空漠として敷き詰められた分厚い雲の絨毯が、夜空の濃紺色を斑なく覆い尽くしてた。満天に散らばる星々も、月明かりの皎々たる輝きも今は衰え、海原のただ中に孤立し眠りにつくことも叶わなくなった洋上自治区の街灯りだけが、ずっと曇り空を見上げてた。

 加速器実験施設トリスタンに突き立てられた巨大スピンドルの頂上部に腰を下ろし、アーチルデットは彼と並べた肩越しに、曇天の夜の更にその先に連なる宇宙を臨んでいる。


「――――――ねえ。チル子、さ……」


 重々しく口を開く。


「うん、なあに」


「君はこのこと、知っていたの」


 彼女は無言で首肯する。


「ぼくのこと、何なのか、気づいてたの」


 受けた衝撃の大きさに、心境の整理が追いついていなかった。自分がこれまで見て、触れてきたあらゆるものの大抵は上っ面だけで、自分の思っていたものとは全く違う側面を持っていた。現実は悲劇というより滑稽だ。悲しみに打ちひしがれるという感覚は湧き起こってこない。ただ内にぽっかりと口を開けた空虚さが、泣くことにすら邪魔をした。


「あたしも真相を知っていたわけじゃないわ。でも、イッサがこの国において疑惑のかけられていた人物のうちの一人だったのは、地上に降りるずっと前からあたしたちは把握していた。だから、最初からキミを選んで、疑って近づいたの。そのためにあのマンションを先に差し押さえて、こちらから接触を計った」


 上空から投下された巨大スピンドルの軌跡をなぞるように、貫かれた雲が彼らの目の前で、緩慢に裂け目を広げていった。その裂け目の周囲に大きな円を描くようにして、見覚えのないジェットが三機、ゆっくりと待ちわびるように旋回飛行を繰り返している。あれも彼女の寄越したものだろう、と根拠なしに考えた。


「あたしとキミの出会いは、計画された任務だった」


「そう。偶然じゃ、なかったんだ」


 アーチルデットは右肩に並ぶ一佐から視線を逸らした。リボンを演じるミィヤを胸に抱き、指でしきりに触れて、そして自嘲気味にこう言い放つ。


「イッサはあたしに腹を立てるかしら。でも、あたしはキミに謝らないわよ。お互いはお互いそれぞれに違うものなのだから、全部うまく噛み合わせようなんてしない。あたしも人間のように、自分のために嘘をつくし、自分のためにキミを騙すわ」


 アーチルデットは辛辣だった。どこか距離が遠くて、でも考えてみれば元より身近に横たわっているものと同じなのだと、彼女は自ら演じて表現した。

 夜は少し寒かった。心に染みて、無為に膝を抱える。闇にそびえる巨大スピンドルの頂は恐るべき高度で、迂闊に立ち上がってしまうと、眼下の光景に目が眩むのは必然だ。

 胸の内に、逡巡に逡巡を重ね、今の己を表す雑多な言葉が溢れては消えて。


「まだうまく言えないんだけどね。ぼくは、他人から与えられた物語の住人だった。そういうことなのだろうな。自分なりに決めて、これまでも頑張って生きてきたつもりだったのに、ふと気づけば、今まで歩いてきた道はずっと他人が敷いたレールの上だった」


 それでも氾濫するそのさなかに見つけられるであろう何かに、意味を持とうとした。


「それに気づいてしまった後、ぼくのように目的のない人間は、これからどうやって生きてゆけばよいのかわらなくなってしまう。突然、置いてきぼりにされちゃった感じなんだ」


 やり場のない心境を、一つ一つ言葉にして吐露してゆく。こういう時、どう振る舞えば自分らしいのか、どうしたら自分の納得できる結論に至れるのかだけを探し求めた。

 そうして、心の内に立ち止まる。彼が根源的に備える、自分の在り方とはどのようなものなのかを脳裏に描く。


「――――ごめんなさい。“ぼく”があなたに迷惑をかけました」


 風が一際強く吹き荒んで、肩を並べた二人の髪の毛が絡むように揺れた。


「腹を立てても、恨んでなんかもいないよ。だからチル子、もう行って。“僕”は、自分なりに何とかするから。何とかなるから。あなたは、あなたにしかできない、あなたがやるべきことを今からやり遂げてください」


 雲間から一筋の光が降り注がれる。月光の差し込む、深遠なる夜の世界の到来。そのステージに彼女は立ち上がると、淡く照らし上げられた月輪を背に抱き、一佐へと振り返る。


「ねえイッサ。この地球って星は、昼と夜があるから素敵よ。太陽と月があるから素敵。晴れと雨があるから素敵。――――キミがいるから素敵」


 唐突に彼女は何の話をし始めたのかと、一佐はちょっとだけ困惑させられてしまった。


「あたしたちの種を表す〈イミュート〉に籠められた意味を教えてあげましょうか。『曇り空の庭に閉じ込められたおんなのこ』って意味なの。で、もっとカッコ悪く言えばね、『陰気な引き籠りの魔女』だって!」


 アーチルデットが複雑そうな微笑みを送る。でも、彼女の声色はいつもの雄弁さ以上に艶やかで、こんな大事な時だっていうのに、それでもちゃんと耳を傾けてあげたいという衝動が芽生えるのに一佐は抗えなかった。


「そう名づけたメタ=ユーリツカヤ人は、図書館の星系を統べる、地球人そっくりの情緒的な種族なの。でも物質世界原理主義者でもあるやつらは、失礼にもあたしらイミュートを扱いよ! 未だに精神生命体の実存を認めようとしない。ふざけた連中」


 そんな風に、不平と異議とを露骨に覗かせつつ、一佐の知り得るはずもない、遠い、遥か遠い世界の話を、アーチルデットが突然に語って聞かせ始める。


「陽の射さぬ閉じた世界の住人であるイミュートは、常に孤独で。でも、〈楔〉というドアの外は、自由と光と、そして様々な色と情緒と祝福に満ち溢れている――」


 楽しい、とその表情が主張していた。


「キミたち地球人には信じられない光景をあたしは見てきた。ロニ七四星系の隻頭恒星を覆い尽くす珪素コロニーに芽生えた分散意識が、矮新星アウトバーストの爪痕で見失われたはずの古代航路座標を割り出した奇跡――鍍金星スティールビーチのアーケスケロンが誇る、唯一無二の銀色艦隊。あの華々しい出港式典――反/空間ディトロール上位層、更に形象境界線を突破しその彼方へと旅する事象遊牧民たち、彼らが運ぶ環内球状星団の発見――あらゆるものが、素晴らしい輝きとして過ぎ去っていった」


 理解の及ばない森羅万象の数々。不思議とこの世界の言葉に変換され、心をリズミカルに震わせてくれる。


「キミの言った、生きざまを物語に喩える表現はとても興味深いわ。あたしと似てる」


 向き合うように立ったアーチルデットが、未だ座したままの一佐に向け手の平を差し出す。


「あたしとおいで、イッサ。キミが失った物語の代わりとなる、次の素晴らしい世界、新しい物語を、このあたしなら見せてあげられる!」


 誘われているのだと、理屈を越えて彼の心は理解する。わずかに唇がわなないた。この時彼女に何と答えてあげたら相応しいのか、今の彼にはまだ戸惑いがあった。

 それすらもこの少女には見透かされているのだ。ぐっと迫るように、腰を落としてまで手を差し伸べてくる彼女は、ちょっとだけ厭らしい目つきをして彼をぐっと見詰める。


「――じゃあ代わりにキミは、あたしに何をくれる?」


 彼女が、自分を求め、問いかけている。対話を求められている。ここで何かを答えてあげなければ。

 己の意思に幾分光が戻ったのだと、この時ぼんやりとながら気づいていた。でも同時に、自分にはもう何もないのだとも自覚していた。


「ごめん、チル子。僕にはあげられそうなもの、何もないや……」


 釈明し、それでも少し考えあぐねる仕草を見せてから、


「――ああ、でもね! 仲良くしてあげられることならいくらでも。だって君とだったら、意外と簡単そうだもの」


 そうして彼は、彼女の手を取ることにする。

 握り合わされた指先。互いを引っかけて、軽やかに引かれ、ゆっくりと持ち上げられる。自然と同じ地平に並ぶ、両者の肩。


「――――あたし、イッサが好きよ。心優しく勇敢な地球人の男の子。思いやりのあるところが好き。声の音色、甘く澄んでいて好き。瞳の可愛らしさが好き。何より、あたしの傍らにキミが在る感覚が、一番好き」


 一佐のすぐ鼻の先にアーチルデットの顔があった。彼ら二人の顔を照らし出すのは、満月の宿す薄明かり。その表面には、いつしかこの荒唐無稽な少女が浴びせた怪光線によって刻み込まれた、ふたつ身を寄せ合うハート模様が今も傷痕を覗かせている。たちの悪い皮肉のように、天頂から二人を傍観している。


「イッサはどうなのかな? ――――一番強く表現して見せて、キミができるなかで」


 と彼女が彼に迫った。向けられる瞳が凛と紅い色の多重円環を描き、緩く握られた彼女の手が胸元を静かにノックする。

 今の自分にはそんなもの、上手にはできそうにない。でも、言葉なんて要らないのだと。衝動的に身体が動き、爪先から一歩踏み出していた。



「――――――――好きだぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁあああああああああああああああああぁぁぁッッッッッッ――――!!!!」



 ――――渾身の大絶叫だった。

 気合いを溜めて、地に足を踏みしめ、拳を固めて、面構えがみっともなく歪むのも恐れず、夜空に輝く月に向け、ありったけの喉を振り絞っていた。


「アハッ――――」


 唐突に、堰を切ったような馬鹿笑いを彼女も轟かせた。

 自分がしたのに勝るとも劣らない大声で、なんだか楽しくなってきた。一緒に笑ってみた。こんなヘンテコ宇宙人を前にして、悩んでいた全てが馬鹿馬鹿しくなった。そして、

 頬が信じられないほど熱く、まさに張り裂けんばかりの痛みで。


「――――やり直し」


 低く、冷酷に、ぴしゃりと吐き捨てられた。ばちんと打たれた右の頬が、静謐なる夜の空に似つかわしくない、惨めな音を残響させていった。

 振り上げられた手の平の向こうに、憤怒の形相を張りつかせたアーチルデットが静かに佇んでいる。そんな威勢もすぐさまに緩めて、「あたしたちのこれが物語なら、映画みたいにキメて行こう?」と主張し、そうして目を瞑って頬を差し出す。


「んー」


 それは催促しているのだと、流石の一佐にだって伝わる。ただ、色々と踏まえるべきプロセスが欠けている点が歯止めになりかけるも、そんな段階で足踏みすることの不毛さは、もはや現在の自分たちにとって害悪でしかないのだろう。

 堂々巡りを押しやって、彼女の白い頬にそっとキスを送る。いつだったか嗅いだ、甘い、フルーツにアルコール、そして焦げた砂糖菓子のような、彼女らしい不思議なにおいがした。


            ◆


 アーチルデットは、それを合図にすると心に決めていた。


「――――ありがと、イッサ。さあ、もう一度宇宙へ! 例のナントカ基金ってやつらに喧嘩ふっかけられてる、あたしの大切な姫君を助けに行くよ!」


 光がやってくる。彼女の全身、その表層を奔り、呼応するスピンドルが本来の役割のために起動を開始した。


「これは……どうやればいいの?」


 スピンドル外装部分の幾何学模様がひび入るように開放され――


『だいじょーぶ、イッサはこちらの流れに任せていただければいーんですよっ!』


 そんなミィヤの声と同時に、見たこともない幻想的な色の花火が夜空高く打ち上げられる。

 幾百億の、あるいはそれ以上に膨大な天使型が、雨に雪になって降り注ぎ、

 月光もかくやという閃光の奔流に、辺り一面が包まれてゆく。

 そのさなか、ふと不思議に思っていたことを一佐は口にした。


「ねえ、どうして君たちは甘いにおいがするの?」


 胸元にいる彼女が、囁くように答える。


「教えて欲しい? あたしのこと、食べても安全って意味よ?」


 そんなの全然答えになっていなかった。ただ彼女がそう囁く意味自体は理解できなかったけれど、きっとまた元ある場所に帰ってこられるのだと信じさせるに足るものだった。

 彼女らという惑星の周回軌道を、知らない世界からやってきた小天使たちが祝福するかのように、光線で円を描き巡り続けている。あの夜雲の海原を切り、更にその彼方まで辿る翼が、彼女の肌に確かな形象イメージを獲得してゆく。


「さあ、一緒に行こう。あたしの最果てのボーイフレンド――――――――――」

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