クラーク軌道のプリンセス

学倉十吾

(Introduction)

イントロダクション

静止衛星クラウドナインについて

『――静止軌道GSO、静止経度145.0°E、高度三万六千キロメートル、STS/L社製』


 十コール目で取り上げた受話器越しに相手が喋り始めたのは、うんざりするほど暗号めいた断片情報の羅列だった。

 喫煙中毒者だったらしい前任者の名残が消えない送話口を緊張した手つきで覆うと、自分以外誰もいない分室のデスクで不自然に背を丸めながら、田端たばた博継ひろつぐは応答すべき言葉を数秒間詰まらせた。


国際衛星識別符号NSSDC ID2030―029X。電子内戦後の、世界規模の混乱のどさくさで、復興事業と寸断されたネットワーク網刷新を名目に下りた予算から……でしたかね』


 所属すら名乗らなかった時点でおかしな相手だと気づくべきだったと、田端は早くも後悔していた。


『そうそう、当時は宇宙開発庁管轄ですが、極東アジア通信衛星機構、いわゆるFEATelesatフェアテレサットの下部プロジェクトだったのはよく覚えています』


 相づちすら返さないこちらを気にも留めず、相手はなおも続ける。音声合成かと聞き間違えそうなほどに粗いビットレートで、四半世紀前にデジタル化を果たした回線網をアナログチックに欺こうとしている。盗聴を恐れての処置、あるいは特異な手段、場所からこちらに回線を繋いでいる可能性の示唆。いや、言葉づかい自体にも、慇懃無礼と言うよりはどこか訛りに似た違和感を嗅ぎ取ることができる。何より、眠たい企業人連中にしては、相手はどこか手慣れており、物騒な声色もしていた。

 いずれにしろ田端は、電話越しに相手の男がこちらから聞き出そうとしているものの意味を知っていた。だから、これ以上念仏のごとく男に呟き続けられるのを断ち切るべく、ある名称を送話口に向けて吹き込んでやる。


「――クラウドナイン。要するに、そう仰りたいので?」


 クラウドナイン。そんな名前を冠する人工衛星が、今も赤道上の高度三万六千キロメートルあたりに浮かび、地球の自転速度に同期して円軌道を描いている。そもそも田端自身が過去に携わった事業だ。

 ただ、あれは単なる次世代衛星ネット通信網の実験計画のために打ち上げた、いくつかの実験衛星のうちの一つだった。どこぞの諜報機関やあこぎな商売人崩れが、自分のようなうだつの上がらない中年窓際社員をご丁寧に脅迫してでも情報を欲しがるような、とにかくヤバい代物ではない。


『そうそう、ご名答、クラウドナインね。退役後は民間に移行、以後の運用は洋上自治区内のオービタルエイジェント社が継続――』


「もちろん知ってますよ。でも、申し訳ないが、あれはもう随分昔に終わったプロジェクトです。オービタルエイジェントも昨年解散した」


 面倒そうな相手との冗長なやり取りを回避すべく、先制して答えた。嘘偽りない事実だ。包み隠さずも何も、民間ネット網エイリアス上の弊社公式サイトに、宇宙開発庁との事業協力の経緯から株式会社オービタルエイジェントの吸収合併に至るまで、成人レベルの日本語読解力さえ備えていれば理解できるようにきちんと情報公開されている。そう、日本語、でなら。


『構いませんよ、私どもが関心を持ってるのは過去ではない、現在の問題についてなのですよ。では本題に。ミスタ・タバタ、取引をしましょう。ちょっとアンダーグラウンドかもしれない。でも私どもはそれの情報が欲しい』


「ええと、それはまた随分と急なお話で。おたく、どちらさん? 外国の方?」


 田端にすれば、最初から随分と不躾な電話だった。組織の連絡体系をまとめてすっ飛ばして、この分室の直通電話まで、それも名前どころか所属も名乗らずに、である。それとも何か、既に親会社どころか開発庁の石頭どもやJAXAあたりとの話も決着済みだったりするのだろうか。上のお偉方連中が下っ端のこちらに相談もせず勝手な決めごとをして、決まったら決まったで、こちらには碌に連絡も寄越さずに。


『ああ、ごめんなさい。私はCASC、中国航天科技集団公司のものです。初めまして』


 田端にも聞き覚えがあった。お隣の中華人民共和国で宇宙開発計画の一端を担う民間企業の名前が、確かそんな響きだ。オービタルエイジェントと同じフェアテレサット参画企業だが、あちらは国営企業をバックに組んず解れつとかいう、きな臭い噂も耳にしていた。


「なるほど、それはそれはとんでもないところからご苦労様で。で、中国さんがまた何のご用向きでわざわざこんな僕にまで電話を?」


 元から電話越しの対話が得意な性分ではなかったが、相手の不躾な態度をごくごく内密な相談ごとだと勝手に解釈し、やや砕けた言い回しで返してやる。今までにも仕事繋がりでのきな臭いオファーなら数知れず聞き流してきた田端だったが、今回のは相手側の思惑が全く読めない。相手の思惑を窺うか、それとも問答無用に電話を切ってしまうべきか。

 数十秒間ほどの逡巡の後、受話器の向こう側の人物――おそらく田端よりも一回りは上の年代であろうその男は、やや発音と言い回しに癖のある日本語でこう伝えた。


『現在、我が国では国家を挙げて環境保全を宇宙開発分野にまで広げようと、退役ゾンビ人工衛星再生利活用のプロジェクトを立ち上げておりまして。ニュースにも取り上げられていたし、聞いたこと、あるでしょう? それでねミスタ、私どもが一年はたっぷりかけて、地球の周回軌道上に点在する様々な人工衛星の稼働状況を収集してきました。その中で、何とも奇妙なあることに気がついてしまった』


 遂に謳い文句まで始まってしまった。妙に誇大広告気味なのが、胡散臭さをより助長させている。いつもなら、ここからビジネスか引き抜きかの話に発展させてくるパターンだ。


「要件は? あなた方は一体何を仰りたい」


 そんな物言いの回りくどさに、田端は相手の話に耳を傾けるためのモチベーションをあらかた削がれ、このまま電話を切ってしまいたい衝動に駆られる。


『よいでしょう、では手続きをシンプルに。クラウドナインは退役後も稼働を続けていますね? では、姿勢制御ログ。通信ログ。それらは全部あなたの管轄だ。あなただけの』


 彼の言うとおり、クラウドナインは退役後も廃棄されず未だ静止軌道上にて稼働中で、特定目的での使用はされていないものの、本来の運用企業が地上から形式上消滅した現在でも、管理は継続されている。

 それは、まさにこの部屋で、だ。だから、分室。彼の言うログもまた然り。


『ねえ、ミスタ・タバタ。そのログはとても大切なだ。注視しておきなさいよ。少しでもいい、何か気がついた点があったら、まず信頼できる上司に相談しなさい。いなければ、代わりに私まで。そのための回線は必要な時に開けておく』


 言うだけ言うと、相手は唐突に電話を切ってしまった。

 正直言って、田端には理解が追いつかなかった。現代的な人工衛星の姿勢制御や通信のログなんてものは管理サーバーの記憶領域に蓄積しっぱなしが常で、システム側がエラーでも吐かない限り、わざわざそれを田端が眺める機会などない。

 そして、ログごときに外国が興味を示すのも奇妙な話だ。たとえそこに国家転覆にでも繋がる重大な宇宙からのメッセージが隠されていたのに田端が気づいたとして、それを最初に上司に相談しろという相手の物言いも、機密漏洩的な裏取引という文脈であればなおのこと意味不明だ。老婆心からという性善説も、この場合に当てはまるはずもない。


「ああ、なんだよ、そりゃあ……」


 呻きながら、スピーカー越しに断続してプレイバックされる矩形波の電子音を乱暴に断ち切ると、田端は眼鏡を取り上げて顔を拭った。


            


 五年前に役目を終え退役した人工衛星、クラウドナイン。その制御システムは、今もこのビルの地下サーバールームに鎮座している。ログファイルを覗くためのコンソール画面くらいであれば、遠隔接続リモートで自分の卓上側デスクトップにだって引き込むことができる。

 電話越しの中国男が言った胡散臭い言葉をそのまま真に受けるわけではない。だが、それでも現在の田端は本来のねぐらを失った関係上、時間をかなり持て余していたこともあって、その取引とやらの俎上に載せられたログに少しずつ興味が湧いてきた。

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