第5話

 放課後、集めたアンケート用紙を左手に、志摩が椿の背を突く。


 「椿、今日から美術部通い?」

 「え、…と」


 いまだ席に着いたまま、椿は志摩をぼんやりと見上げる。視界の隅に隣の席の野口が、帰り支度をしながらこちらへ耳だけ傾けている様子が窺えた。

 今日から、と。はっきり決めていなかった自分の浅慮がもどかしい。それにひきかえ、今日から、と明確に次の動きを考える志摩の行動力が羨ましい。生き急いでいる、という表現は正しくないのかもしれない。


 「……まずは。新しい、顧問の先生に、ご挨拶を」

 「清く正しいご近所づきあいか!」


 その後は? と笑いながら重ねて問うてきた志摩が、左手をそっとその背の後ろへ下ろす。まるで椿の視界から静かに消そうとするように。ああ気づけて良かった、椿は一人 胸をなでおろした。


 「駄目だよ、志摩」

 「え、何?」

 「一人で集計しようとか、駄目だよ。僕も委員なんだし、今日からすぐ絵を描き始めるわけじゃないし」


 ただでさえか細い声なのだからせめて、と立ち上がってみたものの、志摩との身長差ではあまり意味がなかったようだ。志摩は大きく一度、瞬きをすると、ふは、と笑いをこぼした。


 「そうかそうか、俺こそ確認忘れてたわ、ごめんな? 椿。よし、一緒に集計しようぜ」


 じゃあ俺も美術室行くからその後でな、と肩越しに椿へ言葉を落とすと、志摩は早速 踵を返す。じゃあなー志摩っち、雨宮くんも、とかけられた野口の柔らかな声に、おー、のぐっち、バイバイ明日なー、と間髪入れず返している。これまでと何ら変わらない日常のひとコマのような当然の振る舞いに、椿は驚きつつ己の反射神経の鈍さを呪った。何とか野口へ頭を下げながら椿も慌ててスクールバッグを手にし、志摩の背中を追う。志摩の左手にあったそれらは志摩のバッグの中へきちんと収められた。

 美術室へ行った後。すごいな、と何にか分からないまま感心する。椿に、この先の予定が二つも現れた。明日を約束する、さり気ないやり取りとともに。朝も、帰りも、挨拶を交わせた。そんな一日は本当にいつ以来だろう。



 久しぶりに足を向ける美術室。ここが美術部活動の主な場だ。室内後方に準備室が続いていてキャンバスなどの画材をその一隅へ置かせてもらっている。運動部系の活動と異なり、整備されたクラブ棟、などと一部一室を宛てがってもらえるほど環境の良さはない。毎年、コンクール本選へ出場し何らかの賞へ絡んでいる吹奏楽部は文化部系の部内でも別格扱いなのだが、悲しいかな、美術部はさほど実績を残していないのだ。進学校ゆえか、高名な美術教師が赴任してきた過去もなければ、さほど熱心な顧問に恵まれた覚えもない。昨年度の椿の受賞は本校史上初、などと讃えられたが決して大袈裟ではなかったのかもしれない。


 「緊張してんの?」

 「!」


 出入口前で止まった椿の動きは、あまりに分かりやすかったのだろう。体側に置いた左の手の内にはじとりと嫌な汗をかいている。拳を作ったり開いたり、を繰り返してみても、どくどくと醜い音をたてる心臓に変化はないとみえた。


 「自動ドアじゃないんでしょうよ? ここ」

 「……うん」

 「じゃあ、椿が開けないとな? 自分の手で」


 分かっている。開けて、良いことばかりではないだろう、嫌なことばかりかもしれない。けれど、良いことばかりかもしれない、嫌なことは一つも無いかもしれない。このドアを、開けてみなければ始まらない。

 とにかくも、決めたのだ。楽な道を選ぶより、こんな椿を求めてもらえたその場所へ動いてみようと。


 「ハイ! 椿、行きまーす!」

 「雨宮? …と、志摩?」


 物理的に椿の背を押した志摩の声は明るく大きく、それを合図のように目の前のドアががらりと開いた。開けた視界の先に立っていたのは富田だった。不意に加えられた力につんのめった椿は富田の胸元へ頭をぶつける。小さな体軀は富田の両腕で抱えとめられた。


 「わ、ごめん、雨宮」

 「や、あ、ご、ごめん、僕が、」


 僕が悪いんだ、そうもごもごと口の中だけで言葉をもつらせる。富田の腕が離れ、いよいよ広がった美術室内の光景。先に来て既に活動を始めていたと見える何組かの瞳が、ぴたりと椿へ置かれる。間違いなく有機物を認めるそこに、さまざまな色がたちまちに宿った。驚き、がメインだろうか、ありありと感じられるだけに痛くなる。勝手に決めつけてはいけない、そう思ってはいても人はそう簡単に変わらない。いや、自分がそう簡単に変わっていかないのだ。


 「良かった、来てくれて。迎えに行こうかと思ってたんだ。今日から描いていくか?」

 「悪いんだけどトミー。今日は実委の活動予定がございましてな」

 「え、俺、トミーに決まったのか? 同意した覚えないけど、そしてめっちゃ嫌なんだけど」

 「じゃあ、とみたん」

 「もっと嫌だ!」


 富田は察してくれたのだろうか、志摩の救いの手の意味。楢崎先生 来てるから、と美術準備室へ多くを語らず先導してくれる後ろ姿にただただ、ありがとう、と頭を下げた。視線の波間をかいくぐりながら強張った肩の力がいまだ抜けない。諸々の想いを、ありがとう、に籠めて都合良く場をおさめようなどと、そんな狡猾さを発揮するつもりはない。それでも今、富田へ伝えたい言葉として真っ先に口を突くのは、ありがとう、だった。


 (志摩にも、ありがとう、だ)


 俺、選択 音楽だからさー、初めて入ったわ美術室、わぁやっぱあるんだこの像、なんだっけ、ダビデ? ダヴィデ? 下唇 噛む感じ? 細かいなぁ

とみたん、あ、これ上半身だけ? 下ないの? なに、青少年への配慮? やだ妄想が暴走しちゃうじゃんねー。


 志摩の、屈託のなさ、が万人へもれなく受け容れられるものだとは椿も考えていない。好き嫌い、別れるところがあると思う。それでも志摩の笑顔ひとつに、一言に、一歩ごとに、生まれた空気の揺れがやがて漣となって、いずれ笑いへと変わるまでにさほど時間を要さなかった。ほらもうまるで、昔からの馴染みのように、志摩の存在感がここにある。椿よりもよほど長い時間、入り浸ってきたのではないかと錯覚するほど。


 「すごいなあ、志摩って」

 「何の話 してんの? とみたん」

 「……もう、百歩譲ってトミーでいいわ。人たらし、って言うの? お前みたいなの」

 「トミーね! オッケ。ちょっと英語っぽく言ってくから! トミー!」

 「いや、まるでカタカナしか脳裏に描けねえよ」

 「人好きのする、とか言ってくんない? もう、セクハラやだなあ」

 「お前こそ何の話をしてんだ」

 

 根が真面目、だと思われる富田の、いたって低温な鋭い突っ込みが絶妙なのかもしれない。先ほどからの笑い声はもはやひっそりというレベルを超え、爆笑と称しても過言ではない。

 ほぐれた室内の空気を感じとったのか、準備室から顔を覗かせた男性がいた。


 「どうかした? 富田」

 「あ、楢崎先生。あの、雨宮です、この前、話した」


 楢崎先生、と呼ばれたその人は、教師の典型像から程遠い外見であった。この学校においては異端、とでも言おうか。年の頃は30代? いや、と椿は目を細める。分からない、20代後半かもしれないし、39歳だって30代だ、どこかに当てはまるようでどこにも当てはまらないような気がする不詳さ。アシメトリーな髪型は男性にしてはやや長めで、ウェーブが波打つ茶色。細いフレームのレトロな丸眼鏡が知的な顔立ちをどこか幼く彩っている。選択科目の教科担任だからこそ特段のお咎めもご指摘も無いのだろうか。それとも敢えて貫くスタイルなのか。繊細なガラス細工のように、その取扱いに注意を求められているようでいてその実、超マイペースな強心臓の持ち主なのかもしれない。

 するりとその全身を現した楢崎は、目線の高さが椿とあまり変わらなかった。だからか眼鏡の奥のつぶらな瞳にぱちりと捕らえられる。心臓がどくり、とおよそ規則的でない波を打った。自分の与り知らぬところで自分が話題に上っていた、そんなシーンにとてもポジティヴな色をのせられない己の根の暗さが嫌になる。


 「おお、教育長賞。で、復活?」

 「あはは、俺、センセーと気ぃ合うかも」


 スクールバッグを意味なく両腕で抱え込んでいた椿は志摩を見上げ、そうかもしれない、と思った。端折りすぎと言おうか、いや賢すぎて端的すぎると言おうか。真意の理解までに時間を要するがゆえ、椿があたふたしている間に話題は次へ進んでいくのだ。途端に楢崎は「ええー」とあからさまな反意を示した。


 「合わないよ。志摩みたいに懐っこいの、苦手だもん俺」

 「おお! 教師にあるまじき暴言!」

 「でも本当のことですし」

 「懐っこいの、計算なんすよセンセー」

 「へえ、そうなの」

 「うわ、どうでもいい感、出し過ぎだし!」


 本当に、志摩のことをどうでもいい、とはしていないのだろう、楢崎はへにょりと幼い笑顔を志摩へ向けると、次いで椿へ向き直った。ひたりと静かに射竦められ、まずはご挨拶を、などとぼんやり考えていた己の軽々さが途端に間違っていたような気になる。どうしよう、何だろう。謝罪が正解だったか。


 「……あの。す、すみません…、また、あの」

 「うん。まあ、一応、話は聞いてるのね、富田から。謝る必要とか、ないと思うよ俺は」


 違ったか、まず掲げるは謝罪ではなかったか。とはいえすぐに繰り出せる二の手など、もたつく椿に持ち合わせがない。初めましての挨拶なんて、もうすっかりタイミングを逸してしまった。


 「雨宮は、また、どうしたい? また、ここに通いたい? 絵を、描きたいの?」

 「……絵を、描きたい、です」


 言ってしまって、あれ、こんな二者択一って話じゃなかった、と気づく。けれど正しくもあった。噂や陰口をきちんと自分ごととして認める前までは、躊躇いひとつ抱かずここへ通っていたことが夢のようだったから。知ってしまった以上、知らなかった頃の自分を容易に取り戻せない椿であった。ひそりひそりと囁かれる対象となるあの居心地の悪さや、明らかな名指しでなくとも椿のことだと分かるような意地の悪い揶揄。具体的な悪戯も手伝えば、笑い方さえ忘れてしまった。毛穴全部から細胞全て、毎日が重苦しい何かに毒されて行動ひとつ、鈍くなる。つい昨日までキャンバスを並べ、切磋し合っていたはずの仲間内だからこそ、いともたやすく翻る態度に、ただ悲しみしか残らなかった。

 そうして、思う。僕が悪いのだと。何にも揺るがない強固な信頼関係を築けていなかった自分が悪いのだと。それは正しいようで、多少の逃げもあった。他にそれ以上を考えたくなかったから。


 楢崎は椿の「また」をきちんと拾い上げてくれた。一言ひとことを丁寧に紡ぎながら、まるで椿の胸の内を見透かすように願う答えへ導いてくれた。丸眼鏡の奥は千里眼なのだろうか。


 「そうだね、雨宮は、描いた方がいいよ。それを、求められてる人だよ。別にこの部室で描かなきゃ、って決まりはないんでしょ? 富田」

 「それは、まあそう、なん、ですけど…」


 あからさまに言い淀む富田の心中を察する。後輩への刺激が、などと呟いていた野口の言葉も思い出されたが、やはり気儘な活動姿勢は不真面目ととられかねないし、それこそ後輩への示しがつかないだろう。部長として部内を取りまとめる立場にある富田が、すぐさま頷けないのは至極当然と言えた。

 迷惑をかけているな、と思う。僕のすることはいつもそうだ。誰かに迷惑をかけたり、誰かに嫌な思いをさせたり。出来る限り誰の害にもならないよう、ただそこに在れればと考えているだけなのに上手くいかない。

 志摩が温めてくれた空気はたちまち閉塞感を孕む。誰をもが納得できる突破口を見つけられないまま、とにかく僕が我慢すればいいのだ、そうすべきだ、絵を描ければいいのだから、と椿が口を開きかけた時だった。


 「椿、みなさんにちゃんと言っとかないと」

 「……え?」

 「いやあ、俺のことモデルにして描きたいんだって、椿 画伯は! だから椿が絵を描く日はもれなく俺も付いてきちゃうけど、問題ナッシング?」


 志摩の台詞を耳にして、一体何を言い出すのかと慌てた。そんな取り決めを交わした覚えは一切ない。自分史上最速と思えるスピードで、椿は楢崎から志摩へと視線を移した。

 にんまりと、それこそ人好きのする笑みを浮かべる志摩だが何を思ってそんなことを、と戸惑いが先に立つ。確認作業がすっ飛ばされてるじゃないか、と考える一方で、いやもうバレているな、と自嘲もする。扉一枚、開けることすら時間がかかりすぎてしまった。本当に志摩は、察しがよすぎる。


 「何なんだよそのテヘペロ的な…、や、うーん、どうだろう。雨宮がそれでいいなら」

 「椿が、じゃなくてさ、みなさん的にオッケー? 俺のお色気にやられませんか? って話! あ、楢崎センセーもね」


 富田はその背に後輩たちからの視線を集めている。くるりと振り向き、賛否を問う前に、俺は、と自論を展開していた。それは気の毒だと椿は思う。運動部系の部活動とは異なり、あまりに明確で厳しい上下関係は存在しないが、それでも部長の方針に敢えて逆らう下級生がいるだろうか。まして一年生とは面識すらない、こんな今日が初対面だなんて情けなく感じる。

 椿は「富田くん」とかすれる声で呼びかけた。恥ずかしい、気にし過ぎなのだろうが瞬時に集まる視線にたじろいでしまう。それでもせっかく、作ってもらったチャンスなのだ。富田の配慮、楢崎の差配、そして志摩の思いやり。気づかないフリをして気づけないままの人間になりたくはなかった。好機はそうそう、訪れてくれないのだと、知っているから。


 「僕から…みんなに、」


 謝るよ、と言いかけてでもそれは楢崎の考えに反するのだと思い至る。ならば、説明か、釈明か、弁明か。言葉に詰まるのは確かだが、振り向いた富田の向こうに広がる自分より少し幼い顔たちへ、何も告げないままここへ再び現れることは上手くいかないように感じた。結局また、俯いたまま、何を描きたいのか分からなくなってしまうだろう。


 「雨宮?」

 「……あの、しばらく、サボってました。すみません」


 富田を除く残りの顔ぶれは部員の全てだっただろうか。頭を下げながら、ああやっぱり謝ってるな、と思う。楢崎が謝罪は不要だとしたポイントを「サボった」という表現に置き換えた、それは本質ではないし、少し論点がずれている。とは言え、絵を描くことが好きだという熱量が、自身の弱さを乗り越えられなかった点も事実。また描くきっかけと描きたい理由が今ここにあるから、タイミング悪く掴み損ねたくなかった。


 「……これから、来ますちゃんと、あの…志摩も、えと、モデルの志摩くんも、来ますが」

 「よろしくお願いしまーす」

 「ちゃんと、描きます、ので…また、」


 志摩と同じく「よろしくお願いします」という締め括りが正しいのか、迷った椿へ「あのぅ」と控えめな声がかけられた。富田の背後から現れた顔に椿は見覚えがなく、申し訳なさが一気に募る。


 「先輩は、ポスターの、雨宮先輩ですか?」


 ポスター、と椿が反芻する間に、富田が、そうだよ、と返してしまう。ポスター、と語尾を落ち着けてもう一度繰り返すも、何の話だか、首を傾げる椿だった。


 「新入部員勧誘のポスターのことだよ。雨宮が二月の終わりくらいに描いてくれたやつ」

 「ああ…」

 「あれ見て入ってくれた子、結構いるんだ」


 部室から足が遠ざかり始めた頃だったように思う。富田から頼まれたくだんのポスターは、椿を美術部へつなぎ留めようとしてくれた富田のさり気ない心遣いだったのだろう。今なら、そう考えることが出来る。時間の経過が変えてしまう気持ちもあるが、時間の経過とともに理解できる気持ちもあるのだ。


 「なんかやっぱり、持ってるオーラが違うというか」

 「あ、分かっちゃうんだ? やっぱ」

 「今ここで絶対お前のことじゃないから、志摩。つかお前、脱がないよな? お色気って、まさかと思うけどモデルって」

 「ちょ、トミー! まだ明るいってば! 破廉恥ー!」

 「あ、なんかそれムカつく」


 けらけらと沸き起こる笑いに、あれこれで良かったのかな、と落ち着かない。どこか置いてきぼりをくらったような心もとなさがこみ上げる。それでも志摩と富田以外の生徒たちには、もう部活動を始める姿勢が見てとれた。とあれば、椿にこれ以上を引き留める理由も権利もないと口を噤む。


 「人物を、描くの?」

 「!」


 楢崎の問いはただの確認のようでもあり、含むところのある詰問、のようでもある。なにせ椿は人間に疎い。自分が直感で手に入れる相手の印象などあまり当てにならないと分かっている。ちらりと楢崎を見、どうだろう、と考えた。厳しいばかりの人とは思えないが、慈愛ばかりに満ちた人ではないかもしれない。この世に生まれ落ちてからの時間経過がさほど変わらない、同級生たちの人となりすらよく理解出来ないというのに、歳上の個性的な教師だなんて強敵すぎる。

 とはいえ志摩の、せっかくの秘策を、無碍にするわけにいかなかった。昨日は一日 大事をとった志摩だ、体調はこの先も不安定なのだろう。なのに放課後、すぐさま帰宅する選択ではなく、椿とともに時間を過ごすという大冒険に出たのだ。そんな勇者の優しい嘘を、椿に捨て置けようがない。


 「……はい。志摩の、横顔を」


 今、椿の目がとらえているものがそうだったからか。志摩の、横顔。他の男子生徒と比較するとやはり蒼白くあるそれは、けれど椿に稜線がくっきりと際立って映る。何気なく、その場しのぎのように口を突いたイメージだったが、案外 最高のモチーフかもしれない、と胸中で自賛した。

 ちらりと窓外を見遣ると、そこへ広がる空の色にも似ている。ますますイメージが膨らんだ。水彩を好む椿がとりわけ好きなペールブルーをのせて描く志摩。例えば人物に対し使う「pale」は顔色が悪い、などと、どちらかといえば弱々しい表現として用いる。それも確かな志摩の一部だ。そしてそれは、椿しか知らない一部と言える。志摩がひた隠しにしているものを椿が許可なく世間へ公表するつもりなど毛頭ないが、白に純色をほんの少し混ぜたペールカラーは、概して清々しく爽やかな印象を与える。爽一郎、という彼の名が表すが如く。それも志摩の一部なのだ。


 「ふうん。珍しいね、俺、雨宮の作品いくつか見せてもらったけど、人物画は無かったような」

 「そ、ですね……」


 基本、苦手なので。

 心の中だけでそうつけ加えた。静物ではない人を扱うなど、向き合うことを考えただけで変な脂汗をかきそうだ。志摩だから、大丈夫、平気だと言える確証はどこにもない。けれど志摩ならば、大丈夫、平気かもしれない、と思える漠たる期待はあった。ほら横顔だし、正面から見つめるんじゃないし、と往生際悪く言い訳を重ねながら。


 「志摩と、仲良いんだ?」

 「仲、は……」


 富田とじゃれ合っていた志摩だったが、自身の名が呼ばれたことに気づいたのだろうか、くるりとこちらへ上体を向けると邪気無く歩み寄ってくる。

 はたして、仲が良いのか、僕と志摩は。仲が良いと第三者へ表してよいのか。これこそ、確認が必要だ。自分だけの一存で勝手に応えていいわけがない。


 「どしたん? 椿」

 「志摩と、仲が良いのか確認しただけなんだけど。黙りこくっちゃったね」

 「あれ? 俺ら仲良くなかった? ロンリープレイ?」

 「なにそれ」

 「やだなぁセンセー、独りよがり、ってこと! あ、健全な意味で、よ?」


 ふうん、と平淡な楢崎の反応に、冷たい! と笑いながら肩を震わせている志摩。笑みを湛えたまま、志摩の瞳が椿を捕らえる。

 喉の奥が熱い。熱くて声の出し方を忘れてしまいそうだ。志摩の独りよがりではない、そう口にしても良いのだろうか。そもそも仲が良い、の定義はとても曖昧だと思う。確かに志摩とは他のクラスメイトより交わした言葉数が多い。けれど富田と比べたら? 同じ美術部で一年の頃から放課後の時間を共有してきた。高校生活累積で算出すると富田との間にあった会話の方が多いかもしれない。それでも富田とは「仲が良い」と表し難い、志摩との違いがあるように思えてならない。同じ部活、同級生、そんな富田との括り方はいくばくかの納得を生むような。

 違い、の正体について考える。


 (仲が良い、と……思われたいし、思いたい。そんな欲が、有るのか無いのか)


 無かったはずなのだ、そんな欲など関心と同じように、誰に対しても。なのに、と視線を落とし、また上げる。目の前にある志摩の顔から表情がやや抜け落ちていた。ただ、答えを待っているだけにしては、それはとても辛そうに見えた。


 「……仲、は。良い、です。はい」

 「言わされてるっぽい」

 「椿ー、せめて笑顔を! 笑顔をちょい添えて!」


 見間違えたか、僕は。そう目をこすりたくなるほど、志摩はまた先ほどまでの明るさを纏っている。ひょっとして体調が悪いのではないか、だとしたら早く帰してやらないと。一気に襲われたそんな焦りに、慌てて椿が一歩を詰めた時だった。


 「志摩は、雨宮を、どうしたいの?」


 楢崎の声はとても低く静かで、だからか椿と志摩へようやく届く程度だった。先ほど椿が問われた口調と同じようなそれは、ただの質問のようでもあり、含むところのある詰問、のようでもあった。


 「……どう、って? センセー」

 「それ、キャラ作ってるでしょ? 志摩。誰とでも仲良くなれるけど絶対 本心は明け渡さない人じゃない? ホントは。そんなタイプが雨宮と急接近? そこに何もないって言うの?」


 追い詰める感はまったくない。楢崎は相も変わらず淡々と言葉を紡ぐ。ただそれだけだというのに、志摩は息をのみ言葉を失った。透けて消えてしまいそうだと思う。そんなわけ、ないのに。

 饒舌だと疑わなかった志摩の急変は、ああそうか、楢崎先生の言葉は的を射ているのかもしれない、と椿が考えるに足る要素だった。何故だか少し、背筋が寒くなる。


 「……やだなー、センセーってば。俺のこと、よく知らないでしょ」

 「いや、わりと知ってると思うよ。たかのんとは大学の同期だし」


 志摩が目を眇めた。たかのん、とは言わずもがな、椿たちの担任・高野のことだ。そしてそんな愛称で彼を指す人間は多くない。校内でそんな風に呼び出したのは志摩が最初かもしれない、今年度着任したばかりの楢崎がそれを知っている理由は。そう考えると、楢崎の言葉に頷けなくもない。

 志摩は、椿が初めて——そもそもそんなに多くを知らないが——目にする表情を貼りつけていた。何かに怯えるかのそれは、常ならば椿よりよほど大人びている志摩をひどく幼く見せている。椿は何故か、志摩へ「大丈夫だよ」と言いたくなった。それは、何の「大丈夫」なのか、何が「大丈夫」なのか、まったく解らなかったけれど。


 「雨宮を、傷つけるつもりなら見過ごせないんだけど」

 「んなワケねえだろ」

 「志摩が、傷つくつもりなのも見過ごせないしね」

 「は? 何 言ってんのセンセ。どっかの不思議ちゃん気取り? そっちこそキャラ作ってんじゃねえの?」

 「気づいてないんだ?」

 「せ、先生」


 何かが、怖かった。明るく温かくふわふわと笑っていた先ほどまでと、打って変わった志摩の荒ぶり。低い声、威圧的な口調、その全身から発せられるぎらぎらとした危うさは、志摩から止めてね、と一度は請われた「暴走」というやつかもしれない。

 けれど、その荒々しさ以上に椿が怖かったのは、歪む表情の志摩がひどく悲しく今にも泣き出しそうに見えたことだ。

 やっぱり具合が悪いんじゃないか、ずいぶんと無理をさせているのかもしれない、早く休ませてあげたほうがいいんじゃないか。それは椿が感じた怖さの、本当の理由ではないだろうけれど。そう思い込むことでとにかく今、一刻も早くこの場を去る最良のきっかけが見つかるような気がした。

 

 誰しもそうだろう、明と暗、静と動、強と弱、どちらが表出するにせよ、そんな対比を抱えている。どちらもがその人物だ。ただ、今 目にする志摩の翳はあまりに脆く見えて、志摩のすべてを覆い尽くしそうだった。志摩がいてくれることと、志摩がいなくなるかもしれないことは、日常でこんなにも密に絡まり合っている。

 考えなしに楢崎へ呼びかけた。ぴたりとおさまった二人の応酬は、そのまま同時に深いため息へとつながる。口を開いたのは楢崎だった。


 「なに? 雨宮」

 「す、すみません…あの、今日、このあと…文化祭の、打ち合わせが」

 「ああ、そうなのか。じゃあ、またおいで」


 志摩も。


 確かに楢崎はそう言い残し、現れた時と同じように美術準備室へ静かに姿を消していく。するり、と。

 志摩はきつく唇を噛み、楢崎の背中へ強い視線を送っていた。その横顔はやはり蒼く白く、澄んでいた。

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