3
自分はあの空飛ぶ黒い怪物に喰われて死んだのだろうと、戸原一佐の意識は、諦めの色で真っ黒に塗りたくられていった。
常識を越えた感覚のさなかに放り込まれて、舘丸小晴は恐怖のあまり前後不覚に陥った。
まるで
彼らを飲み込んだ空飛ぶ怪物・アンノウンの内部は、液体と固体とゲル状の何かがない交ぜに満たされていた。むせ返る鉄と油と砂糖菓子を思わせる異質な臭気。呼吸が苦しくて、それらが口や鼻腔まで入り込んでくるのに抗えない。甘いものたちは微細世界に生きる群体然と、二人の全身を嘗め回すように這いまわって、怪物の胃袋へと押しやってゆく。
間もなくして、流れ込んできた二人が留まったのは、真球状にくり抜かれた空洞だった。
空洞の半径は、目測でも一佐たちの身長を優に超え、青色の透きとおる液体でその半分以上が満たされている。一佐たちは、水底に足が付かないその深みの中を、無重力空間のように浮かびたゆたっていた。
「せ、先輩、何これ……水? ネバネバする……わけわかんない、何がどうなってんの」
小晴が呻いた。腕の中にいた小晴が、一佐の胸元にしがみついたまま怯えて身じろぎする。この空洞まで送り込まれる間、絶対引き離されないよう、一佐は彼女を必死に抱き留めていた。
『――――ようこそふたりとも、我が惑星、あたしの世界へ』
アーチルデットの声が、再び頭蓋のその内に響いた。しかし彼女の姿は見えない。
「やっぱりチル子なの? ねえ、ここは一体何……宇宙船の中?」
これを宇宙船のコクピットと呼ぶには、些か想像の枠を越えている。蒼で満たされた球体のアクアリウム。二人の半身を浸す液体を手のひらにすくってみると、不自然にゆっくりとこぼれ落ちてゆくのがわかる。構成分子そのものが幾多の意思を持ち、沈みゆく二人を押し上げる感覚。液体は生暖かく、水とは異なる不思議な粘性を持っていた。
アーチルデットからの応答が届くよりも先に、水かさが前触れなく、徐々に増し始めた。水面と空気とが損なわれ溺れる恐怖に、臆病な一佐の心臓が戦慄して身震いする。
互いに抱き合う形で浮かび、姿勢の均衡を取り繕っていた一佐と小晴が、真球の空洞を一杯まで満たそうとする液体の対流に撫でられ、舞踏会のごとくダンスをさせられる。
すると、
「ちょっ、ちょっと先輩! わたしたち、服が!?」
二人の身に着けた衣服の、水中に没したままの部分が剥がれるように溶け出し、液体の中で光の粒子となって分解を始めた。
青の液体は瞬く間に天井まで達し、そこに没した両者は、露わになった互いの肌を向け合う。小晴はさらけ出された乳房を今更隠そうともせず、ただ困惑したような悲しげな表情を向けて、足場の意味を失ったさながらの生命球の中、最後の拠り所となった一佐へとすがった。肺から漏れ出た泡が複雑な軌跡を描いて、損なわれつつある水面目がけて昇ってゆく。小晴は来る死を受け入れるかのように、静かに目を閉じてしまった。
だがここで溺れ死ぬ恐怖は、異なる感覚で上塗りされてゆく。青い水たちに剥ぎ取られた衣服が、青い水たちによって再解釈される。露出した皮膚の表層を塗り固めるようにして、液体が触れる部分から段階を経て変質し、一佐と小晴をそれぞれくまなくパッケージしてゆく。ドレクスラーの錬金術が暴走したかのように繰り返される、
「うえぇぇ、何だこれ……なんかきもちわるいよぅ……」
泡を吐く音に混じって、朦朧とした小晴の呻き声が伝わってきた。力なく漂い離れていった小晴を慌てて引き戻すと、互いの頭がぶつかって、鈍い音を立てた。
両者を作為的に覆い直した新たな皮膚は、さながらのボディースーツだ。下半身は両脚ごと魚のごとく一つの尾とヒレとにまとめられ、頭部はヘルメット状に硬く成型される。
「すごい。わたしたち、足が……人魚だ。わたしも先輩も、人魚になっちゃった」
小晴はぎこちない手つきで水を掻き、くるりと舞って見せる。まるで未来の宇宙飛行士か、でなければこの小さな生命球に閉じ込められたつがいの人魚のような姿だった。
ちょうどアーチルデットが一佐の前に初めて姿を現した時のそれに造型が似ていると、ヘルメット内に投影された小晴の姿を見て思い出す。最初あった呼吸時の違和感も、徐々に薄れてきた。何かしらの仕組みで内部に酸素が循環されているのを感じる。
変化は更に唐突に訪れる。球状をなす空洞、壁面三百六十度に方眼状の光線がひび入り、水中に大小無数の投影映像が介在を開始する。
投影映像が外部の状況を映し出した。包囲していたヘリがこちらの外部装甲目がけて意味のない発砲を繰り返しながら後退を始める様。松永が通信機に向けて何事かがなり立て、弾を撃ち尽くした護衛たちが茫然とした表情をしている状況。全てが一佐たちにも視える。
続いて空洞の中心に、少女の似姿をした青白光のシルエットが出現した。一目見てそれがアーチルデットを意味するシンボルなのだと、一佐は本能的に受け止めた。
『さて、やっつけ仕事だけど、構造変換はだいたい完了したかな。ふたりとも、スーツは身体にぴったりきてる?』
「あのう、わたしの、きゅ、きゅうくつ……」
「とりあえず呼吸はできるようになったけど……宇宙船の乗組員のイメージとは随分違うような気がするよ」
『だあって、本来ここは他人を乗せるためのものじゃないもん。特別よ特別!』
実体のない身体を翻し、光となったアーチルデットが努力をアピールした。そんな姿でも彼女は無邪気で、そのギャップに一佐も何故だか安心させられる。
「これからどうするのチル子。この黒いやつで飛んで、あいつらから逃げるの?」
『そうするしかないわね。ごめんなさい、ふたりとも。キミたちをあたしの目的に完全に巻き込む形になってしまった。元の生活に返してあげたかったけれど、もう……』
「ぼくたち、後戻りはできなくなったってこと、だよね」
一字一句、噛みしめるようにして一佐が吐き出す。認めたくなかった。もう一度あのマンションでの生活に戻ることもできなくなった。この宇宙人娘との間に偶然生まれた接点は、ある種の負の引力だ。それは〈外交官達〉のような存在を今後も呼び寄せ続け、それこそ国際規模で彼らの平穏を邪魔するのは想像に難くない。
「ちょっと待ってよ。先輩も、宇宙人ちゃんも……教えてよ。もうわけわかんないよ。友達とか、親とか。生活とか、バイトとか――ねえ、これからわたしたち、どうしたらいいの? これからどうなるの?」
小晴の不安げな感情が、耳元に伝達されてくる。三者が同じくらい傍にいるにもかかわらず、互いが引き離され、越えようもない境界線に隔てられ孤立しているかのような感覚。
「この騒ぎのほとぼりが冷めるまで、いっそチル子に宇宙にでも匿ってもらうとか……あはは、駄目かな。それじゃ何の解決策にもなってないよね……」
小晴を巻き込んだのは自分だ。彼女の不安を少しでも取り除こうと明るく務めようとするも、己の内に罪悪感のくすぶりを感じ、一佐は口ごもる。
『――――いいよ。我々星間連盟は、キミたちふたりを保護すべきだ。責任は負いましょう。でもその前に、トバル・イッサ。キミにひとつ伝えておきたいことがある』
凛と声を張ると、アーチルデットの像が水に揺らいだ。と、今の彼女は単なる映像に過ぎないにもかかわらず、人魚を思わせる仕草で青い水を掻き、一佐たちの傍にやって来た。
「伝えるって、何?」
『ねえイッサ、キミにはもうメモが必要なくなっていることに気づいてる?』
一佐はその言葉に、思わずハッとさせられた。巻き込まれた事件のさなか、いつからか有耶無耶になっていたのだ。物覚えの機能に軽微なハンディキャップを持つ彼は、些細なことはメモなどの記録を介してしか記憶できないはずだった。
でも今の一佐はいつの間にか、その「忘れる」こと自体をすっかりと忘れていた。アーチルデットの言葉に、自然に振る舞っていた自分にようやく気づかされたのだ。
「――覚えてる。うん、確かに覚えてる! 今朝からのこと。恭叔父さんに運んでもらった冷蔵庫が空っぽのままで、コンセントだけ差してきた。ファミレスで払った六千八百四十円。ああそうだ、小晴さんに嘘をついてしまった。チル子はホームステイなんかじゃないんだ。でも、小さい頃からずっとああなのに突然治っただなんて、どんな理由で……」
『初めてキミと会った時、あたしは自分の正体を隠すためにキミの記憶を操作しようとして、それに失敗した。でもね、実は失敗なんかじゃなかった。あたしがキミの体内に無理矢理踏み入ったせいで壊れたのよ――キミの記憶にかけられていた
アーチルデットの表現した言葉の意味に理解が追いつかず、一佐の思考は白化した。
『よーく思い出してみなさい。
次々と彼女の声帯から紡がれるキーワードに、一佐の焦点が眩んだ。身に覚えのあるものと、初めて耳にするもの。モラトリアムと化していた彼の記憶では、それらの参照処理が追いつかない。彼を覆う宇宙服の内側に、動揺の汗が滲むのを感じる。
『でも残念、これらの一部にデタラメが含まれてる可能性が出てきた。悪いけどイッサの薬を調べさせてもらったわ』
アーチルデットのジェスチャーに呼応し、投影映像の一枚に、一佐には見覚えのある巻き貝型の薬剤ケースが映し出された。
『吸入ステロイド薬とβ2刺激薬。サルメテロールキシナホ酸塩、フルチカゾンプロピオン酸エステル。それが実際は、処方された主成分が仕様通りのモノじゃなかった。代わりに混入されていたのは、プログラマブル型の分子ロボット群……とでも表現したらいいのかしら。キミの抱える喘息症状や記憶障害は、命令を受けたそれらが神経系に作用して誘発させた、擬態的なものでしかない、と推測される』
どくん、と心臓が血流を循環させる音。身体の末端、耳たぶまで巡る微細な血管が、不自然な熱を帯び、その鼓動を伝達した。
「うそ……嘘だ」
根底にあったはずの硬い地面は、彼女の言葉で一撃のもとに喪失した。まるで今いるこの生命球の海のように、どこにも立つ場所のない感覚が一佐を襲った。
「そんなわけない、どうして君にわかるの。ぼく自身も、他の誰も知らない話なのに、宇宙から昨日突然やって来た君に、いつどうやってそんなこと調べられるって――」
『キミの体内で何年も蠢いてた分子ロボットどもを、今朝キミにかじりついて侵入したあたしが偶然ブチ壊した。その結果、キミは機能回復に向かっている。ロジックとして不服かしら?』
「じゃあ、だとして誰が、一体何の目的にぼくをそんな風にしたって言うんだ……」
『残念ながらこれはまだミィヤの推測段階。そんなものを投与され続けた理由が何のためなのかは、今後詳細な調査が必要となるでしょう。何にしろ、集団保証で対応した国の仕業と見るべきか。だとしたら薬局側もグルか』
どん、と鈍い音が響き、唐突にアクアリウムが揺らいだ。
『おっと、もうあんま時間ないかぁ』
投影映像が映し出していた外界の状況のうち、ヘリからの機銃掃射がフォーカスされる。〈外交官達〉のヘリは軍用のものではなかったが、
克明に映し出される外部の戦況をよそに、アーチルデットは淡々とした口調で続けた。
『コハルの身体もちょっぴり調べさせてもらったけれど、近しい症状が見受けられるわ』
調べた、という言葉のニュアンスが、何故だか宇宙人少女との口づけ行為に思い至って、小晴が顔色を戸惑いのものに変えるが、
「えーっ、ちょっと待ってよ、わたしの方はなんともないのに? 薬も飲んでないよ?」
慌てて疑問を呈して返す。
『だから、あたしはもっともっと詳しく知りたいの。この広大な世界の中で、キミたちふたりだけの身に異変が起こっているとは、さすがに考えにくいから』
突然伝えられた事実を咀嚼しきれず、両者は口をつぐむ他なくなってしまった。投影映像だけが淡々と、機外でせめぎ合う者たちのやりとりを水中に描画し続けていた。
『あたしにはキミたちが、この国における何らかの兆候にも見える。さっき言ったでしょう? あたしは地球の未来を変えに来たって。だからこそキミたちが、あたしの使命の、大切な糸口になるかもしれない』
国や世界の抱える問題と、今日まで歩んできた自分自身の人生とが、突然やって来たヘンテコな宇宙人娘の手によって勝手に繋げられてしまった。正直、今の一佐に理解できるのは、この状況に自分の理解が未だに追いつく気配がない点だけだった。
『さて、そろそろ時間切れね。星間連盟はね、非常に手続きを重んじる組織なの。だから、星間連盟・太陽系派遣船団司令部の代表者として、キミたちふたりに正式に問います』
アーチルデットのシンボルは一佐たち二人の前に浮かび上がり、くるりと水中を回転して、無数に存在した投影映像を消滅させた。不思議な宇宙船のコクピット内部が再び静寂に包まれ、三人だけ取り残された世界ができあがった。
『あたしはこの地球の秘密を曝きにやって来た、キミたちにとっての、ミラクル・チャンスとでも言える存在。少なくともあたし自身はそう自負している。でも、これからの航海は命がけとなるわ。それでもあたしとともに来ますか?』
命、という言葉をチラ付かせる。ただの画面越しでしかないと錯覚していたが、そういうやり取りが、今まさにこの機体を巡って行われているのだと認識する。
『意志を示してくれるのなら、あたしはキミたちに何も惜しまないわ』
言葉の内に潜むアーチルデットの真意はわからない。シンボリックな姿の彼女に表情はなく、デジタルな音声に滲む言葉だけが、強い信頼の色を示し一佐たちに訴えかけている。
「いく……わたし、行きます! 乗りかかった船だ、宇宙でもどこでも連れてけえっ!!」
「ええっ、小晴さん即答なのっ!?」
一呼吸で重大な意思決定をしてみせた小晴に、一佐は困惑を隠せないでいた。
『宜しい! ダーリン愛してるっ!!』
「わっ、ちょっと、きゃあっ!?」
アーチルデットのシンボルが小晴を抱きしめ、口づけるような仕草を見せた。
『さて! 我々は本時刻をもって、トバル・イッサ、及びタチマル・コハル両名を、星間連盟・太陽系派遣船団の正式な協力者として受け入れます。我々はキミたち搭乗員を星間連盟の現地メンバーとして手厚く保護し、意思と権利とを尊重し、身の安全と文明的尊厳とを保証し、そしてキミたちに眠る秘密を解き明かすことを約束しましょう』
どくん、と脊椎が震撼した気がした。方向感覚の消失。幻惑感。視覚される光景は薄膜の帳が降りたように遠ざかり、その遠景に両脚で立つのをすぐさまに実感する。続いて両手を伸ばそうとするが、指先の感覚が多重にぶれて、外に吹き荒ぶ風の感触が伝わった。
呼応するかのように、真球を満たしていた青色の水が、突如として粘性を変えた。その中心を揺らぐように浮かんでいた一佐と小晴の身体がやんわりと固定され、おびただしい数の投影映像が再び水中に浮かび上がる。
『イッサもダーリンさんもつながりましたー。いつでも発進可能です、ししょー?』
今までどこに消えていたのか、ミィヤの声がようやくヘルメット越しに聞こえてきた。
と、一佐も小晴も唐突に不思議な浮遊感に襲われ始めて、
『さてー、これより機体を上昇させます。主体的な飛行動作と姿勢制御はこのミィヤめにおまかせあれ。新入りのお二方は、当機の補助的な眼として、ちょっとした
『あたしはフォローのため〈姫君〉に戻るわ。ご苦労様、身体は一旦ミィヤに返しとく。もうちょっとだけ持ちこたえて。その二人をよろしくね。健闘を祈る。そいじゃ――――』
聞き覚えのない単語を残すと、アーチルデットの少女型シンボルが消失して、
『あい・さー、ではお二方――――――いざ、いざ、戦いの空へとまいりましょうっ!』
「えっ、わっちょっと……うわあああぁぁぁぁぁぁぁぁッッ――――――!!??」
「ひえぇぇぇぇぅうきゃぁあああああああぁぁぁぁ」
妙に気合いのこもったミィヤの声。耳をつんざく音と衝撃とで、一佐らの悲鳴をこの場に置き去りに、思い切り地球の大気を蹴っ飛ばした。
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