第3話
———翌日。
志摩は、始業時間になっても教室へ姿を現さなかった。担任が連絡事項のついでのように志摩の欠席を告げても、椿はさほど驚かなかった。教室の最後列をちらりと盗み見する。むしろああやっぱりな、という感が強く、そんな風に感じられるだけの根拠を持ち合わせていることを嬉しく、どこか誇らしく思う。
「アメミヤ」
一時間目は担任教師の授業ではない。朝のホームルームを端的に終えるといつもなら足早に教室を出て行くはずの彼は、一番窓際の一番前に座る椿の前に立った。
(アメミヤ、って呼ばれた…?)
これこそ驚きで、椿は一拍分、反応が遅れた。どこかしら恥ずかしさを隠すかの如く、鼻の頭を掻きながら担任の高野は椿を見下ろす。
「昼休みにちょっと、職員室まで来てくれるか?」
「あ、…はい」
何の話だろう、と知らず眼力で訴えていたのだろうか。高野は「志摩のことでちょっとな」と付け足し、教室を後にする。椿は、と言えば、疑問符がさらに増えただけだった。
(志摩のことでちょっと、って…何だろう、病気のこと訊かれるのかな?)
まさか、と一旦は打ち消すも、まるで見当がつかない。ちょっと、という表現が本当の些事とは限らない。気になり続けたまま、椿は午前中を無気力にやり過ごす。時折、思い出されるのは昨日の帰り道だった。
『椿も高校からの外部生?』
確か昇降口を出たところでそんな風に問われた。違う、と首を横に振り、そうか修正する良いチャンスかもしれない、と考えた。志摩との、最初の会話。まるっきり嘘、というわけではないが、それでもかなりぞんざいに扱ってしまったから。
『中学から? やっぱお利口さんなんだな』
ここは、中高一貫の私立男子校。県内では歴史も古く、毎年 有名大学への合格者をそこそこ輩出しているいわゆる進学校だ。寮が完備されていることから、越境入学者も多かった。椿のように小学六年生で人生初のお受験戦争を勝ち抜き、そこから六年間を過ごす持ち上がり組は少なくないのだが、ある程度の成績を維持し続ける難しさと保守的な校風に嫌気がさす者もいるようだ。15歳の春、志摩のように高校から入学してくる外部生と半数程度、顔ぶれが入れ替わる。
『家を出たかっただけだよ、とにかく。そのことに、必死だっただけ』
『え、なんでまた』
会話は、フローチャートに沿って進むわけがない。分かってはいてもああ難しいな、と思う。家を出たかった理由は、椿の性癖の話と幾分リンクする。無駄なく、踏み出す一歩ごとに、きちんと伝えられるだろうか。
真っ直ぐに伸びる正門までの道を見据えた。およそ百メートルといったところか。アスファルトの舗装はやや色褪せ、ところどころに経年劣化を感じる。右手にはグラウンドが広がり、左手には体育館とクラブ棟が位置する。絶え間なく聞こえくる部活動に勤しむ声と、等間隔に植えられた常緑高木が、学校らしさを演出していた。
ちょうど良い距離だろう、椿にとっては。試されているようでもある。本番前の練習なんてそうそう何度も繰り返せないのだ。志摩にとっても「お試し」かもしれない。得られるものはマイナスのみ、なんて評されたら椿に「また明日」はやってこない。
『……うちは、母親と姉が一人、いるんだけど』
『お、うち姉ちゃん二人。歳 離れてんだけどね、十歳違いと八歳違い。椿のとこは?』
『え、と…三つ』
結論として言いたいことは明確なのだが、一足飛びにそこへ辿り着いてしまえば、志摩からまた脈絡のなさを指摘されるだろうと思う。椿の言葉に対し当然のように返ってくる志摩の反応を、ほっと受けとめている自分に気づいた。そうだ、これは教科書の音読ではない。台本の読み合わせでもない。あちらこちらへ分岐する生きた会話なのだ。
『で? 母ちゃんと姉ちゃんがいて…からの?』
『……あの、怖くてね…母親と姉のこと。苦手、とかよりもっと、とにかく、駄目で』
椿はとにかく真っ直ぐに前を向いたままで、志摩の表情を窺うことなど出来なかった。怖くて、と選んだ言葉は、言い得ているようでその実まるごとの正解ではない。志摩は何をどう感じているだろう、これ以上 聞きたくもないだろうが今さら方向転換など椿には到底 無理だと思う。
『そんで家 出たのかあ。家族でも女の人ってだけで駄目なん?』
『や、あ、それ、あの…ちょっと、違くて』
『ん?』
思いのほか、早足だったのだろうか。正門はもうすぐそこまで迫っていた。こくりと喉を鳴らし、とにかく、と息を吸う。志摩がどう思うだろうかと悩み言いあぐねたままでは埒があかないのだ。確認な、と志摩は言った。とにかく伝えようと思ったことを声に出して、それから確かめればよいのだ。
『母親と姉を、怖いと思ったら…そこから、女の人が、苦手になって。あの…、だから、本当は。男の人が、好きってわけじゃ、ないんだ』
『なぁるほど、アレか、別に根っからゲイとかってわけじゃ、ないのか』
そうかそうか、と風に乗る志摩の声はとても普通に聞こえた。蔑みだとか過ぎた好奇だとか、反して無関心だとか。分かりやすいそれらの何の色も混じっていない、志摩が努めてそんな声音を発しているのだとしたら気を遣わせて申し訳ない限りだが、ひどく優しい相槌だった。
とにかくも、伝えたいことを口に出して言えた。全て、ではないし、ぼかした部分もある。その事実は胃の底に重く残ったが、それでも椿は深く息を吐き出すと、ひと仕事を終えたような奇妙な充足感を覚えた。と同時に、馴れない時間を過ごした気疲れか、しゃがみこんでしまいそうになる。志摩と並んで刻む一歩がもつれ、たたらを踏んだ。
『え、何? どうした、椿? 何かに躓いた?』
『ご、ごめん、』
『ここ、道 悪いもんな、気ぃつけろよー』
恥ずかしいと強く感じることで姿が消えてしまえばいいのに、と。小学生の頃、椿は泣きながら願ったことを思い出した。いつからだったのだろう、神様を信じなくなったのは。お願いごとをしても、するだけ無駄なのだと幼心に諦めを知ったのは。
『……そういやさ、椿ん家には、父ちゃんいねえの?』
門扉の、レールを跨ぎながら志摩が何気なく訊いてくる。志摩が左側、椿が右側に立ち並んでいたけれど、正門を出れば寮生は左手に、自宅組は右手へと向かう。最寄りの駅もバス停もその方角に位置しているからだ。
椿の前へ回り込んだ志摩と何となく目が合った。抱える恥ずかしさをどうにか誤魔化せるなら、と残り少ない気力を振り絞る。だからか、志摩の表情にどこかしら複雑さが織り混ざっていることを話題のせいにした。そして夕暮れ空の不可思議な藍色のせいにもした。
『……物心ついた頃には、いなかった』
『……そっか。ごめんな? ヘンなこと訊いたな、俺』
首を横に振りながら、志摩の家は? と重ねるのは躊躇われた。会話はキャッチボールなどと喩えられるけれど、同じ質問を投げ返すだけの力がない。そしてつい、その先まで考えた時、もしも志摩の家に父親が存在しなかった場合、きちんと応えるだけの力もなかった。
『じゃあな、椿。今日は早く寝ろよ』
『え?』
『なんかいろいろ、疲れただろ?』
俺も疲れたわー、と愚痴をこぼしながら肩を揉む姿に苦笑がこぼれる。志摩は本当に人を思い遣るのが上手だ。見られてはなさそうな、いや、大抵の場合、気づかれないような仕草もため息も焦りも恥ずかしさも、志摩にはまるでお見通しなのではないか。そうしてそれを気負わせないように冗談で軽量化する。
優しい人、というのは、志摩なような人物を指すのかもしれない。その曖昧な形容詞は一見、とても喜ばしい素敵な表現と思えるけれど、実は汎用性が高いだけの、とりあえずでその場しのぎな表現と評せなくもない。ああでも今日、具体像が見つかったな、と椿は思う。見つけてしまった自分が次に、失くしたくないとしがみつかなければいい、と目を瞑った。
『……志摩も。無理しないで、気をつけて』
『おう、サンキューでーす。また明日な』
職員室へと向かう廊下の途中で椿は、ひらひらと片手を振って遠ざかった志摩の、顔色を思い出そうとした。蒼白い、のはその病気ゆえのデフォルトだとしても、それでもあまり優れなかったような気がする。思い出そうとすればするほど、むしろそうとしか蘇らなくなってくる。いろいろ疲れたのはよほど志摩の方だったのだ。もっともっと、あんな声をかけるだけではなくて、かけてあげるべきは「気」だったのに。
「……失礼します」
「ああ、雨宮。こっち」
職員室の右奥から高野の声がした。椿が顔を覗かせた後方出入口からは最も離れた場所、教頭席の前に三学年担任の机がまとめられているらしい。距離があるにもかかわらず椿の小さな声が聞き逃されなかったのは、確かに高野が気にかけていたせいと、職員室内に残る人影が疎らだったせいだろう。
椿はもう一度 失礼します、と頭を下げると、並ぶ机の間をぬって高野の隣へ立った。
「実は今朝な、志摩のお姉さんがこれを届けに来られて」
これ、と差し出されたのは何の変哲もない、白い封筒だった。封筒だけ、ということはよもやあるまい、ということは便箋に何かが綴られた手紙かもしれない、椿はそう考えた。しかし、理由が分からない。志摩のお姉さんが僕へ、手紙?
「雨宮へ渡して欲しい、って。志摩から頼まれたんだそうだ」
それから、と高野は言葉を続けながら椿へ封筒を手渡してきた。宛名も何も、目に見える面には何も記されていないそれをひっくり返していた椿だったが、ごめんな、という高野の詫びに動きが止まる。
「志摩のお姉さんに言われて気がついたんだよ…先生、昨日、アマミヤ、って呼んじゃってたよな? 志摩のお姉さんがやけに雨宮のめ、のとこ強調して口に出してたからどうしたのかなあ、なんてのんきに考えてたんだけど」
「いえ、あの…よく、間違われますから」
志摩のお姉さんは一体、志摩から何をどう聞かされているのだろう。逢ったこともない人の言動のその裏に、志摩の存在をいちいち見つけたがっている。
諦めて、関心を寄せたりしなければ、事は痛みを与えずに椿の周りを通り過ぎる。過去の経験から学んだはずの処世をあっさり手離してしまいそうな自分がいて、椿は知らず笑みを浮かべた。
「よし。じゃあ、確かに渡したぞ。くれぐれも、って念を押されたから」
「そう、ですか…、あの」
志摩の、どっちのお姉さんですか? そう、問おうとして椿は考え直した。何を僕は、と自嘲がこみ上げる。何を僕は、志摩のことを、分かっているフリしようとしているんだ。持っている志摩についての情報なんて、きっと高野が申し送りされている程度と変わらないだろうに。
「……いえ、失礼しました」
それだけを口にし一礼すると、職員室を足早に後にした。残っている生徒があまり多くないことを期待しながら、教室へ引き返す。
“ごめんな、椿。昨日の今日で”
志摩からの手紙は、そんな風に始まっていた。
初めて目にする志摩の字は、あまりクセが無く読み易くはあったが、弱々しく頼りなげであった。封筒と同じ白の便箋、その横罫線を時折 無視したように震えている。極細のボールペンで、さほど筆圧をかけずに書いているらしい。そういう書き方を好むのか、或いは体調が悪いせいで力が入らずそういう書き方しか出来ないのか、その判別がつかない自分は、やはりまだ志摩のことを知らない。
“入院は、しなくていいと思うんだけど。今日は大事をとって、ってことで”
入院、という二文字に椿は眉をひそめた。病院とは縁遠い日常を過ごしてきた椿だったが、志摩は違う。可哀想だ、と思わず感じてしまいそうな自分を慌てて押し留めた。
“昨日、聞いとけばよかったんだけど。椿、ケータイ持ってる?”
その一文の下には、有名なSNSアプリのIDと携帯電話の番号、そしてメールアドレスまでが記されていた。几帳面にカタカナ表記まで追加されている。数字の1とアルファベットのlを勘違いしないように、との志摩の配慮だろう。
“連絡して? 病院の中でもケータイOKなんで。アンケートのこと、気になって”
責任感の強い男だな、と素直に感心した。いや、責任感と限定せずとも、志摩は強い男なのだな、と認識を新たにした。
立候補したとはいえどこか押しつけられたかの役回り、体調の悪さを理由に何もしない、動かない、という選択肢は勿論 あると思う。椿ならばむしろ、何も出来ない、動けない、と体調の悪さをこそ都合良く言い訳に使ったように思えてならない。
でも、志摩は違う。そうしない男の顔色にどこか似た窓外の蒼へ身体を向け、スクールバッグからこっそりとスマートフォンを取り出す。隠そうとしたところでそもそも、椿の行動へ関心を向ける者などいないと苦笑した。
アプリの画面に表示される「友だち」の文字を苦々しく思っていた。名前が載っているだけでそこに本物の情は存在しないからだろう、椿はそう自己分析している。なにせ姉の名前も含まれているが、家族愛に溢れる心温まるやり取りなんてあり得ない。必要最低限の生存確認を互いにし合っている程度だ。
IDを入力しようとして動きが止まる。確か18歳未満は検索出来ないのではなかったか。志摩はどうなのか分からないが、椿は自分の名義で携帯電話の契約を結んでいる。18歳、まであと少し足りない。QRコードを送る、という方法もあるが。普段使う必要もない無駄な知識がやけに自分の中に根づいていることが可笑しかった。口元を歪ませながら椿はメールアプリを起動させる。
(……志摩とは、違うといいのに。「友だち」って、感じが)
連絡して? と。求められている。昨日からずいぶんと求められていい気になっている自分がいる。
愚かだなあ、と思う。人間って、と一般論へ置き換えようとした自分の狡さにため息した。ため息しながらも、たどたどしい指先は、志摩のメールアドレスを刻んでいく。愚かなのは自分なのだと椿は分かっている。だって志摩が連絡して、って伝えてきたから、具合が悪いのに、わざわざ手紙を書いて、お姉さんを巻き込んでまで、ほらアンケートのこと気になってるって言うし。フリック入力の一文字一文字へそんな言い訳を絡めていく自分が、仕方ない風に自分を仕立て上げる自分が、一番狡くて愚かなのだ。
(……なんて、書けば)
一文字目に迷う。とはいえバリエーションを数多く持ち合わせている椿ではない。結局、「雨宮です」と無難な自己紹介をタイトルへ打ち込んだだけで送信した。
数少ない電話帳登録へも追加しておこうとまた別のアプリを立ち上げる。昼休みはあと15分あまり、志摩から返信は来るだろうか。視覚で改めて認める「志摩 爽一郎」という連なりはやはり綺羅綺羅しく感じられ、サ行に収まったそれはそこだけが浮かび上がって見えた。
登録を終え、電源ボタンを軽く押す。真っ暗になったディスプレイへぼんやり映りこむ自分の顔がやけに上機嫌ではないか、得も言われぬ苛立ちがこみ上げ、ふい、と視線を逸らした。途端、掌のデジタル端末が振動を伝えてくる。
(志摩から、だ……)
メールを返信するくらいの気力体力はあるのだろうか、それとも非常な無理をさせてしまったのではないか。受信メールボックスへ表示されるタイトルには「志摩でーす」とある。気持ちの良い笑顔の絵文字付きだ。
“椿! 本文は?! タイトルだけってどういうことよ?! 俺、初めてもらったわ、四文字メール!”
一体、どこまで気を遣えるのだろう、志摩は。そして自分はどこまで気を遣わせているのだろう、志摩に。あの朗らかな声が耳元で弾むように蘇る。今、この場に、志摩がいたならば。椿はす、と目を閉じた。容易に想像出来る。あの声は椿に、気を遣わせていると感じさせないくらい上手に、冗談めかしてしまうだろう。
“ところで椿、SNSアプリは使ってないん?”
そう続く問いに、そうかそうだよな、と思い直す。手紙に記されていた順番を上から考慮すると、あれはそっくりそのまま、連絡をとる方法として志摩が呈示した優先順位だったのかもしれない。僕は全く無視して、むしろ優先順位最下位からアタックしてしまったのか。知らず、ごめん、と呟いていた。年齢制限の理由をきちんと返して、QRコードも送ればいいだろうか。伝えなければ伝わらないのだ。空間は、時に諸々を伝播するけれど、椿の胸の内を自動的に志摩へ届けてくれるわけがない。
次にやるべきことが明確になり、椿は衝き動かされるように指先を巡らす。昼休みがあと五分、というありがたい言い訳も後押ししてくれた。
“あ、それから椿はパソ持ってる? 俺、家のヤツで姉ちゃんに作ってもらうわ、アンケート。手書きでもいいから椿も作ってみて? 明日はガッコ行けると思うから両方の良いとこどりして完成させよーぜ”
最後までをもう、椿は暗記してしまったのかもしれない。けれど椿の頭の中でリプレイするのは志摩の声だ。抑揚や間のとり方や笑い声までも、椿の脚色が多分に加わっていると思う、不思議と本物と聴き比べたくて仕方なかった。
五時間目をそわそわと、こんなにも落ち着かない気分で過ごしたのは初めてだろう。常なら完全にシャットダウンするはずのスマートフォンだったが、電源を落とさずサイレントモードでスクールバッグへ戻した。例えば電源ボタンを軽く押し、ロック画面へ志摩からの通知が来ていたら。そう考えると起動にかかる数秒すら惜しかったのだ。勿論、何も通知が来ていないシーンもきちんと想定済みだ。過度に期待をすることは身を滅ぼしかねない。いつだって最悪の場合、を考えれば大抵のことはやり過ごせるのだから。
「あ」
五時間目が終わって休み時間、逸る指先に若干の躊躇いを乗せながらスクールバッグの中を探る。志摩からの何らかの知らせが、来ているだろうか、それとも。
掌に収まるサイズのスマートフォン、電源ボタンの位置は目で確認せずともたどり着けるくらいに馴染んでいる。静かに取り出したディスプレイへ踊る文字が目に飛び込んできた。志摩は椿を友だちへ追加したらしい、「椿ー!」とふきだしの中の文字に呼びかけられている。澄んだ青空色の背景、志摩のディスプレイには「既読」の白文字がぴこりと付いただろうか。「何?」とだけ慌てて返した。
“何? って! 安定の素っ気なさ! 五時間目終わった?”
“終わったよ。志摩、体調は?”
“ヘーキヘーキ”
“僕もパソコン持ってる”
“マジ? じゃあ寮に帰ったらまた連絡してー”
“わかった”
ハンカチを噛みしめ涙を流しながら手を振るスタンプがぴこりと登場する。何だろう、これ。知らずふふ、と笑みが浮かび小さく肩が震える。教室内へ背を向けている椿の奇行を訝しむ者は誰もいなかった。
寮の自室へ戻り、さてと、と呟く。二人部屋を一人、占有している椿の声はそれまでの日々と変わりなく空間へ虚しく吸い込まれた。とはいえ当の本人は意に介さず、いそいそとラフな部屋着に着替えノートパソコンを机の上へ広げる。
いつもなら、さてこれから何をしよう、何をして時間を過ごそう、という気怠げな呟きなのだ、椿にとっての「さてと」とは。さも幾つも並ぶto doリストがあるかの如く、どれから片づけようかと振る舞ってみたところでルーティン化したそれらはせいぜい四つか五つ。夕食、勉強、入浴、就寝。たまに読書かネットサーフィンが加わる程度か。改めて考えてみると、なんて面白味に欠ける17歳だろう。
それが今日はどうしたことか。やるべきことが明確にある独特の満足感は、いつもと同じ言葉を使ったはずの「さてと」に、事を始めるにあたっての愉快な勢いをつけてくれるようだ。
部活をきちんと続けているなら、と考えることはある。放課の時間を毎日、こう持て余すことはなかっただろうと思う。絵を描くことはもともと好きであったし、幼少期から規模は小さくとも幾つか受賞した経歴も持つ、下手の横好き、よりはいくぶん、才に恵まれているだろう。直近を思い返せば去年の秋、県内の高校美術展で教育長賞などという大層な賞を頂戴したのだった。
(志摩は…、知らないだろうな)
椿が、絵を描くこと。美術部の、幽霊部員であること。絵のことを考えるたびに、正式に退部届を提出すべきだろうかと常識的な了見に苛まれる。くだんの噂が鎮まるまでは、と部室へ通う足が遠のいた。それはきっかけであり言い訳だ。単に逃げただけ、と表現されても否めない。それでも自分から繋がりを断つことが出来ずにいるのだ。二組の富田が木下先輩の後を継ぎ部長として活動しているはずだが、廊下ですれ違ったり、二クラス合同の授業を受ける折などの、何か言いたげな富田の視線をいつまで知らぬふりでいられるだろう。
手書きでもいいし、と志摩の言葉にはあった。パソコンへインストールしている描画ソフトのアイコンをぼんやり見つめながら、敢えての手書きにしようか、などと浅はかな考えに囚われた。
「……馬鹿だな、ほんと」
褒めてもらいたいのか、志摩に。どこまで構ってもらいたがりの面倒くさい人間なんだ。自分で自分を責める一方で、志摩ならきっと褒めてくれる、と闇雲に信じきっている。そんな自分が怖くなる。椿はふう、と大きく息を吐き出した。
内なる自分は本当に勝手で、幾つもの思考や感情を本体御構い無しにぽこぽことわき上がらせる。まるで何人もの雨宮 椿が騒がしく主張し合っているようだ。誰しもそんな瞬間を持ちあわせているのかもしれないけれど、きっと上手に折り合いをつけて、その人らしくその人として道を外さず過たず生きていけるのだ。椿は、といえば、余計なものを表出させないようただただ黙して流されることを選んできただけ。その是非について考えるのは許されないように感じていた。
けれど。
志摩のことを、知りたいと思ってしまった。そんな自分の、今までとは違う小さな小さな変化がこれでもかと胸をざわつかせる。控えめな羽音が机の上に投げ出していた椿の掌を震わせた。志摩からのメッセージ、そこにイメージとして同時に浮かび上がるのはあの朗らかな笑顔だ。
“なあなあ、今 思い出したんだけど! 椿って絵 描くの上手かったよな?”
そこに志摩はいやしないのに。分かりきっているのに、椿はスマートフォンを手に握りしめたまま、真正面の視界を占める窓を見上げた。
カーテンを開け放したそこには春の夜空が広がっている。空気自体が昼間の陽気をいくぶん残し内包しているからだろうか、不思議と黒に冷たさを感じない。
そう、椿を取り巻く自然はただそこに在るだけなのだと分かっている。空気だって、風だって、音だって、そしてこの夜空だって。椿にも志摩にも同じように在るけれど、互いを媒介してくれるわけではない。それでも、自分が知って欲しいと願っていたことを、相手が知っていてくれた、この小さな喜び。こんなことってあるんだなあ、と嬉しくなる。高校三年生の一年間を、もうこの歓喜だけにすがって過ごしていけるような気すらした。
“誰に聞いたの?”
“いやアナタ、結構有名よ? うち、二番目の姉ちゃんがパソ得意なんだけど、まだ帰ってこねえの。まだ作れてねえの”
そのメッセージのすぐ後に、何かのキャラクターが土下座しているスタンプが送られてきた。申し訳ない、という意なのか。昼間のスタンプとはまた種類が違うそれ。志摩はかなりこのアプリを使い込んでいるのだろう。
パソコンが得意な二番目のお姉さん、そのかけらの情報も志摩にまつわることならば覚えておこうと思った。帰ってこられてないのならば、ちょうど良い。椿が言い出しやすいようにきっかけとタイミングを志摩が提供してくれたのかもしれない。もとよりこのような作業は嫌いではないのだ。
“僕がざっと作るよ、志摩が明日 修正して”
“マジ? 助かるわーありがとー椿! 天使!”
そうして時間差なく送られてくる愛らしいスタンプ。椿は思わず小さな笑いをこぼした。
「えー、天使だ。すごいな、志摩。一体いくつスタンプ持ってるの」
くっきりと独り言を音にして、今日ほど一人きりで良かったと安堵したことはなかった。恥ずかしさに頬を赤らめても一人だ。良かった。そうして椿は作業に取りかかる。
絵が上手ね、ぼくのノートに○○を描いて、○○なマンガ描いてよ? すごいね雨宮くん。そんな賛辞を浴びた数瞬は、椿の短い人生の中、幾つかあったのだと思う。図画工作の時間は言うまでもなく、転校していく誰かへ寄せ書きを作る時、生徒会選挙のポスターを頼まれた時、夏休みの課題。さも自分が人気者であるかのような、そんな勘違いを堂々と出来た瞬間。絵を描くことが出来る、一般的なレベルより少し上手に。それは神様が与えてくれたスキルでありギフトなのだろう。最大限、活かす努力を怠っている椿だから、肝心なところで神様は椿へ振り向いてくださらないのだろうか。それとも椿が神様を信じきっていないからだろうか。志摩のことは何となく信じているのに。
その夜は、いつもより深く眠りに落ちた椿だった。
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