1-3 黒川仁
慌てるな。
冷静になれ。
何も命の危険があるわけじゃない。そう、ただ紙がないだけだ。考えろ。考えるんだ。つまり、今回のミッションはケツの
隣の個室からトイレットペーパーを拝借するのは可能か? パンツ下ろしたまま個室の外に一旦出るのは危険である。いくら人の出入りが少ないトイレとはいえ、人が入ってくる可能性はゼロではない。外に出た瞬間に人と鉢合わせでもしたら目も当てられない。却下だ。
逆に誰かがトイレに入ってくるのを待ち、紙を投げ入れてもらえるように頼むのはどうか。スマートな方法であるが、まず人が来る可能性が低い。これもどうやらダメだ。
パンツで拭くのはどうか? いやこれはもう最終手段だ。今は別の方法を模索するべきだ。
他に拭けるようなものはないか? 僕はポケット、財布の中といろいろまさぐった。財布の中にレシートが数枚入っていたがさすがにこれで拭くのは心もとない。
あとはもう、籠城だ。このまま昼休みをやり過ごし授業開始まで待つ。これで誰かがトイレに入ってくる可能性をほぼゼロにできる。安全マージン確保のため更に数分待機してから、慎重に隣の個室まで向かいトイレットペーパーをゲットする。これが一番ダメージが少ない方法だろう。よし。実行だ。
実行だ、と言っても待機である。ということで僕は身を固くしながら、ただただ時がすぎるのを待っていた。
「ウェーーイ!」
「ウェーーイ!」
ところが、そこに足音と声が二人分近づいてきた。珍しくこのトイレに誰かが入ってきたのだ。これは、チャンスであろうか? 彼らにトイレットペーパーを投げ入れてもらうように頼むべきか?
しばらく逡巡していると、二人が会話をはじめた。
「なあ、おめえ知ってるか?」
「あ? 知ってるし」
「まだ言ってねえし。あ、ライター貸してくれよ。俺の火ぃ着かねえワ」
入ってきたのは、タバコを吸いに来たヤンキー二人であった。ほどなく僕が籠城する個室にもタバコの匂いが充満しはじめた。たまにやってくるこいつらのことはすっかり失念していた。教師の目も届きにくいこのトイレは彼らにとっても憩いの場所である。しかし、頼みごとの最も困難な人種であった。それどころか便所飯のコミュ障ぼっちがうんこしてると知るやいなや、個室の仕切りの上の隙間から掃除用のホースで容赦なく放水してくるような人種である。僕はなるべく物音を立てないように、さらに身を固くしてただひたすら彼らが出て行くのを待った。
「あ? ところで何の話よ?」
「ああ。おめえ、あれ知ってるか? うちの学校の七不思議」
「なにそれ? 小学校かっつーの。ウケる。トイレの花子さんかよ」
「いや、うちの学校、出るらしいぜ」
「幽霊が?」
「ああ、ツレのダチの1Cのアリサも見たらしいぜ。トイレの鏡で化粧直してたら白い影が後ろをすううって横切って」
「え? あいつ化粧してんの?」
「そっちかよ。驚くトコそっちかよ。んでな、驚いて振り向いたら何にもないんだって」
「へえ。ぽいじゃん?」
「だべ。んーでな。男子トイレにも開かずの個室ってのがあって」
「あれだろ、ずっと閉まったままの個室があって、中には誰も居ないって」
「知ってんじゃん」
「パターンだっつーの。ありがちだっつーの……」
そこでヤンキー二人の会話が止まった。嫌な予感がした。
「なんだおめえ、怖いの?」
「怖いわけねえだろ。くだんねえ」
耳の後ろがチリチリする感覚がした。
「怖がってる怖がってる」
「るせえよ。そんなことよりなあ? そういえばそこの個室いつ来ても閉まってね?」
「……ああ」
しまった。ヤンキーの意識がこっちへ向いてしまった。いや、幽霊なんていません。便所飯男子がいるだけですから! 頼むからもうどこかへ行ってくれ。
僕の願いも虚しくドンドンドンと個室のドアが乱暴にノックされた。
「おい、誰かいんのか?」
「あん? おめえドコ中だよ? オラ」
「ひゅう。かっけえっす。幽霊に喧嘩売るショータかっけえっす」
爆笑しながらヤンキーがさらにドアを叩く。ヤバいめっちゃオラついている!
僕は亀のように首を引っ込め頭を抱えて、ただただ自分の身の上に降りかかった災難が過ぎ去るのを待った。
「返事しろよ」
「お。やっちゃいますか? やっちゃいますか?」
ノックの音が止んだ。おそるおそる僕は顔をあげる。個室の仕切りの上に、ヤンキーのどちらかの手がかかっていた。懸垂の要領で身体を持ち上げ、覗きこむつもりだ。やめろやめてくれ。僕は再度身を縮め頭を両手で抱え込み両目をつむった。
そのとき。
最初は地震だと思った。
突然激しい揺れと音がトイレを包み込んだのだ。驚いて目を開けると、想像を絶する光景が僕の五感を揺さぶった。もうもうと白煙が立ち込めていた。埃臭いようなかび臭いような匂いが鼻腔をかすめる。上を見ると天井が崩れかかっている。パラパラと石膏ボードのかけらが肩に落ちた。そしてさらに廊下側に近い個室から、僕のいる一番奥の個室へ向かって爆音が近づいてくる。個室の壁が歪んでヒビが入った。前の個室との間仕切りが吹き飛ぶのと同時に、壁が崩れて穴が開いた。
「うわあああ」
ヤンキー二人が絶叫と、もつれるような足音を響かせてトイレから逃げていった。
そして絶叫を上げたのは僕もまた同様だった。しかも僕の場合は爆発に巻き込まれたよりもさらに深刻な事態に陥ったのだ。崩れ落ちた壁の向こうから女の子が……パンツを下げて籠城していたこの僕の元へ……飛ばされてきたのだ。しかも、すとん、とまるで狙ったかのように僕の膝の上に収まった。すぐ目の前に女の子の栗色の髪の毛があった。なにやらいい匂いがする。いい匂いがするがこれは一体なんだ? ふわりと栗色の髪がなびいて、僕の膝の上に座っている女の子が振り向いた。
御来屋さんだった。
御来屋らんさんだった。
あまりの事態に完全に硬直した僕に、彼女はこともなげに言った。
「あら黒川くん、お取り込み中のところごめんなさい」
ぼくの好きなメガネを今は外している。
残念だ。
「あ……いや……その、えっとこの爆発は?」
「言っとくけど私じゃないわよ。敵ね。そういうことで私も取り込み中なの。話はあとにしてくれるかしら」
「敵? 敵って何? ね……あの、み、御来屋さん?」
彼女はそれには答えずに、両足を揃えてぽーんと立ち上がる。そして壁の向こうへ消えていった。僕はようやくひとつ思い出した大切なことを壁の向こうへ叫んだ。
「あの! お取り込み中大変申し訳ありませんが、トイレットペーパーを貰えますかッ?」
返事の代わりにトイレットペーパーが一ロール僕の足元へ転がってきた。
その救いの神ならぬ紙へ手を差し伸べて、ふと自分の膝の間で縮こまっていたマイサンに気づいた。生まれこのかたニート生活を余儀なくされてるマイサンであった。
――見られてないよね?
不肖の息子であるので、まだまだ世間様にお披露目するには心もとない。
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