ミィヤの表層から剥がれ落ち、おびただしい数の天使型群へと霧散した〈彼女〉が、アーチルデットへと再構築された。この現象を初めて目の当たりにした一佐も、この場に立ち会ったあらゆる者たちも、各々に役割を忘れ、顕現を遂げる〈彼女〉の目撃者となった。

 アーチルデットは、一佐が最初に出会った時のような、深い赤黒色の、複雑なディテールの刻み込まれたボディースーツを身に纏っている。威嚇するようにもたげていた長い尾を床に落ち着かせると、的井の顔を品定めしていた視線を外して、こちらに向きなおした。


『し……し、し、…………ししょ――――――――――!!!!』


 実体から自我を退避させたミィヤが、縫製仕立ての代理身体サブ・アバターを大きく羽ばたかせ、帽子状に丸まって主の頭に乗っかる。アーチルデットは彼女を驚くべき速さで引っ掴むと、


「間に合ってよかった――――ミィヤ何ともなってなくて本当によかった――――!!」


 ぎゅっと、潰れるほどに強く胸に抱きしめていた。きつく窄められる彼女の瞼。深く、ただ溜息のように、互いに想い浸るように。


『そんなぁ! ミィヤはこのとおり平気です! でも、もうあのままししょーとお会いできなくなったのではないかと……ずっと不安で……』


 つかの間の別離を経て分かち合われる、再会の喜び。否、それ以上の、繋がれた絆以外に形容しがたい感情を、一佐は彼女たち二人の傍らで垣間見せられていた。

 時計の針すら彼女らが留めてしまったのかと錯覚させられていたのをふと自覚した頃、唐突なタイミングでアーチルデットが走り寄ってきて、問答無用に一佐へと飛びついた。


「……ばかだねイッサ。でも――――」


 抱きしめられた。腰に伸びる彼女の手。アーチルデットの背丈は、少し高い。見下ろされるような抱擁に、受け入れるも抵抗するもなく、ただなされるがままに抱かれた。


「この子を守ってくれてありがとう。とっても嬉しかったよ」


 首筋に指先が触れ、腕が回される。一佐の頭を抱く彼女の熱っぽい頬が、耳たぶに擦りつけられ、かすめてゆく。

 唐突にアーチルデットの手が、何故か一佐のズボンに触れた。そんなの予想だにしなくて、えっ、と喉で呻いていた。


「ちょ、なに!? こら……チル子、さん……ここじゃいけない。や、やめなさい――」


 流石に馬鹿げた展開で、彼女の悪戯かと勘ぐってしまった。まさぐる手はすぐに彼のズボンの中へと忍び込み、

 ポケットから取り出した一佐の携帯端末を、背中で彼女は器用に操作し始める。


「え……何、してるの」


 留め金が外れる軽快な音を立て、濃紺色ネイビーの携帯端末が本来の設計にない形状に筐体を展開させる。大がかりな遠距離通信用アンテナまで立派に伸ばしたそれをアーチルデットが耳に当てて、まるで呪文でも唱えるかのように、気だるげな声色で呟く。


「――――シャクサリアぁ。スピンドル投下」


 それが合図だったのか、素粒子観測所内部の空間、否、このトリスタン全体が低く身震いして、骨組みが厭な軋み音を上げ始めた。

 天井部から塵や何かの破片が降り注ぎ始めた。金属片が床で跳ねてから、地震だ、と誰かが大声で叫んだ。

 天蓋から光が射した。一筋の青白い光軸、急激なほとばしりを見せそれが描く円。複数の材質を飲み込みつつ迫る、濁流を彷彿とさせる轟音が、頭上から徐々に接近する。

 天井が抜ける、と戦慄した直後のことだ。想像だにしなかった縮尺の物体が、突如として粒子観測室の天蓋部を円にくり抜き、先端部を貫通させる。そしてそのまま自らの巨躯を自重と重力に任せるままに落下させ、大地の床板を乱暴に破り、受け止められた衝突エネルギーで傍観者らを飛び上がらせた後、そこでようやく静止を遂げる。軟着陸、どころの騒ぎではない。


「なに……これ……。でっかい……………………剣!?」


 視界に砂埃を撒き散らすそれを見上げて、そのように形容する以外に言葉が見つからなかった。未知のテクノロジーで組み上げられた、巨大な機械の剣。否、ロケットと喩えれば、その鋭利な機首先端部分とも言える。この巨大構造物は〈姫君〉と同じ真っ黒な色をしており、外装の表面を、星間連盟のものらしき青白の幾何学模様がのたくり回っている。

 一佐は更に見上げる。巨大構造物は、レーザーで丸く焼き切られた天井を更に超えて、トリスタンの上層部まで届いているらしかった。おそらくアーチルデットが先ほどの通信でトリスタンの上空まで呼び寄せ、地下の素粒子観測所まで串刺しにしたのだ。一体どれほど全長を持つ物体なのか、基底部から見る限りでは全く想像がつかないサイズだった。

 一佐を数歩退かせると、アーチルデットはスピンドルと呼んだ巨大構造物を背に、的井に向け宣告した。


「そういうことなので、マトイ・サクラとやら。これまでのハナシ、ぜーんぶ御破算ね」


 スピンドル外装に無数並ぶ小型兵装ハッチが一つだけ跳ね上がり、ガスを吐いて内包物が開封される。振るわれた鞭を連想させる挙動で、彼女の黒い尾がひゅんと空を切った。尾で内包物を巧みに掴むと、それを抜いて引き寄せ、自身の手でグリップを握り締める。その間わずか数秒と、一連動作は驚嘆すべきスピードだ。

 アーチルデットが手にしたのは、鈍色の光沢を放つ刃を断面に宿した、長尺の金属片だった。体格に不似合いなほど大がかりなそれを軽々と彼女は肩に抱えて、そしてその切っ先を自律装甲車へと突きつける。

 後じさる的井に連動して、傍らに控える自律装甲車の車輪が数度空転し、と同時に左右の砲身がアーチルデットを照準する。無数の赤いスキャンの光束が標的となった彼女の肌の座標値をなぞり、脚が固定される。

 アーチルデットが口元に挑発的な笑みを浮べた瞬間、素粒子観測所の床部にはめ込まれた鋼板が二つ跳ね上がった。マズルフラッシュが陰影に瞬きを返す。左右砲口から連続して三射。空間に残響する、低く硬質な射撃音。鋼板が宙に舞い上げられたのは、障壁の役割をさせるためだった。放たれた弾丸はそれらを前に威力を削がれ、自身を火花に変えてゆく。斉射の反動を車輪が喰らい、巨躯を身震いさせる自律装甲車。あまりの衝撃に的井が顔と耳を覆い、SPたちが彼女を物陰へと退避させた。

 射撃角、車両姿勢が再調整された。残響に入り混じるようにサーボモーターが唸りを上げ、矢継ぎ早に二射。さながらのカードのように床が跳ね上がる。四射。貫通するもの、底面の隙間を抜けるものを再度別の鋼板が受け、宙へと立体的に配置されたカオスの盾、縫う跳弾と排莢、硝煙、千切れた金属片にボルトの雨が降り注いで――――

 処理能力を超えたノイズに、苛立ちに耐えきれなくなった自律装甲車が砲塔を低くもたげ、移動を開始する。標的を右方から円周回しながら、距離を置いての三射。それをも予測して舞う鉄屑の盾。遠巻きに落下する床板がバウンドして、直角を軸足とした独楽コマ状に回転した次には、再び引き抜かれ宙へと投げ出される。

 いつの間にか床下内部に張り巡らされた怪物の器官がそれらを持ち上げ、戦場となった素粒子観測所の地形を歪なものへと変貌させてゆくという、異常なまでの光景がそこに繰り広げられていた。続いての二射。床板を失ったがために出現した溝の一つを駆動輪が乗り越え損ね、一射目が予定外の方角に飛ぶ。追い打ちのように、落下してきた鋼板が左アーム部関節を直撃して損傷し、二射目は自身の脚部装甲板に撃ち込まれる。それでも右アームからの単独斉射は止めようとはしなかった。

 開放された床下から、そこに追いやられていたニュートン・アービィ四機が、機体を人工筋アクチュエーターで弾ませて離脱し、アーチルデットを新たな標的として包囲する。

 その場で微動だにしなかったアーチルデットが、床面を穿ち埋め込んでいた対荷重スパイクを引き抜いて収縮させる。と、不敵の表情を崩さぬままに、一歩先へと踏み出した。

 スピンドル表層に、次々に開放される無数の兵装ハッチ。水銀灯の青白い光源下、銀に輝く十本のハンドブレードが宙に向け射出される。床下から引き戻された単分子結合体の尾が再び多重螺旋状に解け、しなる鞭の動作で高く振り上げられる。空中でスピンを描く刃を瞬く間にキャッチしては、順繰りで一本ずつの投擲。ニュートンら全てを串刺しの残骸へと変えていく様を、的井はSPらの背後に守られながら、茫然と目撃していた。

 間もなくして自律装甲車の弾倉が空になった。砲塔を向けたまま急加速した自律装甲車は、標的目がけて突進を始めた。主要な兵装を失ったために、アーチルデットを巨体で引き殺す決断がプログラムによって下される。

 彼女は結び目の解かれたままだった尾を四方にそびえる支柱に巻きつけることで、跳ねるように高く宙へ跳び、そして壁面側へ向かう。取りついた壁を再度蹴とばすと、宙返りに更なる跳躍を重ねて、自律装甲車の背後を目指した。

 計算予測された軌道、アーチルデットの着地点。三百六十度回転する砲塔に、重い装填音が鳴り響く。と同時に、ぎん、と火花を散らした。金属音。圧縮ガス弾の射出を果たせず、彼女の手にしていたハンドブレードが砲口奥まで差し込まれていた。遅れて鈍い爆発音を伴い、鋼のアームが内側から風船のごとく膨れ上がって、関節を道連れに自壊する。

 黒煙を立ち上らせ沈黙したそれを次の瞬間、上階から垂らされたままだったクレーンの鎖が、獲物を締めつける大蛇のごとき動作で飛びかかった。自律装甲車の四肢を絡みつくように這いずり回り、関節に巻きついて徐々に固定してゆく。


「――――――――おーい、タバター」


 それを合図に、クレーンのフックが鉤を噛み合わせて、モーターと滑車が断続的な唸りを上げる。自律装甲車の巨体がゆっくりと宙に釣り上げられていった。どこか滑稽で無様な光景を前に、退避していた的井は自らの顔に苦悶の形相を浮かび上がらせていた。


            ◆


「……まだやんの?」


 うんざりと溜息をついてやると、余裕を滲ませた足取りで、的井との距離を縮めてゆく。

 SP二人が彼女の行く手に立ちはだかった。各々に取り出した拳銃も、直後にマガジンが飛んで床に転がり、次に男たちの厳つい腰回りを締めていたベルトまでも断ち切られて、両者ともに雇い主の鼻先で下半身をさらけ出す末路になった。

 それでも動揺せず、〈スキナーズ〉の意地を主人の前で全うしようと、そのままのなりで男たちが格闘の構えを見せる。でも様になったのは最初の脚捌きだけだった。二歩目で脱げたズボンを軸足に引っかけて体勢を崩し、縺れ合うようにして両者は床に転倒した。

 歯牙にもかけず、アーチルデットがハンドブレードの切っ先を、的井桜の喉元、薄皮一枚の距離まで突きつける。


「――――――フフッ……フルーツバスケット、だ」


 アーチルデットが、したり顔で決め台詞を吐いた。

 こういう時、正しくはチェックメイトって言うんじゃないかな。途端に凍りついた周囲の空気を押して、田端が館内放送越しに、彼女に向け無粋なフォローを送りつける。途端、クレーンの鎖が切れて、自律装甲車が床で無様に引っ繰り返った。


            ◆


「それにしても、どう考えてもおっかしーよねあなた。機械化武装長官!? ユニークすぎるよ、国背負ってまで斬新なジョークかましてるのか」


 切っ先に乗せられる、的井の顎。ぎんと鞘走る白銀の刃面をまたいで、未だ強い意志の込められた両者の視線が対峙している。


「…………どうやってここに現れた、〈来訪者〉。お前はあの夜、宇宙から地上へと戻るのに失敗した。何らかの障害に遭い、地上との通信が絶たれていたはずだ」


 己が知り得た情報と整合が取れない点に、あくまで的井は姿勢を崩そうとしない。それはこの女性が属する国家に忠実だからなのか、それとも死への恐れに強靭なる意志が勝っているのか、鋼の硬質さを備えたその外面からは読み取ることはできない。


「あらザンネン。あたしはそいつ――〈楔〉がある場所だったらどこまでも行き来できる、ちょっぴりご都合主義な種族なんだ」


 避難先だった一佐の手から羽ばたいたミィヤが彼女へと着地して、青と銀のグラデーションを描く長い髪の上にパッと花を咲かせる。


「だからこの子が地上にある〈楔〉のすぐ傍まで来られるよう、色々とあっちから策を講じてたんだよ」

 ミィヤのサブ・アバターを指先で撫で、アーチルデットは突きつけたままだったハンドブレードの切っ先を地面に落とした。


「ねえサクラ。あたしがわざわざあなたまでここに呼んだのには、どの道理由があるの。教えて。――〈基金〉ってのは何。そんなの初耳よ。一体この星に何が起きている?」


 抵抗する意思をなくしたのか、的井は握り締めていた銃を床に放った。


「――――それともう一つ。トバル・イッサに、彼の身に何が起きた」


 しかし、強く問い詰めるアーチルデットの目を未だじっと見据えたまま、表すべき言葉を決めかねたのか、しばし唇を逡巡させている。


            ◆


 的井桜は、やがてその答えを彼女らの前で口にし始めた。内に仕舞い込んだものを決して外気に触れさせぬよう閉ざした、重い扉を開けるように。


「――〈アンナ=エルベ基金〉とは、旧き時代の〈強靱なる合衆国の正義パクス・アメリカーナ〉を拡張する、世界秩序の番人だ。だが、〈アンナ=エルベ基金〉とは、実際にはこの惑星上のどこにも存在しない、空想上の機関でもある。だからそれを知る者はこれまで誰もいなかった。元より存在しないのだから当然のことだ。――そのはずだった」


 背を見せた的井が、ここに立つ誰しもが想像もしなかった世界の存在を声に表し始めた。


「この世界では十年前、インターネットを介した民衆蜂起現象――俗に言う〈電子内戦〉が多くの国家体制を混乱と疲弊の淵へと追いやりつつあった。そして我が国……この日本においても、同様にその電子内戦が引き起こされた」


『――――ちょっと待った、そんなはずはないでしょう! 日本の社会秩序下においては、電子内戦は起きなかった、みんな戦火を逃れたのではなかったので?』


 コンソールブース側から聞き耳を立てていた田端が、唐突に会話に割って入る。


『少なくとも、三十年以上生きてきた僕自身、そんなもの見た記憶がない。貧困層や移民たちの大規模な暴動なんてニュースにならなかったし、仕事で実際にいろんな県にだって行ってる。だからたぶん……いや、絶対にそんなはずない!』


「――そう、それがこの国の正史。だが、あの世界的電子内戦を転換点に、〈アンナ=エルベ基金〉と名乗る超国家機関が、史実に書き加わっていた。昨日まで存在しなかったそれが、二百年近い歴史を持つ人類史上の怪物として、突如として我々の脳に認識された」


 息すら淀むように、戦火の音色も静まった素粒子観測所にしばしの沈黙が降りる。

 目をじっと閉じ、腕を組んで思案に耽っていたアーチルデット。やがて見開かれた紫色の瞳は、的井でも誰にでもなく、ただ何もない宙を見据えて、そして自身が至った答えを口にする。


「――――位相転移、という仮設が立てられる。〈楔〉……あなたたちの言う〈ラージストリング〉の元になったオリジナルとやらが、何らかの原因を経てこの惑星のどこかに出現した。それが十年前だった可能性をあたしは考えた」


「それが意味することは何だ?」


「我々が〈楔〉と呼ぶその鉱物は、より高位の、深層世界の変換器の役割を持つ、観測者にとっての言わば、通常と超常を繋ぐゲートだ。不安定な〈楔〉が、それを適正に扱えない文明の手に渡れば、さて何が起こるか」


 それは、一佐の耳にはオカルトめいた概念に聞こえた。そう理解して差し支えないはずが、アーチルデットが自分の傍らに立つ現象自体、現実に横たわる矛盾として、超常の正しさを現在進行形で証明し続けている。崩壊の淵を歩くゲシュタルト。

「…………まさか。それが史実すら書き換えるとでも?」


「ふふん、滑稽ね。気づいているか? あなた自身がそれを見事なまでに体現しているようにあたしには見えるね」


 的井の細い目が、大きく見開かれる。


「オーケー、この星の事情は大体理解した。じゃあ、イッサは? 彼が果たして何者なのか、統治機構側に属するあなたなら知っているはずでしょう。教えてあげて。責任もって、ね?」


 そうアーチルデットに促されて、的井が一佐へと、表情の読み取れない視線を返した。

 的井は端的に、一佐についてこう説明した。


「戸原一佐は、電子内戦時に出現した〈寓居者〉の一人だ」


 言葉としては至極端的なものだった。が、意味が不確かで、一佐をより混乱へと陥れた。


「彼にはDNA上の血統も、過去に本来あるべきだった戸籍も存在しない。我が国において、十年前の電子内戦時、突如として正体が顕在化された、家族も過去も住処もない、自然発生的な子供たち」


 的井の舌はそれだけでは休まらず、一佐の存在を巡るあらゆる現象について、陰謀めいた説明を語り続ける。


「〈基金〉は、組織が反世界的作為と認定した事象を、暴力によって葬り去るためだけに存在する。そしてかの世代の子供たちは十年前、一千万人の反世界的作為となった。あれらは狂気だった。〈基金〉の粛清を免れるために、さて、我々の国家はあなたたちに対して何をしでかしたと思う?」


 心臓の外側を何者かに嘗められるような、そんな気味の悪い感覚が襲った。


「……TP騒動。パンデ、ミック……」


 一佐が、かたかたと震え始めた唇を押して、最も己の身近に横たわっていたあれら記憶を、ゆっくりと、断片的だが声に変えてゆく。


「そう。架空の大災害を引き起こしたのだよ。電子内戦の史実ごとあなたたちを闇に葬り去るために下された、言わば横暴だ。我々は、より新たな偽史を“演じる”ことを決断した。それを演じることで、我々の社会を、〈基金〉の願望する正義に準拠した正常なものに、嘘で上から塗り固めていった」


 耳が詰まって、音が遠くなった。自分側が現実から抜け落とされた。この場所にいたはずの自分がどこか彼方へと追いやられたような疎外感。鼓動が高鳴りを始める。でも、それが一佐には嘘に感じられた。だって逆に、こんなにも息が詰まりそうだから。踵が地面の固さを忘れてゆき、徐々に立っていられなくなる。


「わたしからあなたへと直接詫びるのが適切かどうか悩ましいが……すまない、戸原君。あなたの患っていた病気は、我々政府の手によって捏造されたものだった。あなたの両親も、兄弟も、友人たちも、我々によって偽りに仕立てられた、全ては疑似的な産物だった」


 その言葉は一佐にとって、強い衝撃となった。


「は…………。え――――だって、母さんは……」


 無意識に、アーチルデットの前まで歩き出していた。たとえ誰かに殴られたとしてもこんなには驚かないだろうと、空虚で他愛もない考えが先に脳裏をよぎった。


「もし気がかりなら、番号を教えるから後で電話してみるといい。あなたの母親の役割を担当する女性は、あなたと実際には九年間しか生活していないわ」


「そんな……そんな馬鹿なことがあるわけないじゃないか! マンションをくれたじーちゃんは? バイク好きの父さんは? 小さいころ、あんな狭い部屋で同じだった兄貴たちはどこから湧いて出たの。征次なんて、小学校からぼくとは何度も一緒になって――――」


 みっともなくまくし立てていた。記憶に傷を抱えた彼が今までに寄りかかってきた、断片的だけどかけがえのないあらゆるものたち。その全てが、酷く事務的な都合の下に否定されたのだ。


「倉嶋家も、環境適応上の必然性から手配しました。ただ、彼自身薄々感づいているだろうけれど、長男の倉嶋征次君との関係自体は自然なものです。あなたとの交友関係は否定されない」


 もう沢山だった。残されたものが、一枚ずつ剥がれ落ちてゆくのが怖かった。心臓が止まってしまいそうだ、と悲鳴を上げたくなった。


「あなたの思い出にあるあの少女もそう。我々が名づけた〈宇居川ういかわりの〉という少女は、あなたたちの記憶深層部を適正に補完するための補助機構として組み込まれ――――」


「――――もういいわ、十分よ」


 目の前が真っ白になった瞬間、アーチルデットが的井の話を強引に遮った。自分の目に、感情とは無縁に涙が落ちていた。


「話してくれてありがとうサクラ、あなたをここに呼んでよかった」


 崩れ落ちる一佐。彼を背に、アーチルデットはやや事務的な笑みを浮かべ、和解に至れたとの確信に足る的井桜に向け、端的な礼の言葉だけ伝える。


「〈来訪者〉。お前の話を聞いて今思えば、全てはその石ころから始まったのだと理解した。この世の調律は元より狂わされていたのだな」


            ◆


『ししょー。間違いありません。これがパラダイム・アセンションの極点です。でもトリガーは既に引かれてしまいました。文明位相が変奏を始めたこの惑星がこれからどこへと向かうのか、正直見当もつきません』


「起きてしまったことはどうしようもないわ、対策は次の機会に練ります。それよりも今やるべきことを片づけましょう」


 語る役割を終えた的井を尻目に、アーチルデットは周囲で静観を続けていた者たちに向け声を強く張り上げる。


「――聞いてるか、アーティクト? 契約は続行よ。皆を無事に洋上自治区の外へと送り届けなさい。それが果たされたら、可能な限り、あなたたちの望む報酬を提供します」


 彼らに意思の確認は求めず、更に続いて虚空へと問いかける。


「――――あと、タバタ!」


『……えっ、は、ハイッ!?』


 館内放送越しに、田端の声が頭上から浴びせられた。


「タバタ、ごめん。報酬代わりにあなたを星間連盟の一員にしてあげるって約束……やっぱ守れそうにない。実はあたし、星間連盟、辞めてきちゃった」


 わざとらしく頭を掻きながら、上階のコンソールブースに苦笑いの視線を送りつける。


「『そんな……辞めた、って――――――――ええーーっ!!??』」


 驚愕に震える田端の声が、相棒であるはずのミィヤの発したそれと、鮮やかなるタイミングでのユニゾンを果たした。

 それ以上の釈明は先送りを決め込んで、アーチルデットは皆の前に振り返り、最後に彼らに向け伝えるべきと用意していた言葉を口にする。


「時間がないわ、もう行かなきゃ。あたし、まだ上でやることがあるの。みんな色々と助けてくれてありがとう。そしてあたしのことで沢山騒がせてしまって、いっぱい迷惑かけてごめんなさい。あとのこと、宜しく頼みます」


 これは一時的な別離だという意味をほのかに添える。そして、恩人である彼にも、それをわかって、できるなら見送ってもらいたかった。


「――――――行ってくるね、イッサ?」


 だが、対面した真実から受けた衝撃のあまり、一佐は地に腰を落としたまま、生気の削げた目で、自らの内にある空想にばかり視線を奪われていた。ずっと隠れていた小晴も彼の傍らまで戻っていたが、傷つけるのが怖くて触れることすらできなかった。戸原一佐という不確かな人格は、的井の伝えた全てをありのままに受け止めた結果、元より不確かだった足場をこの場所で遂に失う結末に行き着いていた。

 見かねたアーチルデットが、一佐の首根っこを尾で掴んで持ち上げた。喉頸が締められ、短く呻き声が上がる。立ちあがる気力もなく、ぶら下がった両脚が床を捉えずに滑った。彼女は何も言葉にせず、細い腕で彼を抱き上げる。逆さまな立場のお姫様だっこ。

 唐突に、アーチルデットが高く、高く跳躍した。脚と尾を巧みに使い、深い縦穴の穿たれたトリスタンと、巨大スピンドルの外装とを蹴りながら、一佐を連れてその頂上部を目指しジャンプして消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る