ターボシャフトエンジンの排気と大気を裂くローターのブレードスラップ音が、帳の落ちた上空を規則的に震わせている。機影は、目視確認できるだけでも二機。それらは煌々と輝くサーチライトと揚力のとばっちりとを寝静まる緑の海原へと無粋にも投げかけ、舐めるようにして低空を旋回飛行してゆく。

 一佐を乗せた車が辿り着いたのは、舗装された駐車場敷地内の一角だった。気味の悪い大きさの蛾が群がる水銀灯が青白く明滅して、月明かりだけでは心許ないあたり一帯をぼんやりと照らし出している。他にも何台か停められた車が周囲に確認できるが、あたりに広がる光景は寝静まった闇夜そのもので、外にある人間の気配も自分たちだけに思えた。

 降りるように促されて、男たちのうしろを無言で付いてゆく。見覚えのある風景、どこか既視感のある夜だと感じた。当然かもしれない。昨夜巻き込まれた事件、自分を誘拐したあの二人組のソーサル。ここまで来た道中の景色は、彼らが自分を連れて辿ったのとそう違わないものに見えた。恐らくここは、謎の飛行物体が飛び交った、そしてあのアンノウンの少女・アーチルデットが初めて降り立った場所から遠く離れてはいないのだろう。

 嵐のようにめくるめく一日が過ぎ去って、一佐は結局この闇に連れ戻されてしまった。沢山怖い目にあった。理不尽な死の予感なんて、まさか今の自分の境遇で味わうことを想像すらしなかったものだ。

 そんな死の直接的なきっかけになる出来事が、二十四時間足らずでいくつも自分の周囲を過ぎ去っていった。ここから逃げ出して家に帰りたい。元ある日常に。そうだ、一刻も早く小晴を連れ戻さなければ。彼女の前で少しでも頼りになる行動を取ることができれば、異性としての信頼を勝ち得られるだろうか。何より、秘密を共有し合う関係に至ったのだ。

 でも、心は折れる。アーチルデットの目的が何にせよ、それと真っ向から対峙する〈外交官達〉の連中は警察に近しい、言うなれば自分たち市民の味方だと一握の希望にすがることもできた。だが、松永と名乗ったあの白髪男のことを、一佐は本心から怖いと感じた。社会的強者の権化を目の当たりにしたような、心の内にある何かが警鐘を鳴らすのだ。

 水銀灯の灯りのすぐ先に、嵯渡詩乃が立っていた。一佐を見つけると、早く来るようにと片手で促される。彼女はスーツの上着を脱いで肩に羽織っていた。もう片方の手は脇腹に当てられ、負った打撲の痛みからまだ逃れられていないのだと暗に訴えている。


「――あれは勇み足だった。あの男の真意は知らんが、同僚として代わりに詫びておく」


「え………………………………何の話ですか?」


 間の抜けた返事をしてしまってから、自分が人質扱いを受けたことを指しているのに行き当たって言葉の意図を理解した。詩乃の立場では、あれは松永の独断だと言いたげだ。


「一体どうなるんですか、これから?」


 詩乃は特に答えず、代わりに先導するようにして一佐の前を歩き始める。

 駐車場脇に公衆用トイレのようにも見える白塗りの建屋や柵が見え、この場所はおそらく緑地公園のような施設なのだろうと想像した。詩乃が進む先には、斜面に芝生が植えられた低い丘が横切っている。そして、その上まで登るために続くコンクリートの階段。詩乃を追って階段を上ると、すぐに視界が大きく開けて、一佐はそこで思わず息をのんだ。

 おびただしい量の水が、黒々とした闇を一面に湛えて、地平に至るまであたりの景色を埋め尽くしていた。山間地に造られた人工湖か調整池か何かなのだろう。淀んだ水面の波打ち際あたりは全てコンクリート護岸で覆われている。明かりもまばらな夜にこんな場所を見せられてしまっては、水底深く吸い込まれそうな光景にぞっとさせられるばかりだ。

 再びヘリが一機、横殴りの砂塵とともに彼らを一瞬だけ照らし、頭上を滑空して飛び去ってゆく。階段を下った先のちょうど岸壁近くのあたりに、人が集まっていた。兵隊のように銃器で武装した男たち数人と、詩乃の同僚だと名乗ったあの白髪男・松永だ。


「あ、小晴……さん」


 一佐はその傍らに小晴を見つけた。彼女はまだ人質扱いのままなのか、遅れて一佐の声に気づくと、無謀にも松永の側から離れて、


「しぇ…………センパ――――――」


 感極まったのか、半べそに表情を崩して、こちらに走り寄ってきた。が、途中でコンクリートブロックに足を取られて、すぐさま転倒してしまう。よりにもよってヒールの付いた靴を履いていたせいもある。

 先を歩いていた詩乃が、彼女の前を何食わぬ顔して通り過ぎ立ち止まると、松永たちに向かって呼びかけた。


「進展はあったのか、松永。ヘリも目立つ。あまり長居できんぞ」


 二回りは年齢差がありそうな両者だったが、詩乃は松永にぞんざいな物言いをする。


「いや。これからを見せてもらうところだった、ちょうどいいタイミングで来たな嵯渡君。それに時間なら運良く確保された。近隣の道路で交通事故が起きている。ヘリが民間機と似た機体でよかったと私も安心したよ」


 用意周到な松永に、詩乃は呆れ果てたといった視線だけ返した。松永がそう言うように、彼らの先頭に彼女――アーチルデットの姿があった。アーチルデットは、詩乃の背後で小晴を慰めていた一佐の姿に気づくと、表情を崩して手を上げた。


「おーい! 無事でよかった、ごぶさただねイッサ!」


 この緊迫下で些か無遠慮な大声を、湖面の果てまでこだまさせた。更には、取り巻く護衛たちの合間から突然尻尾を伸ばして寄越し、何のためなのか一佐の手首に巻きつけた。


「うわあ、ちょっと何っ!? それに何なんだよそんな格好して」


 アーチルデットのメイド服姿は、TPOを無視すれば妙に様になっていた。けれども触手のように蠢いて伸縮自在に変形するこの尻尾だけには、まだ慣れそうにない。生暖かく、自分の肌を這い回り、首筋に食らいついた怪物の印象がまだ皮膚に残っているからだ。

 アーチルデットは、尻尾を手首に結びつけてきただけで、それ以上何もしてこようとしない。護衛たちがまた銃を彼女に向けたりとざわついているものの、連中の関心は別にあるようで、なのにアーチルデット自身はそんな緊張状態を意に介していない素振りだった。

 松永が護衛たちの中から歩み出ると、詩乃に合図を送って何か促す。詩乃は一佐をそのまま置いて先に行ってしまった。手錠は車に乗る前の時点で一佐の両腕から外されており、今の自分の置かれた立場というものが人質なのか何なのかよくわからなくなっていた。

 アーチルデットの尻尾が一佐へと何かを伝えるように、少しだけ強く握られる。意図がわからず、ただそれにそっと指で触れて返した。


「さあて、諸君らのお目当てのものはここにあるわ」


 一佐から視線を外すと、アーチルデットは眼下に広がる水面を指し、端的に宣言した。


「だから、もういいでしょう? ダーリンを家に返してあげて。イッサもよ。二人は偶然出会った恩人ってだけで、あたし本来の目的とは無関係だから。お望み通り要求は聞いてあげる。だからもうこんな茶番劇は必要ないでしょう?」


「ああ、言われなくともそうする。もっとも、その二人にも調査に協力してもらうがな」


 更に歩み出た詩乃がアーチルデットの隣に並ぶ。

 宇宙人娘に、こともあろうに自分をダーリンなどと、随分と含みを孕んだ言い様だった。それを強く指摘し抗議してやりたくなったが――――


「――――って、ちょっと待てチル子! !? どういう意味だよ!?」


 聞き間違いかとびっくりして、衝動的に声を張り上げてしまっていた。傍らで静かに困惑した表情を浮かべる小晴に、一佐は気づけない。勿論、そんな彼の叫びも、松永らの思惑を前にしたら、完全に蚊帳の外だった。


「興味はないが職務上の理由で一応聞いておく、宇宙人。お前はこの地球に何しに来た」


 詩乃が問う。アーチルデットの目的、地球にやって来た理由、使命。一佐もそれを何一つ聞かされていない。ただ彼女は捜しものをしていると語った。一佐を巻き込んでしまうから知らない方がいいと口をつぐんだ。まさか地球の侵略などと大それた野望を持っているようには見えなかったので、それ以上強く追求しなかった。

 だが、皆が皆、もはやアーチルデットという存在に巻き込まれてしまった後だ。今更彼女の思惑を知らずしては、自身で言い放った対話による未来とやらも成立するはずがない。


「今までこの国に出現した宇宙からの〈来訪者達〉は、こぞって知性の欠けた連中ばかりだった。何がしたいのか僕らの理解の範疇を超えていた。だが、お前は違う」


 無言で湖に向かって立ち尽くしたままのアーチルデットを傍らに、詩乃は続ける。


「お前は言葉をしゃべれる。それも、何の酔狂なのかは知らんが、あえて僕らの言語を、だ。ではお前の目的は何だ。何をするために、何故この国を選んだ」


 アーチルデットは返事代わりに、一歩進む。足のすぐ先に、湖の淀んだ水が届いている。


「さあて、それを教えてあげたとして、果たして諸君らに理解できるかしら?」


 水面にその足先が触れる。と、光沢を帯びた黒いエナメルの靴は何故か水に沈み込まず、それどころか触れた水面が淡く光り、理解を超えた力を得て彼女が水上に立った。


「ま、いいでしょう。予定外のタイミングだけど、当事者である諸君らにもいつか真相を説明する必要があったものね。それでは、諸君らの言語を借りて言い換えてみましょうか」


 「よっと」と一呼吸呟くと、アーチルデットはそのまま闇に落ちた水の上を、ごく自然なものとして歩き始めた。


「この惑星から遠く、遥か星系の果てに、〈星間連盟〉という、知的文明間で締結された連盟組織が存在するわ。そして我々星間連盟は、諸君ら地球人類のことを――」


「――――――んぐ、ぃひゃぁぁ――――――――――?!?!」


 一佐の身体が、何ら脈絡のないタイミングで宙に飛び上がった。アーチルデットの尻尾がリボン状に展開し、一佐の全身を巻き取って、驚くべき力で宙へと持ち上げていた。


「――我々星間連盟は、諸君ら地球人類のことを、仮に『プリクエル』と名づけた。言葉が示すとおりの、前日譚という意味でよ」


 肺ごと急激に締めつけられたことに一佐は絶句してしまい、護衛らが銃を上に向けたまま動揺している様を、ただ茫然と上空から見下ろす構図になってしまった。


「星間連盟は、諸君らの文明で言う〈予言〉にあたる概念を主体に抱く共同体だ。諸君らの言語のなかでよく似たものに置き換えると、〈事象儀典〉フェノメノン・プロトコルと表現できるかしらね」


 水面に立つアーチルデットが、頭上にぐるぐる巻きの一佐を頂いたまま話を続ける。


「そうして〈事象儀典〉フェノメノン・プロトコルの予言が、ある因果のロードマップを、我々の前に指し示した」


 何かを示唆するように指先を天に掲げると、アーチルデットはそれを詩乃に指し直した。


「――――諸君ら〈地球人類プリクエル〉が、星間連盟を害する危険な文明系だと」


「僕たちが……害、だと?」


「そう。ここ百年以内に、この惑星でパラダイム・アセンション、つまり文明位相の急激な上層転移現象が引き起こされる。現在の地球人類はその現象の踏み台となり、文明の表舞台から去ることになるわ。文字通り、次代のための、前日譚としての役割を終えてね」


 アーチルデットの口から次々に飛び出す不可思議な単語に、持ち上げられたままの一佐も、立ち尽くす松永たちも、意味を咀嚼できず唖然とした表情を返すばかりだった。ただ詩乃だけが一人、険しい表情を崩さず、真っ向からアーチルデットの目を捉えていた。


「原因は? お前の言う現象とこの国に一体何の関係があると?」


「原因はまだわからない。ただパラダイム・アセンションは極東アジア地域に紐解かれると示された。あたしが星間連盟から与えられた使命は、それを調べ、未然に阻止すること」


「……わからないな。最初はお前がこの星にとっての侵略者なのかと思ったが、まるで僕らの方がお前たちの世界にとっての侵略者だ、とでも言いたげだな」


「結果としてそうなると言ってるの。そう遠くない未来、地球人に連なる何者かが宇宙へと進出して、あたしたち全てを滅ぼすことになる。つまり地球人類はあたしらの未来の敵。そうなる前にケリをつけるため、あたしはここに来た。オーケー?」


「はは。それはこちらとしては随分と迷惑な話だな」


 それは詩乃が初めて見せる笑顔だった。だが、目はそうは訴えていない。交渉役を彼女に一任しているからなのか、松永は距離を置いた位置からずっと傍観を決め込んでいる。

 アーチルデットは浮かべていた笑みの表情を唐突に剥ぎ取り、


「あるいは何も知らないのはあなただけで、この国の支配層はそうなる原因を既に知っている」


 何ら感情を宿さない目で、詩乃の意識を彼女側へと強く縫いつけるようにした。生存本能の鳴らす警鐘が、内側から鼓動を掻き乱す。ぞっとする感覚。詩乃の意志が一瞬たじろぐが、同じ過ちは犯さない。


「……陰謀論だ。馬鹿馬鹿しい、何を根拠に……」


「そういう秘密の情報を知りやすい環境にいるのは、あなた自身でなくて?」


「まさか。そんなものはタブロイド紙の記者かオカルト信奉者のテリトリーだ。余所をあたってくれないか」


 詩乃は遂に、目の前に立つオカルトめいた宇宙人の言うことなどに聞く耳持たなくなったかのような態度で、投げかけられる視線を受け流した。危うく相手の空気に飲まれるところだったのに気づいたからだ。百年以内などと、気の遠くなるような陰謀が人類の行く末に立ちはだかるとして、そんなものは詩乃にとっては関わりがない問題なのだ。


「でも、面白い話だったよ。ちょっとした宇宙映画みたいだ」


 代わりに詩乃は、闇色に染め上がった湖面を見据える。


「では宇宙人、そろそろ我々からの要求に答えてもらおうか。湖底に隠した宇宙船をさっさと呼び出せ。今すぐにだ」


「……はあ、あなた、石頭だけでなく分からず屋さんなのね、せっかくこっちが腹を割って話してあげたっていうのに。この国の人間が我々の宇宙船を手に入れてどうするおつもり? 獲得したオーバーテクノロジーを独占して、国際的優位にでも立つつもりか」


 皮肉も挑発も意に介さず、詩乃はその先の言葉を続ける。


「ご託はいいからそのまま宇宙船に乗ってとっとと帰れ、と言っている。オーバーテクノロジー? はっ、そんなものどうだっていい。お前みたいなのは二度とこの星に来るな」


 そんな反応が余程予想し得なかったのか、アーチルデットは半開きの口のまま目を白黒とさせると、脱力した尻尾から一佐がすっぽ抜けて、真っ逆さまに水面へとダイブした。背後から随分と間の抜けた音が響く。飛沫を浴びてようやく慌てふためいたアーチルデットが振り返り、濡れそぼって水面から顔を出した一佐に「ありゃ、ごめん」と合掌する。


「…………あのう、悪いけど、それ……ど、どういう意味かしら? あなたたちみたいな連中だから、てっきり革新技術の強奪と軍事転用でも企んでいるものかと思ってたのに」


「お前は僕らを害と言ったな? では、お前のような存在こそ僕らの世界にとって害悪だ」


 気勢を削がれたアーチルデットが目を丸くする。継いで詩乃は、含まれた意図も語った。


「教えておいてやろう。隣国である中国には、既にお前のような超越者オーバーロードの先客がいるともっぱらの噂だ。連中がどうやってそんなふざけた化け物を籠絡し得たのかは知らんが、お前のような奴がこの国にいれば、きっとお前の力を巡って世界的な争いが起こる」


 詩乃はショルダーホルスターから電磁ニードルガンを抜き、険しい眼差しを添えて、再びそれをアーチルデットへと向けた。

「へええ。そりゃあ初耳だ。すっごくイイコト聞いちゃった」


 アーチルデットは銃口を歯牙にもかけず、それどころか詩乃の言葉に何故か我が意を得たりと、瞳を爛々とさせ始めた。

 ヘリの羽ばたきと、無線の音が割り込むように響いた。新たなサーチライトが水上のアーチルデットと一佐、そして対峙する詩乃の姿を照らし出す。特殊部隊然と固められた装備の護衛たちが、アサルトライフルを一斉に彼女らへと向けて構えた。


「――お前の存在こそが、この世界の新たな戦争の火種となる。この星から去れ、化け物」


 そんな意志を込めた詩乃の言葉を、押し黙ったままだった松永が唐突に銃口で遮った。


「……待て。どういう真似だ嵯渡詩乃。それともそれは拝藤の指示か? 国を裏切る気か」


 松永の向けた鈍色の銃口は、アーチルデットではなく同僚の詩乃を指していた。詩乃は答えない。彼女の視線は、未だ水面に揺らぐ少女だけに仕向けられたままだ。

 松永は、己の意に沿わぬ詩乃を牽制したまま、首だけ湖側に向けると、


「宇宙人よ、政府の断りなしに我が国から去るなど許されない。いいか、そのまま動くなよ。宇宙船は約束どおり渡してもらう。お前自身の身柄もだ」


 ヘリの風圧に晒されながら、複雑に交錯する互いの銃口。途端、空気が張り詰める。


「ここの水中地形をあらかたさらってみたよ。上空から可視光レーザーでね。湖を輪切りにしても、湖底にそれらしき物体は何一つ映らなかったと、いま連絡があった。こんな場所までおびき出して何をするつもりだったかは知らんが、君は我々をまんまとハメてくれたようだ」


 上空をホバリングするヘリから覘くスナイパーライフルの砲身を、一佐は見てしまう。狙撃手の不気味なシルエット。赤く明滅する電子スコープが、スタビライザー制御と暗視フィルタとを介し、標的の頭部を照準している。松永の意に沿わない方を撃ち抜くための銃口。

 〈外交官達〉は一枚岩ではないのだろうか。一佐はそれをアーチルデットに訴えるが、彼女はただ短く頷くだけで、事態は静観される。


「宇宙船と宇宙人。どちらも我が国の脅威であり、また我が国の国益にかなうものだ。嗅ぎ回る〈基金〉の目からは逃れられんぞ。君のいま選択した行動は、忠誠を誓うべき国家への裏切りともなりかねない。違うかね、嵯渡君?」


 安全装置が外され、引き金に松永の指先が伸ばされる。詩乃の足元でへたばり込んだままだった小晴が短く悲鳴を上げ身震いした。

 詩乃は抵抗しない。代わりに目を閉じる。小晴の頭に軽く手を置くと、上着の裏ポケットから携帯端末を取り出し、誰かの連絡先を呼び出して耳元に当てた。


「結構、それが基本だ。君の上司と存分に協議するがいい。我々も省の意志に沿って使命を果たさせてもらう」


 言い終えるや否や、松永は湖面目がけて、躊躇なく拳銃の引き金を引いた。

 アーチルデットの足元に飛沫が上がり、波紋が小さく波立った。ドン、と野太い残響が、遠くの対岸目がけて染み渡ってゆくのを一佐も聞いた。


「さあ、宇宙船の本当の隠し場所を教えたまえ」


 実際に撃つことも、対象に当てることも可能だという警告。松永のその言葉を聞いて、アーチルデットは温厚そうに取り繕っていた表情を崩す。瞳を細め、人間の愚かさに心底呆れたとでも訴えかけるように。


「……………………………………………………………………………………はあぁ」


 深く深く、踵の下、水底まで届くほどにうんざりとした声で。


「ねえ、二人ともあたしがせっかく話してあげたこと、まーるで聞いてなかったのかしら? あたしは『地球の未来が大変なことになる』と言いました」


 途端、アーチルデットの輪郭が淡い光を帯びるのを、一佐もその目ではっきりと見た。


「なのにさ、そんな重い使命も果たさず、とっとと宇宙に帰れと言われて、ハイそうですかと帰るほど都合よく因果は回っちゃいないし、商売道具である宇宙船を渡せと言われて、喜んで差し出す間抜けがわざわざこんな辺境の星まで来るわけないでしょう」


 光はより青白く、いつか見た幾何学模様を描き始めた。

 湖面に立つアーチルデットの眼が、暗がりのさなかに煌々とした輝きを灯した。一見して邪悪な怪物にすら見える彼女の姿を目撃した護衛たちが、驚愕のあまりどよめき出す。


「それに、随分と心外なことを言ってくれるわね。あたしは騙すつもりなんてないし、嘘をついてもいない。あたしが言ったとおり、諸君らのお望みのものなら、のに」


 彼女の言葉をかき消すように、再び銃声が鳴り響いた。

 尻尾越しに一佐へと伝わる、鈍い感触。どくんと脈打って、甘く焼け焦げたにおいがして、体液が水面にまで飛び散った。

 額を撃ち抜かれた衝撃でアーチルデットの首が傾いだ。だが、両目の双眸が更に強く、紫の蛍光色を発している。弾丸で奪われたはずの生気とは異なる何かの揺らめきが、そこからおびただしく溢れ出るかのように。


「ぬ、うおっ――――!?」


 もう一発。動揺した松永が奇声を上げて発砲を続ける。何度目かで胸元を貫通するが、そこからは体液の代わりに青白い光が漏れ出た。



「――――――いいわ、お前たちが欲しがる『宇宙船』とやらが何なのか、見せてあげましょう。そしてその目に焼きつけて存分に後悔するといい、下位者ども」



 アーチルデットの纏った服が、突然、紫色の炎に燃え上がり、すぐさま焼け落ちた。燃え残った裸体を這い落ちる炎の雫。輝き燃え盛る液体。それは彼女の身体から溢れるように更に湧き出ると、瀑布となって湖面へと染み渡ってゆく。

 やがてアーチルデットの肢体そのものが光を帯びて、その輪郭がおぼろに溶け始めた。光る皮膚。表層から順繰りに鱗として剥がれ出し、一枚また一枚と、主の肉体より飛び立ってゆく。それは、頭部に光輪を掲げ羽根を生やした、光り輝くヒトガタにも思える何か。

 アーチルデットが少しずつ欠け落ちて、本来の像を失ってゆき、損なわれる代わりに膨大な数のヒトガタ天使の群れを産む。

 そうして〈彼女〉の実体がそこに無くなったあとでも、ヒトガタ天使たちがその周囲をまるで葉虫のように群がり、アーチルデットの重力が損なわれたのに未だ気づけないかのように、ただぐるぐると円軌道を描き続けていた。

 炎の雫を受けた湖面が、彼女と呼応するように波打っている。水中から夜光虫めいた光の粒子が膨大に群れなして集まり始めると、波の飛沫が生命を得た流体然と螺旋を描いて立ち上り、宙に寄り集まったヒトガタ天使を飲み込んだ。それらは化学的に合成し合い、ねじ上げられ、うずたかい光の塔を築き、その中を水槽のように遊泳して、少女だったものの表象を残らず解体し、規定し、再解釈し、異なる定義の下に造型を削り出して、神々しいまでに光の霧散が繰り返されて、より高く上昇し、新たな存在へと形へと遷移させ、昇華して――――。


 『それ』が果たして何なのか。それをこの瞬間目の当たりにした彼らの備える感覚器は、誰しも少なからずの戸惑いを浮かべたのだろう。

 黒水晶モーリオンの輝きを帯びた外殻。流線型に伸びる機首ノーズから尾翼に至るまで、有機的なフォルムを描いてゆく。前進翼に見えた主翼が、左右合わせて六枚。この惑星の概念になぞらえるならば、絶滅した翼竜たちが進化の過程で獲得した被膜構造に似た飛翼を持つ、未知なる飛翔体。翼が躍動するように伸縮し、被膜に刻まれたフィンから青い光の粒子を吐きながら、『それ』は人工湖の水面を滞空していた。

 湖面に浮かんだままだった一佐へと、〈彼女〉だった名残のようにワイヤー状の尻尾が長く伸びて、もう一度その身体を絡め取った。脈動する。でも、締めつける力は決して強くはない。あの時に垣間見た幾何学模様の青白い光が、機体に輝いているのがわかる。

 この光景を居合わせたあらゆる者たちは言葉を奪われて、その場に立ち尽くすしかなかった。アンノウンだ。彼らの眼前に、あの未確認機体アンノウンが再現された。松永の言う宇宙船など最初から存在せず、のだ。一佐は茫然とそう確信した。


『――――――――おいで、ミィヤ』


 見知った声。見知った響き。確かに今、一佐の頭の内に鳴り響いた気がした。


『――――あい・さー、ししょー』


 一佐はもう一度聞いた。今度の声はミィヤのものだ。ミィヤの返事と、それを耳にした小晴の悲鳴が聞こえた。

 小晴の着ていたワンピース。その肩に結びつけられた黒い布が唐突に暴れ出して、


「なっ、な、ナニ、ちょっとやだ…………うわ、きゃあっ」


 生き物のように蠢き始めた布は、勝手に小晴から解ける。と、裏側に捻じれて、真っ白な鷺のような形状に有り様を変え、銃を手に茫然としたままだった松永の腕へと飛びかかった。ぐるりと手の平の周囲に取りついて回転する。握りしめた拳銃を堪らず離すと、今度は松永の顔に張りついて羽ばたき、力任せに引きずり倒して、発砲すべきかと慌てふためく護衛たち目がけ突っ込んでいった。撃て、撃つなと、混迷極まる惨状を尻目に、小晴はわけもわからず、腰を抜かしてしゃがみ込んでしまった。


『ミィヤ、コハルを助けてあげて。立てる? イッサも一緒に――――――』


 光を吐いて滞空したままだった巨大なアンノウンの機影。撒き散らされる粒子と、風圧と嘶くような轟音。長く伸びる尻尾で一佐を抱えたままだった〈彼女〉は、羽ばたくミィヤに引っ張られてきた小晴を諸共にぐるぐると巻きつけて、

 空中に釣り上げた二人と一匹を、四つに割れた機首先の『顎』から体内に喰らい、ごくりと飲み込んでしまった。


「なっ――――人間を……喰った!?」「撃て、いいから撃墜しろッ――――――!!」


 もはや誰の指図なのかもわからぬままに、遅れて銃撃の一斉掃射が始まった。

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