第9話

 月曜日の放課後に予定されていた文化祭実行委員会は、水曜日へ延期された。理由は特に掲げられなかったものの、木下の体調不良、という噂がそれは速やかに流れ、ゴシップ好きなのは女の子ばかりではないと椿は思う。


 明けて、火曜日。


 熱が下がった椿は寮母さんから心配を受けながらも登校し、放課後、志摩とともに市立病院へ歩く。今日は志摩の方がマスクをしていた。


 「病院ってやっぱね、集まるからさー、いろいろ。人とか菌とか」

 「志摩、無理しなくていいよ? 僕は一人で大丈夫、拐かされたりしないと思うし」

 「え? ちょ、待って。今もんのすごく古風な言い回しに俺の耳がついて行かんかった! なんて? 椿」

 「かどわかされたり? あれだよ、誘拐の拐、って字。志摩が昨日、持って行かれるとか何とか言ってたから」

 「ああ! なーる、…ってそういう意味じゃなかったけどね、まあもういいか的な」

 「何かに感染ると大変でしょ」

 「一人で行かせて椿くんに悪いムシつくほうが大変っすよ」


 何それ、と問うも、志摩はただくふくふと笑うばかりで一向に答えを渡そうとしない。椿はそれを横目に見、ふ、と息をもらし笑った。野口の言によると、今朝の志摩は「打って変わっていたってご機嫌」であるらしい。登校してそれを聞くや、言葉の持つリズミカルでコミカルな響きに思わず破顔した椿だった。


 幼馴染、というほどの間柄ではない。志摩はそう断りを入れて、病院への道すがら、木下一家との親交について触れた。親同士、仲が良いのだと志摩は言っていたが、木下の父親と志摩の父親が中学の同級生なのだという。三年間同じクラスだった二人は、その後も何かと連絡を取り合い、現在に至っている。ただ、同じく期待された息子同士の仲は、悲しいかな、裏切る結果となった。志摩は、木下兄弟の兄の方とも弟の方とも、あまり親しくなれなかったと言う。


 「悪いヤツじゃないのは、分かってんの。兄ちゃんの方も木下も。口は悪いしネコかぶりだけどさ、木下。基本、真面目だし頭いいし」

 「そう、なんだろうね」

 「ま、大半は俺のひがみが原因かな。俺、あんま親父と似てねえもんな」


 ふう、と志摩は大きく息を吐き出し、マスクを浮かせた。白の長方形から漏れた風が志摩の前髪を揺らす。ひがみ、とその一言を拾って椿は小さく口にした。


 「……そ。ひがみ。何でも出来る、何でも持ってる。俺もそんなポジションにいたはずなのにー、ってね」

 「……志摩」

 「呆れていいよん、椿。俺、いまだに木下には本当のこと言ってねえの。なんっか言いたくねえの。うすうす勘付いてる類なんだろうけどねえ、アイツも」


 志摩は優しく、思い遣りもあって気遣いができる出来た人間だ。そんな志摩の周りに優しさも思い遣りも集まってくるのは当然なのではないかと思う。志摩がどれほどを欲しているのか分からないが、それでも彼を取り巻く温もりに満ちた世界の片隅で、自分もひっそり息づいていけたらと願う。さらに願わくば志摩の役に立っている、と。そんな自己の存在意義を見出せたらとまで欲張ってしまう。どこまで自分の生き様を志摩へ丸投げしているのかと呆れるほどに。


 「……志摩は、お父さんと、似てないの?」


 父親と似ている椿のそれは、見てくれだけの話だ。内面はまったく分からない。聞かされたこともなければ知る術もない。妻の妊娠中に浮気をする、そんな節操の無さが己の身の内へ潜んでいるのかと考えるとぞっとしない。

 ただ、志摩の指すそれは気立ての話に違いない。木下の息子兄弟と相反した志摩と、志摩の父親との間に無かった共通項は、見てくれだけの話ではないのだろうと思った。

 そんな話をきちんと成立させられる「普通」を、羨ましく妬む気持ちはいまだどこかにほんのり残る。


 「だなぁ。顔はね、姉ちゃんらが激似。も、笑っちゃうくらいすっげえ濃ゆい。俺どっちかっつーと薄っすい女顔だろ? 性格も親父は豪快だもんね、良く言うと。悪く言うと大雑把、能天気の考えナシ。あんなんで社長とかやっていけてんのかマジ謎」

 「凄いね、社長さんなんだ。志摩は社長御子息なんだね」

 「あっは! そこでお坊ちゃん、とか言わん椿が好きだわー。御子息、いいね、こそばゆいー!」


 もはや揶揄われているのかいたって真面目な反応なのか、追求するのは止めて目の前にそびえ立つ無機質な建物を見上げた。寂しげな灰色の外壁には病院名が緑色の文字で打ちつけられている。見つめ続けていると今にも蠢き出しそうで怖くなる。たくさんの生命を内包しているであろうそこは、ただひっそりと佇んでいた。背後の空は、蒼の中にところどころオレンジと薄い紫を混ぜ始めている。


 「6階、だったな」


 透明な自動ドアを過ぎるとすぐ、開放的なホールに出迎えられる。そこは多くの椅子が備え付けられ、会計、入退院手続き、相談窓口、おくすり、などのカウンターが壁面を陣取っていた。いずれも曲線が取り入れられ、鋭角が削ぎ落とされている。病院、という、どこか恐怖すら覚える空間にあって随分と柔らかな印象を受けるのは、きっと意図的であるのだろう。午前中ならば多くの市民で埋め尽くされているのだろうが、夕飯前のこの時間ともなれば、急ぐ様の医師や看護師、お見舞いに訪れる者がぽつりぽつり、というところか。吹き抜けが明るいホール中央部に掲げられた大型のテレビに観入る姿も無い。


 志摩は今日、最初の休み時間に秋月から捕まえられ、その後、木下と同じクラスの男子生徒を捕まえていた。そうして自分の家族から仕入れたという情報と照らし合わせていたようだ。院内の案内図をちら、と見るに留め、小気味好いほどに闊歩していく。


 「椿、エレベーターこっち。部屋番号までは分かんないからナースステーションで訊こう」

 「……詳しいね、志摩」


 志摩はあまり物怖じしないタイプなのだろうが、それにしても迷いや躊躇いがないな、と感心した。放課後の制服姿で彷徨くことにすら抵抗を覚える椿だが、まして入院患者を見舞うことなど初の体験だ。そういえば手ぶらで来たが大丈夫だったのだろうか、本で読んだ記憶があるが花束などは必要無かったのか、木下先輩の下の名前も知らない自分は入院している部屋をどうやって教えてもらうのか、何科を訪ねればいいのかも分からないのに。

 そうして、肝心なことはすべて、志摩に任せきりなのだと悟る。現実世界を何ひとつ、きちんと経験していないのだ。こんな自分では志摩の足手まといにしかならないな、と肩を落とした。


 「どうしたん? 椿。ここ、俺のかかりつけだからね、詳しくて当たり前」

 「……そう、なの?」


 かかりつけ、というだけでない。志摩の社会性や行動力があってこそ、椿は目的地へ近づくことが出来ているのだ。見習わなければ、と己の不甲斐なさを省みつつ、やって来たエレベーターへ乗り込む。

 6、というボタンを押した志摩の長い指をぼんやりと見つめていた。階数表示のパネル横へ簡単な院内見取図が掲げられている。6階には何科があるのだろう、その行き先へ思いもよらぬ診療科目を見つけて、椿は無意識に口走った。


 「……心療、内科?」

 「……そうらしい」


 そういえば志摩は、エレベーターへ乗り込んでから一言も発していなかった。どことはなしにぴりりとした空気が漂う。これは、緊張感、というものだろうか。ぐん、と押し上げられる圧につられ志摩を見上げた椿は、背筋を撫で上げられたような粟立ちを覚えた。

 何故、志摩はどこか痛むような、きつく堪えるような目元なのだろう。マスクから部分的に覗く志摩の表情が詳らかでないことにずきずきとこめかみが痛む。もはや自分が何に怯えているのか分からない椿だが、それでも今抱えるこれは「怖さ」なのだと思う。


 「……木下が。椿を、連れて来てくれないか、って」

 「……志摩へ、連絡があったの?」

 「まさか。そこまで仲良くねえから。アッキーからの、伝言」


 そう、と相槌した瞬間に、エレベーターの重い扉が開く。一拍空いて志摩が先におり、椿ものろのろと倣った。


 「……気が進まない? やめとく?」

 「……や。行く…けど」

 「けど?」

 「怪我とかかな、って…、勝手に、思ってた」

 「そっか」


 心療内科、へ恐怖を抱くのは、やはり母親の姿がちらつくからだろうか。祖父母も、確か姉も、椿を伴い母親をこの類の診療科目へ連れて来たことがある。何度も。その都度、独特の、粗相を許されない、隣り合う空気にすら己のすべてを押し殺さなければならないような、そんな竦みに囚われた。

 木下先輩の、思い出される柔和な笑みがどうしても母親のあの狂気と結びつかない。歪んだ先入観が椿の足に重石を課しているようだ、ナースステーションまでの数歩が遠い。


 「……椿」

 「……ご、ごめん」


 志摩との距離が開くばかりの椿を見かねたのか、志摩は立ち止まり振り向いて椿を待っている。志摩の背後にはすぐナースステーションが控えていて、ガラス戸の向こう側に人の姿も見えた。

 なんとかやっと追いついて、苦しさを覚える胸を押さえ大きく息を吐き出す。何となく強張っていた椿の身体だったが、志摩の大きな掌が椿の小さな頭を包みこみ、その温もりだけで解れそうになる自分に嘲りに似た笑いが浮かんだ。

 志摩は何を思ったのか、何を感じたのか。それまでつけていたマスクをするりと取り払う。頬、鼻、口元、顎、志摩の表情すべてを見とめ、ふわりと微笑まれれば肩の力がもう少し抜ける。


 「俺もね、ここに入ってたことあんだよね」

 「……え?」

 「すっげえ荒れてた時、あったからさ。死ぬの分かってんのにじわじわ生きんのは嫌だ、今すぐ殺してくれ、って」

 「志摩……」

 「なんか、独特の雰囲気あるよな、ここ。足が竦むの、分かる気するわ」


 独特の雰囲気、にのまれているだけではない、椿の臆病さをそんな風に甘やかさないで欲しい。それともこれは、志摩の戦略なのだろうか。この先の空間にいつかの志摩がいたのだとすれば、平気かもしれないと思える自分は何だろう。母親との忌むべき記憶など綺麗さっぱり捨ててしまえる自分は何だろう。志摩は、こんなところも計算ずくなのだろうか。


 「……志摩? と、雨宮……」

 「木下」


 ああそういえば。志摩は大抵の人間を親しげに愛称で呼ぶのに、木下は木下なのか、と妙な気づきで驚きを誤魔化す。すっかり焦燥しきった感の木下がナースステーション前にいた。


 「……悪いな、連れて来て欲しいって頼んだのはこっちなのに。兄貴、眠ったままなんだ」


 志摩は、そっか、と淡々と返した。いや、返事をすべきは自分だったのかもしれないと椿は震えた。咄嗟に口を開けなかったけれど、木下の視線はひたり、と椿へ据え置かれているから、そうだったに違いない。


 「雨宮。ちょっと、話したい。いいか?」

 「俺もいていい?」


 椿が応えるより先に志摩が静かに声を挟んだ。あたりの静謐さを慮ったせいなのか、ひどく抑え気味のトーン。志摩らしくないと思えるそれに、何故かどくり、と心臓が動く。


 「いて…欲しくは、ないけど本当のこと言うと。でも、志摩が連れて来てくれた訳だしね」

 「椿は何も知らないまま、ここにいるよ。俺、卑怯だからね、何も伝えてない。つっても俺だって詳しくは知らんし。また聞きの情報に振り回されんのは嫌だから一緒に来た」


 今度は木下がそっか、と返した。淡々と。確かに椿は何も知らされないままここへやって来たが、それはそもそも知ろうとしなかった自分の非だ。事実を詳らかに、そんな目的を明確に持った志摩の方がよほど正義感に溢れ、ただぼんやりと意志も持たず動いている自分の方がよほど卑怯なのでは、と思う。

 そんな思考を上手く口にする器用さが椿にはない。頭の中だけでぐだぐだともがいているうちに木下は志摩と椿へくるりと背を向け、こっち、と声だけで誘導した。

 志摩と、無言のまま目を合わせる。物語や漫画に出てくるような通じ合うテレパシーは無かったが、二人、何とはなしに踏み出した一歩は見事に揃う。


 ついて行った先に、彩りの異なるスペースがぽかりと広がった。見舞客との面会場所なのか、それとも入院患者がそれぞれの時間を自由に過ごす場所なのか、自動販売機や雑誌といった類から、軽食をとるためか、ポットや電子レンジまで用意されている。木下は四人掛けテーブルの一画を陣取り、向かいの席を二人へ促した。


 「兄貴のことなんだけど」


 それは予想通りであったから、何の前触れもなく切り出されたが充分 椿にもついていける話だった。こくりと頷くも、その先は読めない。


 「睡眠導入剤の大量摂取。が、ここに運びこまれた原因」

 「え…、え?」

 「どうしてそんなことを、っていう点は、まだ分からない。本人にも訊けてないしね」

 「大丈夫なのかよ」


 誰が、なのか、何が、なのか、そして、敢えて、なのか。指示語を明らかにしない志摩の言葉が直截でなかったせいか、木下はわずかに間を空けた。そうして うーん、と苦々しい反応を見せる。小首を傾げ、恐らくは兄が眠る病室の方角を見遣り、口元を歪ませた。


 「胃洗浄して。見つかったのが早かったから大事にはなってないけど。親は動揺してるね、激しく。俺はまあ…ここんとこ元気ねえな、とは思ってたからさ。けど、ショックっちゃあショック」

 「……だろな」

 「アレだろ。志摩、自殺未遂、とかって聞いたんだろ、ご近所さんから」


 志摩は うん、とも、いいや、とも反応を見せなかった。椿のように反応出来なかった訳ではあるまいに。声が出ないのは喉が渇いているせいなのか。けれど唾液も上手く溢れ出ないし、まして飲み込む音も憚られる。深い海の底に沈みこんでしまったようだと思う。


 「……で、だ。雨宮は、何か心当たり、ない?」

 「……え」

 「たとえば本当に自殺未遂、だとして。雨宮、何か知らない? 兄貴の、悩み…、とか」


 知らない、と即答しそうになって、それはあまりに失礼だろうかと言葉をのむ。木下は、その瞳に何ら色を交えず、ただ真っ直ぐに椿を見つめていた。噂を——根も葉もないと椿は言いたいのだが——耳にしているのならば、非難だとか蔑みだとか、そんな要素が垣間見えても致し方ないのではないか。それでも逸らされない真摯さに、志摩が言う通り、木下は真面目なのだろうと思う。向けられるものとまったく同じだけのものを返せない自分に嫌気がさし、椿は目を瞬かせてなんとか「ごめんなさい」と言葉を発した。


 「……僕、あまりお役に立てるようなことは、知らなくて……」

 「そっか。噂のこと、って、訊いてもいいか?」

 「木下。椿は俺と違うんだから。んなずけずけ言わんでも」

 「分かってないな、志摩」


 分かってない、とにべもなく断じられたからだろうか。椿の左隣へ並ぶ志摩の空気がほんの少し怒気を孕んだ。そんな風に感じた。何が、と落ちた声は、ただそこに落ちただけで、木下へ正しく向けられていないような気もする。


 「俺が本当にずけずけ訊きたがる遠慮のない人間だったら、とっくの昔にお前の病気のこと根掘り葉掘り抉ってる」


 淀みない木下の言葉は、静かな空間へ朗々と響き渡った。志摩の、ぴりりと逆立った荒ぶりは途端になりをひそめ、俯けていた視線がわずかに上がる。


 「気づかれてない、とか。本気で思ってたのか? 別にお前んちの家族がみんなして黙ってても察することくらいできんだぞ」

 「……おう」

 「お前、結構な人気者みてえじゃん。昨日、制服姿でここ来たら “あら、志摩くんと同じ学校?” って。何人も看護師さんから訊かれた」

 「……は。マジか」

 「母ちゃんくらいの歳の人ばっかだったけどね。お前、ストライクゾーン広いな」

 「熟女キラー、って呼んでくれ」


 志摩は悲しいくらい上手に笑えてなくて、残念なほどに冗談めかすことに失敗して、横顔が寂しく翳っていた。ここを良い機会だと、志摩は本当のことを打ち明けるのだろうか。同級生、という括りの中で自分だけが唯一の共有者だとどこかしら誇りに感じていたが、それももはやこれまでか。残念、という単語に収まりきれない独占欲がちくちくと胸を刺す。


 「……まあ。俺の話は、置いといて、だね」

 「頑なだな、お前。この後に及んで」

 「木下には言いたくねえもん、椿は別だけど」

 「なにそれ。雨宮は、特別?」

 「そう。俺が勝手に、思ってるだけだけど」


 志摩の横顔を盗み見ていたはずの椿だったが、想像すらしたことのない言葉を耳にし「は?」と上ずった声が漏れ出た。恥ずかしい、とは思ったがそのまま固まって志摩を凝視してしまう。志摩と視線が交わらないことに、揶揄われたのかと一抹の不安がよぎる。木下の方へ向けた顔が椿を見つめることはないが、口元はうっすら笑みを描いていた。


 「ふーん、特別、ね。兄貴もそうだったのかな。兄貴も勝手に、雨宮のこと特別だ、って思ってたのかな」

 「そんな…、そんなことは」

 「分かんないけどね、俺は兄貴じゃないから。でも、スケッチブックの中の雨宮は、ひとつもこっち向いてなかったな」


 もはや独り言のような木下の言葉に、どう応えればよいのか分からない。スケッチブック、とは。そんな疑問が当然のように浮かぶが、たとえ口語であっても行間がまったく読めない椿ではない。スケッチブック、とはあのことだろう。部活動で、時に持ち帰って愛用していた先輩のお気に入り。その中に自分が描かれていたとは思いも寄らなかった。


 「なに? スケッチブック、って」

 「兄貴がいっつも使ってたやつ。ちらっと見たことあってさ」


 雨宮が、たくさん、描いてあった。


 ぴくりと身体が震える。一瞬で指先まで走る、まるで微弱な電流に触れたような痺れは何というのだろう。感激、とでも表すのだろうか。

 美術部室での木下先輩を思い出す。決して大胆ではない生真面目な筆使いは、その人柄を映すように柔らかで繊細なものだった。何かを描くにあたっては、勿論その対象へきちんと視線を置かねばならない。自分は見つめられていたのか。気づきもしなかった、いや、正しくは。何かに気づこうとさえしないまま生きていた。

 あの日。志摩が唐突に、話しかけてくるまでは。

 

 自分が何者かもよく分からなかった。父親の身代わりのように寄せられる愛情はニセモノだった。椿自身として、誰からも、何も望まれなかった。いなければいい、と言われたことはあった、だからそれが本当ですべてなのだろうと思っていた。自分はそんな程度の人間なのだ、いてもいなくても世界は何も変わらない。存在意義も価値も意味も何も持たない自分は、誰にも、何も望んではいけないのだ。そうきつく思いこんで、自身へ言い聞かせてきた椿だ。今、自分が何を求められているのか見当がつかなくて息がつまる。

 だから、目の前の木下からあからさまに罵られたり蔑まれたりした方が楽なのかもしれないと思う。お前が兄貴を追いつめたんだ、とか。お前がいなければこんなことにはならなかったんだ、とか。むしろ聞き慣らされた罵詈雑言の方が、こんな風に泣きそうにならなくて済むのではないかと思った。


 「……本当に、何も。僕は、知らなかった。考えなしで…、すみません」

 「いや、別に謝らせたい訳じゃなくてね。なんかこう、兄貴が元気なかったのは雨宮との道ならぬ恋に思い悩んでたからかな、とか。なんかこっちが、そういう分かりやすい答えが欲しかっただけというか」

 「勝手。木下」

 「だよな。分かってる」


 分かってる、と頷いた木下は、決して勝手ではないと椿は思う。強くかぶりを振って否定した。そんな椿に目を瞠らせたのは目の前の木下だけでなく、志摩も同様であったらしい。


 「椿?」

 「何か…、もっと僕が、気づいてあげられれば良かった。そうしたら、こんなことには、ならなかったかもしれない」

 「うん、でもそれは、雨宮に限って言えることじゃなくて。俺だって、そうだから」

 「ひいては、俺だってそう。ご近所さんなんだから、何か気づいてやれたかもしんねえだろ」


 木下と、志摩と。二人ともがそれぞれ、同じようなことを口にする。椿の言をやんわりと否定したそれは、とても優しく聴こえてしまった。甘えてはいけない、とやはり首を振る。


 「でも…、でも、やっぱり、僕に出来たこと、」

 「うん。俺もそう思ってる。俺、兄貴に対してもっと、出来たことあんじゃねえの? って」

 「椿だけじゃねえよ。ハルカくんのこと大事に想ってる人間は、みんなそうなんじゃね?」


 ハルカくん。


 志摩の口から紡がれた美しいそれが、木下先輩の下の名前なのだとゆっくり気づく。気づいて、じんわりと椿の身の内へ染み込んで、申し訳なさばかりが募る。頬を伝う温かな雫が転がり落ちた。


 「うわ! 雨宮?! ちょ、」

 「ご、ごめんなさ…、僕、木下先輩の、名前も、知らなくて…、薄情だな、って」

 「ああ、うん。それは、全然、俺が二人はつき合ってたのかとか、勝手に思いこみたかっただけで、」

 「ごめ、ん…本当…、なんか、無いんだ僕…、足りない、欠けてるんだ、人の気持ちとか、ちゃんと分かって、あげられない…」


 ぽたり、またぽたりと、拭きあげられたテーブルへ水滴が落ちる。それは小さく歪な水たまりとなって、映す椿をゆらゆら揺らす。椿、と志摩が呼ぶ。それだけでまた涙がこみ上げる。椿と椅子の背もたれとの間に志摩の掌が差し込まれゆっくりと撫でられる。ひくひくと収まらない胸の動きが苦しくて、でも木下先輩はもっと苦しかったのではないかと、振り切った。


 「ほんと、悪い雨宮。俺のエゴだよ、ちょ、どうすんの? どうしたらいい? 志摩」

 「お前ね、椿 泣かせた罪は重いからな! マジええかっこしいすぎんだよ、木下は!」


 木下へ暴言を浴びせる志摩の、でも掌の動きはとても優しく温かい。


 「うん、志摩の仰る通りです…けど。でもさ、」

 「なんだよ? “それも誰だってそうじゃね?” とか言う?」

 「わあ、さすが察しの良い志摩!」


 場を和まそうとする意図があるのか、それとも椿の涙を止めさせたいがためか。二人の掛け合いはいずれにしても成功だ、椿は慌てて制服のパンツからハンカチを取り出し目元を拭う。


 「椿、ハンカチとかいつも持ってんだ? すげ、ちゃんとしてんね」

 「なに? 雨宮に対するその変わりよう! お前が一番ええかっこしいじゃない?」

 「悪ぃかよ」


 すん、と鼻をすすり、覆うハンカチの隙間から志摩を窺い見る。半ば身体をこちらへ向けた志摩は、ほんの少し声音を落とし痛そうな表情をのせていた。


 「……今日、ここ来て。どんな話になるか分かんなかったけど、椿は泣くかもな、って…思った。慰められたらカッコいいじゃんか。大抵の人間はそうやって打算働かせて生きてんじゃねえの? お前だってそうじゃね? 兄ちゃんを思い遣るカッコいい弟 演出してえな、って計算、ゼロとは言わせねえよ」

 「……まあ、ね」


 打算、だとか、計算ずく、だとか。時折、志摩はそうやって自身を貶めるような言葉を使う。けれどそれを最終的に明かし、秘密裏にひた隠さないところに志摩の健やかさを感じとってしまうこれは、椿の贔屓目なのだろうか。


 「椿のこと、兄貴を追いつめた張本人に仕立て上げてカッコよく断罪したかった? お前が言うエゴ、って、そういうこと?」

 「当たらずとも遠からず、かな」


 椅子へ緩くかけていた木下はテーブルへ肘をつき掌へ頬をのせた。椅子を少し手前に引き、物理的な距離が椿と詰まる。その具体的な行動が木下の無意識で深層下を投影したものであるなら、ありがたいのに、と思った。詰めようと歩み寄ってくれた、ということだから。


 「……別にね、噂を鵜呑みにしてた訳じゃない。同じ美術部で、確かに二人の仲は悪くなかったんだろうけど、雨宮は誰にも興味なさそうに見えたし。兄貴が描いてた雨宮はいっつも視線があさっての方 向いてた。そういう角度からしか見つめられなかった、ってことだろ? 俺に絵心はないけど兄貴が一方的に好きなのか、ってなんとなく思った」


 手の内で、ハンカチを握りしめる。何かを声に出すのは、憚られた。


 「うちは男子校だし男同士で、ってのは昔からあるじゃん。偏見はないつもりだったのにいざ自分の兄貴が、ってなると正直戸惑った」


 でも、と切って木下は息をのむ。自分の考え及ばぬところで、でも誰もがそれぞれいろんなことを考えて生きている。戸惑い迷いもがいて足掻いている。椿だけではない。そんな当たり前のことを突きつけられた気がした。


 「ここで見事な理解を示せたら? 俺カッコよくね? って。そんな風にも、思った。LGBTなんて言葉、最近叫ばれてるしね。自分には分からない世界だけど、だからってそういう人たちを遠ざけるのはナンセンス。認め合ってこそより豊かな社会が築かれる。正論だろ?」

 「すっげ胡散臭い政治家みてえだよお前。でもそれなら兄ちゃんと木下の間の話で済むことだろ。椿、巻き込む必要なかったんじゃね?」


 変わらず志摩の掌は椿の背にあって、とっくに涙は止まっていたが「もういいよ」とは切り出せない。この温もりが離れていけば残念に思うことを知っているからだ。

 先輩は、どうだったのだろう。自分がこれほどの温かさを誰かへ与えていたとは思えないが、卒業してから元気がなかったという先輩は、時に自分のことを思い出して、その不在を寂しく感じたりしてくれたのだろうか。

 木下は、そうだね、と言った。だからここから先が俺のエゴだ、と。


 「……兄貴ね、家を出たがってたんだ。遠くの大学を選んで、誰も自分を知らないとこで、新しく生活を始めたい、って。反抗期っぽいのも特になくて、親に物申したことなんてない人が、だよ? アレは我儘とかじゃなくて切実な願いだったんだろうな」

 「おじちゃんとおばちゃんが反対したのか?」

 「いやー…、俺?」


 志摩はふうん、と相槌をうつ。兄も弟もいない椿は関係性がよく分からない。弟は兄の進路や人生にそうそう口を出せるものなのだろうか、それとも木下家が特別なのか。


 「俺、東京 行きたいから、って。二人とも家出たら母さん寂しがるだろ、兄貴は残れよ、俺の方が成績良いし、って…、言ったのよ、この口が」


 言って木下は両の掌で口を摘んだ。この口が、と。戒めているようだった。端整な顔立ちは崩れいわゆる変顔であったが、とても笑う気になどなれない。悔やんでいる、という表情は間違いなくこうだろう、と思えたから。

 そのまま肘から先を伸ばし、木下はゆっくりと頭をさげる。椿へ近づいてくる指先をじっと見つめていた。場所が場所なら、土下座のようでもある。


 「……雨宮のせいに、したかった。全部、何もかも。ごめん」


 お前、と隣で志摩がため息をつく。ごめん、と木下はもう一度 繰り返した。

 僕のせい、だと言った先ほどは、それは違う、と覆された。木下が、椿のせいにしたかったというそのすべてを、椿は正しく理解出来ていない気がして、もう少し、言葉が欲しいと目に力を籠めた。恐らく志摩は、察しているのだろうが。


 「兄貴にもっと、してあげられたことあったんじゃねえの、って。足りなかった自分を責めてる、のも本当。でも、もしか、俺のあの、考えなしの、冗談半分の言葉が兄貴を追い詰めたんだとしたら? って怖くなったのも、本当。そうしたら、いやそもそもなんで家 出たがったんだろう兄貴は、って方向に考えいっちゃって。つか無理やり向けちゃって。あ、これはひょっとするともしかして雨宮なんじゃねえの原因、って」


 転嫁、したんだ。


 は、と漏れた薄い笑いは、額をテーブルへ押し付けたままの木下からやけにくぐもって聞こえた。丁寧で、生徒会長然としていた話し方もすっかり崩れ、ああ木下も高校三年生なのだ、と奇妙に改めて認めさせられる。

 転嫁、の上へのせられる言葉なんて椿には「責任」くらいしか思いつかないのだけれど、おおむね木下が椿へなすりつけたかったものはそれで間違いないのだろう。


 「ひどいよ、お前」


 そんな風にきっぱりと断じる志摩を、そんなことないよ、ひどいのは僕の方だよ、と。むしろ庇いたくなるほど、木下の落ち込みようは半端なく感じられた。


 そう思うのならば、口に出さなければ。いくら賢く察しの良い二人であっても、椿が何を感じ、或いは何も感じず、この件をいかにのみこもうとしているのかは、伝わらないのだ。

 わざわざ胸の内を吐露した木下を前に椿は考える。黙っていればよかったのに、と思わなくもない、それ。そうすれば木下はただ兄の突然の行動にショックを受けている、兄想いの優秀な弟、という体でいられただろうに。そうして兄のために或いは動揺激しいご両親のために、原因を探るのだ。当たりをつけた原因を追いつめ謝罪させる。そんなシナリオを、そこまでは描ける。その先は、分からないけれど。


 (苦しさを、罪悪感を、共有させたかった、とか……)


 ハズレではなさそうだけれど実際はどうだろう。木下の考えは木下のみぞ知る、だ。志摩が繰り返し、椿に教えてくれたではないか。勝手に決めつけてはいけない、確認。

 そうであれば椿も、やはり自分がどれほど何をもきちんと受け止めず、惰性に任せ生きてきたかを伝えねばならないと思った。何かしてあげられたのかもしれない、けれど、何をどうしてあげられたのか、分からないのだ。この、本当に残念な自分を、だから木下先輩に見つめてもらえる価値など無かった自分を、伝えなければ。


 「そう…、ひどいな俺。声に出すと改めてひどいな」

 「……あの。僕、木下くん、って、呼んでも…いいのかな」


 木下はのっそりと顔を上げ、戸惑い全開の表情を向ける。志摩も同じく、なのだろう。椿? と呼びかける声は優しく穏やかだが、窺うような緩やかさがあった。


 「どうぞ…、てか。え? 雨宮はどこまで律儀なの? 俺らタメなんだし別にそこは雑でよくね?」

 「むしろ俺のこと最初から “志摩” って呼び捨てだったんだけどそこんとこどうなの? 椿くん」

 「え、あ、し、志摩は…。僕のこといきなり名前で呼んできたから。だ、大丈夫かな、って判断材料があった…、けど」

 「いや、俺だって下の名前で呼んでいいなら椿、って呼びたいとこよ? 響き綺麗だし呼びやすいし…ってほらもう志摩のこの顔! ガキかアホくさ、呼ばねえよ、お前は雨宮のなんなんだ、ったく」

 「木下はクラス違うしねえ、賢い生徒会長様だからねえ、呼びづらいよな?」


 呼びづらさ、は確かにあって、賢い生徒会長様との距離をそもそも詰めていいのか迷ってきたせいもある。木下先輩、という共通項を介してもなお、遠く別の世界で生きているような感覚があった。それはどちらかといえば椿だけが、この世の異端、であるような、そんな諦めだったのだが。

 話が逸れてしまったな、と己の話術のなさを反省しながら、志摩へ目を向ける。微笑みかければ微笑みが返ってくる。それは当たり前のようで当たり前ではない、奇跡だ。


 「……僕、かな、と。思って、しまったので」

 「ん? 何の話? 俺のことどう呼ぶか、はもういいの?」


 木下の頬に薄く笑みが戻って、それはどことなく幼さも連れて来た。

 そう、木下のことをどう呼ぶか、は今はいいのだ。肝心なところはそこではない。頷きをひとつ返しながら、どこからなぞればいいんだっけ、と話の流れをおさらいした。


 「……僕は、話すのが下手なので。上手く伝わるか、不安なんだけど」

 「だぁーいじょうぶ! 寮の門限までまだだいぶ時間あるから、椿。ゆっくりでいいよ」

 「いや、そこまでかからないと思うけども」

 「茶々いれんなよ、志摩。雨宮の話が進まねえだろ」


 ふ、と笑いを挟ませてもらって息継ぎが楽になる。


 「……二人に、どれだけ否定してもらっても、やっぱり僕のせいかも、という考えはゼロにならない。木下くん、が、僕のせいにしたかった、っていうの、は」

 「ほんと、ごめん。マジで」

 「や、あの…、一理あると、思ってる」


 木下くん、と呼んだ自分のぎこちなさが歯がゆい。昔からそうだ。誰かとの会話のチャンスを活かすことも広げることも出来ず、もじもじしていただけの子ども。どれほどたくさん本を読んで語彙が増えても、使う機会がなければ宝は持ち腐れる。経年が幾分、滑らかさを加えたとはいえ、椿はいつも話すことに気が抜けない。不思議なことに志摩との会話は気が置けないのだが。

 一理? と上がった語尾が、木下の疑問を表している。


 「その、信じてもらえるか分からないけど、木下先輩を傷つけるつもり、とかはまったく無かった」

 「うん。そうなんだろうと思うよ」

 「だけど、だからってじゃあ、何か別のこと、ちゃんと考えてたか、というと…正直、何も、考えてなかった」

 「もう少し、話して? 椿」


 意味が分からない、とはっきり言ってくれても構わないのに。理解しようと前のめりになってくれる志摩のことも、真正面でじっと待ってくれる木下のことも、椿にとっては本当に奇跡のようだった。


 「描いてもらってるなんて…気づきもしなかった。気づかない、って本当に、ひどいことだと思う。どうして噂になるんだろう、とか…考えればよかった。他の人には、僕と木下先輩との距離が、すごく近く見えたのかもしれないし」

 「うーん、でも気づけないこと、ってあるじゃん? そこに椿の非はないと思うんだけど」

 「それとも、気づかないフリ、だった?」


 木下の物言いはとても淡々としていたせいか、刺々しさも責められる感も無かった。首を振り、違う、と伝える。


 「本当に、気づかなかった。そもそも僕、あんまり周りに興味がなくて。こんなこと言ったら怒られそうだけど…、ほんと、死ぬまでの時間を、ただ過ごしてるだけ、というか。どうでもいい、ことの方が、多い」


 現在進行形を使いながら、でも志摩とのことは違うのだ、と。誤解を恐れる自分がいる。志摩へ寄せる好意が他と違うなんて、それくらいは分かっている。それでも木下の手前、そんな差を見せつけていいのかと迷う自分もいる。

 明らかな反応もなく黙してしまった志摩へ、どうか確認して、と。視線にそんな願いを籠めた。


 「……何か、具体的にしたわけじゃないけど、先輩に。だけど、何もしなかったのも、同じくらい罪なのかな、って。僕がこんなじゃなかったら、違ったのかもしれない」

 「雨宮……」

 「後悔なんて、絶対する。分かってるんだ、ずっと前から。だけど、変えられなくて、自分のこと。ぐだぐだ考えてばっかりで、結局 どうしたらいいのか、分からなくなる」


 嘆息して窺い見るも、木下も志摩も同様に頬杖をついて椿をじっと見つめているだけだ。

 きちんとまとめることも出来ないまま語り始めてしまったから、つまるところ何なんだ、と俯瞰して嘲る自分がいる。どうしよう、これは愚痴となんら変わりなかったのではないか、言ったそばから後悔が押し寄せた。


 「ご、ごめん…、あの。別に、御託並べて、僕は悪くないとか言うつもりはなくて、」

 「うん。そんくらいは、分かってるよ雨宮。でもやっぱ、雨宮だけが全部悪い、ってのも違うから」

 「両成敗?」


 端的に差し込まれた志摩のひと言は、こんな時に使っていいんだっけ、と疑問符を連れて来もしたが、いいのかもしれないと思わせる柔らかさもあった。木下が、いいなそれ、と言ったから、もう「違う」とは言えなかった。


 「椿ひとりで全部、背追い込もうとするのは違うだろ、言い方悪いけど思い上がりもいいとこ。かと言って木下が可哀想な身内ヅラする資格なんてないからな、ハルカくんにもちゃんと謝れよ」

 「分かってるよ」


 そして志摩はもう一つ分かっているのだろう。


 ハルカくん「にも」謝れよ。


 そこに椿へごめん、と繰り返した木下の潔さを志摩はきちんと認めているのだ。

 志摩はきっと、その表面的にはぞんざいな言葉遣いの中へ、自身の想いや考えを出来る限り含められる一語ずつを厳選しているのだ。考えすぎかもしれないが、志摩が有限の生を意識しているように思えて仕方がない。そうして椿自身の杜撰な生き方が恥ずかしく思えて仕方がない。

 変わりたい、と思う。

 何度も何度もそう思ったはずなのだ。今度こそ、と誓うように自分へ言い聞かせた。


 「ハルカくんの考えてることは、ハルカくんにしか分かんないだろ。目ぇ覚ましたら教えて、また来るし」


 志摩はそれを座右の銘のごとく繰り返す。決めつけるな、確認。そうぴしゃりと言い切った志摩はとても正しい。


 「志摩が? 雨宮は? つか俺、お前の連絡先知らんし」

 「知らんでもいいくらいご近所だろ、歩いて来いよ。椿もちゃんと連れて来てさしあげますー」

 「ああうん、それなら」

 「なに? その志摩はどうでもいいんだけど的な扱い」

 「いや、俺ちょっと今日 感動よ? 雨宮とこんだけ喋って。兄貴ネタっつーのがね、重かったけど」


 感動を与えたつもりなど微塵もないが、それでも向けられたストレートな表現に居た堪れず、椿はぺこりと頭を下げた。

 頬杖をついていた木下の片頬はところどころ赤みがさしている。そこをぽりぽりと指で掻く木下にじっとこちらを見つめられれば、志摩がはあっ、と大きなため息をこぼした。


 「ちょっと、木下。駄目だから。この次は椿とキャッキャワイワイお話しようとか許されんから」

 「だってなんか、独特で面白いじゃん雨宮の世界観。そこいらにちょっといないタイプだし、もっとつつきたくなるというか」

 「駄ー目ーだーかーら! 椿に勝手に近づくなよ、椿も拐かされんなよ!」

 「応用力あるね、志摩」


 最初に立ち上がったのは木下だった。かたん、と木製の椅子がリノリウムの床を打つ音がやけに耳に残る。ふと高窓の向こうへ広がる空へ目を遣れば、夕暮れのオレンジがゆったりと流れていた。


 「じゃあ、雨宮。また明日、委員会あるしな」

 「あ…、うん。明日」

 「俺! いるだろここに! 椿の真横に!」

 「ああいたな志摩。無駄にデカすぎて視界から消してた」

 「やっぱお前のことキライー」


 さよなら、らしき言葉も交わさず、すたすたと来た道を戻る志摩の背中を見、木下を見る。ヒヒ、と奇妙な笑みを口元へ湛えた木下はひらひらと手を振っていた。もう一度ぺこりと頭を下げ、慌てて志摩を追う。

 エレベーターは下向き矢印のボタンが既に押されていて、ほどなくやって来た無機質な箱へ乗り込む。扉が静かに閉まった途端、志摩が あのさ、と切り出した。

 ひと呼吸、おかれる間をとても長く感じてしまう。それは嫌な予感のようでもあり、期待のようでもあった。


 「椿は…、俺にも、まったく、興味ない?」

 「ああ、良かった」

 「は? 椿?」

 「確認して欲しいな、って。思ってたから」


 下降する力に添うように胸をなでおろした。ほ、と息が漏れた瞬間、エレベーターの扉が開く。志摩がゆるゆると先に降り、続く椿を待っている。椿の答えを、待ってくれている。


 「……志摩は、僕にとっても、特別だよ」

 「椿……」

 「あれえ? 志摩くん?」


 語尾の上がる甘ったるい声がエレベーターホールへ響く。清潔な白へ身を包んだ女性が志摩へ駆け寄ってきた。医師にしてはとても若く学生の匂いが消えていない、研修医、というところか。

 明朗快活、が志摩の第一印象であるのは確かだし、この院内でも人気者だと先ほど聞かされたばかりだ。であるにもかかわらず、その女性が距離を詰めてきた瞬間、志摩は随分と不機嫌さを露わにした。左胸の名札に「本多」とある。

 久しぶり、と本多の指が志摩の二の腕に触れる。目にした途端、胸元へ痛みが走った。凝視してしまって、でもすぐに耐えられなくなって、視線を逸らす。その理由も原因も考えたくなかった。


 「来てたんだ? 連絡くれれば良かったのに」

 「は? 別にアンタに用はねえし」

 「あ、ねえ! この人が言ってたおにいさん? 遠目でも分かったよ、なんとなく似てるもん二人」

 「! な、に言ってんだよ、」

 「えー、だって検査に来たんでしょ? でも梶センセ、今からレクチャー…」

 「黙ってろよっ!」


 その声の大きさにびくりと震えたのはむしろ椿の方だった。荒ぶる志摩を目にするのは初めてではないが、本当に倒れやしないかと心配になるほど激情の迸りが明らかだ。

 対して本多は呆気にとられた様子で、目を瞬かせている。あ、と肩を竦める暢気な様に椿は苛立ちを覚えてしまった。


 「なんか、マズった? あたし、」

 「っ、クッソてめえ、最低だな! そんなんで医者とか名のんじゃねえ!」


 そう言い置くや、志摩は足早にその場を離れる。

 一瞬だけ、椿は迷った。到底理解が及ばない「おにいさん」「似てる」「検査」の意味を、目の前のこの女性へ問うか、それとも。

 迷ったのは、ほんの一瞬だけだった。


 「志摩っ! 待ってよ!」


 追いつくことが正解かどうか分からない。それでも、変わりたいと。今度こそ、と誓ったのはつい先ほどなのだ。

 後悔なんて、絶対する。

 椿は急ぐ志摩の、手を取った。

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