夕焼けと戦慄

夕焼けと戦慄 1

 そっちはいけない。と、誰かに止められているような気がしていた。

 カリンがこの森に入るとやんわりと忠告されているように感じるのはいつものことだったけれど、森の奥に進むにつれてそれが強くなった。

 それは頭にもやでもかかったような気持ちの悪さも同じことで、奥に進むにつれ、言い様のない不安感は増していく。

 そして、前を行く二人が足を止めたと認識した瞬間に、カリンを止めていたなにかは消えてしまった。最後に感じられたのは、ごめんなさいと謝るような、そんな感情だ。

「──────っ!」

 カリンがそれに驚いて足を止めると、少し後ろに居たエドワルドが勢い余って前に出た。

「どうしたっ! 敵か!?」

 だがエドワルドの反応は速く、即座に振り向くと体勢を戦闘用に切り替えて周囲の気配を探っていた。

「え、エドワルドさん……! ち、違っ、ごめんなさい、敵、じゃない──!」

 少なくとも、周りに魔物の気配──いや、の気配は無い。

 だが、その意味するところを考えれば、魔物の襲撃よりももっと恐ろしい状態であるかもしれなかった。

 警戒を解いたエドワルドを置いて、カリンは再び走り出した。

 相変わらず足場は良くないが、あれだけ生い茂っていた若草はほとんどなくなっていたため、幾分かスピードを上げることができるようになっている。

「まつ、マツリカ、さん──!」

 息を切らせながら、立ち止まっていた白い背中に声をかける。

「……どうかなさいました?」

 白い少女は振り向くこともなく、返答は無感情なものだった。

「──おいカリン!! 急になんだってんだ!」

 普段なら竦み上がっていたであろうエドワルドの怒声も、今のカリンには受け流すことができた。

「あ、あたし──あたし、森の加護、が無くなっ、て……!」

 カリンとて四六時中加護の有無を気にしているわけではない。大体は森に入る前に簡単なだけしてから、薬草の採取に向かう。後はなんとなく過ごすだけで、「この草を燻せば解熱剤になる」とか、「そこの湧水は滋養に効く」だのといった知らない知識が自然とわかるようになっていたし、魔物や肉食の動植物からも隠してもらえていた。

 けれど、その恩恵はもう感じられない。だから森は、最後にこう言ったのだ──ここから先は、我々では護ることができないと。

 そんな異常は初めてだった。

 いや、異常は森だけではない。森の加護が消えたのなら、この辺りは魔物の気配で溢れていなければならないのに、それすら感じ取れない。およそ生気というものが無くなっている。周りにあるのは葉の萎れた木々だけだが、それらも死んでしまっているのだろう。

 しかしそんな状況下においても、マツリカは冷徹だった。

「そうでしょうね」

 彼女は木々の途切れ目に立って、何かを見下ろしている。差し込む逆光によって、彼女が何を見ているのかはカリンの位置からではわからない。

 と、マツリカがようやく振り向いた。が、その表情は暗い。

「朽ちたこの木々と理を乱された大地では、加護など与えることはできないでしょう。異常を察した魔物達も逃げ出した後、ですわね」

 カリンに、というよりはこの場に居る全員に言い聞かせるようにそう言うと、マツリカは自分のお目付け役に視線を落とした。

「……エリンティアーナ」

『はい』

「此度の掃討、妖精界は私達だけを指名しているのね?」

『はい、それは間違いありません。誰かと共闘するような連絡は、何一つ』

「そう──随分と買いかぶられたものだわ」

 嫌悪感も露わに言い捨てたマツリカに対し、エリンティアーナは対面の位置に移動すると、上目遣いで彼女を見上げた。その様はイタズラを飼い主に見つかった子犬そのものである。

『恐れながら、当代においてマツリカ様より武勇に優れた妖精の侍従エージェントは他におりません。この五年間で破滅の使者を最も多く掃討したのは、マツリカ様なのですから』

「ええ、それは私も知っているわ。

 でもね、エリンティアーナ────いえ、やめましょう。時間は有限ですもの」 

 話を打ち切られたエリンティアーナが悲しげに鳴いていたが、マツリカはそれに構うことなくカリンとエドワルドそれぞれに目配せをした。表情にはもう陰りはなく、ある種の静謐さすら感じられる。その切り替えの速さはさすがと評する他ない。

「大体の話は言わんでもわかるが、一応確認しとこうか──今はどの程度やばい事になってる?」

 エドワルドはもう、事態の詳細な説明など求めなかった。それも当然だろう。森の加護が消え、さらに今の二人の話を聞けば、カリンでも危険性は容易に察せられる。

「端的に申し上げますと、妖精界の予想よりも遥かに速く育っていますわね。

 直接見た方がわかるでしょうから、一度ご覧になってみて?」

 マツリカが横にずれたので、言われるがままにカリンとエドワルドは空いたスペースに身を寄せた。

 その先は岩がむき出しの急勾配になっていて、眼下には石で組まれた街の遺跡らしきものが広がっている。朱に染まり始めた陽に照らされるその光景は美しかったが──

「あ、あれ?」

 街は陽炎の中にでも在るかのように、ぐにゃぐにゃと揺らいでいた。だが、何かの魔力のようなものは感じられないし、かといって自然に発生したものにも見えない。

「あれこそが破滅の使者──の末端です。本体は街の中心部にでも居るのでしょうけれど、まだここから目視できる程にまでは育っていませんわ。……そうなっていたのなら、私とトーマでも手の付けようがありませんけれど」

 マツリカは自分を最強の妖精の侍従エージェントだと言った。カリンもそれは疑っていない。少なくともマツリカと自分が闘ったのならば、瞬きの間に殺されるぐらいの実力差があると感じている。

 だが、その彼女をしても「勝ち目がない」と。そう言わせるだけの存在が、あのゆらぎの中には存在しているのだ。

 湧き起こる不安で無意識に背を丸めていたカリンの肩を、マツリカは掴んで向き直らせる。

「私達はこれから本体の状況を確認するためにあちらへ向かいます。激しい戦闘になるのは間違いありませんわ。

 それでカリン、嘘偽りなく答えて欲しいのですけれど、あなたは一人でどこまで戦えるのです? あなたの命に関わることですから、慎重に考えてもらって構いません」

 フードの中を覗き込むマツリカは、真剣にカリンの身を案じているようだった。そんな顔をしてカリンに接してくれた人など数える程もいないかったからか、カリンは自分でも驚く程冷静にそれを受け止めることができた。

「え、と。……加護が、な、無い時に、戦ったこと、が無いから、わからなくて。

 で、でも、あたし、戦争の時も、一人で戦うこと、あったから」

 カリンの発した戦争、という単語に、マツリカどころかエドワルドやトーマも反応したようだった。カリンからは見えないが、周りに居る全員からの視線をひしひしと感じる。それを意識するとカリンの身体は石のように冷たくなり、ぞわぞわと鳥肌が立った。

「今、戦争、と仰いました? どこのいくさに参加なさったの?」

「あ、あの……人魔じんま戦争、です」

 古来より、人と魔の間に勃発する大規模な戦争は全て人魔じんま戦争と呼ばれている。史学を語る時には第何回めの戦いなのかを前置くのが通例だが、普通に会話する分には最後の戦いを指すことがほとんどである。

 この場合は三年前に終戦を迎えたばかりのベルベクト王国と不死女王による戦いを指し、カリンが参加したのもこれだった。

第二十九回人魔戦争じんませんそうですか、僕ももう少し早く生まれてたら参加できたんですけどね、残念です」

「よせよせ、ベテランの傭兵仲間オヤジどもが稼ぎも内容も最悪だったって愚痴るような戦だぜ? 最後は人間側の勝利って言われてもな、正直参加しなくて良かったとしか思えねぇよ」

「お金の話じゃないですよ。エドワルドさんはなんでも自分基準過ぎだと思います」

「うっせー、稼がずに飯が食えるなら傭兵なんぞやってねぇよ」

 後ろで好き好きに語る二人を完全に放置して、マツリカは話を続けた。

「常に劣勢を強いられた此度の戦い、一時は王都にまで攻め込まれたと聞き及んでおります。あなたも苦しい戦いに身を投じたのですね」 

「あ、の……へ、平気、です。加護、あったし、あたしも役に立ちたかったから」

 戦いへの恐怖が無かったわけではないけれど、そんなものはすぐに慣れていった。むしろ、本当に辛く、苦しかったのは────。

 頭に浮かんだ以前の記憶イメージが、カリンの身体を震わせる。カリンは無理矢理息を吸い込んで、二の句と共に吐き出した。

「だから、か、加護が、無くても、毒が効く相手なら、あたし──あたしでも、殺せます」

 王都が戦場になってからは、侵入してきた魔物を殺せるだけの力が求められた。だが、カリンに与えられる加護には相手を害するような効果は無く──結果として、様々な毒草を利用して敵の息の根を止める方法に行き着いた。

 ごく初歩の水の精霊魔法で、魔物の上から毒を溶かした水を降らせる。魔法師でもないカリンには木桶一杯程度の水を喚ぶだけで精一杯だけれど、猛毒を浴び、それを含めば死に至るのは、人間も魔物も変わらないのだ。

「毒、ですか──ええ、用途にもよりますが、植物が自らを守るために生み出したものでしたら、有効打となり得るでしょうね。

 ……他には? 自分の妖精と会話もできないのでしたら、妖精界の現出フェアリーリンクもできないでしょうし──」

 カリンは首を横に振った。加護の無いカリンにできることはそれだけだ。

「そう、それならば、あなたはここに残るか、いっそ戻るべきなのでしょうね。

 できれば破滅の使者がどういうものなのか、一度その目で確かめて欲しかったけれど、少し育ちすぎています……私もトーマも、あなたを守りながら中心部へ行くのは不可能ですから」

 困ったようにため息を吐いて、マツリカはエドワルドにも声をかけた。

「あなたもですわよ、エドワルド。さすがの私でも、丸腰に等しいあなたをアレと戦わせようとは思いませんわ。ここでお待ちになって?」

「雇い主様がそう言うなら口を挟むつもりはねぇが……」

 エドワルドはどこか納得いかなさそうな様子である。その気持ちはカリンも同じだ。破滅の使者の掃討は本来ならカリンの役目でもあるはずなのに、ここまで来てなにもできないというのは心苦しい。

「あ、あの、な、なにか、あたしにも──」

「ございませんわ」

 手伝えることはないか、とカリンが続ける前に、マツリカはそれを遮った。

「誰が好き好んで無駄死にを出すというのです? 自殺ならせめて私のあずかり知らぬところでなさって頂きたいものですわね」

「死にたいなら僕に任せてもらえれば一瞬で済みますよ?」

「もうトーマったら、それじゃあ私のあずかり知らぬどころの話ではないでしょう」

 そもそもそういう主旨の話ではない、とカリンは思うのだが、無闇に口を挟むと即座に首をね落とされる予感がするのでやめておいた。

「──まあ待てよマツリカ」

 助け舟は思わぬところからやって来た。

「あんたはさっきからずっとと言ってる。ってことは、決戦は今じゃないと考えていいな?」

「ええ、あなたほどではありませんが、私達も今日は本来の装備ではありません。活動前の状態を確認して、後日万全を期して掃討に当たるつもりでしたの」

「ってことは、そのには俺も必ず戦わにゃならんって話だろう。それなのに敵の情報がわからねえってのは怖いもんがあるんだが」

「私達が教えれば済む話ですわね」

 マツリカはにべもなくといった体であるが、エドワルドはさらに食い下がってみせた。

「聞いた話なんてアテにならねぇのはあんたもよく知ってるだろう? だからこそ俺達にあの街を見せた。違うか?」

「否定はしません」

「なら後々の勝率を上げるためにも、今ここで俺が敵を識ることは悪くない選択だと思わねぇか?」

 肌にピリピリ来るような緊張感が伝わって来る。カリンは目だけでマツリカとエドワルドをそれぞれ見やった。どちらも引く気配は見せていないが──

「……勝手になされば、と申し上げたいところですけれど、視界をうろつかれても邪魔ですわね。

 それなら、街の入り口付近までの接近ならば許します。末端との戦いになるでしょうけれど、感覚を掴むのには十分かと」

「末端ね、具体的にはどう戦う?」

「世界を侵食し、消すのがアレの目的ですから、空中を自由に移動できるスライム……と考えて頂いて構いませんわ」

 それはとんでもなく凶悪な相手なのではないか。とカリンは思う。

 スライムに捕まれば生きたまま溶かされ同化させられるが、それが空中を飛び回っているとなれば、歴戦の魔法師でもなければ対応できないのではないだろうか。

 カリンと同じことを思っていたらしいエドワルドも顔をしかめていたが、

「先程から申し上げている通り、アレはこの世の理をぶつけることで倒せます。生きているということ自体が生物の持つ最大の理である以上、殺されない限りは簡単に侵食されることはありませんから、ご安心を」

 そう言うなり、マツリカは傘を肩に掛けて岩肌の方へと歩いていく。トーマとエリンティアーナもその後に続いていた。

「それでは、私達は先行致します。くれぐれも私達に近付かないようにお気を付けください──してしまうかもしれませんから」

 肩ごしに振り返ってそう言い残すと、マツリカは軽快に飛び降りて行った。トーマはエリンティアーナを抱き上げると、カリンとエドワルドに頭など下げてその後に続く。

 またしても残されたカリンはすぐに動くことが出来なかったが

「────お前はどうする?」

 その一言で我に返って、エドワルドを見上げた。といっても、目を合わせることはないのだが。

「あの化け物みたいなお嬢が万全を期して挑むっつった相手だ。やってみなきゃわかんねぇが、お前が一緒に来ても多分フォローはできねぇ。

 怖いなら待っててもいいぞ。むしろ、半端な考えで付いて来られるよりは、そっちの方がずっとありがたい」

 エドワルドはマツリカのように、カリンの返事を待ってはくれない。それはもうこれまでで嫌というほど思い知らされている。事実、エドワルドはもう岩肌の方へと歩き始めていた。

「──あ、あたしも、行きます!」

 カリンはありったけの勇気を振り絞って声を上げた。

「なんでそう思う? 自分にも出来ることがあるかも、なんて理由なら足手まとい極まりねぇから他所よそで慈善活動でもやってろ」

 欠片ほどの容赦もない返答であったが、これがエドワルドの本心なのだろう。

 そして、エドワルドの言い分が正しいことなど、カリンもわかっている。そんな理由では──ただの一度として自分の望んだ結果を得られたことは無かったのだから。

 カリンはポーチに触れる。微かに手に感じる温度はなにも語ってはくれないけれど、いつだってカリンの心を支えてくれた。

「え、エドワルドさんも、さっき言った! いつまでも、同じじゃいられないって!」

 それが使命なのだと、マツリカとエリンティアーナは言っていた。そしてそれを知ってしまった以上、カリンもまたその責務を負わなければいけないのだろう。

 それは──大事なこと、のはずだ。なにしろ使命なのだから。

「あ、あたしは……あたしも、妖精の侍従エージェントなら、きっと、行かなきゃいけない!」

 カリンはマントを脱ぎ捨てた。途端に視界がぱっと開け、言いようのない不安に足元がぐらつきそうだったが、なんとか踏み留まる。

 ──大丈夫、大丈夫、大丈夫……! ここには人なんかほとんど居ないんだから!

 自分で自分を鼓舞しながら、カリンはエドワルドを見上げ──ほんの一瞬だけ、目を合わせた。

「お前、今──」

 すぐに顔を伏せてしまったから、その表情がどうなっているのかカリンにはわからないけれど、エドワルドが驚いているのだけはわかった。けれどもう一度顔を合わせるのは恐ろしくて出来そうになくて──ああ、やっぱりマントを脱ぎ捨てたりするんじゃなかった。などと今更カリンが後悔していると

「とりあえず俺から見えない位置にだけは行くな。それから、俺に毒液浴びせかけんなよ、死ぬから」

 どこか呆れたようにエドワルドはそう言った。付いて行ってもいい、ということなのだろう。

「だ、大丈夫、ほんとにスライムなら、何度か戦ったこと、あるから、は、外したりしない、と、思います…………多分」

 それにスライム相手によく効く毒は人間にはあまり害が無いし──とは、怒られそうなので言えなかったが。

 エドワルドはなんとも言い難い表情をしていた。こいつ本当に大丈夫なんだろうな、などと思っているに違いない──とカリンは思う。

「ああそれから、マズイと思ったらとりあえず逃げろ。ここで逃げて失うもんは一つもねぇからな」

「う、だ、大丈夫、です」

「よし、それなら行くぞ」

 エドワルドが岩の出っ張りを足場にテンポよく斜面を駆け降りて行く。足場は加護の無いカリンが使うのには難しい位置に在るので、カリンはカリンで道を探さなければならないだろう──ぐずぐずしている余裕はないということだ。

「……ハムタ、行くよ」

 ポーチに声をかけて、カリンは目に付いた足場に向かって跳ぶ。戦いの前の高揚感と緊張を、全身に当たる冷たい空気が醒ましてくれる。

 ──戦いはね、我を忘れてはいけないわ。冷静に、広くもの見るのよ。

 懐かしい声がカリンの頭の中に響いた。ずっと忘れてしまっていたことをちゃんと思い出させてくれる、優しい声だった。

「あの人は──あの人も、戦ってたのかな? 私が知らないところで」

 着地と共にそう呟いて、カリンはすぐに新しい足場を探すとそれに目掛けて再び跳躍した。

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