことに気づいていった。アイちゃんといると、いつもお化けを見るのよ……私にそう打ち明けた友達を問いただしてそのことを確信したのは小学五年生の頃だった。何度かの実験で、感染のトリガーが人との接触であることも分かった。


 そう気づくと確かに思い当たる節がいろいろとあった。思えばせっかく友達になれたと思った途端に、私を怖がり避けるようになった子も少なくない。ようやくその理由が分かった。


 どうやら感染の時間は短い。短くて数時間、長くても一日くらいで私が触れた人たちからその霊感体質は消える。しかし、その時間の短さが逆に原因の特定を容易にする。つまり、私に触れたから、お化けが見えるようになってしまうということがすぐバレてしまう。実際勘のいい子には薄々気づかれてたのだ。世の中には勘のいい子ばかりでない。私が触れた人全てがそのことに気づいてしまう訳でもないので、やや大げさかもしれないが、私にとっては一大事だ。私に触れると不気味なものが見えるようになる。それは私が不気味なものであるのと同義で、嫌われるのには十分な理由になる。それに私の好きな人たちが私のせいで変なものを見てしまうのは、自分が見えてしまうこと以上につらいことだ。害はなさないとはいえ、こんな不気味な白い影が跳梁跋扈する世界には誰にも触れてほしくない。


 私の潔癖症は、そこからはじまった。


 出来る限り誰にも触らないし、触れさせない。そのことを自分に課した。というより、できなくなった。私が触れた人たちが、そのせいで不気味な白い影を見てしまうことが怖い。そして私が触れたせいでそれが見えてしまうと気づかれてしまうことが何より怖い。


 実際それは、潔癖症と何も変わらないものと他人の目には映ったようだ。


 もうひとつ、長い経験の中で私はその『感染』が人だけでなくモノにも作用すると知り、うかつにその辺のモノにも触れられなくなった。なおさら潔癖症と区別がつかないものとなった。


 私の体質は、モノにも感染する。


 たとえば、一番顕著なのは鏡だ。つい先日のことだ。


 私はトイレで手を洗っていた。そこへ後ろから同じクラスの女子が私に声をかけた。


「アーイちゃん」

 小林亜里沙さんは、変わり者の私にもフレンドリーに接してくれる数少ないクラスメイトだ。私はそれが嬉しい反面、迷惑に思うことがある。迷惑に思ってしまう自分がとてもつらい。


 私の名前を呼ぶのと同時に小林さんは手を思いっきり振りかぶって私の肩を叩こうとした。


 私はそれを鏡越しに確認したのでいつものように避けた。でも思いのほか彼女の動作が大きかった。避けるには避けたけれど、少しよろめいて、反動で手を鏡についてしまった。


 やってしまったと思った。これで鏡に体質が感染してしまった。


 そしてこういう時に限って、このタイミングで鏡に白い人影が横切るのだ。もやもやと実態がない、性別の判断すら難しい、でも私がいつもよく目にするものだ。よくあることなので私は驚きもしない。でも小林さんは違った。一瞬肩がびくっと動いた。彼女のお化粧直しが始める前で良かったと思う。そして大げさに振り返る。振り返った小林さんの視線の先にまだその白い影がいるのが私には見える。でも彼女には見えない。彼女自身に私の体質は感染してないのだから当たり前だ。


 影は小林さんがまた鏡に向き直る間にすうと消えた。


「ちょ。今なに? え? アイちゃん見た?」


 それは私が触れた鏡が霊体を映す媒体に変化したからです……なんて言えるはずもない。私は適当に何も見えないふりをしてその場をあとにした。とっさのときのごまかし方だって、もうずいぶん堂に入ったものになった。ウソをつくのが平気になってしまっていた。

 

 さて、中垣くんをフッた私はそのまま校舎に入った。もう教室に戻ってしまおうか。私は歩きながらスマートフォンを取り出す。そしてツイッターアプリを立ち上げてタイムラインをチェックした。リアルでのふれあいができない分、今の私はこうしたバーチャルな世界でのふれあいが心の慰めにもなっている。


 魔冬@新曲ヨロ:ちゃーす! 今起きた(3分前)


 あ、魔冬さんだ! すさかず私は『おはようございます!』とリプライを送る。


 魔冬さんはうちの高校のOGで、現在大学生らしい。そして魔冬さんはシングロイドと呼ばれる合成音声で歌をうたうソフトを使って、動画投稿サイトにオリジナル曲を投稿しているシグロPでもある。シグロ曲は今や中高生の間で当たり前のように聴かれて、カラオケで歌われる音楽の一大ジャンルだ。最近のシグロ曲は速いテンポでものすごい早口で歌う曲が多い。サイトのランキングを賑わしているのはそういうのばかりで、私には少し肌が合わないのだけど、魔冬さんの曲はそういう流行からやや外れてる曲が多い。


 ゆったりとしたビートの中、まるで深海をたゆたうように静かに歌い上げる曲が魔冬さんの曲の真骨頂だ。合成音声の、人と違うけれども完全に機械でもない歌声が、ときおり痛いほど私の心を揺さぶる。じっくりと目を閉じて聴いていると、次第に私という存在が溶け出して世界と融合してしまう感覚になる。それはいっときの幻かもしれないけれど、私を閉じ込める檻すら溶かして魔冬さんの音楽という世界に一体化する感覚は、とても心地の良いものだった。


 そんなダウナー系の曲なので魔冬さんの曲が動画サイトのランキングに入ることはない。いつも数千再生で再生数は頭打ちになる。ランキングに入る曲は数日で何十万再生もされるので差は歴然としてる。クオリティの高い楽曲をつくるシグロPの中にはそういう格差に思い悩んで、シグロPをやめたり、逆にそれまでの音楽性を捨てて流行に乗っかった曲を投稿する人もいる。しかし魔冬さんの場合あくまでゴーイング・マイ・ウェイというか、飄々としている。再生数が伸びないことなど全く意に介さない。そういうところが私は好きだ。


 私が魔冬さんを知ったのは、彼女にツイッターでフォローされたからだ。なぜフォローされたのかは分からないけど、たぶんフォロワー数を増やすことで曲を聴いてもらいたかったのだろう。プロフィールを見るとうちの高校出身の大学生でシグロPとあったので、フォロー返しをして何気なく曲を聴いて、すっかりハマってしまったのだ。


 今じゃ彼女を信奉してるといってもかまわない。


 ツイッターでの彼女の発言の全てを読んでいるといっても過言でない。起きた、とかご飯食べたとか、比較的どうでも良い日常しか呟かないけれど、毒のないその発言もまた私にとっては救いとなっている。リプライしても返事が戻ってくることはあまりないけれど、それでも彼女のファンであることを伝えたくてマメにリプライしている。それに、素性を知らないネットの向こうの人にしか私は積極的に絡んでいけないのだ。リアルでの知り合いは私の体質のせいで、たとえツイッター上でも、やっぱりどうしても深く踏み込めない。


 ……と。


 視界を白い影が横切った。


 また例のやつか。それにしてもこの頃少し遭遇頻度があがっている気がする。私はスマートフォンをしまい込むと、なんとなくそれに目をやった。そして私にしては珍しく、非常に驚いたのだ。


 いつものぼんやりとした白い霞のような人影じゃなかった。


 それは廊下の窓際、生徒の私物を収納するロッカーの上をゆったりと歩いていた。

 はっきりとした姿だった。


 それは人間の膝くらいまでの背丈で、見た目はシロフクロウだった。シロフクロウが黒いシルクハットを被っている。左目には鎖がついた片眼鏡が装着されている。白いくちばしの両脇からサルバドール・ダリのような立派なひげが伸びている。くちばしの下には大きな赤い蝶ネクタイが派手に主張している。そして何故か、赤いエレクトリック・ギターを羽根に抱えていた。


 こう説明するとなにか漫画のキャラクターのようなコミカルなものに思えるが、私はそれを見た瞬間言い知れない恐怖を感じた。目のせいだ。


 それと目があったのだ。黄色い三白眼が私を捉えた。びくんと全身に悪寒が走った。その瞳からは喜怒哀楽といった感情がまったく読み取れなかった。広漠とした『無』がそこにあった。


 私はそれの視線に囚われて、しばらくその場で固まってしまった。


 すると、更に驚くべきことに、それが口を開いて言葉を喋ったのだ。


「オブザーバーの少女よ。我が幻影を望め。そこに必ず吾輩は出現する」


 ふぁさり、とそれは翼を広げた。ギターが背中側に回り込んだ。そして開いた窓からあっという間に飛び去ってしまった。私はその場に硬直したまま視線だけでそれを追う。それは校庭の上空をゆっくりと旋回すると、部室棟のほうへ飛んでいった。


 我に返る。あたりを見回す。あからさまに私から視線を外した生徒が何人も目に入った。昼休みの廊下なのでけっこうな人数の往来があった。しかし注目を集めてしまったのはどうやら私の方だった。というより、みんなにはやはり見えていないのだ。あの奇怪な鳥のことなど、私以外誰も気づいてないのだった。


 ――オブザーバーの少女って何よ? 我が幻影を望めって何のことよ?


 私は混乱した。私がいつも見ているあの白い影とは明らかに事情が違う。なにか別次元のものだった。私は不安になる。私のせいでなにかよくないことが起こるんじゃないかという不安だ。


 いや、それはもうはじまっているのかもしれない。


 私はいてもたってもいられず、駈け出した。とりあえずあの鳥を見つけよう。あの吸い込まそうなほどの虚無を映した瞳は怖いけど、そしてよく分からないことも喋ったけども、別に私を傷つけたわけではない。次に会った時に攻撃されない保証もないけど、ここで逃げ出してそれで事が済むという確証もまたないのだ。


 あの鳥が向かったのは部室棟だった。教室の並んだ新棟とは昇降口のある教科棟を挟んで逆方向なので今歩いてきた道を走って戻る。廊下を歩いている人たちにぶつかりそうになるが、体質を感染させて巻き込むわけにもいかないので、慎重によけて走る。ほどなく部室棟へと入った。帰宅部で特段体力に自信があるわけでもないので息が切れた。その場に立ち止まり膝に手をあてて一旦息を整えた。あの鳥はどこへ行ったのだろう。たぶん飛んできたのだから、一階二階よりも最上階にいる可能性が高いように思う。よし。萎えそうになる心を震え立たせて私は再び走りだす。階段を一段飛ばしで駆け上がった。途中で上の階から必死の形相で駆け下りてくる二人組をすんでのところで躱すと、バクバクする心臓を抑えながらも必死で登る。


 三階にたどり着いたそのときだ。


 廊下の影から突然人が現れた。


 ぶつかる! そう思ったときにはもう遅かった。ほとんど体当りする形でその人に接触してしまった。はずみで尻餅をついた。階段側に転ばなくてよかったと思った。いや、そうじゃなくて!


「ご! ごめんなさい!」


 私は謝る。ぶつかってしまったことだけなく、暗に体質を感染させてしまったことを含めての謝罪だった。


「で、でた~! 人にぶつかってとりあえず謝罪奴!」


 しゃざいやつ? あまりにも予想外の言葉に脳がフリーズする。改めてその人の顔を見つめた。あんまり特徴のない容貌の男子だった。その男子がものすごく小馬鹿にしたような顔で私を見下ろしていた。妙に腹がたった。


「なに、きみも爆発を聞いて駆けつけたクチ?」

「え? 爆発? なんのことですか」

「気づかなかったの? ワロス。つい今さっき。あっちで」


 ぷいっとその人は奥を指さした。夢中で走っていたからだろうか。全然気づかなかった。


「それより変な鳥を……」


 言いかけて、途中で口をつぐんだ。普通の人にはあの鳥は見えない。動転して聞かずもがなのことを尋ねてしまった。まあ、でも今ならこの人もきっと見えるに違いないのだけど。


「鳥とか何言ってるンゴ? それより行くよ」


 男が手を差し伸べてきた。案外悪い人間ではないのかもしれない。もう感染させてしまったので手遅れではあるのだけど、私はいつもの癖で差し伸べられたその手を無視して、自分で立ち上がった。差し出した手が無視されたかたちのその人は、少しの間まじまじと自分の手を見つめていたが、やがて思い出したように走りだした。私もあとをついていく。


 向かった先はトイレだった。


 男子トイレ側からは白煙がもうもうと溢れ出てるので中が見えない。女子トイレ側からも量の違いこそあれ、煙が漏れ出ていた。


「俺こっち。きみそっち」


 その人が左側男子トイレと右側女子トイレを交互に指さした。女子トイレを私に確認しろと言っているらしい。私はうなずく。へんな成り行きではあったが、あの鳥がこの中にいる可能性は高いと思うのだ。何のためらいもなくその人が男子トイレに入っていくのを見届けてから、私も女子トイレに入った。


 なにこれ? なにが起こったの?


 まず目に入ったのは、例のシロフクロウだ。こっちに背を向けていた。左側の男子トイレ側に並んだ個室がめちゃめちゃに破壊されている。そしてシロフクロウの奥にいた女子の姿をみて私はまた驚いた。


 あの女の子だった。


 赤いBMXで空を飛んだ……。


 御来屋らんさんだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る