第4話

 おはよう、と朝の挨拶を気軽に交わすことが出来る関係性。五月もすぐそこだというのに、新しいクラスメイトの誰ともまだ、そんな気安さを交換出来ていない椿であった。教室へ踏み込む一歩目は毎日、億劫以外の何物でもない。後方の出入口から俯き加減でするりと忍び込み、とにかく窓際の列まで急ぐ。そこから右へ向きを変え一番前の席へ。それが椿の常だ。ショートカットすること、前方出入口を使うことも一旦は考えたのだが、苦手とする数人の近くを通ることを避けたかった。


 「はよー、椿ー」


 それが今朝はどうだろう。志摩は長年の友人であるかのように椿へ爽やかさを向けてきた。略されて半ば類推の混じる朝の挨拶も不快に思えない。屈託の無い笑顔のせいだろうか。だとすれば志摩はずいぶんと徳が高い。仙人の域か、もはや。


 「……お、はよ、う」

 

 ぎこちなさを前面に押し出しながら、椿はなんとか足を留める。志摩の席が最後方に位置していることは救いと言えた。それでも教室の真ん中であるため、左右へ行き来する生徒の視線を痛烈に感じる。視線に含まれる色の理由は分かる、椿にもよく分かる。一昨日からの急展開、何がどうしてこうなった、とでも問いたいのだろう。椿も、問いたい。


 「ごめんなー、任せて」


 相変わらずの笑顔と掌までも向けられて、椿はきょとん、と擬態語が付きそうな表情を志摩へ返した。しばらくそうして見合ったまま、志摩がぶふふ、とふき出すまで奇妙な沈黙が流れた。


 「いや、あのね、椿。アンケート作んのを、任せっぱなしでごめんな、って話!」

 「!……あ、ああ」


 それならそうと言って欲しい。いくら生き急いでいる志摩だからといって端折りすぎだ。そんな非難を眼力にのせたつもりはないが、志摩は重ねて、ごめんて、と言ってきた。椿はじとりと手汗を感じながら、スクールバッグの中を探る。昨夜、写真を添付し何度も確認しあったアンケート用紙は完成形だった。


 「じゃあ、これ。朝のホームルームの時に配ろうぜ。あ、その前にたかのんに報告しとく?」

 「その方が、いいかも。昨日の帰りに、進捗確認されたから」


 大丈夫か? 先生に出来ることは手伝うから言ってくれ。


 そんな風に添えられた高野の言葉は、寮へと帰る椿の背中を真っ直ぐに伸ばしてくれた。社交辞令的なもの、だったかもしれない、志摩は第一回目の委員会翌日早々 欠席したのだし。生徒の名前を言い間違えるという教師としてはわりと致命的な失態をしでかした、高野の罪悪感も手伝っていたかもしれない。いずれにしても気にかけてもらっているのだと——それがたとえフリだったとしても——そのことは、伝わってきたから。


 職員室へと向かう道すがら、志摩の体調を確認する。これこそ社交辞令的なもの、かもしれないなと胸の内だけで苦笑しながら。それでもヘーキヘーキ、と返ってきた言葉に心底安堵する。ヘーキヘーキ、のトーンもリズムも、あのアプリのトーク画面とシンクロした。


 「センセー、高野センセー」

 「おお、志摩。熱は引いたのか?」


 はーい、と間延びした声で返事をする志摩が軽く首を動かした。それは会釈だったのかもしれない。椿は腰を低く頭を深く下げ、先を行く志摩の背中を追いかける。


 「見てこれ! 椿が作った! 良いでしょ、これで文化祭、何やりたいかアンケートとらして?」


 敢えての手書きでところどころにだらしなくなりすぎない程度のイラストを交えたアンケート用紙。教室内展示派か、ステージ発表派か、大きくその二分を問いながら、小項目として展示派であれば研究発表か、創作活動か、はたまたボランティアやバザーなどの催しか、自由記入欄も設けた。ステージ派も同様だ、劇、合奏、合唱、ダンス、その他自由記入欄。基本は無記名としたが、部活動への注力などで特別の配慮が必要な者のみ、名前を書いてほしい、とつけ加えている。

 そっと窺い見る高野の視線は左右へじっくりと動く。用紙の上から下へ二往復ほどしただろうか、特に眉間に皺寄せる内容ではなかったようだ。用紙の端から覗く高野の口元が優しく緩んだ。


 「上手いなあ、雨宮。うん、良いんじゃないか」

 「マジ良い仕事すんの、椿って。あ、なんで朝のホームルームでちょい時間ください。それと、人数分のコピーもお願いしまーす」


 分かった、と了承する高野へ志摩はまた軽く首を傾げた。やっぱりそれは会釈なんだろうか、と椿がぼんやり見上げている間に、志摩の背中は遠くなっていく。またも慌てて距離を縮める、それでも職員室出入口で肩越しに、失礼しましたー、とだけ言い置いた志摩と、深々とお辞儀をした椿とではまた間が空いたのだが。


 「真面目か! 椿」

 「いや、志摩が生き急ぎすぎなんだよ」


 いたって真剣に返す椿の言葉を志摩はそういうとこ! と笑う。教室へ戻るまでを歩みながら、先ほどちらりと気になったことを訊ねてよいものかどうか迷った。あの、と考えなしに口をついた言葉を志摩が聞き逃してくれるはずがない。


 「何? 椿」

 「……いや、えーと」

 「何なん? 訊きたいことは訊いとくなはれやー、あんさん」

 「……どこの人?」

 「志摩の人!」


 イマイチ、と自己評価する志摩に笑みがこぼれる。また、空気を軽くしてもらった。もう志摩とでなければ普通の会話は出来ないのではないか。そう考える自分の思考回路が恐ろしくなる。


 「……高野先生は。知らないの? その…志摩の、病気のこと」

 「ああ、うん。うすうす気づかれてっかなー、とは思うけど。誰にも言ってねえもん、ホントのとこ。特にガッコ側にはね。貧血ひどいんで体育は無理です、よく熱出して休みます、食が細いんですのよ、くらいかなー伝えてんの」

 「そう……」


 それでも高野は昨年度も志摩の担任で、夏休み前、一週間ほど入院した志摩を見舞いに病院へ訪ねてきたらしい。志摩のご両親は大事ではないので、と頑なに病院名を告げていなかった。それは志摩本人の意思でもあり、ただ、市内の、とだけ伝言を残しておいたのだという。椿や志摩が住まうここは政令指定都市の規模に近い、どれだけの労力を要したのか、高野は大きな病院から中りをつけて、三つ目で志摩の病室へたどり着いた。


 「蒼っ白い顔で輸血してたワケよ、そん時の俺。見りゃなんか思うわなあ、そりゃ。たかのんも泣きそうな顔してたけど、特に深く追及はされんくて。うちの家族は俺に甘いんでね、俺が絶対に言ってくれるな、ってことは大概 守ってくれちゃいますし。でも、ま。それ以来センセーらに気 遣われてんな、ってのは時々感じる」


 また、そう、と返しながら、もう少し気の利いた相槌を打ってあげたいのに、と切望する。高野先生もよく知らない、学校側も本当のところは知らない。誰にも言ってねえ、と志摩は口に出さなかったか。けれどそれを、椿は知っている。これは軽く感動を覚えるといって差し支えない範囲なのではないだろうか。

 たかのん、と高野のことを愛称で呼ぶ志摩の、誰しもへ開けっぴろげなようでいて、そのくせ絶妙に閉じられた真実の、その境界線はどこにあるのだろう。恐らくは校内で椿だけしか知らない、志摩の本当へ触れられる鍵を何故 椿は手に入れられたのか。理由が分からない、知りたいようで知りたくない。知って失望することが恐ろしいのか、知らず優越感に浸ろうとする麻痺が恐ろしいのか、そもそも深く考えることが恐ろしいのか。ああ、知ることは、知ろうとすることは、恐怖でもあるのだな、と。椿は志摩の横顔を見上げながら思った。


 「今さら無理かもしれんけどさ、椿は気を遣わんで? 出来るだけ、俺には。普通に、しといて?」

 「……普通、に」

 「そ。俺はとっくの昔に、普通のことを諦めないといかんかったからさあ。普通、ってのに、憧れるんだよね」


 普通のこと。志摩が指す「こと」とはどこまで、何を、含むのだろう。人生、とか。日常、とか。学生生活は、勿論だろう。17歳男子高校生が学校を休む、はままあることだとしても、体育の授業をすべて休む、は普通ではないことかもしれない。ただ、そんな線引きが正解なのかどうか、椿には分からなかった。志摩のことを、普通じゃない、としたくなかった。それは自身と志摩を同じ括りにしてしまうように思えたから。志摩は、椿とは、違う。椿のように仄暗いところでじとりと怠惰に時間を過ごしてきた駄目人間ではない。


 「……僕は、普通が、分からないから」

 「……椿?」

 「僕が、普通じゃ、ないから。安心して? 気すら遣えないよ」


 志摩はほんの少し息をのんで、ふは、と笑った。次いで、そりゃあ楽でいいわ助かるわ、と言う。


 「じゃあ、椿も俺のこと名前で呼んでみ? 気ぃ遣ってない、の第一歩として」

 「……苗字より名前のほうがだいぶ長いじゃん、志摩の場合」

 「あららー、そんなイケズなことおっしゃる? じゃあ、ソウ、って縮めても可ー」

 「相槌と呼びかけが混同する」

 「どこまで真面目なん! 椿は!」


 ずいぶんとゆっくり歩いてきてしまったのか、楽しそうだな、という高野の声が背後に聞こえ椿は驚いた。高野の手には出席簿らしきファイルとともにアンケート用紙が抱えられている。なんとなく押されるように教室の前方出入口まで歩を進めた。高野はそこで先に立ち、椿と志摩を振り返る。


 「志摩が仕切り? それとも雨宮?」

 「あ、俺がやります。椿はアンケート配って?」

 「みんな席に着いて、朝のホームルーム始めるぞー」


 机や椅子のがたがたと鳴る音が静まりかけた頃、志摩が教壇へ立ち、すみませーん、と注目の一声をあげる。椿はいまだ、ドア付近で立ちすくんだままだった。およその視線は志摩へ注がれているものの、ちらりちらりと椿を掠める幾つかの双眸に冷や汗が出そうだ。居た堪れない。


 「一昨日、文化祭実行委員会の集まりがありましてー。来週、二回目の集まりがあるんだけど。それまでにうちのクラスで何をやるか、決めないといけません。つか、決めます」


 人前で臆する、ということが無いのだろう。志摩の声は震えもせず、言いよどむことも無く、明朗な響きでもって教室内へ届けられた。昨日、目にした筆跡の弱々しさが思い出され、志摩が諦めたという「普通」との対比をまざまざと見せつけられたような気分になる。胸の奥がつきり、と痛い。

 改まった口調でもなく、普段 喋っている延長線上のような志摩の軽量感が、大半の生徒へ沁みこんだらしい、言葉じりで微かな笑いが起きた。志摩は続けて高野からアンケート用紙の束を受け取り、これ、と掲げてみせる。


 「アンケート、作りました。ここで何にしますかー、っつっても無駄に時間食うだけだと思ったんで。万が一、だけど、異論反論があるってんなら、俺らを言い負かすだけの代替案も出してくださーい」


 志摩に敵うワケないじゃん、と教室内のどこからか、笑いを含んだ反撃が起こった。なるほど、聡明さで際立つ生徒会長の木下とも互角に言い合っていた志摩だ、弁が立つのだろうと予想した椿の見立ては正しかったらしい。うるせ、と笑顔で揶揄をかわしつつ、志摩は椿、と名を呼んだ。俺ら、と何気なく使われた、近しさをほんのり含む言葉に戸惑っていた椿は慌てて首をめぐらす。


 「これ、お願い」

 「うわー、椿、だって! 早くも仲良しだねえ」

 「展開早ぇよな!」


 からかいの声に危うく取り落としそうになったアンケート用紙は、志摩の掌がしっかり受け止めてくれていた。良かった、と腋に流れる汗を感じながらホッとする。こんなにも衆目の中で恥ずかしい行為を晒したくない。一刻も早く役目を終えたい。焦れば焦るほど身体はいうことをきかなくなるのに。目を強く瞑り、恐る恐る開けた先で志摩が無邪気に笑っていた。椿の手に渡る少しの重み。志摩は椿にだけ聞こえるくらいの小声で、大丈夫、配って、一列五人ずつな、と囁く。


 「中島ー、お前らなあ。好きな女子を弄る小学五年生男子か、ってんだよ。いや、小学五年生男子に申し訳ねえな、昨今の小学生はおマセさんだもんよ、てめ頭 悪すぎんだろが、椿に振り向いて欲しかったらなあ、もちっと別の手、考えろ」

 「バッ、な、なに、」

 「ちなみ情報ですけどー、お前が去年、かっけぇ!って褒めちぎってた体育祭のポスターな、あれ椿の作品ですからー」

 「、っ、るせえ! このホモ!」

 「ギャンギャンうるせえのはどっちだよ! このDT! 椿と仲良くしてえんならそれなりのやり方があんだろが! 言っとくけどなー、椿は天然、鈍感、渾身のジョークも巴投げしちゃう超生真面目良い人だからな、」

 「いや、志摩。それ、どんなやり方で仲良くなったらええんよ?」 


 中島の声ではない、教壇の真正面から発せられたのんびりした声に、それまで立て板に水だった志摩が一瞬 息をのむ。椿は、といえば途中から志摩の言葉を耳にしていられず、懸命に数をかぞえていた。一、二、三、四、五。その単純作業のみに没頭していた。五枚のアンケート用紙を一番前の席の生徒へ手渡す。繰り返す営みの途中で教室内を不意に覆った静けさは、ちょうど椿の右隣に位置する生徒へ頭を下げた瞬間に訪れた。目の前の生徒とぱちり、視線がぶつかる。ええと、と名前を思い出そうとしてなかなか脳内の引き出しが開かない。志摩ならば、フルネームでつらつらと口に出せるのだろう。そうだ、野口くんだ。うっすらと微笑まれている気がするのだが、これは錯覚だろうか。


 「マジ、それな? 野口。アンケート、ちゃんと書いてくれたら伝授すっから。椿の攻略法」

 「や、別に、普通に喋りたいだけなんよ、オレは」

 「そこが一番難しいの! 椿の場合!」


 志摩対クラス全員から志摩対中島へ変わったはずのやり取りは、志摩と野口の会話で収束したようだ。志摩もはた、と気づいたのか「それ、帰りのホームルームで集めますんでー」と慌てて締めくくり教壇を降りる。

 ああもういなくなりたい、とふるふるかぶりを振りながら椿はなんとか席に着いた。僕と志摩の分は要らなかったかも、と反省しながら最後の列まで配り終えたアンケート用紙をしっかと見つめるフリをする。いろいろと考えなければならないことがあるように思う、けれど耳まで朱に染まった顔が熱くて仕方ない。自分のどこかが焼き切れてしまったように動けない。志摩と野口の視線を感じるのは気のせいではなさそうだし。先生はなぜか僕の机の前でくすくす笑ってるし。ごめんなー中島、大事な個人情報もらしちゃって、と反省の欠片も含まれてなさそうな志摩の言葉は教室中の笑いを誘ってるし。何だろう、これ。何なんだろう、これは。


 「雨宮くんと普通に喋んの、難しいん?」

 「!……え、と」


 右隣の席から距離を縮められ顔を覗きこまれれば、さすがの椿も自分へ向けられた言葉なのだと間違うことはない。野口の、どこか方言が混じるゆったりとした口調はとても聞き取りやすいのだし。


 「アレかいな、絵の話とか。出来んとダメってこと?」

 「い、いえいえ…、そんなことは」


 一時間目の授業が始まるまでのわずかな間、この短時間で何をどう伝えればよいのだろう。とにかく、と椿は野口を真っ直ぐ見据え、手を小さく振った。それで何がどう伝わるわけもないのだけれど。しかも椿が絵を描くことは、思いのほか、知られているのだろうか。戸惑いと恥ずかしさとが綯い交ぜになった視線をとにかく野口へ向ける。


 「オレね、二組の富田と結構つるんどるんよね。知っとるよね? 美術部の富田」

 「うん…、勿論」


 なるほど、だとすると、と椿は野口の思考を先読みしようとした。富田と仲が良い、だとすると椿へ向かう二人の感情として正しいのは何だ。仲が良いのであれば共有している情や考えがあるだろう。怒り、蔑み、困惑。およそネガティヴなものしか浮かばない。何かもの言いたげであった富田の表情も瞼の裏をちらりとよぎる。努めてフラットさを保とうとしてもしおしおと萎えていく心につられ、椿の視線も俯きがちになった。


 「部室に顔 出してくれんかな、って。富田がいっつも言いよるんよ。やっぱ、雨宮くんくらい上手い子がいてくれんと後輩たちの刺激にならんのじゃない?」

 「……え?」


 英語の担当教師がガラリと教室のドアを開け、一時間目の始まりを告げる。野口はまだ何かを続けたそうに口を半ば開いていたが、諦めたように笑みをかたどってまた今度ね、と締めくくった。

 また今度、という未来のいつかに約束された次の機会。そう易々と与えられるものではなかったはずなのに、一昨日からこっち、椿の日常へ顔を出す非日常に、心かき乱されている。椿はぎぎぎぎ、と音でも立てそうなぎこちなさでなんとか首肯をひとつ返すと、12ページを開いて、という声に弾かれ教科書を探した。そんな椿と野口の背中を、志摩がじっと見つめていたとも知らずに。



 「雨宮くん」


 野口が口にした「また今度」は意外にもすぐ訪れた。その日の昼休み、混み合う購買部前からほうほうの体で逃れ、教室へ戻ってきたところを野口に捕まったのだ。振り向いた途端、その背後へ認めた姿に動きが止まる。富田がいた。


 「なあ、お昼 一緒しよ?」

 「あ、じゃあ俺もー」


 野口の誘い文句に重なったのは志摩の声だった。四時間目の体育を恐らく保健室で過ごしていた志摩は一体いつ教室へ戻ってきたのだろう。その左手には、おにぎりが二つ、乗っている。右手のペットボトルをぶんぶん振り回す志摩にまったく邪気は無いが、富田の表情がほんの少し曇った気がした。椿でさえ、目の端で捕らえられた変化だ、敏い志摩なら捨て置けなさそうなものの。


 「はいはい、野口と富田はそっちね? え、椿。そんなちっこいパン1個なワケ? そして牛乳? 背ぇ伸ばしたいの?」

 「いやもう…あんまり、残ってなくて」


 それでも志摩は自席と隣の机を雑に向かい合わせると、椅子をそれぞれ持ち寄るよう野口と富田へ指を向けている。ただでさえタイミングを失しがちな椿が口を挟めるわけがなく、野口も富田も若干 失笑しながら身体を動かした。母親が作ったものだろうか、志摩がおにぎりのラップを綺麗に剥いたところで、野口が「あんな、」と切り出す。


 「富田からな、雨宮くんにお願いがあるんよ…って、志摩には言うてないんやけどねえ。なんでいちいち頷いてんの、自分。雨宮くんのマネージャーか何かなん?」

 「おうよ、ちゃんと事務所 通してくださいよ野口さん…って、富田、怖いから顔! ごめん、ふざけません邪魔しませんもう」


 いや、と呟きながら富田が相好を崩す。綻んだ雰囲気は椿の頬も緩ませた。思い出す、木下先輩がよく言っていた。


 『富田って真剣に描いてる時の顔、怖いくらいだよね。居合に長けた武士というか、さ』


 そこから派生したのか、富田は美術部内で武士ー、と揶揄されることがあった。富田の、下の名前が「武士(たけし)」であることを、木下先輩は知っていたのか知らないままだったのか。

 ああでも、と椿は表情を引き締めた。いよいよ、かもしれない。退部して欲しい、という最後通告。するりと伝えにくい内容だろうし、椿に宛てたものだ。志摩の前なのに、と慮ってくれたからこそ、先ほど富田の顔に翳が差したのかもしれない。

 気を遣わせて申し訳ない、ならば、と椿は自ら切り出した。それくらいの分別は、と覚悟した。せめて声が震えないように、と願う。


 「……ごめんね。退部の、ことだよね?」

 「え?」

 「ちゃうよ、雨宮くん! なんでそうなんの!」


 慌てた反応は富田より先に野口から引き出され、耳に馴染みの薄い方言が椿の思考をぴたりと止めた。おにぎりを頬張りながら志摩は、椿を見、向かい合う野口と富田へそれぞれ視線を置いている。ちゃう、イコール、違う、だ。退部の話じゃ、ない? 椿は喉の奥からなんとか「ちがう?」とかすれた声を引きずり出した。


 「ごめん、なんか…お願いとか勿体つけたから。悪い、雨宮。違うんだ」

 「え、じゃあ何だろ」

 「だから、志摩には、言うてないやろ」


 志摩の茶々を嗜める野口も、本気で怒っているわけではなさそうだ。口元へ笑みを浮かべながら「早よ言い」と富田を肩で小突いている。


 「せやせや、早よ言いんしゃい」

 「なにその日本縦断方言列島みたいな。志摩が邪魔してんのやろ、さっきから」

 「もう黙れ二人とも! 昼休み終わっちまうだろ! あ、雨宮はパン食っていいから。俺ら早弁したし。食いながらでいいから話 聞いて」

 「ほい、椿のパン開けちゃるー」

 「ほなオレ、ストローさしちゃるー」


 何これ。何だろう、これは。椿の頭の中で疑問符が大量に浮かぶ。僕の周りでこんな面白可笑しいことが繰り広げられている。妄想が具現化したんじゃないよね、と頬を平手打ちしたくなる。いや、こんなシーンを妄想出来るほど、面白いネタは持ち合わせていない。素直に笑い声をあげてもいいのだろうか。戸惑いにどこか引き攣る椿の口元だったが、富田は違ったようだ。馬鹿だろお前ら、と戯れる志摩と野口を横目にため息し意を決したように、あのな、と椿へ本論を向けた。これから先の話が読めない椿は、耳元に痛みを覚えながらなんとか喉を鳴らす。


 「またちゃんと部活動を、とかって言うつもりはないんだ。俺は、雨宮のこと庇ってやれなかったし…ほら、噂が、酷かった時。嫌な思い、しただろうし。美術部に、顔出しにくいんだろうな、ってのも分かってる…つもり」


 分かってる、と、つもり、の間にわずかな空白があった。それを椿は富田の誠実さだと感じた。富田は椿ではないのだから、他者の気持ちを完璧に理解することは困難だ。不可能だと言ってもいいだろう。それは一昨日、椿が志摩から諭されたことともどこか似ていた。団体でのプレーを必須とする運動部系の活動でないにしても、ひとつのまとまりの部長を任されるくらいなのだ、富田にはやはり、頂に立つだけの人徳も度量もある。一つひとつ、丁寧に言葉を選んでいる様もその人柄を如実に表していると見えた。そうして、こんな富田から逃げ回っていただけの己を、椿は恥じた。


 「でも、やっぱ描いて欲しいと思って。今年から顧問になった楢崎先生とさ、高校国際美術展にみんなで参加してみようか、って話してて…だから、雨宮にも、ほんと、また」


 描いて、欲しいんだ。


 富田の真摯な態度と、疑いようの無い切望が、椿の胸を貫く。ああどうしようどうしたら、と意味の無い言葉を頭の中でぐるぐると繰り返し、奥歯を強く噛みしめる。そうでもしないと涙腺が決壊しそうだった。請われて、否だなんて拒めない。戻りたかったのだから、本当は。戻れば、嫌な思いを再び味わうかもしれない、その不確定な痛みから逃れるためにずっとずっと同じ場所で二の足を踏み続けていただけなのだから。それなのにまた描いて、と請われるなんて。自分だけに都合の良い白昼夢を、どうか見ているんじゃありませんように。


 「……ありがと、」


 感謝の意を、なんとか口に出す。今日、こうして富田がまた、と誘ってくれて、それで万事が解決したわけではない。陰口は完璧にゼロにはならないだろうし、また部室へ通い出したとして、かえってその断続的な活動姿勢は自己中心的で不真面目だと不興を買うかもしれない。

 決めるのは、椿だ。流されるまま、の生き方も結局、椿がそれに甘んじてきたからだ。楽、なのは恐らくこのまま幽霊部員を続けること。国際美術展とやらに出品させてもらえるのなら、日頃の部活動抜きに出品だけさせてもらうやり方だってある。楽、な道を選ぶか。それとも。自分を必要としてくれる道を選ぶか。

 迷うべくもなく、椿の肩を小突く志摩の笑顔がもう既に、答えを出しているように思えた。


 「雨宮、文化祭の実委、引き受けたって野口から聞いて焦ってさ。忙しくなるだろうから、早めに言っとかなきゃと思って…大丈夫だよな? 出品の締め切りは文化祭の翌週なんだけど」

 「オケオケ、優秀な秘書様がちゃあんとそのへんのスケジュール管理はいたしますんでお任せあれ!」

 「胡散臭いわあ、志摩っち。ほんま何なん、自分」

 「志摩っち、って何なん、のぐっち」

 「いつの間にそんな仲良くなったんだ? お前ら。ああ、なんかおめでたい周波数がぴったんこだったんだな」

 「やめて、トミー。それ馬鹿っぽいから」

 「どこまで人の懐に入り込もうとするんだよ、志摩は。俺ら今日、初めて喋ったよな?」

 「そうだっけ?」


 ふへへ、と頬を緩ませる志摩の、持ち合わせるスキルは多岐に亘るらしい。優秀な道化師までも務まるんだな。一人でパーティーの役目全部こなせるのかもしれない、志摩なら。椿は幾度か体験した覚えのあるロールプレイングゲームを思い出しながら、そっと静かに笑みを浮かべる。

 志摩が椿の目の前に現れてからこっち、何か新しい物語が始まっていたのかもしれない。そんな壮大なオープニングテーマが流れていたことすら、気づきもしなかったけれど。


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