第6話
「……行くか」
志摩がようやく静かな声を生み出した時、表情の歪みこそ消えていたものの、どこかしら残る仄暗さに言葉を失った椿であった。志摩は瞬きを何度か繰り返し、笑みを取り戻そうとしているらしい。その懸命さは不要なものに思えて止めたくて、椿はなんとか一つ、頷きを返す。
出入口へと動き出した椿たちを認めたのか、富田が歩み寄ってくる。雨宮、と呼ばれ振り向いたその先に富田の不安げな顔があった。
「来週から…来る、か?」
「トミーってば、そんな俺に会いたいって? いや分かる気持ちは分かるよ、クラス違うといつも一緒にいられないしね!」
「いや、お前に言ってんじゃないから志摩。俺は雨宮にだな、」
「俺と椿はニコイチだっつったじゃん」
「言ったか?」
富田と軽口を交わす志摩はもう既に“志摩らしさ”を取り戻している。しかしはたしてそれは真の姿なのかどうか、椿には迷うところであった。
荒ぶる志摩、自ら傷つこうとしている志摩、そして椿を傷つけるかもしれない志摩。そんな志摩の一部も、椿は手に入れてしまった。
楢崎の暗に指すところを、どう考えればいいのか分からない。
いや、正しくは。
今はまだ、考えたくない。
「じゃあみなさん、来週からよろしくお願いしまーす」
ほら椿も、とにこやかに促され、慌てて頭を下げる。お願いしまーす、とぽつりぽつり応じる部室内の幾つかの声に心底安堵したのは事実。これで万事が元通り、だなんて思わない。気まずさもぎこちなさも冷やかしも無視も、ゼロ化するなんて考えない。けれどどうせ時間を鬱々と過ごすならば、何故、どうして自分がこんな目に、と抗わない流れに甘んじた結果、溺れる無感情の波よりも、少しでも自分で動いた先に待ち構える棘を選ぼうと思った。
その選択に、志摩への羨望がちらつかなかったわけではない。生き急ぐ志摩の隣にいつもひたりと控える翳を意識しなかったわけではない。
準備室から楢崎が、再び姿を見せることはなかった。
「ごめんな?」
昇降口までを無言で歩き、靴を履き終えたところで志摩が先に切り出した。不思議と、志摩と並び、互いの一歩ずつで切り開いていく静謐な空間は息苦しさもなく、むしろ心地好ささえ覚えた。それでも何かを——出来るなら気の利いた一言を——発した方が良いのでは、と解を出せない数式に囚われたように、ぐるぐると思考の無限ループを展開していた椿にとって、それは救いの瞬間でもあった。
まだ、覚悟が出来ていない。志摩の「ごめんな」は何を指すのか何にかかるのか、知りたいようで恐ろしい。椿の拙い話術はどうとらえられるだろう、深く意図するところは志摩に通じるのか。それでも椿側から会話の向きを変えることは難しくとも、志摩が放った一言の、その放物線の描き方を椿流にしてしまうのは、何とか可能かもしれない。
「……志摩、具合 悪いんじゃない?」
「ヘーキ…つか椿、俺のさっきの、聞こえた?」
「ヘーキ、が一回だよ。朝より元気なくなってるんじゃない?」
「何その椿基準。元気よ? でなきゃあんなドスのきいた声、出せないだろ」
人の話を聞きませんねーアナタ。
言いながらスクールパンツのポケットに片手を突っ込んで、志摩は大袈裟に肩を竦め、眉を上げてみせた。
若干、声音が落ちて聴こえる。そこへ一抹の不安よりも、素の姿に近づけたような勝手な解釈を当てはめる自分が、ちょっと痛い。
「……僕より腹筋、あるでしょ」
「ねぇよ、俺たぶん椿よかガリガリくんよ? 昔はなあ、サッカーとかバスケとか体操教室とか、結構いろいろやってたんだけども」
「そう。いいね、僕は腹筋だけじゃなくて運動神経もないよ」
「ふ、はは」
無いものをねだるより持ってるものを数えれば?
志摩はそう言って椿の頭へ軽く触れた。擬音を付けるならさしずめ「ポン」といったところか。志摩の上背の高さからするとたまたま伸ばした指の先に椿の頭があった、ということなのだろう。
いや、スクールバッグを右肩から左肩へ持ち替えたその時に、たまたま触れただけかもしれない。志摩の意志とは全く関係なく、ただ、一連の流れ。上腕筋の動きがそうさせただけかもしれない。
椿にとっては特別な瞬間、きっとそれは志摩にとって気に留めるほどでもない瞬間。それでいいと思った。
ベクトルを合わせる、なんてよく聞く表現だ。心をひとつに頑張ろう、だとか。耳にするたび椿は、とても陳腐に感じる。内なる感情すらままならないのに他人のそれまで同じ向きへ変えられるとは到底思えない。ひょっとしたらもしかして、ほんの少し重なり合う部分くらいあるのかもしれないけれど。
志摩の心は志摩だけのものだ。椿の目に見えるものではない。理解して、と向けられる闇の恐怖を椿は知っている。またうっかり思い出してしまいそうになって、慌てて記憶をのみ込んだ。
期待してはいけない。その先に失望が待っているから。成される行為に他意を覚えてはいけない。誤解を生むから。過ぎた誤解は人を壊すから。
「椿はさあ、持ってんじゃん。絵を描ける、ってスキル。賞とか貰っちゃうくらい普通以上のレベルのさ。そういうの、マジ羨ましいんだけど」
「……そう? あんまり言われたことない」
「あ、はは! 名前呼ばれた気になるな? マジで。そう、って相槌、な?」
「志摩こそ人の話を聞かないね」
「マクド行くか。寮生って門限あんの?」
あってないようなものだが、一応9時、と応える。放課後マクド、という高校生活における初体験事項に椿の関心はさらわれたが、耳ざとい志摩が椿の「一応」を聞き逃すはずも無い。
「なに? 一応、って。寮生ってそんな乱れてんの? 守るヤツいない、とか?」
「逆。みんな品行方正だよ。他県から来た子は平日あんまり外に出ないし、部活動やってる子も結構いるし。放課後どこかに寄って帰ってくる子ってほとんどいない」
「あれま。じゃあ、今日から椿は不良の仲間入りですな」
ふりょう。
音として声に出して、その響きになんとなくわくわくしている自分に気づいた。不良、か。そうだな、僕は、と思う。とうの昔に不良の烙印を押されたのではなかったか。それは不出来な、という意味でもあり、家族としての在り方を壊した禍々しい元凶、という意味でもあったような。
そして志摩となら。その不良もまた、楽しいもののように思える。
「……あ。ごめんな、って、このこと? 不良の道連れだから?」
「本当にお前の思考回路はどうなってんの? 椿。楢崎以上の不思議生物か! 怖ぇわ、お前に描かれる俺、ってどんなんなんの? ちゃんと目は二つ? 鼻ひとつ?」
「あ、あのね。蒼、なんだ」
「つーばーきー! 脈絡!」
そうこう話している間に、二人の歩みは駅前のハンバーガーショップで止まる。志摩は当然のようにスクールパンツのポケットからスマートフォンを取り出して何やら操作を始めたが、追従しない椿を不思議そうに覗きこんできた。
「あれ? 椿。クーポンとか使わない人?」
「……クーポン?」
「ん? アプリ入れてない?」
「……アプリ?」
「壊れた? え? あれ? 来たことない? ここ」
「……ない」
いやもっと有り体に言えば、放課後を部活動以外で誰かとともにする、という行為自体初めてなのだが、そこは何故だろう、素直に口に出来ない椿であった。勿論、伝えたところで志摩は驚きこそすれ、馬鹿になどしないと思う。今だってそうだ。志摩と椿が持っているスマートフォンは同じ機種ということもあってか、アプリのインストール、クーポンの使い方、と細かく教えてくれる。茶化されるでもなく、珍妙な希少生物扱いをされるでもなく、普通。それはただもう淡々と、応用問題の解き方を教えてもらうのと同じように。
「つっても俺、家にメシ用意してあるからあんま食べないけど。ポテトとドリンクくらいな。椿は? 寮に夕飯って、あんの?」
「あるよ。寮母さんが用意してくれてるから、僕も志摩と同じにする」
慣れない場所でまるっきりの独りであれば、行動の逐一に迷いばかり生じて一歩も動けないように思うが、志摩、というお手本があるから心強い。ぎこちなさを懸命に押し隠して椿は志摩の真似をする。
イートインスペースは二階で、椿は慣れないトレーを両手で抱え持つ。冷たいウーロン茶入りのカップがどうか倒れませんようにこぼれませんように、と祈りながら階段を一段ずつ慎重に上った。左肩へスクールバックを掛け、片手でトレーを軽々と運ぶ志摩に、これは倣えない。窓際のカウンター席へ着いた時に吐いたため息は思いのほか大きく広がり、椿を見上げる志摩は、くくくと声を押し殺し笑っていた。
「椿って見てて飽きないなあ。小動物系の怯えっぷりというか」
「……志摩はNHKのドキュメンタリー番組を観ても泣かない人なんだね」
「いや、なんかちょっとよく分かんない喩えだったけども。そのズレてるとこも好きだわー、俺」
座りかけた椅子ががたりと大きな音をたてる。好き、という単語へ過剰な反応を示してしまった自分を殴り飛ばしたくなった。馬鹿だ、志摩に他意はないのに。絶対に紅くなっている頬も、平手打ちを重ねて、そのせいにしてしまいたい。震えそうな指先をなんとか叱咤し、ストローをカップへ突き立てた。
「……アンケート」
「あー、ね。俺、さらっと見てみたんだけど、何人か真面目に書いてくれてるみたいで」
志摩のバッグから取り出されたA5サイズの用紙30枚。半分に分け一枚ずつに目を通す。そのほとんどがステージ発表よりクラスでの催事を選択しているようだ。
「だーかーらー、具体的に何したいか書いて欲しいよなあ、まったく。二者択一で終わってんじゃねえよ、って」
「あ、これ書いてある。“バザーとか、無難なもの”」
「ちっくしょ、これぜってー中島だわ。“志摩のポールダンス”って何だよマジで! 誰が見てえんだ、木下からボコられるわ!」
「踊れるの? 志摩」
「ぅおい! 食いつくとこそこじゃねえからな! なに“スゴイね志摩”みたいなテンションになっちゃってんの? 疑えよ、アイアムジャパニーズ健全男子高校生よ? 踊れるワケねえだろが!」
「や、さっきいろいろやってた、って」
「ぶは! そういういろいろじゃねえの、ご期待に添えず申し訳ございませんな。つかオニーサンは椿たんがポールダンス知ってた、っつーのが地味にショック」
「あれでしょ、ラスベガスでよく見かける」
「ちょ、なにその修学旅行で行ってきました的なノリ!」
笑いながら食べながら飲みながら、それでもアンケートへ目を通し椿の言葉に耳を傾ける志摩は、一体どれほどのマルチタスク機能を兼ね備えているのかと思う。椿など一体どのタイミングでフライドポテトへ手を伸ばせばいいのかすら解決出来ていないというのに。
残してしまっては勿体ないと思うが、自由記入欄へ記された文字を追うのに必死だ。クラスメイトの姿勢は、一応、なのかもしれないし、テキトー、なのかもしれない。それでも時間を割いて考えて書いてくれたのだろう、無碍にしたくない数枚を志摩へ差し出す。
「志摩、“百人一首大会”って案があるよ」
「あー、こっちは“競技かるた”だって。何だっけ、漫画が映画化されてるから? 乗るよなあ流行りもんに」
「あ」
文字が記されている、それだけで志摩へ差し出していた用紙に、椿は自分の苗字を見つけ粟立った。ついネガティヴ側へ引きずりこまれてしまう。とはいえよくよく鈍色の字面を追っていけば、それを書いた人物の顔も独特のイントネーションも目の前に思い起こされた。
「“雨宮くんの似顔絵コーナー、とか。雨宮くんがリクエストにこたえて何でも描いたげる、的な” By野口、ってアイツはどんだけ椿を働かせるつもりなんだ?」
「あんまり似てなかった、野口くんのモノマネ」
「椿さん、それ辛辣すぎて笑えるわ、逆に」
ありがたいことだと思う。野口は野口なりに椿とクラスとの関わり方を考えてくれたのだろう、椿の特技を無理なく活かす方法を交じえて。ただ、椿は楽しめてもクラスのみんなはどうか。全員参加型とは言い難い催事はまずもって担任の高野から却下されそうだ。
「優勝賞品として椿 画伯の一点モノをプレゼント、とかだったらアリかもなあ」
「画伯って何? そういえば」
「椿、ベレー帽 似合いそうじゃん」
「志摩の話にも脈絡が無いと思うよ」
志摩はきしし、と奇妙な笑い声をたて、アンケート用紙を分類し始める。圧倒的に多かったクラス展示組、中でもきちんと具体案を提示してくれた意見をもとに多数決で決めよう、ということになった。今日は金曜日。月曜日のLHRの良い議題になるのではないか。高野への事前説明も必要だろう。
事を一つ、何かしら成しうるためには、想定し実行し修正し、また実行し、そうして完成形を目指す幾つもの流れが生じる。絵を描く行程とまったく同じとは言わないが、それでも「やるべきこと」が日々の中に存在する事実は、椿のモチベーションをほんの少し高めてくれた。しかもたった一人、孤独に向き合う作業ではないという点も心強い。ただ、忙しさを充実と間違えてはいけないな、と胸の内で苦笑する。
「そういや、椿って地元どこ?」
「……市内。近いよ、JRの駅、一つ分」
「マジ?」
志摩は電車通学らしい、椿とは逆方向へJRで二つ分、と表現をなぞられた。校区こそ異なるが、他県からの入学者が少なくない場所においては俄然、志摩との“地元”を近しく共有出来る。
「じゃあ案外どっかで接点あったのかもな? 俺ら。あ、つっても小学生ん時か」
「……うーん。でも僕は、志摩みたいに華やかな小学生じゃなかったから」
「華やか、て! いかんよー、椿くん、そういう勝手な決めつけ」
「……ごめん。でも志摩は運動出来たんでしょ? 見目も良いし笑いもとれるし勉強は…分からないけど、今うちに通ってるくらいだから頭悪くないんだろうし、そう考えると、」
ああでもやっぱり決めつけなのかな、これは根拠にならないかな、言葉を紡ぎながらそんな迷いが生じて、椿の声は尻すぼみになる。志摩をちらりと盗み見ると、残りわずかなアイスコーヒーをずずっ、と吸い上げ、カップの結露を親指でなぞるその横顔が、複雑な彩りに覆われていた。
「……ごめん、志摩。嫌な気分に、」
「! いやいやいや違違違、当たってんだよ、椿の言うこと。小六までは、そうだったかなあ、って」
そう、とはイコール華やかだった、ということなのだろう。二階の窓際から見下ろす駅前は、学生の往来よりも社会人と思しき数が増えているようだ。この先をもっともっと聴きたくもある。けれど、志摩は何時に帰宅すれば大丈夫なのか、体調は悪くなっていないか、無理はしていないか、気がかりに思考を散らし、知る怖さから逃げ出したい自分もいる。
「病気が判ったの、12になるちょい前くらいで。それまではまあほんと、楽しいことばっかだった。椿が言うようにさ、体育の時間はそりゃもうスターだったし、身体もデカかったし、実は委員長とかやってたし、勉強もそこそこ出来たし、見た目はまあ、置いといて」
過去形を多く使いながら志摩は両の掌で何かを脇に置くジェスチャーを見せた。ほんの少し歯を覗かせながら。置いておく話ではない、志摩の華やかさはやはりそこへも及んでいたのだろうと容易に想像出来た。
「……モテたでしょ」
「ちょお椿! 置いただろー、その話は。自分でそういうのアレじゃん、ヤラシイじゃんか」
「大丈夫、志摩は自己申告が許される格好良さだよ」
「何が欲しいんだよ椿! や、マジ違くてね? キャラ作ってたから俺。低学年の時はまあ、たいして意識もしてなかったけど高学年になるにつれて、な? ほらうち歳 離れてる姉ちゃんいるからオンナ目線のモテ技みたいなん伝授されてさあ。ちょいガキ大将ちょいクールがウケる! とかなんとか」
そこまでを一気に捲したてると、志摩は目元をうっすら紅く染めあげポテトの残り数本をまとめて口の中へ放り込んだ。椿もそれに倣う。同じ時間、同じ仕草を共にしているこの心地好さへ付けるべき名を、椿はまだ、知らない。
「病気を境に、ぐるっと変わっちゃったけどね、そういうの。あんまガッコ行かなく…、行けなく? いや、行きたくなくなったし。キャラ作る腹黒さだけは、相変わらずなんだけど」
だから、と志摩は落とした声音で続けた。楢崎のあの物言いは、志摩の内側の触れられたくない場所を無遠慮に抉られたようで、怒りに似た昂りが押し寄せてきたのだと。
「気ぃ合うとか言っちゃったわ俺、楢崎と。ぜってー合わんわ、実際は」
苦々しい口調で、手首の動きに合わせ空のカップをくるくると回す志摩。志摩がその声にのせ、発した言葉だけを受け容れるべきなのか。仲が良い、とは。そうあるものなのか。常に心中を、言葉の裏や奥を、察するべきなのか。
どうすればいいのだろう、どう応えていくのが最善なのだろう。正解を見つけられないまま口を開くも、震える弱い声が椿の本音を最も吐露している。
「……もう、行きたくない? 美術部」
「でもアイツ、またおいで的なこと言ってただろ」
「志摩が無理すること、ないんだよ?」
そうなのだ、生きにくい現状を招いたのは椿自身で、だから何かしら咎や責めを受けるべきは自分だけだと椿は思う。志摩の提案はとても嬉しくありがたかったが、志摩がそこへ巻き込まれる必要はない。椿の罪悪感は募る。それと同時に、せっかく手に入れたはずの志摩との放課後の時間を、潔く手離せない自分に呆れる。
「いや。描いて欲しいんだよ」
「……志摩?」
「俺は、ちゃんと今ここに生きてる、って。生きて、椿と高校生活、送ってる、って。現在進行形で」
その一瞬。
椿の周りからすべての音が消えた。視界の大部分を占めていたはずの景色はぼんやりと霞み、残ったのは志摩だけだった。
どくり、と心臓が跳ね上がる。きっと小刻みに震える椿と異なり、志摩は静かに笑っていた。まるで空のように、或いは、海のように。
「俺が、生きた証。椿に、残して欲しいんだよ」
駄目? 重ねて問われ、椿に否やは無かった。
ただ一心にかぶりを振りながら、その微妙に現在進行形ではない物言いを、早く訂正してくれないかと願っていた。
———週明け、月曜日。
金曜日の、あの後の足取りは朧で、ただただ椿は志摩の言動を真似ることに終始していたように思う。じゃあな、また来週。手を振る志摩ほどに綺麗に笑えていなかったと思うけれど。
「おはよー、雨宮くん」
昇降口で室内履きを手にした時だった。椿の背に投げかけられた朝の挨拶はやはり独特の雰囲気を醸し出していて、それだけで野口だと分かる特徴を羨ましく思う。はんなり、という京の表現を思い出したが、それを当てはめていいのかどうか分からない。
「……おはよう、野口くん」
「なあなあ、アンケート読んでくれてんやろ? どう? オレ、雨宮くんに描いて欲しいんよなあ」
「お客様ー! うちの踊り子さんに触れないでくださーい」
「なんや、志摩っち。まずは朝のご挨拶やろ」
室内履きの踵へ片手の指を引っかけたまま、志摩がひょいと登場した。今朝もその名の通り爽やかだ。血色が良いとは言い難いが。
椿が片手に持つ大きめの荷物。体操服だとは考えにくいそれにどう当たりをつけたのか、志摩は椿を見つめるや子どものように邪気無く笑った。
「グーテンモルゲン、のぐっち」
「なにドイツ語って。ほなボンジュール、志摩っち」
「マジ負けず嫌いだなー、アンニョハセヨー」
「そっちこそ、ブエノスディアース」
周囲の生温かな視線に気づいているのかいないのか、志摩と野口は連れ立って教室へ向かう。三年生は校舎の三階へ位置しているため、多言語で、しかもなかなかの声量で言い合う二人とすれ違う下級生たちは、都度目を瞠ってくすくすと笑いをこぼす。椿は黙って二人の背を追った。
「ええー、もう大概 言うてしもた。他なんか知らん? 雨宮くん」
「ちょ、椿に頼んなよ! こいつ偏差値80あんのに」
「そんなにないよ。そうだなあ」
至って真面目に考えこんだ椿だが、目の前の志摩と野口はふわりと笑いを浮かべている。真剣な反応なんて求められていないのだろうか。経験値が低いというのは悲しいことだ、こんな風に楽しげな流れを向けられても自分の役割なんて正しく見出せない。ここは志摩と野口に倣って、知性と笑いを絶妙なバランスで提供すべきなのだろうけれど、一体どうすれば。
「………」
「え? 椿? なに? シューシュー言ってどうした?」
「わお! 雨宮くんパーセルタング喋れんのや! スゴイな!」
「え? パーセル、なに?」
「あはは! ググれググれ志摩っち、ファンタジー知らんのかいな? おはようやでさっきの。蛇語で」
「蛇?!」
こみ上げる恥ずかしさしか手元に残っていないが、何とか自分の責務は果たせただろうか。喉が渇ききって唾液が分泌を止めたのではないかと思う。どくどくと波打つ胸の鼓動が少しでも鎮まるように、片手で胸を押さえた。ただし背をぱしぱしと叩かれる、それは志摩の大きな掌だった。超越してんな、すげえ椿、と笑う志摩をちらりと見上げる。野口のゆったりとした笑い声も追随してきた。
ただ、自分の席へ向かうだけだった朝のひとときが、何も無かったはずの日常が、こんなにも変わっていく。それはきっと、志摩のおかげだ。
「なあなあ椿、真正面からじゃねえの?」
「……真正面からじゃ、ないよ」
「なんでよ? 恥ずかしい?」
「……うん。もともと人描くの苦手なんだ」
ぽろりと本音をこぼしてしまって、椿はハッと息をのんだ。
放課後、美術室。
毒舌バトル——志摩VS中島の——の末、笑いの中で終わったLHRの後、椿はかつてないスピードで美術室へやって来た。勿論、志摩を連れ立って。今日一日、机の脇に隠すように置いていた大きめの荷物も忘れずに。体調は悪くないか、疲れていないか、無理はしないように、と一歩ごとに言い含める椿に志摩は苦笑を落としていた。
出来上がっている雰囲気の中へ分け入るのは、無いところから絞り出すような勇気が必要だと思う。それならばいっそ、美術室の風景に最初から溶け込んでいれば、と考えた自分を短慮だと分かっている。
志摩は、その涼しげな瞳を瞠ったまま、ぎこぎこと揺らしていたパイプ椅子の動きを止めた。違う、と訂正したい椿を待たず、志摩は声を落とす。
「……無理してんの、椿の方なんじゃん」
「無理はしてない。だから横顔を描かせて欲しいんだ」
「無理は、してない?」
「してないよ」
「マジで?」
「何なの、そのつき合いたてのバカップルみたいな会話」
突然差し込まれた耳慣れない声、大袈裟な表現ではなく、本当にびくりとして肩を竦めた。ぺたりぺたりとゴム製の室内履きを鳴らし近づいてくる影は、楢崎だ。数冊のスケッチブックを小脇に抱えている。
「……つき合っては、いません」
「あ、そこ? 面白いね、雨宮は。志摩は、面白くなさそうだけど」
楢崎から視線を移した先の志摩は、確かに瞠目していたはずの瞳を今はもう眇めていた。表情もどこかしら憮然としている。
「……面白くなくないでーす」
「どっち? それ」
準備室へ向かおうとする楢崎には穏やかな笑みすら浮かんでいて、初見の不可思議で掴みどころの無さが幾分和らいで見えた。椿が教室の隅へ据えたイーゼルにのる水彩紙はまだ真白。覗きこまれても当然の如く、何も無い。それでも楢崎は、その白の向こう側に、そっぽを向いて椅子に座る志摩のイメージを重ねようと試みているらしい。椿が口にした“横顔”を構図として。
「始動。楽しみ」
「……はい」
相変わらずいろいろ端折る先生だな、と苦笑も浮かぶが、端的な表現を裏切らない笑顔を向けられ、椿は鉛筆を持つ指先に少し力を籠める。準備室へ滑り込む背を静かに見送った。
志摩へ目を遣ると、わずかに首を傾げ、なかなか動き出さない椿をじっと見つめくる。その瞳に宿る感情は何だろう。ゆらゆらと揺れて見え隠れる光は、漆黒の闇夜、分厚い雲がちぎりとった淡い月にも似ている。そこからどこへも動けない世界へぽつりととり残されたような悲しみも漂う。不意に楢崎の言葉が蘇った。
『雨宮を傷つけるつもりなら見過ごせない』
しかし楢崎は、こうも言ったのだ。
『志摩が傷つくつもりなのも見過ごせない』
これからここで、志摩と過ごす時間で何が起きるのか、はたまた何も起きないのか、椿には分からない。それでもここへ来ることを選んだのは、椿だ。水彩紙へ水張りをし、しばらくしまいこんでいたハイユニの3Bを取り出し、カッターナイフを当てその芯を再び尖らせたのは椿だ。
椿はゆっくりと志摩へ歩み寄った。
「……椿?」
「志摩、椅子を窓の方へ向けて。力抜いて座ってていいから、あの空を、見てて」
あの、と指した椿の、爪の先のずっと向こうを志摩はきちんと見据えてくれた。誰かとの距離がこうも近まったのはいつ以来だろうかと考える。志摩の細い顎が少し上がって、すっとすじの通った鼻も、陰影ある目元も、長い睫毛も、整っていて美しいと素直に感じ入った。
この、表し難い胸の痛みも志摩の美しさにのせてなら、形として残せるだろうか。椿は鉛筆を手に志摩を見つめる。
「……椿に、惚れそうだわ」
まだ、誰も——準備室へ消えた楢崎へはよもや聞こえまい——姿を現していない。志摩のその呟きを他の者に聞かれなくてよかったと安堵するより先、冗談にしては辛く響く、翳りを帯びた声が気になった。
「……志摩。具合 悪いんじゃない?」
なんでそうなんの、と応える調子は軽い。軽いが、いつものような明るさも覇気もない。失敗しているよ、志摩。志摩らしさに欠けているよ。そう思うが声には出せない。志摩らしさ、ってそもそも何なんだ。
力を抜いて座ってて、そう伝えたのは確かに自分であるが、そんな風に背中を丸めて欲しかったのではないと勝手な理想を押しつけてしまいそうになる。
「……誰のことも。本気で映してなさそうだった瞳にさ、自分だけが捕らえられてんの、って結構クるわ」
「……そう、」
「それもな? 名前 呼ばれてるみたいで。いい、悪くない」
もう一度、そう、と代わり映えのない相槌を打とうとして、ほんの少し躊躇った。そんな椿にそれ以上を押し留まらせたのは、でも、と志摩から逆接が持ち出されたからだ。
「……俺のことは、好きに、なりすぎるなよ、椿」
どうしてそんなに苦しそうに、一言ひとことを絞り出すのか。思わず立ち上がってみたものの、志摩の肩越し、その表情を覗きこみたいのに叶わない。志摩の背が震えているように見えるのは体調の悪さゆえでないと、言い切れない自分にもどかしさが募る。
「……お前に、絶対。酷いことする…楢崎は、当たってる」
志摩はゆっくり身体の向きを変え、椿を仰ぎ見た。何をそんなに堪えているのか、表情は悲しく歪んでいる。むしろ椿の感受性が激しく揺さぶられて、涙が浮かびそうなほど。
当たっている、と言う志摩。覚えているのだろうか、楢崎が言及したのは志摩から椿に向けての一方向だけではない。
椿は目を伏せた。そして一つ、頷きを返した。そう、「すぎなければ」よいのだ、すぎなければ。
「……好きに、なりすぎない」
「……つばき」
「僕は志摩を、傷つけたくないから」
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