ひねくれ少女 2

 薬草の絞り汁に浸した厚手のガーゼでこぶをそっとおさえ、カリンは深いため息を吐く。

 くだんの男は毎日やって来てはいるものの、カリンは男の気配を察するとカウンターの下に身を隠してやり過ごしていた。十七歳になろうという娘のすることとは思えない様ではあったが、男の方もさすがにカウンターを乗り越えてまでカリンを引っ張り出すような暴挙に出ることは無かったから、二言、三言の言葉を交わして、後は無視するだけでどうにかできていた。……まあ、結局はからかわれて反論してしまっていたから、後になって考えれば無視できていなかったわけなのだが。

 それでも、初日以来ずっと顔を合わせなかったのに煽りに引っかかって立ち上がってしまったということは、少しは気を許してしまっている部分があったのだろう。カリンは自分の甘さを痛感する。そもそも、あの男には怖い目に合わされたばかりではないか、と。

 初対面の男に触られるのは勿論だが、何よりも怖いのは目だった。活力に満ちあふれたそれは他者には好ましく映るのかもしれないが、カリンには魔物よりも恐ろしく感じられるのだ。

 そんなに恐ろしいならばどこか遠くへ逃げればいい。それはカリンも考えはしたのだが、自分が身寄りもツテも無い少女に過ぎないこともよく知っている以上、住居を捨てるなどという真似はできなかった。

 だからこそ、カリンにできるのは亀のように身を縮めて、嵐が過ぎ去るのをただじっと待つだけなのだ。

 とはいえそれもいつまで続けていられるのかわからない。外であの男に鉢合わせでもしたらと思って家にこもりきりだった──人目に付かないように極力外を出歩かずに暮らしているのはいつものことではあるのだ──が、そのせいで今は買い物にも行けずにいる。

 おかげで生鮮食品を口にすることができなくなって久しいし、備蓄の食料もいずれは底をつく。男が簡単にあきらめるような人間ではないことぐらいはカリンにもよくわかっていたから、食糧は大きな問題だ。

 ──兵糧攻めって言うんだっけ、こういうの。  

 食料の残りを確認するため、カリンはランプを持って店の地下貯蔵庫まで降りていく。

「……ちょっとごめんね、ハムタ」

 木箱の上で昼寝を決め込んでいた同居者を起こして、カリンは木箱の蓋を片手で開ける。起こされた同居者──ずんぐりとした愛玩用ネズミに似た生き物──は、反対側のカリンの手の上に乗って、気だるそうに毛づくろいを始めた。

 虫よけ用に入れている薬草の香りが貯蔵庫に広がるが、その清涼感とは対照的にカリンは顔をしかめてしまう。

 主食となる穀類がかなり少なくなっている。そろそろ新しいものを買いに行こうと思っていた矢先だったのだが、これでは一週間も経たずに底をつくだろう。

 木箱の蓋を閉め、カリンは利き手の指でハムタを撫でた。小さいながらもふわふわと温かい毛並みは、荒んだ気持ちを少し落ち着かせてくれる。

「ねえハムタ。あたしどうしたらいいのかな?」

 家族も友人も居ないカリンにとって、ハムタは大事な話し相手である。たとえ真っ当な返事など無くとも、誰かに聞いてもらえるというだけで十分なのだ。

「このままじゃ飢えて死んじゃうかもよ、あたし達」

 飢え、という言葉が聞こえると、ハムタは小さな体をびくりと竦ませた。大変に食い意地の張った性格なのである。

 だがハムタはすぐに立ち直ったらしく、木箱の蓋の上に飛び移り、カリンの方に向いて抗議の鳴き声を上げた。

 ──外に買いに行けばいいだろう! とか言ってるのかな。

 それが簡単にできるのならそうしている。カリンにとっては買い物に行くのだって勇気を振り絞らなければできないことなのだ。

「だって、外は……人と話すの、怖い、んだもの。ハムタだって知ってるでしょ?

 もたもたしてたらあの人に見つかっちゃうかもしれないし、外で会ったらあたしは動けないよ……」

 今までだって、なんとか強気を保てていたのはここが自分の家だからこそだ。人の多い場所──たとえば昼の市場などで出くわしたらと考えるだけでも、吐き気のようなものがこみ上げてくる。

「でも、このままじゃ食べ物も無くなるし」

 どこか、食料に困らなくて、人の来ない場所。あの男が諦めるまで、そんな場所にしばらく身を潜められれば。

 だが、そんな都合の良い場所など、カリンには心当たりが──あった。

「そう──だ!」

 カリンはパッと顔を輝かせて、貯蔵庫の中を大急ぎで漁り始めた。携帯食料ありったけと毛布を引っ張り出して袋に詰めて肩から背負い、片手にはランプを、もう片手にはハムタを乗せて階段を駆け上がる。

 次にカウンターに荷物とハムタを乗せて、必需品一式の入ったバックパックとマントを羽織って外出の身支度を整えた。最後にハムタの寝床に使っているウエストポーチのボタンを外して

「森に行きましょ、ハムタ。あたしは妖精の侍従エージェントなんだから、森ならしばらくやっていけるはずよね」

 我関せずとばかりにそっぽを向いていたハムタだったが、カリンがクルミの一欠片をポーチの中に放り込むと、いそいそとそれを追って入って行った。食い意地の張った性格というのはこういう時に便利なものである。

 ポーチのボタンを掛けて腰に装着すると、カリンはカウンターから出て重い石扉を開けた。隙間から差し込む眩い光から顔を背けると、がらんとした室内が目に留まる。なんのことはないいつもの風景。けれど、この時はしばらく留守にするということもあってか、カリンの胸中に寂しさのようなものがこみ上げてきた。

 ──そういえば、泊りがけでどこか行くのなんて、初めて、かも。

 カリンは首を振って、こみ上げてきた不安を追い払う。行き先は毎日のように薬草採りに行く西の森だ。それになんの不安があるのだろうかと。

「……行ってきます」

 いつもは使わない言葉だったけれど、この時ばかりは口に出していた。

 どうか、ここに帰ってくる時には、また元の平穏な生活に戻れるようにと、願いを込めて。

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