(Ⅰ)

へびつかい座星人、ソラから我が家に襲来する。

 戸原とばる一佐いっさは、携帯端末の通話アイコンからジャンプして、指先で実家の電話番号を探り出した。そのまま耳元に当て、大抵は真っ先に受話器を取る母親の声を待つ。

 待ち受け音声が鳴り続く間、後ろ手にジッパーを開けたウエストポーチから小さなリングメモを取り出す。視線を走らせる先の紙面にはびっしりと、殴り書きのような直筆のスケジュールで埋め尽くされている。午前中に残りの荷造りと運送の依頼、午後一番に新居への仮引っ越し。夕食は一人で手早く済ませ、夜勤のアルバイト先へと徒歩で向かう。

 新天地での生活。バイト先まで徒歩で辿り着けるだなんて、ちょっとした奇跡だ。胸が弾む。翌日からは、さてどうしようか。


            


 戸原一佐には、たくさんのことが思い出せなかった。物心ついた頃から、細かなことが、それぞれ少しずつだけ思い出せなくなってしまっていた。

 母親が言うには、一佐が八歳くらいの頃、当時の遺伝子改変技術トランスジェニック浸透から生まれた弊害で、国内でもいくつか感染症の汎発流行パンデミックが起こったのだという。はっきりとは覚えていないが、一佐自身も原因不明の高熱に何日か苛まれたらしい。それもすぐに完治したものの、脳と呼吸器に軽い後遺症が残ったお陰で、薬が手放せなくなった。

 戸原一佐の思い出せない何かたちの筆頭に、例えば子供の頃に抱いた夢があった。幼かった自分の原動力だった夢は、その熱量だけ今も余しながら、行き場を失い胸の内にずっとくすぶっている。夢の正体が何だったのか思い出せなくなってしまっていた。

 中学の頃、当時つるんでいた連中に「UFOにアブダクトされてへびつかい座星人に記憶操作でもされたんじゃねえの?」などとオカルトネタの主人公にされてしまった。脳にチップが埋め込まれている設定が、地元でも話題になった。一佐よりも症状の軽かった人間たちから、彼の物覚えの悪さや夢見がちなところをそう揶揄されることもあったのだ。

 思い出せなくなった人たちもいた。夢にまだ形があったあの頃、例えば自分のそばには親しい女の子がいたはずだ。自分はおそらく彼女に対して、子供ながらに淡い感情を抱いていたのだけははっきりと記憶している。彼女と結婚だって約束したかもしれない。

 なのに、彼女の正体が果たして小さい頃の幼馴染みだったのか、あるいは思い出せるだけで最低五人はいる従姉妹たちのうちの誰かだったのか、今となってはあやふやだ。

 淡い色をした髪の少女。長い睫毛。“ぼく”よりも少しだけ高い背丈、麦わら帽子、白く透きとおるようなワンピース。木陰が織り成す複雑な陰影と、夏の大気のにおい。交わし合った、夢か何かの話。その不思議な瞳に吸い込まれそうになる。ぼんやりと暖かな映像として、ただ宝物のように脳裏に揺らめき続けている。

 全くふざけている。それら全部が幻想、まるで願望めいていた。だから一佐は彼女を『思い出補正ちゃん』と名づけ、そんな自分の妄想力に何度も呆れ果ててきたのだった。


            


 ただ物覚えが人一倍悪い程度のことで、元来たくましい子供だった一佐が大人になるために支障はなかった。メモ帳でも身につけておけば、それだけで記憶の揮発性も最低限補完される。

 差し込まれたペンを片手だけで器用に外すと、その空白部に続けるべきタスク・スケジュールを、彼なりに噛み砕いて追記し始めた。

 戸原一佐が高校を卒業して、過ぎ去った春のさらにその先。初夏の到来を感じる、日差しの強い六月の午後のことだった。

 駅前の繁華街を十字に交差する目抜き通りよりも一街区ほど奥まった区画に、彼の新居となるマンションがそびえ立っていた。雑草の放置されたエントランスを抜け、セキュリティが切られ開け放たれたままになっていた玄関口からロビーに踏み込み、主電源が落とされたエレベーターを横目に階段で三階まで上がり、共用廊下から三〇二号室のあたりを眺めたところで、ようやく異変に気がついた。

 ここいらは都市の再開発計画に取り残された地域というわけでもなく、時代の流れで自然と寂れていったのだと生前に祖父が話してくれた。幼少期より一佐はその母方の祖父と仲がよく、兄と姉と親類がやたら多いというこの時代にしては希な家庭事情もあって、学校を出て大人になったとき、生家で自分の居場所を見失うのは避けられない転機だった。

 祖父はやや大仰な表現をすれば資産家と呼べる人物でもあり、税務処理上の名義関係がどうなっているのかはよく知らないが、一佐が今立っているこのマンションも元は祖父の持ち物だ。マンションと言っても管理者不在等々の経緯で居住者のいなくなった、今や廃マンション然とした趣きではあったが、一佐はそれを舌先三寸の口約束で祖父からもらい受けることに成功し、バイト稼業の新たな活動拠点として引っ越してきたのである。

 管理されず放置された期間は決して短くないため、外観も内装も風化が進み、見てくれは綺麗ではなかった。とは言え、何より親族権威を盾に敷金礼金家賃不要の契約を取りつけ、駅前近郊という好立地条件も相まって、都市部でのアルバイト活動の拠点として他に代えがたいメリットが一佐にはあった。

 そんな、戸原一佐にとっての新天地に踏み込んでみれば、


「――――あ、もしもし? 今着いたんだけど。ぼくの部屋の前になんかあるんだけど」


 息づかいですぐに母親とわかった。だから電話が繋がって開口一番にそう伝える。


『え、なんか、って何。そこはおじいちゃんが寝たきりになった頃からずっと放りっぱなしだったから、いちいち掃除なんてしてないわよ?』


「ああ、いや、だからさ違くて。三〇二号んとこにさ、身に覚えのない荷物が来ててさ。母さん、こっちになんか送った?」


 十五戸はあったはずの中であえて三〇二号室を選んだのは、元から空室だったために清掃と家財搬入等の引っ越し作業が楽そうだったからだ。だがその玄関前には今、うずたかく積み上がった段ボール箱でちょっとした山ができあがっている。何者が運び込んだものなのか、段ボール箱は整然とガムテープで梱包処理されており、明らかに真新しいものだ。


『んー、何で母さんがそんなの送んなきゃならないの? 恭叔父さんが昨日トラックで運んどいてくれたあんたの荷物じゃなくて? 宅配屋の伝票みたいなのは貼ってないの?』


 リングメモを手に、耳に端末を当てたまま玄関前まで移動し、くだんの荷物を一瞥する。


「うん、貼ってない。それにこれ、ぼくのじゃないよ。昨日運んでもらったのって、当面着る服と布団と自転車だけだもの」


 ポーチの中からカードキーを探り出すと、三〇二号室の玄関に設えられた錠前に当て、ぴくりとも反応がないのに「うわ、忘れてた」などと慌ててそれを離してしまった。配電室かどこかを先日叔父に弄ってもらっていたのでこの部屋に電気自体は来ているはずだが、どうやらセキュリティロックも解除したままだったらしい。


『またあんたのいつものウッカリじゃないでしょうね。予定メモしてなかったの?』


 リングメモをポーチに滑り込ませ、母の声を無視すると、一佐は玄関のノブを無意識に、


「――動くな。こちらは銃を持っている」


 ひねることができず、代わりに心臓が止まるくらいの冷や汗を全身に感じた。

 低く重ったるい声が、背後、自分の耳元のすぐ裏側から一佐を威圧した。

 要件は端的だ。だが全く耳に覚えのない質の声だ。ノブを握りしめ硬直したままの手首が、何者かの厳つい手によって自由を奪われている。込められた力が、これは悪ふざけでない事を如実に語っている。皮膚越しの、気味の悪い汗。一佐が単に同年代の中では図抜けて小柄なせいからという理由だけではなく、男の手は不自然に大きい。そして男の放った言葉を証明するために、冷たく硬質な感触が一佐の脳幹あたりに突きつけられている。

 男は、銃だと言った。肌がそこだけ発泡するようにざわつく。この体勢では相手の顔も見えない。携帯端末のスピーカーが、すっとぼけた母の音声を無尽蔵にまき散らしている。

 知らない男は一佐の携帯端末を奪い取ると手早く通話を切断し、銃らしき何かを突きつけたまま、ドアノブをゆっくりと回すよう促した。四肢の末端に行き渡らない血。ただただ他人事のように身体だけが動いてゆく。


            ◆


 知らない男の命令に抗えず、一佐は無理矢理に三〇二号室の室内へと押し込められた。

 新天地となるはずだったこの部屋に辿り着いた彼の眼前には、玄関前の延長線上にある光景が待ち受けていた。雑然と積み上げられた段ボール箱の山。そのいくつかが開封され、光学モニターや用途不明の電子機器にカラフルなケーブルの束がフローリングの床方々に散らばり、持ち主の組み立て作業を雑然と待機している。

 これも持ち込まれたものなのだろうか、真新しいソファの中央に男が座っていた。二十代後半くらいの、そこいらの繁華街の雑踏に埋もれてしまいそうな、目立たない男だった。

 背後の男は「招かれざるお客さんだ」と一佐について説明し、若い男は舌打ちしたあとに強化プラスティック製の手錠を取り出すと「消すか、こいつ?」などと暴力的なほのめかしをさらりと言ってのけ、慣れた手つきで一佐を拘束した。

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