第7話
“もとから、何も持たなければ”
椿はずっと、そう考えてきたのだ。そうであれば喪失感を味わう恐怖に怯えることもない、と。もともと何も手に入れていなければ、失ったと泣くことはないのだ、心乱されることもない。日々も時間も変わらず、椿の傍らをすり抜けていくだけ。
だというのに志摩が現れてからというもの、椿はそれまでの自分を都合良く忘れてしまっている。
愚かだと分かっている。そんな自分を本当にどこまで分かっているのかと更に詰め寄り、袋小路に追い込みたい自分もいる。泣くのは椿だ。こんな夢見心地の楽しい日常、長続きするはずがない。永遠なんて信じない。いつか仲違いをするかもしれない、避けようがない卒業が二人を別つかもしれない、或いは志摩が長く入院してしまうとか、海外へ転院することになるとか、もしくは。
(もしくは、最悪の場合——、は考えたくないけど)
いずれにしても、と思う。選んだのは自分だ。志摩といる時間、志摩と過ごす日々。この行いの善悪を椿には判じえないが、たとえ報いがどちらであっても甘んじて受けようと決めていた。志摩が椿を傷つけるというのならそれでもいい、ただ、椿が志摩を傷つけなければよいのだ。好きになりすぎなければ、よいのだと。
人間の強欲さを椿は知っている。つまるところ僕の根っこは母さん似なのかな、と自嘲が浮かぶ。顔は父親に似ていると言われ続けてきたけれど。
志摩は、変わらず時々 学校を休む。
概ね大事をとって、という体らしく入院という事態には至っていない。ある時、根本的な治療法はないのか、と静かに問うた椿を十二分に見つめた後で志摩は「骨髄移植?」と語尾を上げて諦めたように呟いた。感じた諦念は、一度や二度の応じ方で身についたものではなかったのだろう、その治療法がいかに難しいものであるか、ネット上の情報を欠片程度、集めただけでもよくよく分かった椿は、同じことを二度と口にすまい、と誓うように決めた。
知らない、ということを知ることは真に知ることへの探求の始まりでもある。そんな風に古代の哲学者が言ったものだ。知らないままでいることは、志摩を意図せず傷つけてしまうかもしれない。もうあんな風に何もかもを諦めた顔などさせたくない、そんな残酷なことを繰り返したくない。
そうして日々はまた、忙しくなるのだ。ぼんやりと、ただ生きていた怠惰な時間など思い出せないくらいに。
———とある、日曜日。
五月も半ばを過ぎようとしていた。じめじめと陰鬱な梅雨時期が近づいていることなど信じられないほどに、澄みきった青空が広がっている。滑らかな風が頬に吹きつけ心地好い。
「良い天気だなぁ」
寮内の清掃は食堂や浴場などの共有スペースを寮母さんが担当し、各自室はおのおのに任せられている。気儘な一人部屋の椿は、毎週日曜日の朝、枕カバーやベッドのシーツを洗濯し、天気次第で布団まで干すことにしていた。二段ベッドのマットレスも出来るだけ。窓枠に手をかけ、清々しい空気と室内の澱みを入れ換える。
身の回りを清潔に保つこと、身だしなみには気をつけること。親から教えられたわけではないそれらは、椿の祖父母がいつも言い聞かせてくれた言葉だ。外見を華美に飾りたてろ、という意味では決してない。
貧弱で、いつもどこか翳があり、明るさに欠けた椿少年は、苛められることが多かった。服を汚されたり、意図せず汚してしまったり、ということもあったが、祖父母はそれを責めるでなく、洗濯をし綺麗にアイロンをかけ、また椿へ着せる。
『自分を綺麗に保つことは悪を寄せつけない一番良い方法なんだよ、椿』
子どもの耳にとても難しく聞こえた言葉だったが、皺寄った口元が穏やかに紡ぐおまじないのようなそれらは、ひどく椿の中へ根づいた。おまじない、は「御呪い」とも書くのだと知った頃にはもう祖父母は他界していたが、それはある種、正しく呪いのように今でも頑なに椿を突き動かしている。
それ以外の祖父母との場面は、何かしら悲しみがつきまとう。だから余計に、かもしれない。
「……絵の具でも、買いに行こうかな」
もう、色を塗り始めても良い段階だと考えていた。実際、椿はこれまでのどの作品より鉛筆での下書きを細かく描き込んでいる。その線を活かして色を重ねていくのもいいだろう、初めての試みだけれど。そんな技法の話にすり替えて、ただ単純に志摩の凜とした横顔を見ていたかっただけ、という欲の原点から逃げようとしていた。
どこからか低い羽音が短く聞こえて、不審に思い慌てて発信源を探す。姉だろうか、と鈍った指先だったが、真っ暗なディスプレイに浮かび上がる白文字は、志摩からのメッセージだった。
“椿ー、今日ヒマ?”
ヒマだと応じなければ、この先の展開がどうなるか、それくらいの想像はつく椿だった。椿にとってヒマか、ヒマではないか、求められる反応は二択なようで一択しかない。ヒマ、とたった二文字を入力する親指が自分のものではないように思える。
“今日も安定の素っ気なさ、あざーす!”
“椿さー、映画 行かん?”
“姉ちゃんがペアチケ当てたんだけど、アニメなんだわこれが”
“DKはぜってー浮くけど!”
送信後の画面をぼんやり見つめていると、ぽこぽこと浮かび上がる吹き出しが次々に志摩の言葉を伝えてくる。最後に“どう?”とつぶらな瞳のパンダが誘ってくる愛らしいスタンプまで送ってこられればもう駄目押しだ。抗う術など椿は知らない。吹き出しの、一つひとつに丁寧に返信していくことが親しき仲にも横たわるマナーであり、ネチケットなのかもしれないが、とにかく椿は変に間を空けることが恐ろしかった。やっぱナシ、なんて。志摩が本当に椿を傷つけるつもりならこれ以上に有効な手段はないが、今のこれはそうじゃないと信じたかった。とにかくも、行く、とだけ急いで返す。
おそらく志摩は性を問わず好意を寄せられる人間だと思う。志摩自身が言うところの「キャラを作っている」のが志摩のどの程度を占めているのか分からないが、それでも友だちは多いのではないか。別に椿でなくとも、誘う相手は他にいたはずだ。では何故、と考え出してそこから先に進みたくない自分に気づく。たぶん今日のは、観るべき映画がアニメだったからだろう、という安直な結論を無理やり引き出した。映像、というより絵、だから、そして椿は美術部員だから。志摩が続けて寄越してきたメッセージには待ち合わせ場所と時間、映画のタイトルが記されている。その作品の原作は不朽の名作であり、ハイブリッドアニメという制作手法の前評判も手伝えば、だって僕も観たかったし、とこじつけをひねり出すことくらい簡単だった。
「え? あれ、椿?!」
「……うん」
待ち合わせ場所へは、あえての眼鏡姿で出かけた。気にするのは大袈裟だと自身へ言い聞かせながら、それでも誰かが二人を見かけた際、少しでも椿から遠い像を残したほうが志摩に迷惑をかけないのではないか、と足らぬ考えを巡らせに巡らせた。志摩が聞けば、勝手な、と怒りを買うかもしれないが。
椿は普段、コンタクトレンズを愛用している。週末だけはいつも大きめの黒縁眼鏡で過ごすのをいいことに、そのまま寮を出てきた。ちょっとそこまで、感を醸し出せていただろうか。それにしてはやや気合いを入れた格好だ。薄手のデニムシャツの下には赤×紺のボーダーとカーキの長袖Tシャツを重ね着し、ボトムは細身のチノパン。トリコロールカラーのベルトを選んだ。ロールアップした足元にはホワイトスニーカーを合わている。髪の毛だって、学校へ登校する日常よりカジュアルに整えた、毎朝なら使わないスタイリング剤も手にしたくらいに。
志摩はオシャレだろうと、これまた勝手な想像をしながら準備に焦ったことなど、悟られなければいい。気持ちを落ち着かせようと早めに出向いた待ち合わせ場所は、およそ五年ぶりに訪う椿の地元だった。ショッピングセンターと併設された中規模のシネマコンプレックスがあるのは市内でもそこだけで、やむを得ないとしか言いようがない。どうしてもあまり近寄りたくない、という嫌悪が先に立ってしまうのだが。
「ごめん、僕 遅れた?」
「いやいやいや、俺が早く来すぎたんだって」
「……志摩も、コンタクトだったの?」
想像に違わず、志摩はメンズファッション誌から抜け出してきたような洗練具合だった。いや、もともとの素材のよさが十分活かされているのだろう。おそらく椿が志摩のスタイルを真似ようと試みても無様な失敗作に終わるだろう、間違いない、難易度が高すぎる。
サルエルパンツ風の、グラデーションが美しいインディゴ染めスウェットにハイカットスニーカー、細身の体躯にぴったりフィットしている濃いカーキ色のフードつきパーカー、胸元には主張し過ぎない程度にシルバーアクセサリーが光り、同じような輝きが志摩の左手首を彩っている。スマートなデジタルウォッチとともに。腕時計を着ける、そんな習慣がない椿には、そうかそんな範囲まで、とファッショニスタの真髄に触れたような気がした。
そして、小さな顔をさらに小ぶりに際立たせている眼鏡。志摩は悪戯が成功した子どものようににんまり笑うと、両のフレームから人さし指をひょこひょこと突き出して見せた。レンズが入っていないらしい。
「俺? 伊達よ、これ。“も”ってことは椿、コンタクトだったんだな! 感じ違うからビックリしたわー、すっげオシャレさん!」
「え、や、志摩でしょオシャレなの。僕なんかちょっと一緒に歩くのが、」
憚られるというか躊躇われるというか、そんな風にごにょごにょと誤魔化した言葉じりだったが、目の前の志摩がどんどん目を細めていくのが分かり、椿はそれ以上を口に出せなくなった。何だろう、何かが志摩の逆鱗に触れてしまったのか。
「何? その自己評価の低さ。またなんで勝手に決めつけてんの」
「……や。えー、と」
「俺の方こそ、読モばり綺麗目きちんと素敵DK…、ぅおい! 何 あたり見回してんの椿、お前のことなんだけど! ほらもう、しつこく付きまとってるチンピラっぽいじゃんか俺! 今さら着替えに帰るのも、とか内心超絶焦ってんの知んないっしょ、椿」
「ふ、そんな風に見えるわけないよ」
「また! 何を根拠にそんな信じきっちゃってんのアナタ」
二人、どちらからともなく一歩を踏み出し、目的地へ向かう。本当に志摩は僕なんかと一緒にいて楽しいのだろうか、道すがら何度も鎌首をもたげるその質問を、志摩へ向けるのは止めた。僕は、楽しい。そしてこの、志摩と僕とのさして広くない空間に漂う空気も、楽しいと感じる。共有しているのは世界中でたった二人というわけではないけれど、少なくともつまらない、だとか、しぶしぶ、いやいやながら、だとか、そういったネガティヴ粒子は潜んでいないと思われた。もうそこまでを織り込むほど志摩のキャラ作りが徹底しているのだと種明かしされれば、それはそれで素晴らしいスキルだと手放しで賞賛できる。
ほい、と優待券が手渡された。施設内へ足を踏み入れた途端、若干の挙動不審さをあらわにし始めた椿に気がつかない志摩ではないのだろう。言わずもがな、初体験である。こっち、と二人の距離が開き過ぎない程度に通路を先導し、ドリンクや出来立てのポップコーンを選ぶにあたって、さりげなく椿の意思を確認する。志摩の隣にいて居心地が好いのは当たり前なのだ、志摩はそうと気づかせないよう上手に気遣いが出来る、本当に出来た人物だ。
だからこそ、だ。よくよく考えずとも浮きたつ自身を諌めればすぐに導き出される。何故、志摩は僕なんかと。それこそ時間が勿体ないのではなかろうか。その疑問はいつまでも消えず、巡り続ける。
「ん? どうした? 椿」
「……や。志摩、モテるだろうな、って」
「なーにー、その蒸し返し。過去の話だって、しかもガキん時。俺、あれだもん、オツキアイとかってしたことねーもん、実際」
「うそ」
ぽろりと心底からこぼれた驚きに、いやしかしその点へ仲間意識を持つのは志摩に失礼だと考え直す。自分は性的な迷いをずっと抱えてきた、だから、という理由が背景にあるも、志摩はきっと違うだろう。そこをさらに問い質してよいのかは、分からない。
「菌と闘う力、っつーの? 抵抗力、あんま強くないのね俺。考えすぎだと思うんだけどさあ、なんかこう…、オツキアイしてるとさ、キスとかセックスとか、するじゃんか」
「分からない。僕も経験無いから」
「おや、青少年の貴重な告白ありがと。ま、俺も正しい流れは知らんけどね、そういうのが、駄目なんだわ生理的に」
「……そういうの?」
「んー、なんか。体液混じったり、粘膜擦れあっちゃったり、他人とね? するような、行為。なんつーの、怖い、とはちょっと違うかもしれんけど、遠くはないというか」
「……そう」
それは、澄みきった晴れの日の日曜日、午前中に繰り広げるにはやや生々しい内容だったが、案内された上映室内の薄暗さがほどよく緩和してくれた。並んで座るシートは室内の中ほど、通路をすぐ横にする中央部で恵まれた好位置と言える。
「つっても、潔癖症レベルとかじゃねえけど。手 握ったりくらいはね、平気。んー、でもまわし飲みとか、同じ箸で一緒に食べものつつく、とかはキビシイかなあ…、ってほら言い始めるとさ、俺、つき合うには結構 面倒くさい男じゃね?」
「そうかな。僕はそう思わないけど」
作品は封切られてから三週間近く経過しているせいか、小さめの上映室が割り当てられている。座席を占める構成を見ると、やはり子どもを連れた家族、或いは親子がほとんどだった。
左隣から放たれる志摩の視線を感じる。きっと続きを待たれている。椿はシート備え付けのカップホルダーをぼんやり見つめながら、つけ加え始めた。
「それは、志摩に関する貴重な情報だよね。血液型や誕生日を知ってることとどこか違うのかな。知ってたらちゃんと対応出来ること、あるだろうし…、あの、たとえば、僕は志摩が右利きか左利きかよく知らないから、このドリンクをどっち側へ置けばいいか、さっきすごく、迷った」
そういうのが、減るよね。知ってたら、きっと。
ぽそぽそと拙く言葉を紡ぎながら、ああ僕は志摩の血液型も誕生日も知らないな、と痛みに似た悔しさがこみ上げる。とりわけ志摩とは、随分と滑らかに交わせるようになった会話だが、深慮なしに一文があふれ出ることは稀で、何かしら醜い思考がべとりとつきまとう。教えて欲しい、と請うきっかけとタイミングが今かもしれないが、わざとらしすぎる気もした。求めなければ手に入らないのだろうが。
「……椿って、」
「……なに」
照明が足りないせいだと思いたい。志摩は瞬間、息をつめ、ひどく泣きそうな顔をした。いや、見慣れない眼鏡姿のせいかもしれない。横目で、いつもより近い距離で志摩を見ているせいかもしれない。その口元も目元も、すぐさまそんな一瞬を否定するように、明るさを取り戻したから、まったくもって椿の見間違いかもしれない。
「や、まるっと肯定ありがとな。ちなみに俺A型1月。年明けてすぐ、5日がお誕生日。あ、ついでに右利き。椿は?」
「……A型。5月1日、で。右利き」
「マジ?! 誕生日似てんなコレ、忘れんくていいわ」
「僕の方が、お兄ちゃんだね」
「ちょ、何? そのプチドヤ顔! 俺の方が大っきく育ってるし!」
ああ確かに、と声を潜め笑う。その時、室内へブザー音が鳴り響き、さらに照明が落ちる。今夏の大作、と洋画の予告編が流れ始めるまで志摩もくぐもった声で笑っていた。
「馴れ合っちゃうのは、良いことばっかじゃねえのな」
観終わって大きく伸びをした後ぽつりと、志摩はそんな風に言うのだ。何故そう考えるのか、と椿は問うた。志摩へ誤魔化しようのない興味関心を抱いているせいか、志摩の思考回路に寄り添いたい自分へ嘲りに似た笑いが浮かんだ。だからと言って、志摩が期待するような応えは何一つ返せないはずなのだが、それはそれで良し、とする。志摩が期待するのは、きっとそれでもないからだ。
「失くした時、泣きそうになるだろ、たぶん」
たぶん、と頼りなげにつけ加えるからには、志摩に確たる経験はないのだろうと思われた。自分にだって無いが、それでも志摩のその言い様は、先ほど映画で観たあれに似ている。
「まるでキツネだね、志摩」
「そう…か? んー、薔薇の方が俺に、」
珍しく志摩が言いよどむ。いつもは立て板に水、を体現してくれる器用さなのに、頬に片手を当て何事かをひどく考えこんでいるように見えた。その横顔は聡明で理知的。スタイルはやんちゃな少年のようだが。これはある種のギャップ萌え、というやつだろうか。椿は日頃から何となく、志摩の片隅にとても早くに大人になってしまったような、どこか達観した領域を感じていた。いや正しくは、早くに大人にならざるを得なかったのだろうけれど。そう、彼に強いられた生き方を思い遣ればどこか寂しかった。
「……や、どうだろ。俺、原作よく知らねえもんな」
「星の王子さま。読んだこと、なかった?」
「俺の生きざまに文学に触れる、って項目はなかったのよ、椿」
「ふ、すごく遠回りな表現。読んだことない、って言わないんだ?」
そういうのは、時間が勿体なくないの? と。どこか、自分と一緒に過ごすこの時間のこともなぞらえて口にしてみた。椿にしてみれば、なかなか冒険した物言いだ。途端に志摩の返答が気になって、どうしよう、と惨めな悔やみが後から押し寄せる。
え、何 言ってんの、と。すぐさまいつもの明快で端的な反応を上から落とされ、安堵する自分が本当に手に負えない。
「誰かとの会話を少しでも長く楽しみたいからこそ、って時もあるじゃんか」
へえ、と椿はほんの少し目を開いた。どこかしら未来を諦めてきたような志摩が、楽しみを見出すという行為を意識する、それはとても前向きで、明るく鮮やかな彩りに満ちていた。そうして自分は知らず、志摩が纏う色をどこか廃墟のような仄暗い印象と決めつけてきたのではないかと、恥ずかしく感じる。
志摩が楽しみたい誰かとの会話。志摩が抱くささやかな欲を向けられる誰か、を素直に羨ましいと思った。
「へえ、じゃねえだろ椿くんよー」
「……なに」
「その誰かさんは誰だと思ってんの? 椿は。ほんとさっぱりしてんのなあ、ちっとは俺に興味持ってよ」
「いや、え? 興味…、は」
興味なら持っている、そう伝えようとしながら、そもそも何の話をしてたんだっけ、と始点に立ち返ろうとする自分が照れを隠そうとしていることくらい椿にも分かっていた。そんな椿の胸中を察しているのかいないのか、志摩は「そんでさ、」と話の向きを変えようとする。
「文学に触れる生きざまも経験してみるわ、せっかくだから」
「……それは、つまり」
「貸して、ってこと。その本。持ってんだろ? 読書大好きっぽい椿青年は」
こくこくと頷きながら、こみ上げる笑いを抑えることが出来ない。ついにはククク、と漏れ出した声に志摩は椿を覗き込んだ。
「椿のツボが、分かんねえ」
「いいよ、分かんなくて」
志摩に分かって欲しいのは、別に笑いのツボではない。常に笑わせて欲しいのではないから。
それよりもこの、志摩の傍近く、居心地の好さに甘えるばかりで抱く感情へ名も与えず、知らぬふりを貫こうとする己の狡猾さを分かって欲しいと願った。その狡猾さは何に拠るのか、どこへ向かおうとしているのか。椿ですら理解がままならないそれを、しかし「友情」という美しい言葉だけで括りたくもないのだ、それだけは事実として分かっている。
申し訳ないとも思う。刹那にたゆたう余裕が、志摩にはどれほど残されているのだろう。後から振り返ってみて、椿と過ごした時間は無駄だったと断じて欲しくはない。全くもって、自分は勝手だ。そして、強欲だ。
「寮にある? なら、今日にでも借りたいけど」
「えー…、っと」
実家から、椿は半ば逃げるように飛び出してきた。使い慣れた日用品もお気に入りの洋服も卒業アルバムも文集も、ましてや大切な本も。あの牢獄に置きっぱなしだ。
「……実家、に。ある…寮には、持ってきてない」
「……そっか。じゃあ、本屋に寄るか」
「え、買うの?」
思わず走り出た声のトーンが上がる。たぶん、いや、きっと。自分のものを貸したかったからだ。そうすることで明確な、目に見える志摩とのつながり——恐らくは、絆、という名の——が、手に入るとでも言わんばかりに。
「……椿?」
「……ああ、いや。ごめん」
こういうことなのだろうか、志摩が言う「馴れ合う」とは。志摩だけの不可侵領域が定められているのなら、椿だけがそこへ踏み込んでも許される特別だなんて思ってはいない。ただ、これくらいなら許してほしいと祈る自分がいた。
隣接するショッピングセンター内に、名の知れた書店がある。そこで購入するよりも、少し歩いて椿の私物を貸した方がお金をかけずに済むという明確なメリットまで提供出来るからだ。
「……家、戻んのキツイだろ? 椿。ごめんな、抜けてて俺」
「大丈夫、志摩。謝らなくていいから」
何故だろう、この時 椿は大丈夫だと思えた。いや、正しくは思いこもうとした。
椿との、モノの貸し借りを志摩は嫌悪したわけでなく、椿が実家へ戻ることの嫌悪感を慮ってくれたのだ。自身へ向けられる優しさへの、正しい応じ方を椿は知らない。けれどこの場合は、嫌悪感など無かったことにする、それだろうそれしかないと信じこんだ。
後悔とは、後から悔やむ、と書くのだ。先に悔やむことは出来なかった。
本を一冊、取りに戻るだけ。ほんの短時間だ。そもそも、母親と姉は外出しているかもしれない。家は無人かもしれない。先に連絡を入れておくべきだろうか、ポケットの中のスマートフォンへちらりと意識を飛ばす。
「ちょっとだけなら、大丈夫。今から、行く? 歩いて10分くらいだよ」
「え、そんな近い?」
姉へ一報を入れておけばよかったのだろうかと椿がこの場面を振り返るのはもっとずっと後になってのことだ。確かにここで、連絡をする、連絡をしない、その分岐があったのだろうが、本当は、椿はそれよりも前に岐路に立たされていたのだと思う。結局は志摩がいる道を選んでいたのだ。どこまで遡ったとしても志摩へつながる道を選びたがっただろう。
道すがら、平気な自分を装った。装ったことすら気づかせないために、出来るだけ普段の平坦な自分を意識した。意識すればするほど、掌に変な汗がにじみ出て仕方ない。
「……あ、でも」
「ん? どうした? 椿」
「僕、鍵 持ってないんだった……」
普段の僕、を意識するあまり肝心なことを忘れていた。西欧風の、少女趣味とも言える門扉に手をかけたところでやっと思い出す有り様だ、一つことにかかり過ぎてその他が疎かになるなど、志摩のようなマルチスキルを発揮出来ない自分が腹立たしい。傍にいるだけで志摩のようにはなれないのだ。
「あ、寮に忘れた? そうだよなあ、今日来る予定、なかったもんな」
志摩は椿を見、ゆっくりと二階建ての雨宮家を見上げている。手入れなどもう何年もなされてないのだろう、外壁は色褪せ、乾いた地に草は伸び放題、うらぶれた洋館と化している。ああうん、と生返事をしながら、胸の内側だけで志摩へごめん、と謝った。
嘘、だからだ。忘れたのではない、持たされていないのだ。持って行け、とも言われなかったし、持って出ようとも思わなかった。ここへ再び戻って来る気があったのか無かったのか、今となってはそれすら思い出せない。そんな家族の在り方は、ひどく歪に感じられた。志摩に、知られたくないと身を硬くしてしまう。
仕方ない、このまま玄関先まで行ってインターホンを鳴らそう。姉だけならばまだ良いが、と祈りに似た絶望に囚われ、一歩を踏み出すのが遅くなった。
「……あなた?」
ガチャリと重い音がして厚めの扉が開く。装飾が凝ったドアノブに手をかけた小さな影がある。薄暗い隙間はだんだんと広がっていき、そこから覗いていた闇を宿す双眸が、見る間に狂気じみていく。
決して椿を見ていない、それ。昔から、怖くてたまらなかった。
「戻って来てくれたのね、あなた!」
「…っ、母さんっ!」
母さん、と叫んだのは姉のスミレだ。母親を追ってすぐさま邸内から飛び出してくる。それよりも先、信じられないほどの速さで近づくと、母親は椿の体躯を抱きしめた。一方的に、骨が折れるのではと危ぶむほどの勝手な狂暴さで。
「嬉しいわ! 待ってたの、ずっとずっと待ってたのよ!」
「母さん、こんなところで止めて、家の中へ入って!」
往来に人気がないとはいえ、雨宮家は隣家との距離が近い住宅街の中にある。母親の、耳につく甲高い声はゆったりとした日曜日の正午、そこかしこに響いたことだろう。重ねられた姉の声はさすがに周囲を慮ってか、それは低く怒気を孕んでいた。
その場に凍りついたままの椿は、母親ともども家の中へ引きずりこまれる。華奢に見える姉のどこにそんな力が隠されているのかと、椿は訝った。そして、志摩を振り返る余裕ひとつなかった。何かが終わったような気がしていた。
「……貴方は?」
「……あ、志摩って言います。椿くんの友だちで」
「……友だち?」
姉が志摩へ向ける温度の低さが申し訳なくて堪らなかった。それは志摩にとってまったく非のない理不尽というものだ。とにかくも椿に付き添おうとしてくれる志摩の動きを背後に感じながら、これ以上ないほど幸せな名詞を、何故今ここで耳にしなければならないのかと、信じてもいない神様を呪った。
友だち。確かに志摩は、そう言ってくれた。あなた、もう何処にも行かないで、と繰り返しながら椿の首元に伸びてくる十指に、このまま死んでもいいかもしれないと思う。
「…、っ母さん! よく見て、この人は父さんじゃないでしょう?」
「……“父さん”?」
「手を、離してあげて」
父さん? と呟いた志摩の頭の中では今、どんな筋書きが出来上がっているだろう。志摩のことを知りたいと考えていて、それは時に恐怖でもあったけれど、椿のことを知られる恐怖について、微塵も意識しなかった迂闊さに呆れる。
「何しに来たのよ、椿。連絡もしないで」
「……ごめん、なさ、」
「あんまり、よくないの。何か用? さっさと、」
「止めて、この人を奪わないで! 私から、さらっていかないで!」
椿から無理やり剥がされた母親は、そのまま姉の腕の中でじたばたと暴れている。一切の抑制を加えないまるで奔放な力は、姉のあちらこちらを打つ。
幼い頃から美人だと評判だった姉の、その美貌は少しも損なわれていない。けれど母親の骨ばった手が白い肌へ無惨な痕を次々とつけていくのだ。痛ましくて居た堪れなくて、椿は目を眇める。
「あの、どうしたら、」
「いいの! 放っておいて!」
せっかくの志摩の助け舟も姉は容赦無く切り捨てた。母親の胴体へぐるりと腕を回し、腹部へかかる圧など気にも留めず、玄関に接する一室へ押しやろうとしている。
「いやよ! 離して! あの人が二人も、二人もいるのに!」
「ふたり…? 何言ってるの? あれは父さんじゃないわ! ねえ、お薬 のんで!」
バタン、と荒れた音が響き、その扉の向こうへ二人の姿が消えてもなお、荒れ狂う母親の姿は透けて見えるようだった。ひどい、あなた、行かないで、と泣き叫ぶセリフは、まるで低俗なメロドラマ並みの陳腐さだ。動じることもなく姉は、母親へ薬をのませようとしているらしい。
「……志摩、ごめん」
「……つばき」
「……変なとこ見せて、ごめん」
とにかくも、と記憶を頼りに一階奥の自室へ走る。鍵などついていないドアは簡単に開いた。途端に押し寄せる悪臭は、きっと何年もの間、空気が動いていないせいだろうと思う。案の定、中のものも何ひとつ動いていない。そこにもともと、椿などいなかったように。探しものをするには、非常にありがたいと言えた。
「……本当に、友だち?」
くだんの本を手に廊下へ出れば、姉が志摩へ問いかけているところであった。後ろ手に隠すようなドアノブには、確かに外鍵がかかっている。そこだけが真新しいように浮き立って見えた。中から物音は聞こえない。
呼びかけようとして声を失う。姉のことを、何と呼べば。幼い頃は呂律が回らないながらも「スミレちゃん」と、その美しい花の名を声に出すことへ喜びを感じていたはずなのに。気安く呼ぶなと疎ましがられ、いつしか椿自身が疎ましがられているのだと思いこむようになった。
「本当に、って。どういう意味ですか?」
「……二人、確かに似てると思って」
姉が応じて、志摩は眉根を寄せた。一歩ずつ距離を縮める椿もそれに倣う。姉の問いかけの意味も、その答えも、禅問答のような不可解さに満ちている。頭を下げ、俯き加減で何とか口を開いた。
「……急に来て、ごめんなさい。もう、行きます」
「本当に。二度としないで、こんなこと」
ちらりと姉を見遣れば、左の頬が赤く腫れあがっている。椿の視線に気づいたのか、ふい、と左を向かれた。受けなくても、良いはずの傷。椿だってそれは大層刻まれはしたが、自分がこの家にいない今、一身に背負うは姉なのだと、己の罪深さを見せつけられて痛い。
もう一度、頭を下げる。下げた不恰好のまま、 志摩、と小さく呟いた。
志摩へ、どう接してよいか分からない。分からなさすぎて涙が出そうになる。せっかく「普通」を手に入れかけていたと思ったのに。あまつさえ「友だち」という夢のような関係性まで。
こんなイレギュラーの乗り越え方など知らない。一刻も早くここから立ち去るべきだと理解していても、玄関の扉を出て、その先とるべき言動はまるで迷路だ。けれどとにかく、と自分を奮い立たせた。
「……椿、ごめんな」
門扉の、キ、と軋む音がまだ残るうち、けれど志摩はそんな風に椿を労わってくれるのだ。震える椿の右手から、硬質な文庫本を優しくさらいながら。
「なんか、……ほんと、ごめん」
「……志摩が、謝らないで……」
それだけを、ようやく口にした。
何もかもを、こんなはずじゃないと思わなくて済むためには、自分が消えていなくなるしかないのではないか。
志摩の、困ったような顔が涙で滲んで見えなくなった。
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