(Ⅲ)
月は犠牲になったのだ。
1
「――――ねえ、ちょっとぉっ! ここから出してくださいよぉ!」
舘丸小晴は、天然ちゃんでおっとりとしているなどと、度々周囲の皆から有り体な形容をされてしまうその声を死に物狂いに張り上げて、周りに自らの悲痛さを訴えた。
「わたしなんにもしてませんてば! 免許もちゃんと自分のだし! 期限切れてないし!」
どんどん。鋼鉄製の分厚い格子窓を力任せに引っ張る。不安、恐怖、あるいは絶望。疲労と焦燥と徒労感。ひと匙の衝動的な憤り。溢れ出そうなない交ぜの感情に苛まれ、更なる不安で押し潰されそうになっていた。でも、今行動しなければ、きっと元通りの日常に帰られなくなる。考えてその結末に至ると、とてつもなく怖くなった。
「調べもしないでいきなり牢屋とか、意味わっかんないですってば! もう!」
どんどん。外側からあの男たちに施錠され、非力な小晴ではどうすることもできない。
ただお願いされて至極合法的に車を運転したというだけなのに、自分はどうしてこんなにもわけのわからない事態に巻き込まれてしまったのだろう。予定だって無茶苦茶だ。機種変更したばかりの真新しい携帯端末も取り上げられてしまった。なけなしのバイト代をはたいて手に入れた、お気に入りのバッグ諸共。父に何と説明すればよいのだろう。父は今頃ちゃんと飯を食えているのだろうか。いや飯はいい、あいつは勝手に飢えていろ。それよりも一両日中にも帰宅できなければ、来週の模試での撃沈は確実。いやそれも些細な問題だ。やはりあの時意地なんて張らず、予備校に通わせてもらうべきだったのだろうか。
脳裏をぐるぐると廻る、自分の中に詰まったいくつかのものたち。
小晴は叫んで、そして考えた。一緒にいたはずの戸原先輩は、一体どこに連れて行かれたのだろう。先輩が何かしでかした可能性を想像する。今時珍しいくらいに平和的天然思考で年下でちびっこいあの一佐少年が、まさかカード偽造などの犯罪行為に手を染めるはずがない。一瞬でも彼を疑ってしまった自分を恥入ったのは、まだ半日足らず前のことだ。
代わりにそんな憶測を鼻で笑うような圧倒的現実が、今まさに彼女の眼前にいる。
小晴は、泣き出したい気持ちを、しかしまだ相手に言葉が通じるという一握の希望を胸に、必死に自身を奮い立たせた。
「……だいたい、何でそそそその子と一緒の部屋なんですかっ!? せめて別のへや――」
そんな要領を得ない訴えを妨げるように、小晴を閉じ込めた檻をコンテナに収めるトレーラーのエンジンが始動し、碌な暖機もせず急発進した。
連結部が軋み、遅れて車体が大きく揺さぶられる。体勢を崩した小晴が、格子に思い切り鼻っ柱をぶつけた。じんとする鼻を押さえ、思わず妙ちくりんな呻き声を上げる。
そんな小晴の姿に、
「んふふ、どーも。お嬢さん、可愛いね?」
この囚人房の先約だったらしき青い髪をした少女が、くすり喉を鳴らして笑うのだった。
「あたし、チル子よ? はじめましてー」
「――――――――ひぃっ!?」
何食わぬ表情で妙な熱視線を送る謎の少女に、小晴は裏返ったような悲鳴を上げ、腰を抜かして鉄格子を背にへたり込んだ。この少女は、さっきまで目を閉じたまま死んだように動かなくなっていたはずだ。なのに、何故突然に。小晴の目頭に涙まで浮かんでくる。
「…………ふむ。さてはて、あの〈外交官達〉とか言ってた連中、一体何の意図でこの娘をあたしとおんなじ牢屋にブチ込んだのか皆目わからんのだが。キミ、なんか聞いてる?」
が、小晴はただただ漏れ出そうな悲鳴を押し殺すのに精一杯で、彼女からの意図不明な問いかけに必死でかぶりを振ることしかできない。
自分の目の前にいる、一見愛らしい外見をした存在の正体が果たして何者なのか、小晴は既に知ってしまっていた。無理やり押し込められた黒塗りセダンの車中で見せられたモニター越し映像で、この少女、アーチルデットが人にあらざる肉体を持つ者であると、まさにその本質を露わにした瞬間を目の当たりにしていたからだ。
「ははーん。これは遠慮なく『喰って構わん』ってことなのかにゃあ? なにやらこの娘、あのシノとか言ったボクっ娘と違って、なかなかにスタイル良さげだしにゃあ?」
主に小晴の起伏豊かな胸元に、アーチルデットからの好奇の視線が向けられる。じゅるり。舌なめずりの音まで立てられてしまう。
「いやぁ、ボクっ娘はいかん。ありゃあネタなのかマジなのか知らんが、時代錯誤甚だしい。イッサもそうだけど、本当にこの国には珍妙な奴が多い。ねえ、お嬢さん?」
珍妙にも、猫耳カチューシャを装着したアーチルデットは、座り込んでいた床から四つん這いになり、メイド服のスカートから伸びた尻尾を生々しく二三度はためかせて、握った両手を怪しげに結んで開いてしつつ、後じさる小晴までにじり寄ってゆく。アーチルデットの内に昂ぶり始めた未知なる好奇心は、完全に小晴の肉体そのものに向けられていた。
「ちょ、あ、あなたっ! 戸原先輩とあんな仲良さげだったのに、先輩に一体なななナニしたんでしゅ――ですかっ!! わ、わわわわたしこのままま食べられちゃうですか!?」
必死にもがいて足をばたつかせるが、猛獣移送用もかくやと思わせる強固な檻の中だ、一浪人生に過ぎない小晴に逃げ場などない。
アーチルデットは座った目で、怯え狂う小晴の醜態を見守っていた。尾が威嚇する毒蛇のごとくゆっくりと鎌首をもたげる。愛らしい猫だなんて形容はただの
狂気めいた雰囲気を現実側に揺り戻させるように、鉄格子とは異なる金属音がハーモニーとなって、彼女らを威圧した。檻の前方に配置されていた見張りたち三人が、一様にしてこちらにごついアサルトライフルの銃口を向けている。あの灰色スーツたちと異なり、拡張感覚バイザー組み込み式ヘルメットから身に纏う強化外装に至るまで、大仰にも特殊部隊然とした出で立ち。彼らは静かにしろとも何とも言葉を発さないが、代わりに動作で警告を体現する。それ以上はルール違反だ、余計な真似をするなとでも言いたげに。
が、アーチルデットは彼らを冷やかに一瞥すると、「んなもんここでブッ放したら、流れ弾でおっ死ぬ奴のが多くってよ? まず最初に運転手が死ぬ。もしこのカーゴルームが防弾仕様だとしたら、あんたらが先」と冷静に返して、それどころか「それより、ね、おっさん。この子、剥いちゃってもよい?」などと扇情的な笑みを浮かべながら、今にも殺されそうな悲鳴を上げ助けを懇願する小晴の足に尻尾を巻きつけると、囚われの身分で地球人相手にふしだらな悪ふざけまでやらかし始めた。
「ね、ね、こっちおいでよ。あたしね、地球人の女の子とプライベートなお話しするのは初めてなので、わくわくしちゃう!」
「――――――――――――!?」
アーチルデットの尻尾は、長くて細い形状に似合わず恐るべき怪力を発揮した。小晴の握力に油断が生まれて、しがみついていた鉄格子から強引に引き剥がされると、そのまま床を引きずられて主の元へと手繰り寄せられていった。
「食べるなんて冗談だからあ、おいで……さあ」
「――――――――――――!!??」
喉がもつれ、小晴の声帯がその役目を空転させる。アーチルデットは暴れる小晴を抱きしめ、首根っこを引っ掴むと馬乗りに組み敷いて、ワンピースの胸元を乱暴にはだける。そのまま顔を迫らせて、鼻を押しつけるように粗っぽく小晴の唇を塞いだ。
「大丈夫よ……大丈夫、あたしを噛まないで。落ち着くの、コハル」
文明を跨いだランデブー。
「そう……だいじょうぶ。もいっかいね?」
一旦引き離された唇は、まるで磁力に引かれるように、再び重ね合わせられる。
見張りたちはその様子を前にして、固唾を呑むように、警告姿勢のまま微動だにしない。地球外知的生命体と地球人類代表者兼実験体の、不可思議な接触行動。ヘルメットに埋め込まれた複眼カメラが、貴重な映像資料としてのこの状況を電子的に記録し続けている。
どれほど時間が経過しただろうか。感覚の麻痺にただ溺れるようにして、小晴は重たい瞼を開けていられなくなる。
やがて互いの唇が離れる。小晴は朦朧とした表情で、しかしごく自然な手つきで口を拭った。甲に滲むリップのラメ。初めての宇宙人は、ただ甘く焦げたような、お酒のような、とにかくとても不思議な味がした。
「なるほど……コハルもイッサに似ているね。同じ味がするわ」
彼女が自分に何を伝えようとしているのか、小晴にはわからない。
運悪く引っかけたのか、ワンピースの肩紐が片っ方だけ千切れてしまい、それに気づいたアーチルデットは尻尾の先に結ばれたやたらと大きな黒いリボンを解くと、何をどうやったのかそれを代わりにと結びつけてくる。
その子をお願いね。
まるで白昼夢のような意識に惑わされながら、そんな意味の言葉を聞いた気がした。
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