第8話

 学校へ行きたくない、とこうも強く感じたのは初めてだった。

 ちくちくと苛められていた時に感じていた億劫さともまた違う。あの頃は家にもいたくなかったから、むしろ学校は良い避難場所だった。


 (……正しくは、志摩に会わせる顔が、ない)


 あの後。

 志摩はもう一度、ごめんな、と繰り返し、ぼたぼたとただ涙を流し続ける椿の手を取った。帰ろう、そう言って手を取って歩き始めた。視界はぼやけていたが、何となく駅の方へ向かっていることは理解した。志摩が、そんな行動に出た理由は、到底理解出来なかったが。


 (……違うな)


 思い返してみて自分は、理解しようとさえしていなかったことに気づかされる。あれは志摩の気遣いで優しさなのだと、そういうことにして、単に甘えたかっただけなのだ。

 ましてや涙して、疎ましがられたことはあっても、あんな風に柔らかな力を貸してもらえたことは無い。初めての経験、とはいえ夢見た覚えのあるシチュエーションであった。甚だ乙女思考だと自嘲はあふれるが、せっかく提供してくれた志摩へ、素気無く応じず無碍に手折ることなど勿体無い以外の何物でもなかった。


 冷静に考えてみれば、実家付近で何という軽率な行動をとってしまったのかという、取り返しのつかない焦燥感にかられる。ただでさえ曰くつきの雨宮家であるのに、一人息子が男と手をつなぎ涙ながらに歩いていたなんて。人目をはばかる余裕などあの時の椿には持てなかったが、志摩はどうだっただろう。誰かとすれ違ったりしなかっただろうか。奇異の目に晒されなかっただろうか。家に残る姉の心配より、志摩へ心割いている自分のなんと薄情なことか。


 何ひとつ、志摩へプラスになったことなど無かっただろう。眠りに落ちる直前に一日を振り返って、最悪の日曜日だったと結論づけられても椿に反論の余地など無い。志摩の貴重な時間を奪ってしまっただけだ。あれだけの時間で志摩が本当は別に得られるはずだったもの、について思い巡らせると、申し訳なさしか募らない。


 『……椿は、お父さんと、間違えられてる? ってこと?』


 駅に着いて、志摩は二人分の切符を購入してくれたのだろう、涙をどうにか止めたものの、しゃくり上げすぎて疲れた頭がよく働かないうちに椿は二人掛けシートの窓側へ座らされていた。

 右耳へ入る志摩の声は、とても静かで穏やかで、周囲の生活音や喧騒がどれほどのものであっても、不思議と漏らさず拾うことが出来た。

 ひとつ、頷きを返そうとしながら、でも正しく全てはそうじゃない、と小さな反発が残る。それは不恰好に椿の動きを止めた。隣の空気が少し揺れる、志摩は椿を覗きこんでいた。ず、と鼻をすすり上げながら腫れぼったい視界の隅にとらえた志摩の表情に驚く。眉間に皺を寄せ切れ長の澄んだ目を細め唇を噛んでいる。もとより蒼白い顔はさらに白みがかっていやしないか。それはまるで何か痛みを堪えているようだった。椿は重たく感じる身体を震わせ目を見張る、そうしてやっと気づくのだ。志摩への配慮をてんで欠いていた、と。


 『……ごめんね、志摩』

 『え?』

 『……具合、悪くなってない? あんなとこ…、巻き込んで、ごめんね』


 ため息が重なった言葉じりは、かすれて締まりがなかった。志摩にきちんと届かなかったかもしれない、志摩は若干前屈みの姿勢で椿を見つめたまま動きを止めているから。だから椿は慌ててもう一つ、あと志摩にたくさん謝らせてごめんね、とつけ加えた。


 『っ、あー、もう椿って!』

 『!』


 ぎ、と硬いスプリングの軋む音にぴくりと身体が震えた。次いで志摩はシートの背にぼふ、ともたれる。怒っているのか呆れているのか、短く放たれた言葉の、言外まで汲み取ろうとしても判断しかねた。


 『今は、俺が椿の心配してんでしょうが。なんでそう人のことばっかかな、まったく』

 『……ごめん』

 『怒ってんじゃねえからなこれ、悲しんでんの! もちっと自分のこと大事にしろよお前』


 悲しんでいる、という割に、その横顔は幼く、「ふくれっ面」という表現がまさにぴたりと当てはまった。いつも椿よりずっと先にいるような志摩の、そんな幼気な様を見せつけられ安堵して笑いがこみ上げるなんて、もう本当にどうかしている。


 『え、何? 今 泣いたカラスがもう笑ってんの? 子どもか!』

 『ごめん』

 『謝りすぎは椿だし!』


 そうして志摩は左の肩で椿を小突くのだ。照れくささばかりが募って仕方なかった。ここぞとばかり、志摩からもらえた嬉しい言葉も蘇る始末。「友だち」だという、あの一言。鼻の頭の赤みが、朱に染まった頬と混じって分からなくなってしまえばいいと思った。

 誰かへ打ち明けるには、あまりに暗く重い内容だ。けれどその相手が他ならぬ「友だち」ならば許されるのだろうか。何かを共有する特別感、それはどこまで踏み込んでいいのだろう。志摩の、その領域だってあるのだろうに。

 椿には、分からなかった。志摩に委ねてしまうのは間違いだと理解しつつも、志摩の言動に嫌悪や拒絶を見つけた瞬間を線引きとしようと決めた。それまでは出来る限りの軽口で、何てことない、日常の中で取り上げる些事の一つだと思いこむことにした。血液型や誕生日の話と、何ら変わらないのだ、と。そう、装うことにした。同じレベルで語れるものではないと充分 分かってはいたが。


 『……僕は、父親に凄く似てるらしくて。顔が、ね』

 『……椿?』

 『僕が母親のお腹の中にいた頃、父親が浮気したんだって。それが原因かどうか分からないけど、僕が産まれる前にはもう離婚してて。母親は父親にものすごく執着してたらしいから、それ以来、ちょっと…オカシイ。志摩が見た通り、ね。僕も姉も小さい頃、あまりまともに育ててもらえなかった。おじいちゃんとおばあちゃんっ子だったんだ』


 進行方向に向かって二人、同じ視線をぼんやり投げていた。がたんごとん、と一定のリズムを刻みながら走る列車は、窓外の景色を小気味好く後方へ流していく。風に乗って、まだ見ぬ未来は現在となり過去になる。その一連は椿の憧れでもあった。実際のところ人生はそんな風に美しく過ぎ去ってくれなかったから。

 志摩の、そっか、という小さな相槌は、車内のアナウンスにかき消されることなく、椿の耳へ届いた。


 『おじいちゃんとおばあちゃんが立て続けに死んじゃって、あの家へ戻る羽目になったのが小学…四年、だったかな確か。たぶん、もう似てたんだろうね、父親と。見間違われてたのかどうか、今となっては分からないけど。ぞっとするくらいベタベタ甘えられて縋られることもあれば、可愛さ余って憎さ百倍、って言うのかな、殺されるんじゃないか、って思うことあったし』

 『……マジか』

 『……うん。母親は、四六時中オカシイわけじゃないんだけど。暴れだすと僕もスミレちゃ…あの、姉、だけどね、も、どうにも出来なくて』


 確かそこまでを話して、椿が降りる駅が近づいたのだ。志摩も勿論、気がついたのだろう、シートから立ち上がると通路へ一歩を踏み出し、椿の身体が通るスペースを空けてくれた。

 中途半端に語ってしまったと恥ずかしさを抱えながらも、これ以上を続けてどうするのかとキリよく舞い込んできた別れのきっかけをありがたく感じたりしていた。

 じゃあ、と言いかけた時だった。


 『あ、俺も降りる』

 『は?』

 『ほい、行って行って、椿』


 志摩はあと二つ分、乗るはずだった列車から颯爽と離れ、迷うことなく改札を過ぎる。大きくひとつ伸びをして、学校までの——いや、正しくは椿が住まう寮までだろうが——道のりを軽快に歩き始めた。

 椿は目を瞬かせ、慌ててその広い背中を追う。


 『志摩、ねえ、志摩!』

 『絶好の散歩日和じゃね? 今日って』

 『いや、結構 陽射し強いし無駄に体力消耗するから! 明日は月曜だよ、休みじゃないのに!』

 『なんだよ、ジジくせえこと言ってんなあ。椿くん、青春に何ひとつ無駄なことなんてないのだよー』


 はっはー、などとふざけた笑い声をあげ志摩はずんずん進んでいく。何を話せばいいのか、勿論先ほどの話をどんな接続詞で続ければいいのかも分からず、椿は数歩の距離を置き、ただ黙って志摩へ従った。

 俯き加減でのろのろと踏み出すスニーカーのつま先を見つめる。狭い視界に何か別のものが入ったな、と認めた時にはもう志摩の身体とぶつかっていた。


 『った、…あ、ごめん志摩』

 『天然か! もはや王道だな、ギャグだな椿! まったくもう、ちゃんと隣を歩きなさいよアナタ』


 隣、という言葉に何故だか指先がじわりとこそばゆくなった。ついさっきまで、つながれていた指先。一方的な、息苦しくなるほどの力で圧されることとはまた違っていた、それ。静かに、けれど確かに、通い合い伝わり合っていた温もり。志摩の手にある文庫本は、椿の指紋と志摩のそれとが重なり合っていることだろう。そういう目に明らかな絆よりもっと大切なものを手にしていた一瞬。

 志摩の掌が大きいせいだろうか、文庫本がひどく小さく見える。ページの中のキツネがしたり顔で『ほらね』と笑っているように思えた。


 『大切なものは、目に見えないんだよ』


 志摩の隣にいられるにはどうしたらいいんだろう。仲良く、って、友だち、って、馴れ合う、って、何だろう。僕は傷ついてもいいけれど、志摩を傷つけないようにするには。失ったと泣かせないためには、どうしたらいいんだろう。

 底なし沼が不気味に吐き出すあぶくのように、浮かんでは弾け、けれどその飛沫は際限無く沈み行き、また新たなあぶくを生む。己の強欲が恐ろしい。

 だから。

 憂う椿の横顔を見つめる志摩の翳りには、気づけなかった。



 腋の下から取り出した体温計が示す数字は確かに平熱ではないが、インフルエンザなどを疑うほどの高熱とも言い難い。けれど学校を休む言い訳には使えるだろう。

 けほ、と空咳をしてみる。喉が痛いような気がする。ほら、ますます仮病に信憑性が増してきた。


 (……でも、今日は。委員会がある日だ)


 もしも、志摩まで休んだら。高野が代わりに参加してくれるだろうか、或いはクラスの誰かが代理で? いずれにしても迷惑をかける。迷惑をかけられること。かつて母親から多大にかけられたことがある椿にとって、それは誰かへ簡単に転嫁してよいものではなかった。

 そう頭で理解していても身体が重い。スマートフォンのディスプレイへ表示されているアナログ時計を睨みつけながら、ただ視線をそこへ置いているだけで何も考えようとしていない自分に気づく。ちくちくと秒針は進んでいくが、事態は何も動かない。


 (……病院に行って…、から。学校へ行こうか)


 それならば志摩と顔を合わせる時間を減らすことが出来る。甚だ自分本位で身勝手な考えだ。自分の中に渦巻く表し難い感情は、ただ恥ずかしいというだけではないと分かっていても、逃げ腰の椿をさらに臆病にした。

 なんだか、志摩の前で丸裸になってしまったような、そんな照れくささと居た堪れなさが消えないのだ。寮の前まで隣を歩き、じゃあね、と告げた時、志摩の様子はどうだっただろう。思い出そうとして無駄だと気づく。どうにも目を合わせることが出来なかったのだから、そもそも覚えていないのだ。


 「……難しいな」


 ふと、声として出た言葉に戸惑って、けれどそれは深層心理として正しいと思う。自分の気持ちなのにすっかり持て余して扱いに難儀している。

 初めて、だからかもしれない。初めて、自分の身内を、知られたくないと隠してきたことを、誰かへ明かした。普通ではない、異常で歪んでいる、と忌避してきたことを晒した。志摩には、見られてしまったから仕方ないという若干の諦念があったことは事実だが。

 行かないで、と縋られ、愛しているのに、と刃を向けられ、お前がいなければ、と叩かれる。母親の、深く暗い洞穴のような瞳は決して椿を映さなかった。お母さんを、家族を壊したのはアンタだ、と姉から何度も詰られる。そんなシーンはふとした隙に押し寄せ蘇り、たびたび椿を何者か分からなくさせてきた。


 「……僕は、普通じゃない、とは。言ったけども」


 志摩は、覚えているだろうか、会話の端の椿の一言。気づけば、「志摩が、或いは志摩は、どうだろうか」ということばかり考えてしまっている。誰かとの距離が近づくことは、心地好さばかりではないことを椿は知った。どう処理すればいいのか分からない難問に立ち塞がられる、肺なのか肋間なのか心臓なのか特定出来ない、胸の痛みが椿を掴む。そんなこともあるのだ、と。

 これははたして、解決を見るのだろうか。ポジティヴな暖色系とネガティヴな寒色系と、そんなイメージがぼんやり浮かんだが、そもそも自分だけが過剰に気にしすぎなのではないか、と新たな恥ずかしさもこみ上げて、ますます熱っぽさに振り回される椿だった。




 「椿っ!」


 週明けの病院は思いのほか混雑していて、登校出来たのは昼休みの時間帯だった。人かげが疎らなせいか、志摩の声は教室内へ大きく響く。念のため、と着用を促されたマスクは椿の小さな顔を半分は覆っていて、わずかに覗く両の瞳は思わず大きく丸くなった。自分の席でひらひらと手を振る志摩の様子はいつもと変わりなく見える。なんだか一人でぐるぐるじたじた混乱した自分が馬鹿馬鹿しく思えるほど。


 「ガッコ来ても大丈夫だったのか? 風邪?」

 「……うん。扁桃腺が、ちょっと腫れてて」

 「そっか」


 志摩の表情をなにか言葉で言い表すとしたら「嬉しそう」でいいのかな、と迷った。それこそ僕の欲が目を曇らせていやしないか、とさらに疑ってかかる。マスクが隠す椿の頬はぎこちなく歪んでいるに違いない。


 「あー、雨宮くん登場やん。おそよ?」

 「……お、そよう」

 「どしたん? 風邪? もー、志摩っちが寂しがって寂しがって大変やったんよ」

 「……え?」


 ゆったりと背後からかけられた声は、振り返る前から野口のものだと分かった。くだけた挨拶を同じようになんとか返して、だからか続いた野口の言葉の意味を正しく図りかねた。

 志摩が、寂しがって、大変だった、とは。どういうことだろう。


 「あのな、のぐっち。なんでまるっと言っちゃうかな。俺がガキみてえだろ、そんなの」

 「いや、完全ガキやんか! 雨宮くん具合悪ぅて休むかも、て聞いたら自分、つまらん、寂しい、帰りたい、てブーブー言うとったやん。なにを今さら大人ぶろうとしてんの」

 「そういうお年頃なの!」


 言い合っているわりに二人とも笑みが絶えず柔かな表情だ。それを認めた椿の胸の内に何故だか靄がかかった。僕はあんな風に出来ないな、と思う。野口くんのように、志摩と明るく楽しく話せない。あんな風に、したいのに。

 野口への羨望を抱いている自分をひどく醜く感じた。志摩を羨ましく思っていたのはついこの前だ、だというのに今 欲しがっているのはその隣。


 (……僕は、いつからこんな——)


 堰が切れたように溢れる欲。羨望は憧れにも結びつくのだろうが、自分のこれは嫉妬と隣り合わせだと思う。本当に良かった、マスクをしていて。椿はそっと目を伏せ、目の前の二人から視線を逸らした。物理的に堰き止めてくれている、どこか自制に繋がっている、そんな不思議な安堵があった。不織布の長方形一枚に、実際それほどの力など無かろうが、椿は口元に指を寄せる。これが無ければ自分は、今にも泣きそうな表情を曝け出すことになっていたはずで、もうそんな醜態を重ねたくはないのだ。


 「ホンマ、志摩っちは雨宮くん好きやねんから」

 「そう、」

 「そ、そんなんじゃ、ないよ! 違うから!」


 突然、向けられた話の矛にたじろいで、痛む喉奥から出た声は無様にかすれた。思った以上の強い否定に驚いたのは椿だけでなく目の前の二人も、なのだろう。野口など目を瞬かせ、失敗した、と言いたげなバツの悪い表情を浮かべている。

 取り留めのない、冗談の類だったのか。過剰に反応して。失敗したのは、僕の方だ。


 「椿?」

 「!」


 椿を覗きこむ志摩の顔があまりに近すぎて、椿は思わず一歩を後ずさる。マスクに指をかけられ、表情のすべてを確認されそうになった時、椿の抵抗感が志摩との距離を開けた。志摩の、ひどく傷ついたような顔に、どくりと胸が痛くなる。次いで ど、ど、とせり上がってくる熱で気道が塞がれるかと思う。


 「……ご、ごめん」

 「……椿、やっぱ具合悪いんじゃ、」

 「え、保健室行こか?」


 具合は悪くなかった。その真実を椿は分かっていたけれど、そういうことにしようと決めた。このまま数歩を進め席に着いたってきっとこの居た堪れなさは消えない。いなくなってしまいたい歯がゆさも、もはや何に対して抱いているのか分からない熱も焦ったさも、誰も消してくれやしないなら、とりあえず目を瞑って眠りについてどうにかならないだろうかと考えた。


 「俺が連れてく。あ、委員会はちゃんと出るってたかのんに言っといて野口」

 「や、だい、大丈夫だよ、志摩。う、感染ったりしたら、大変」

 「ほい、行くよ行くよ椿」

 「行ってらー」


 肩に置かれた志摩の手が椿をくるりと反対へ向ける。そのまま背を押され、階段を下り、向かうは間違いなく保健室らしい。


 「し、志摩、ほんとに、」

 「あんま喋んないほうがいいって、椿。喉 痛そ」


 保健室に鍵はかかっておらず、けれど人の気配はなく静まりかえっていた。秋月先生はどこへ行ったのだろう、椿がぼんやりと現実逃避している間に、志摩はデスクへ身を屈め、手馴れた様子で利用者名簿へさらさらと記入し始めた。日付、クラス、自分の名前と椿の名前、症状などの項目、入室時刻。志摩の記す一文字ずつが見える。大らかで少し右肩上がりの整った字。筆圧は、初めて目にしたあの手紙の時よりしっかりしている。きちんと覚えておこうと思った。


 「椿、薬は? のんだ?」

 「……いや、まだ」

 「のんでのんで! 昼は何か食べた?」


 ぶんぶんと首を振り、否、を告げる。その途端、志摩はスクールパンツのポケットから、透明なセロファン紙に包まれたチョコレートを二粒、取り出した。


 「溶けてね? あんま足しにはならんかもだけど、全然何も食べないよりマシだろ?」

 「……ありがとう」

 「どういたしましてー、っと、水 要るな、水」


 志摩は勝手知ったる、という体で、保健室の一隅に置かれた小さな冷蔵庫からミネラルウォーターらしきボトルを取り出す。次いですぐ傍の棚から紙コップを。手際よく注ぐ様は実に無駄がなく甲斐甲斐しい。

 もう何度も、自身がそうされてきたからだろうか。誰かが、志摩のためを想って動いてきたその姿を、きちんと目に焼きつけているからこそ。だからこそこうやって今、椿の世話をやけるのだろうか。

 志摩の一挙一動を、背景まで思えば胸がつまる。それは作られた志摩のキャラでもなく、元来持ち合わせた器用さでもなく。

 優しさ、なのだと。椿は思った。


 「椿? 寝とけば?」


 気づけばスクールバッグすら手放さず、突っ立ったままの椿だった。弾かれたようにあたりを見回し、鎮座するパイプベッドを認める。一歩を踏み出した時、パタパタと慌ただしく廊下を打ちつける足音が聞こえてきた。


 「あれ、志摩? 体調悪い…、と。雨宮?」

 「あ、ねえアッキー、椿が具合悪いんだよ。寝かせといて? 俺、付き添い」

 「付き添い、てお前。んー、そうか。どうしようかな」


 養護教諭の秋月は、男子高でも保健室にくらい女性がいるのではと、夢見る若者の期待を見事に裏切るアラフォー男性だ。さほどのことに動じない穏やかさを常とするはずのその人が、息を切らし先を急ぐ様子で半ばその白衣を脱ぎかけていた。忙しい足音、言いよどむ口ぶりを察しの良い志摩が逃すはずもない。どうしたの? と問えば、木下を市立病院へ連れて行かなければならないと言う。


 「え? 木下、どうかしたの? 怪我?」

 「いや、お身内が緊急搬送されたらしくて。僕もまた聞きなんだけどね、他に手の空いた先生がいらっしゃらないから」


 そんな風に志摩と会話を交わしながら、秋月はデスクの上を片付け、ボールペンなどの私物をバッグへ放り込んでいく。その途中で椿は体温計をすい、と差し出された。僕はどうしたらいいだろう、と椿が答えを出すより先に、秋月は保健室の鍵を志摩の目の前へ掲げる。と、同時に椿が腋の下へ挟んでいた体温計がピピピ、と可愛らしい電子音をたてた。


 「……37.8°C。こっち来て座ろうか、雨宮。頑張って登校して来たんだな」


 急いでいるに違いない秋月だろうに、椿を無碍に扱うことはなかった。下瞼を両の親指で下げ、大きな掌で耳元から喉にかけてのリンパ節を触られる。それは午前中、近くの病院で受けたばかりの対応と変わらないものだ。

 これでは秋月先生の貴重な時間を奪ってしまう。志摩との昨日をずっと考えていただけに、こんなぐずぐずとした自分では駄目なのだと痛感させられる。きれぎれの小さな声で病院へ行ってきたことをやっと告げた。


 「病院へ行ったんだね? それならひと安心かな。薬ものんだ? じゃあ志摩、ここの戸締りは任せたから。いっそ雨宮が早退するなら高野先生へお伝えするけどね、もう五時間目だし。どうする?」


 秋月はてきぱきと、椿へも志摩へも無駄のない言葉を繰り出す。迷いないその口調は、大丈夫なのだと、根拠のない、けれど絶対的な信頼感を匂わせた。大人ってこういうことなのかな、とぼんやり感じる。

 恐る恐る、放課後に文化祭の集まりが、と告げると若干 眉をひそめられた。


 「今日は中止かもしれないね。木下がまず参加出来ないし」

 「ねえ、誰? 木下のおじちゃん? おばちゃん?」


 親戚に対する呼称とはまた違う、おじちゃんおばちゃん、という物言いは、志摩がすべてを明かさずとも木下一家との近しさを充分に含んでいた。

 椿でさえ感じとったそれを、秋月も勿論 共有したのだろう。知ってるの? と志摩へ確認している。


 「知ってる、ってか…家 近いんだ、うちと木下んとこ。親同士も仲良い、昔から」

 「そうか…お兄さんが、って聞いたんだけどね、僕は」


 志摩よりも、椿が先に「え」と口にした。木下の、お兄さん。それはイコール木下先輩のことで間違いないだろう。志摩が現れるまでは、椿の高校生活の中で、必要最低限、以上の会話を交わした数少ない相手だ。気にならないわけがなかった。

 しかし、残念ながら秋月は、また聞きだというに違わず、それ以上の情報を持っていないようだ。問いたげな椿の視線も、「マジ?」と落ちた志摩の低い声も困った様子で躱すに留まり、じゃあ頼んだよ、とだけ言い置いてバッグを片手に保健室から出て行った。


 「マジか…、兄ちゃんか」


 何となく空気が揺れ、立っていたはずの志摩はいつしか、パイプ椅子へ座らされた椿の目の前へとしゃがみこんでいた。下から覗きこむ瞳の不思議な強さと揺れにまたたじろいでしまった自分は、志摩へ不快感しか与えていないように思える。


 「……心配、だよな」

 「……う、ん」

 「木下の、兄ちゃんだもんな」


 二つ目の、志摩からの確認には素直に頷くことが出来なかった。木下先輩だから、心配なのか。他の、言葉を交わしたことのある、たとえば富田や野口ならばどうだろう。担任の高野や、楢崎なら。母親なら、姉のスミレなら。


 (志摩、だったなら——)


 誰に対しても、ひとまず心配はするのだろうと思った。しかし何かへ或いは誰かへ関心を寄せたり頓着することなどなかった椿だ。そういった「情」の表し方の、倣うべき背中を椿は知らない。母親ではなかったし、祖父母でもなかった。執着される恐ろしさだけは感じてきたけれど、いざ自分が向けるとなると、加減が分からないのだ。絵を描くことはとても好きだが、「絵を描くこと」は人、とは違う。


 ただ、心配をして、誰に対してもその深度は等しくないことに気づく。もしも、志摩が。そう仮定した一瞬でさえ椿の視界はぐらりと傾ぐのだ。決して可能性がゼロではないと理解しているだけに、そんな最悪の事態をちらりと瞼の裏へ描いただけで、あたかも具現化しそうな罪深さに囚われる。

 じわりと迫った不気味さを追い払おうとふるふるかぶりを振る。目をしばたたかせる椿の名を呼ぶ志摩の声は弱々しい。


 「……無理すんなよ。やっぱ、好き、とかだったんじゃ、ねえの? 泣きそうになってる」

 「ち、が…こ、これは、」

 「違う? じゃあなんでそんな顔? 教えて? 椿」


 教えて、と柔らかく問われても。そんな顔、がよく分からない。いや、泣きそうになっている、ということだとしたら、それは。


 「……ごめ、ん。…もし、これが…し、志摩だったら、とか思ったら…怖くなって」

 「え? 俺?」

 「ごめん、本当に…感じ、悪いよね」


 ごめん、と繰り返す自分はとても愚かで、それしか仲直りの方法を知らない子どものようだと思う。謝りたい「だけ」ではない、もっともっと志摩と話したいことは別にある、打ち明けたいことも、知って欲しいことも、志摩のことを知りたいと思う以上に抱えているのだ。だのに距離の縮め方も分からなくて、日々の一つひとつが志摩ばかりに染まって、自分のことなのに上手くコントロール出来ない。

 不器用なのは変わっていないはずだ。変わったとすれば、持ちすぎてしまったことなのだろう。何も望まない、欲しがらない。諦めて、ただ日々を生きていさえすればいつか死が訪れる。それまでの辛抱だと思っていた、こんな生きていきにくい世の中をなんとか卒えるには。それなのに。


 「俺のこと、心配してくれた? 今。木下の兄ちゃんのことじゃなくて?」

 「……変だね、ごめん」


 決して詰るような口調ではなかったが、志摩の複雑な表情からは志摩が欲しがっている反応を読み取ることなど出来ない。ひたりと強く据え置かれた視線は、椿から何かを引き出そうとしているようではある。謝罪、ではないのだろうが。


 「変とかじゃねえよ、あー! 良かったわあ」

 「……え?」


 ほっとしたように相好を崩し、志摩は屈託の無い笑みをいつものように浮かべた。椿の両膝を掌でぽんぽんと優しく叩くと、それを弾みのようにして立ち上がる。つられるように椿も立ち上がった。見上げる先で志摩はなおもにこにこと幼気な笑顔を向けてくる。


 「俺、避けられんじゃねえかと思って、今日。気が気じゃなかったんだけど」

 「え」


 避ける、つもりは多少あった。甚だ自分本位な理由からであったが、朝は確かにそんなことを考えていた。志摩は、エスパーなのだろうか。本当に熱があってよかったと思う。


 「椿の…言いにくそうなこと。昨日いろいろ、訊いたじゃんか俺。そもそも椿ん家に行かんかったら良かったのか、って考えるとマジ俺が悪いんだけど。でもこれで椿が俺と喋ってくれんくなったらすっげ嫌で」

 「……そんな、」

 「椿、休むかもって聞いて、今朝。LINEも来ねえし、やっちまったか俺、ってすっげえヘコんだ」


 でも良かった、と続けた志摩へ、椿は一体どうすればいいのか分からなかった。志摩の言葉を借りるなら、やっちまったのはむしろ自分の方で、すっげえヘコんでいたのも自分の方だ。

 それをそのまま伝えてよいものか。頭は回らず身体の力が抜け、椿は膝裏へ感じていたパイプ椅子の硬質へ再度座り込んだ。程なくして志摩の視線も下りてくる。これを心地好いと称さずになんと表すのか。熱があるせいなのか、ふわふわと甘い綿菓子に頬寄せているような気分だった。マスクが隠す部分の大半が朱に染まっているのは、熱があるせいだけではない。


 「……僕、…僕も、今日」

 「うん?」

 「志摩に、合わせる顔が…ないな、って」

 「ふは。大丈夫、合わせられてる」

 「うん…、そ、だね」

 「俺、忘れた方がいい?」


 何を、という目的語が抜けた志摩の確認を、椿は正しく理解することが出来なかった。もしかして、とは思ったが、決めつけるなと言った志摩の言葉を思い出す。確認な。そう彼は言ったのだ。


 「……僕の、家の、こと?」

 「そう。俺が、知ってんのが嫌なら、そのせいで椿が俺と喋りにくくなるくらいなら、忘れる。何も見なかったし、何も聞かなかった。ことに、出来る、俺は」


 出来る、という志摩の器用さを、椿は額面通り受け取ろうとは思わなかった。志摩は、確かに出来るだろう、椿のような挙動不審さは滲みもせず、完璧に。けれどそれは無理をさせることと同義だ。あんな鮮烈な印象を、忘れてくれと願うことがどだい無理な頼みで、それならばいっそ椿の、情報の一つとして認めてもらった方が随分と過ごしやすい。

 雨宮 椿という人間が、出来上がってきた過程は、あの場所と切り離せないのだから。どんなに嫌悪しても、どんなに逃げても、椿が死ぬまでついて回る翳だと分かっているから。


 「……僕は、普通が分からない、って。言った。志摩に」

 「うん、覚えてる」

 「ああ、だからか、って。思ってもらえると、気が楽。あんな家で、育ったから、だからか、って」

 「椿……」


 志摩は、何かを言いかけて、けれど唇を引き結んだ。何を言いかけたのだろうと気になった椿だが、もしかしたら卑下した物言いが志摩の悲しみを買ったのかもしれない。昨日、自分を大事にしろと言われたばかりであったのに。


 「分かった、オッケ」

 「……志摩?」

 「椿は、A型で、5月1日生まれで、文学少年だけど絵も上手くて、でも運動神経ゼロ、普段はコンタクト、土日は眼鏡っ子、私服が超オシャレな蛇語も話せる偏差値80、普通じゃなくてワケありの、ツンデレのツンが多めツッコミポイントズレてる残念男子、ってことだ」

 「ほんと、偏差値80もないから」

 「ほら! そういうとこ!」


 あはは、と明るく笑う志摩に倣おうとするも、マスク顔では笑みすら上手く伝わらないだろうと迷う。せめて、と目元に意識を寄せ弧を描かせた。上げた口角が志摩に見えなくとも、察しの良い彼のことだ、きっと気づいてくれるだろうと任せてしまう。

 案の定、というべきか、志摩は目を丸くして椿の笑顔を見とめてくれたらしい。幼い子をあやすように、大きな掌が椿の頭を撫で回した。


 「明日さあ、行ってみるか」

 「……どこへ?」

 「病院。さっきはさあ、木下の兄ちゃんが椿のこと持ってっちゃうんじゃねえかな、って嫌だったんだけど」

 「? ……志摩、意味がよく」

 「ふは。ニブチン、ってのもつけ加えよ。椿エレメンツに」


 志摩の言葉がますます謎めいていく。今度は強く意識せずとも眉間に皺寄せている自分に気づいた。そんな椿に志摩はまた笑って、寝とけよ、とベッドを指差した。

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