第4話 人魚と歌
次に目を開くと、夢の狭間に立つ
「こんばんは」
「こんばんは、波乃香ちゃん」
夢の
「今日はほかの世界に入っていこうと思ってるわ」
「ねぇ波乃香ちゃん、聞いてもいいかな」
「なに?」
「波乃香ちゃんの前のパートナーのこと」
「そんな人いないわ」
冷静な口調で返ってきて、つかさはかえって驚いた。
「え、そうなの?」
「なぜいると思ったのかしら」
「だって、夢渡りは二人一組でするんじゃないの?」
「原則、ね。私はずっと一人でしてきたわ」
「危なくなかったの?」
「別に。少しでも状況が良くないって思ったら戻ってくればいいから」
「そう……」
話をしているうちに波乃香が空色の扉の前に立つ。その扉には白い貝殻のマークが付いていた。二人で扉を押す。
扉をくぐった途端、足元がなくなりそのまま真っ逆さまに落ちていった。
「うわああぁぁぁぁっ!」
眼前には水面が見えたが、なすすべなくダイブしてしまった。そのまま沈んでしまってはいけないと太陽の方へ向かって浮き上がる。
横を見ると、波乃香が両手を広げてプカプカ浮いていた。唇を舐めてぼやく。
「しょっぱい……」
「海水だ」
つかさは周りを見渡す。近くは断崖絶壁で、その上に扉があった。そこから通ってきて落ちたようだ。砂浜は崖沿いの遠くに見えた。
水難事故に遭った時は、岸まで泳ごうとせずに浮かんで助けを待った方がいいんだったっけ、とつかさは思いながら波乃香の真似をして隣に浮かぶ。
どうやってあそこまで戻ったらいいのだろう……、と扉を見ながらぼんやりしていると不意に波乃香が呟いた。
「歌が聞こえる」
「え?」
よく耳を澄ますと、確かに歌声のようなものが聞こえた。高く響く声に混じり聞こえる旋律は、どこか人工的な音色だとつかさは感じた。
「ホントだ……。どこからだろう」
「下」
言われてみれば、歌声は海底から聞こえてくるようだ。しかし、海は広く深い。
「素潜りはちょっと……」
「問題ないわ」
弱腰のつかさとは裏腹に、短くそう言い残した波乃香が海に潜っていく。
「波乃香ちゃんっ?」
つかさも続いて潜ろうとしたが、水中で息ができるわけでもなく空気を求めて顔を上げる。もたもたしている間にも波乃香がどんどん深いところまで泳いでいくのが見えて焦った。
水面近くを魚が泳ぎ去っていく。掴もうとしてもするりと抜けていく様子を見たつかさは、魚のようになれたら海の中を自由に泳げるのだろうか、と考えた。
水中で息をするならこの辺りに鱗があるのかな、と思い描きながら髪をかき上げ首を撫でる。すると、ちょうど撫でた場所から小さなガラス片を敷き詰めるように透明な
まさかと驚きつつも、つかさは海に潜り波乃香を追う。水の中でも視界はぼやけず波乃香がはっきりと見えた。
ぐいぐい力を入れて泳ぐとすぐに波乃香に追いつくことができた。追いついてきたことに驚いた様子の波乃香に、つかさは少し得意げに首の鱗を見せる。波乃香は少し不思議そうな顔をして、すぐに前を向いた。
歌声のする方へ並んで泳ぐ。よく見ると、波乃香の顔の周りに気泡のようなものがあった。どうにもそれで息をしているようだ。
海底は一面の
開かれた貝殻の、身の部分に人の姿があった。
波乃香が進み出て、先に声をかける。
「こんにちは」
貝の中にいたのは、人魚の姿をした少女だった。歌を歌っているのは彼女のようだ。歌うのをやめ、透き通るような声で波乃香に聞く。
「あなた達は?」
「私は波乃香、こっちはつかさ。貴女はこの世界の少女?」
「ええ」
「貴女の願いを叶えにきたわ」
「私の?」
人魚の少女が自分を指差す。波乃香は頷いて少女に言う。
「ずっと歌って、誰かを呼んでいたわね」
「ええ……。呼んでいたのかもしれないわね」
「どういうこと?」
言い切らない少女の言葉が気になったつかさが尋ねる。
「私の歌って、お姉様達……ほかの人魚から喜ばれないのよ。人魚らしくないって」
「うーん……?」
つかさは首をかしげた。人魚の少女が続ける。
「人魚の歌は、嵐を呼んだり船乗りを誘惑するようなものじゃなくちゃいけないんですって」
「へー……」
どう答えたものか、とつかさが悩んでいると、波乃香が人魚の少女に質問を投げかける。
「でも、私たちは貴女の歌を聞いてここに来たのよ。それではだめなの?」
「私の歌には何の力もないの。ただ自分の歌いたい歌を歌っているだけ。本当は歌に力を乗せられるように練習しなきゃいけないんだけれど、私は嵐も船乗りも呼びたくないわ」
悲しげに少女の眼差しが揺らぐ。俯き気味な彼女に明るく波乃香が言う。
「なら、今のままでもいいんじゃないかしら」
人魚の少女はゆっくり顔を上げて波乃香の言葉を聞く。
「楽しいから歌ってる。それでいいじゃないかな」
「でも……」
言い淀む彼女に波乃香が尋ねる。
「ダメな理由はある? 嵐や船乗りを引き込まなきゃいけない理由」
「別に……ないかも。呼ばなくても生きていけるから。……ただ、お姉様達は私の歌では意味がないってどこかに行ってしまったわ」
人魚の少女は遠くを見つめながら呟く。
「本当に、この歌を聞く人はいなくなっちゃったの。聞いてくれているのはお魚さん達くらい。誰にも聞かれない歌に意味はあるのかしら」
「歌に意味があるのかどうかは分からないけれど……私達はあなたの歌を聞いてあなたに出会えた。それだけでも意味はあるんじゃないかしら」
「そうね、そうだったらいいわね」
つかさには、そう言う少女がどこか儚げに見えた。
曖昧に笑う少女を励ましたくて、つかさは言葉を紡いだ。
「それに……大丈夫だよ。とても綺麗な歌だったから、きっと他に喜んでくれる人に会えるよ」
「本当?」
「私は人魚の歌がどういうものかは知らないけれど、あなたの歌は美しいと思った。歌の価値なんてそんなものでいいんじゃないかな。だから大丈夫」
「そうね、それでいいのね」
人魚の少女が囁くと、貝の片隅から小さな赤い光が溢れ出した。
「光……?」
「何かしら」
少女が振り向き貝殻の中を探る。奥から真っ赤なヤドカリを取り出した。ヤドカリの背に乗った巻貝が光の正体だった。
「これが、貴女の
波乃香の言葉に少女は頷き、ヤドカリを啄きながら言う。
「そうね、彼の力が欲しい?」
波乃香が頷く。
「いいわ。じゃあ、手を乗せて」
波乃香は、ヤドカリの乗った手の上に手を重ねる。人魚の少女と波乃香が盟約を唱えると、赤い光が一際瞬いた。
お礼と別れを言って地上に向かう。
「よかったね、無事繋げてもらえて」
「うん」
つかさの言葉に頷いた波乃香が、つかさの首元を指差し尋ねる。
「つかさのそれ、何?」
「これ? 鱗、かな。多分」
「あなたって、面白いわね」
「そう? 波乃香ちゃんのその泡みたいなのも面白いよ」
そう言うつかさに波乃香は首をかしげた。
やがて水面に浮き上がり顔を出す。
「う、あ……」
「どうしたの、つかさ」
口をパクパクさせるつかさの異変に気づき波乃香が問う。
「なんか、息、しにくい」
「鱗を消さないと。いつもの自分を思い浮かべて」
波乃香がつかさの首元を優しく撫でてくれた。少しずつ鱗が剥がれ水中に消えていく。全ての鱗が剥がれて、ようやくつかさは深呼吸ができた。
「はー助かった。ありがとう。確かにこうなるなら、泡の方が便利かもね」
つかさが肩をすくめながら言う。
「帰るのに扉を探さないと」
周りを見渡す。岸が先程よりずいぶん遠くになっていた。歌につられてだいぶ沖の方まで来てしまったようだ。
途方に暮れていると、一隻の小型船が二人の近くを通った。
「君達!」
船の上から、日に焼けた男が大声を出す。
「どうしたんだいこんなところで」
「海に落ちてしまって」
「そりゃ大変だ。乗りなさい、岸まで連れて行ってあげよう」
その船は漁船のようだった。
男は漁の帰りだと言った。二人にタオルと毛布を貸し、舵の近くに焚いていたストーブの前に座らせてくれる。
「海のド真ん中に浮いているから、一瞬人魚かと思っちまったよ。ちゃんと、足があったけどな」
男が
「人魚のこと、ご存知なんですか?」
「話だけ。この漁村の漁師に伝わる伝説っていうか、噂話みたいなものだけどな。人魚の歌に誘われて難破するとか嵐を引き寄せるとか、人魚に嫉妬されて船を沈まされるから女は乗せちゃいけないとか」
「実際に人魚を見た方はいらっしゃるんですか?」
「いーや。だから噂話だって。こう……先人からの教訓、みたいなやつ? 船が操舵できない海域に近づかないように、とか……なんかあったときに守れる保証がないから女は乗せない方がいい、とか……。そういうのだって」
男が頭を掻きながら言う。
「結構理屈っぽいんですね」
「他の漁師連中にも言われるよ。
「あはは……。でも、本当にいるかもしれませんよ?」
「どうだかね……。ああ、でも……」
男が波間を眺めながらポツポツ話す。
「歌、を聞いたような気がする。誘われるとか引き寄せられるとかそういう雰囲気じゃなかったけど」
「へぇ……それはすごいじゃないですか。もしかしたら、本当に人魚の歌だったかもしれませんよ」
「ハハハ! 面白いこと言うねぇ。そうだなぁ……、人魚って皆
話しているうちに船が岸までたどり着く。船から降ろしてもらってお礼を言う。扉のある崖までの道を教えてもらい歩いて向かう。
海から見上げていた時はとても高いところに見えたが、道なりは上り坂だが緩やかで、しばらく歩いたら目的の扉の前まで着いた。
また崖から落ちないように慎重に扉に近づき開ける。扉の向こう側は崖の下の海が見えた。
これで戻れるのか、と波乃香の方を向くと、彼女は特に気にする様子もなく通ろうとつかさの手を引いた。
扉があった枠をくぐる瞬間、水の中に入るような、或いは出るような不思議な感触を肌に感じた。
そして、目が覚めた。
それからしばらくは、昼間は授業を受け夜は夢渡りをする生活を送った。
波乃香は昼間いつも眠そうにしていて、逆に夕方になると意識がはっきりしてくるようだった。それでも身の回りのことは全くと言っていいほどできないのだった。
学内では、ずっと誰とも分からないヒソヒソ声が聞こえ、たまに視線を感じることもあったが、声や視線の主を探そうと気を配っても、意識を向けた途端、泡が逃げるように散っていってしまうのだった。
声や視線がないのは寮の部屋の中くらいで、最初の頃は利用していた食堂もあまり利用しなくなり部屋にこもりがちになっていた。食事は部屋で摂り、昼食は取り寄せた食材を部屋で調理して持ってきていた。
ある朝、つかさは先に着替えを済ませてキッチンに立って食事を作っていた。
だいたい作り終えて、昼食を詰めた弁当箱を冷ましていると、波乃香が顔だけシーツから出して目を開けた。
つかさは、波乃香の様子に気がついて声をかける。
「あ、起きた?」
「何をしているの……?」
「今日の朝ご飯とお昼ご飯を作ってるんだよ」
目をこする波乃香につかさが言う。
「目が覚めたのならシャワー浴びてきな」
「うー……ん」
波乃香は曖昧に返事をして再びシーツの中に潜り込んでしまう。
つかさが茶化して言った。
「それともまだ起きてない?」
「そういうことにしておいて」
「ずいぶんはっきりした寝言だね」
「そうでもない……」
波乃香はぼやきながらシーツを体に巻き付けていく。
そんなことをしたら服の皺がすごいことに……、と注意しようとした矢先、波乃香が自らシーツをほどきベッドの上に大の字になる。
波乃香は天井を見ながら呟いた。
「つかさちゃんは何でもできるよね……」
つかさは弁当の様子を見つつ、後片付けをしながら適当に応える。
「えぇ? そんなことないよー?」
「お料理して、お洗濯して、お化粧も私が起きる前に済ませてある」
「あ、化粧してるの、バレてた?」
なんだか騙していたような気持ちになって、つかさは少しだけバツが悪かった。
「薄いけど見れば分かる……」
「波乃香ちゃんはお化粧しないの?」
「必要ない……やり方も知らない……」
「教えるよ?」
長いまつげやふっくらとした唇は、さぞ塗り応えがありそうだ。
「お化粧……。つかさちゃんは、元々知ってたの……?」
「服をもらうときに先生に教えてもらったよ」
「なんで教えてもらったの……?」
波乃香の疑問につかさは少し間を空けて応える。
「どうせ着るなら、ちゃんとしたかったから……?」
「ちゃんと……?」
「服着ただけだとどうしても顔がね」
つかさがいくら中性的な顔立ちだとしても、女顔というほどではない。顔を整えないと飲み会の余興じみた珍妙な風貌になってしまうのだった。
波乃香が続けて尋ねる。
「つかさちゃんは……女の子になりたい……?」
「うーん……」
そういえば考えたことなかったなぁ、とつかさは物思いにふける。
ある日突然現れた先生(と衣装部屋を積んだトラック)に、数多あるロリータファッションの中からどれか選んで着ろと言われ、反発したもののまだ一番マシだろうと感じた服を選んだ。
カッチリとしたラインの服だが、手袋などで骨ばった関節部分を隠してくれる。
スカートを履いている自分に違和感がないと言えば嘘になる、と思う。
つかさはそこまで考えて、
「あー、でも」
一つだけ確かに言えることをぼやく。
「服を着て、化粧して、帽子を被って。そうすると、今までの自分をチャラにできる気がするんだ」
「今までのつかさちゃん……?」
「聞きたい?」
「別に……」
「あら」
波乃香の素っ気ない返事に、つかさはわざとらしく体勢を崩したようなポーズを取った。
大げさな動作をしたつかさを見て、波乃香が呟く。
「聞いてほしかった……?」
「別にぃ」
ぶー垂れるつかさを波乃香が不思議そうな目で見ていた。
朝食の準備も完了したつかさがベッドに近付き波乃香を起こす。
「ほら、もうできてるよ。シャワー浴びておいで」
「ふわぁい……」
面倒くさがる波乃香にタオルを押し付け、バスルームへ放り込む。
バスルームのドアを閉めて十秒以内に着替えを持たせるのを忘れたのに気づいた。
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