第10話

 スポーツ全般、決して出来る方ではないし走ることも苦手な椿だが、それでも志摩へ追いつくのは容易かった。

 肩で息をしている志摩のそれは、ただ激昂のせいばかりではないだろう。体育の授業を毎回 休む志摩の、理由を椿は知っているのだ。走るというありふれた行為がどれほど志摩の身体へ負担を強いるのか、どれほど危険な状態に近づいてしまうのか、椿は知っている。


 「志摩」

 「……離せ、椿」

 「嫌だよ」


 椿のそんな断言を予想していなかったのか、志摩は瞠目して振り返った。僕は今、どんな顔をしてるんだろう。今にも泣き出しそうな志摩を見つめながら、椿は考える。志摩の瞳に映る僕の表情まで手に取るように分かればいいのに、と。


 「嫌だよ、志摩。離さない」


 一語一語に想いを籠め、椿は繰り返す。それでもやはり志摩の翳りは消えなくて、どうしたらいいのだろうと心細くなった。途端にもう、志摩は僕の前で笑ってくれないのではないか、と。そんな恐怖が喉元へ嗚咽感のようにせりあがる。今この手を離したら、二度と志摩に逢えなくなりそうで、それが怖くて仕方がない。


 「志摩のこと、好きになりすぎてない。一緒にいられるよね? 僕は、傷ついてない。だから志摩、」

 「……今からだよ」

 「え?」


 本当のことを言うならば、なんとなく頭の中で描いている図式があるのだ。いつだったか、誰からだったか、「二人は似ている」と言われた時から、ずっと思考を逸らし続けてきたのだ。椿はあまり自分の顔を鏡に映さない。自身が忌み嫌われる原因でもあったそれを、自分で愛でることなどなかった。だから解らないふりをしてきたのだ。フローチャートをたどった先にある正解は、きっと積もった椿の疑問に応えるものなのだろう。


 何故、志摩は僕なんかと。


 その卑屈な自問は常に椿の傍らにあった。志摩の朗らかさや優しさをホンモノとして、信じこんでいられたらと思っていた。


 「……今から、俺は椿を…、傷つける」

 「……そう。いいよ」


 志摩はとても苦しそうに見えた。変わらず肩を上下させながらゆるりと視線を逸らしていく。呼吸の荒さは、先ほど怒り昂り、身体へ負担をかけたせいかもしれない。志摩の額に滲んでいる汗が気になった。

 ここで万が一、志摩が倒れても病院の目の前だ、椿がひと声叫べばすぐに誰かがなんとかしてくれるだろう。でもその“誰か”があの本多という女性だとしたら、志摩が気安く触られるのはなんとしても阻止したい。そんな自分の不純さはこの場にとてもそぐわない勝手さだけれど、本心だった。


 「……ウチ、」

 「……え?」

 「姉ちゃん、呼ぶから…、ウチに、来て。椿」


 これから、今から椿を傷つけると言い切った志摩なのに。ひとつ、大きく深呼吸をすると、そんな風に弱々しく吐き出しスマートフォンを手繰りだした。ここに来て、ホームに招かれる意図が透けて見えない。椿にとっては確かにこの上なく居心地の悪かろうアウェイだが、そこは志摩自身にとても近い懐だとも言える。そんな場所で椿を傷つけたとしても、志摩までもが傷つきかねない。だとしたらあえてやろうとしていることか。すべてがとてもちぐはぐに思えて、ともすれば苦い笑いがこみあげそうだ。


 「……どこでもいいよ。僕は」


 蒼白い顔色は志摩を今にも泣き出しそうに見せている。いや、本当に泣き出してしまうかもしれない。そうなった時に差し出すべき自分のハンカチは、ついさっき自身の涙を拭ったばかりだ。そういう馴れ合いを、志摩は嫌がるだろうかと、どこまでも志摩に嫌われたくない想いが椿をぐるぐる振り回した。




 「……爽ちゃん!」


 さほど間をおかず、病院前のロータリーへ軽自動車が現れた。車内の、運転席から降り立った女性は、「タクシー乗り場」とある掲示の傍へ蹲る志摩を見つけると急ぎ駆け寄る。椿は小さく頭を下げながら、ああ確かに似ていないな、と納得した。そうして、僕の方がよほど似ているのだろうと自ら事の真相へ近づいていく。

 志摩の、すぐ上のお姉さん、なのだろうか。それとも長女、にあたる人なのだろうか。爽ちゃん、という愛称は十七歳の志摩をひどく幼く感じさせたが、そこにはもうどうやっても今さら変えられない、長い時間の積み重ねがあるようにも思え、椿はこの女性を恐らく長女だろう、と見立てた。

 椿を見とめるや息をのみ、一旦は志摩へ落とした視線をもう一度、何かを振り切るようにきちんと椿へ置き直した様は、とても大人びて見えた。瞬きを数回繰り返し、腰を折って椿へお辞儀をしたその女性は、そのままの流れで跪き、志摩と目線の高さを合わせる。


 「……大丈夫? 梶先生のところには?」


 こんな風に優しく温かく穏やかに、労りの言葉をかけてもらえたなら。いや、もらえてきたなら、と椿は思い直す。それは自分の中に正しく積もって、やがて自身のみに留めておくには勿体なくなって、そうして他の誰かへ手渡されていくのだ。

 志摩を、優しい、と感じるのは、勿論 持って生まれた生来の気立ても大きく影響しているだろうが、志摩の成長過程には常に目に見え、耳に聞こえ、手に取れる優しさが存在していたのだと思う。人間は所詮、自分が見聞きし感じ経験して蓄えた程度にしか、他者へ与えることが出来ないのではないか。或いはそれらを反面教師とするか。だから、と結論づけるのはあまりに責任転嫁かもしれないが、椿があの母親から手渡された優しさなど、欠片もない。温もりも、思いやりも。せめて誰かを怖がらせたり、困らせることがないように、自分が向けられて嫌だったものを誰かへ向けることがないように、ひっそりと隠れるように生きていくことがせいぜいだった。

 たとえ、顔が多少似ていても。

 志摩と椿は、あまりに違う。


 「……いや。大丈夫、帰れる…、一緒に」

 「……雨宮くん、も?」


 自己紹介など、していない。椿はこの場で、まだひと言も発していないというのに、「あめみや」と、そこまでも正しく名前は知られているのかと奇妙な感覚に襲われた。

 たとえば志摩の自宅へこのままお邪魔したら。抱くのは疎外感以外の何物でもないだろう。そんな中にあって椿は自分が言いたいことのひとつも言えないだろうと容易に想像出来たし、それで志摩は良いのだろうかと迷う。

 明らかに傷つけるつもりでいる者と、傷つけられると分かりきった状況へ自ら飛び込む者と。その関係性も奇妙極まりない。ただ、下手に抗ってこれ以上志摩を苦しめたくない椿がとるべき行動など、決まりきっている。だから、と椿は重い口を開いた。


 「……すみません。お忙しい時間帯に、お邪魔だと…思いますが」

 「……バレたんだ椿に。つか、バラしやがったあの女、勝手に」

 「あの女、って…、ああ」


 志摩の姉にも心当たりがあったのだろう、苦々しく口元を引きつらせるとほう、と小さくため息を吐いた。


 「……バレることに…、なってたんじゃない? 爽ちゃん。そういう風に、なってたの。私はそれで良かったんだと思うわ」

 「……かもな」


 半ば笑うように決めつけた、志摩の姉の言葉は「良かった」と肯定的な安堵で締めくくられた。志摩はひとつも否定せず、するりと受け容れている。反論する力もないのだろうか、どこか寂しく笑みを浮かべた志摩の横顔は、確かに安心した風でもあった。

 大きく大きく息を吐き出し、志摩はそろそろと立ち上がる。


 「……椿。超絶嫌だろうけど、これから、ウチ」

 「……嫌ではないよ、僕は」

 「……そうだな」


 それまでずっと椿から目を逸らし続けていた志摩だったが、一瞬 きちんと視線を合わせてきた。口角を、上げようとしたのだろうが、表情筋はてんで志摩の司令を無視している。微かに震えたそこは、志摩を一層 泣き出しそうな顔へ変えただけだった。


 「俺が、超絶嫌なんだわ。椿と、こんな風にしてられんの、最後かあー、って思うと」

 「志摩……」

 「分かってた、いつかは、こんな風になるかもな、って。覚悟決めてたけどさ、こうも他のヤツからいきなり向けられんのって…、マジ最悪」


 いつもの陽気さなどどこかへ投げ捨てた志摩が、そう暗く言葉を落としながら姉の車へ乗り込む。軽自動車ながら後部がスライドドアの車内空間は志摩の長身を難なく飲みこみ、続け、と言わんばかりに椿を誘う。

 志摩との正しい距離感が分からないまま、椿はシートへ背を預けることもなく硬い姿勢で座り、窓外で虚しく流れる景色を流し見ていた。

 これから何が起きるのか、何を聞かされるのか。まるで何もかもを知っているような自分が可笑しくてたまらなかった。



 見慣れない景色がそう感じさせたのか、車に乗っていた時間はほんの僅かなものだった。志摩、と表札の掲げられた門扉前で左に寄せられた車は、運転席からの遠隔操作で機械的な警告音を鳴らしながらスライドドアが開いていく。

 何となく躊躇って、けれど背後に志摩の圧を感じて、ようやく椿はシートから身体をずらした。降り立つ目線の先には恐らく、志摩の母親だろうと思われる人が立っている。今度は不思議なことにどこか似ていると感じられた。

 目と目が合い、見開かれた双眸はすぐさま逸らされる。初めてではないはずのその経験は、ひどく椿を痛くさせた。想定は出来たはずなのにいたたまれなさが一気に募る。消えていなくなりたい、と感じることも初めてではないはずなのに、何故だろう、胸が内側から鞭打たれているように痛くて苦しい。名のつけようもなく、覚えもないそれをなんとか表現するならば「罪悪感」が最も近いのだろうか。そんな風に何か自分の分かることに思考を寄せて縋っていないと、とてもこの場に立っていられない。

 背中に降り立つ志摩の動きを感じ、何故だか椿は身を硬くした。


 「……おかぁ」


 その呼称はとてもぶっきらぼうに、けれど“思春期で多感なお年頃の息子”にのみ許される独特の愛情表現でもあるように、その場に響いた。椿はまた、自分にはなく志摩にはあるものを数えてしまい苦笑する。なんとか、という体でしぼり出された志摩の声はとても柔らかく、慈しみに満ちて聞こえた。


 「……爽、一郎」

 「……この人だよ。俺の…、半分おにいちゃん」


 ああ、なるほど。

 それが、最初にふつ、とわいて来た感想だった。

 そんな風に、表すことが出来るのか。

 それは、志摩が優しいからなのか。

 玄関先で泣かないで、と母親を諭す姉だという人はしっかりと表情を崩さずにいて、やはりこの人は長女なのだろうな、と思う。

 

 「……中 入ろう、椿」


 入って、でもなく。入るぞ、でもなく。入ろう、と同じ場所へ帰るかの如く誘ってくれた志摩の言葉に他意はないのだろう。

 家の中へゆっくりと消えていく志摩の母親と姉の背。そこへ続くことを促す静かな志摩の視線。ひたひたと近づく薄墨色の闇が何もかもの輪郭を曖昧なものにしていくというのに、これから椿は、十中八九、己の——のみならず恐らくは志摩家を巻き込んで——出自に関わることを白日の下に晒さなければならないのだ。

 そのあまりの対比がとても皮肉めいて感じられる。どうして僕だけがこんな目に、と生きてきてもう何度目か分からない諦念を呪いのように呟きながら、ゆるりと志摩の後を追った。



 「……椿のことは。知ってた、結構、前から」


 静かに始まった志摩の独白を、遮るものは何もない。通された部屋は掃除の行き届いた広々としたリビング。和風の外観にとても良く合う目線の低い居心地の好い空間だった。脚の低いソファへ座るよう案内された椿であったが、素直に腰をおろすことが出来ず、ローテーブルとの僅かな隙間へ身体を滑りこませ正座をする。志摩も、志摩の母親も姉も、息をのんで何かを言いかけたが、結局のところ誰も何も口にしなかった。ぼんやりとした視界の隅でその様子をとらえながら椿は、変に気を遣わせてしまったことを後悔しつつも、居ずまいを正して聴くべき内容のはずだから、と正論で打ち消す。とても寛ぎなど、許されない。そして多分、足の痺れなんて感じられない。


 その硬質さを和らげるような木製のテレビボードへ鎮座する大型の液晶テレビは、勿論 スイッチが入る様子などない。ちらりと見遣った真っ暗なディスプレイが映し出すのはとある家庭の一コマだろうが、椿だけが異質な存在としてひどく浮き立って見えた。むしろ賑々しく音と声でこの場を飾ってもらった方がよいのではなかろうか。フローリングの上へぺたりと腰をおろした志摩の背後に控える母親と姉を加えた「志摩家」という絆を前に、対峙するつもりなどこれっぽっちも無いが、知らず土下座さえしてしまいそうになる。


 「……中学の、終わりぐらいか。骨髄移植を、考えて。バンクに登録しよう、って話になって。でもその前に血縁者の中に適合するヤツがいないか、ちゃんと検査しとかなくちゃ、で」


 淡々と事の流れを紡ぎながら、志摩は一旦 息を継ぐ。恐らく無意識の行動だろうが、ちらりと母親へ視線を向けた。

 こみ上げる情は、“気の毒”という名称で合っているだろうか。椿はぼんやりと考え、いや、と思い直す。それは志摩へも当てはまるのかもしれない。

 検査、の内容が何をどこまで詳らかにするのか椿は知らないが、この家族がそれまでのように清く正しく疑いもなく家族である、と。根拠もなく信じていられたはずのそれが、ある日突然、そうではなくなったのだ。とはいえ、と椿は思う。母親は、流石に知っていたのではなかろうか。誰が、真に、志摩の父親かということを。それは墓場まで持って行けるはずの秘密だったかもしれない。だとすればやはり気の毒なのは志摩も同様、である。心優しい彼のことだ、自分の病気のせいで、などと考えても詮無いことをきっかけとして苦しんだに違いない。


 「適合の確率は、そもそもそんな高くないんだわ。姉ちゃんらと俺とじゃ四分の一とかで…、って知ってるかこんなの」


 こくり、と小さく頷いて、椿は考える。志摩は本当に僕を傷つけるつもりなのか。

 正確なところ、DNAとはまた違うものだろうが、父親からと母親から、二分の一ずつもらう遺伝的要素を掛け合わせれば、同世代に位置する者が有する適合の確率は四分の一。生物の授業で手に入れられる情報だ。

 こんな風に一つひとつを丁寧に紐解いていきながら、志摩は何を示していくのだろう。傷がつくほどの鋭さなどこれっぽっちも向けられていない。むしろ事実として、自身の母親から刃向けられた覚えのある椿には、茶番劇のようですらある。あの時、反射のように自分を庇って利き腕についた傷痕が、何故だか急に痒くなった。制服が長袖である今、肘近くにあるそれは目につかないけれど、ひょっとしたら志摩は何もかもを知っているかもしれない。


 「誰とも、合わなくて…、まぁ期待しちゃいなかったけど。でもおかぁが、泣き出して、急に。父親が違うんだ、って。俺、だけ」


 ヒントとなる点は、きちんと散りばめてあったのだ。志摩と、椿の間に。

 僕がつなげたくなかっただけなんだよな、と誰にするでもない申し開きを、椿は心の中だけで独りごちた。

 椿の父親という人は、浮気をしていたのだと聞かされてきた。椿が母親の胎内で息づいているまさにその時間を、配偶者以外とも並行して過ごした不届き者なのだと。好きだった祖父母が——と言うとひどく聞こえが良いが、椿の命を少なからず繋げてくれていた大人は祖父母以外いなかったから——口を揃えて言うものだから、そうなのだろうと信じて疑わなかった。ただ、その相手が志摩の母親だったとは。

 父親のイメージにリンクする“不埒”に類する単語と、目の前でその身体を小さく縮こませている志摩の母親の姿は、とてもではないが等式で結べない。

 椿には知らず ふ、と苦い笑いがこみ上げてきた。僕の父親という人が強引に関係を迫ったのではないだろうか? ああきっとそうだ、そうに違いない、クズで下衆な男の本能は僕の側で引き受けなくては。そう思えてならない。志摩も志摩の母親も志摩家はまるごと、清廉な側へいてくれればいい。志摩にはきっと、そちら側へ在る価値がある。心身ともに苦しんできて、悔しい想いも沢山してきただろうし、何より生きたいと願っているのだ、強く。それに引き換え僕ときたら、と我が身を振り返ればやはり嘲るような蔑むような笑いしか浮かばない。


 「……そん時はじめて“あめみや”って、名前を聞かされた。たぶん同い年の、でも俺のおにいちゃんがいるんだ、ってことも…。調べて、分かった」


 調べて、という言葉に椿が固執するならば、椿を傷つけようとする志摩の目論見は成功と言えるだろう。すべては操られた運命で、偶発的な出来事など本当は何ひとつ無かった、そう言い切られたも同然だ。そこに明確な目的と計画があって、志摩は椿との距離を詰めてきたのだ。椿が通っていることを解った上で、志摩は今の高校を選んだのだ。クラスの割り振りへ一生徒の希望が考慮されるとは思えないが、高野と志摩の仲の良さを考えると、あながち可能性がゼロと言い切ることが出来ない。

 今となっては何もかも、どうでもよいことだが。


(……何もかも。そうだ)


仕組まれた、などというと、椿がまるでどこかの国の要人でもあるかのようだが、そういうことではない。あまみやなのか、あめみやなのか、どっちなの? と問われたあの瞬間から周りにきちんと布石が打ってあって、自身はすっかりその中へ囲われていたのだ。愚かにも、気づかぬうちに。父親の浮気相手についてもそうだが、人間は意外なほど、韓流や昼ドラのように劇的な展開が、ある日突然自分の身の上にもふりかかるとは考え及ばぬものらしい。


 ふは、とため息に近い笑いが音となって出る。何が気に入らないのか自分自身でもよく分からぬまま、何もかもが突然どうでもよくなった。


 身じろぐことすら本来許されないような重く硬い雰囲気の中で、椿の笑い声だけが場に残る。それはひどく乾いて響き、恐ろしく異質だった。話の途中で視線を絡ませることのなかった志摩が、見開いた瞳で椿を見つめてくるのが分かる。その目の縁はほんのり赤く腫れているように見え、涙を堪えているようだと都合よくドラマチックに解釈してもよさそうだ。そんな志摩の眼力を見とめながら椿は、震えるように溢れる、声だけの笑いを、悲しいかな止めることが出来なかった。

 滑稽だ、と思う。こんな自分が? いや、何も知らなかった自分が? 違う、何も気づかないふりをし続けた自分が、か。


 「……つばき、」

 「回りくどいよ、志摩。生き急いでる志摩らしくない。時間が、もったいなかったんじゃない? 用件だけはっきり言ってくれて良かったのに。僕なんかにこんな…、手間を、かけなくても」


 本当に、良かった、などと微塵も感じないくせに、椿の口はつらつらと言葉を紡いだ。この、醜く渦巻く激情は何だろうと自問する。常なら何かに揺らぐことなく平坦なはずの椿の声を、こうも裏返らせて震えさせるのは何だろうと自問する。

 怒り? だとすれば何に? そもそも怒り、という感情が生まれる原因は何だった? 乖離だろうか? 志摩は、椿が考えていた志摩と、違っていたから? 椿の与り知らぬところで事が勝手に進められていたから? でもそれは僕の勝手だな、とまた笑いが止まらなくなる。

 志摩の真意が、椿の期待を裏切ったから? それもまた僕の勝手だと思う。だろうな、やっぱり、と。志摩の何もかもをニセモノだったと決めつけて、多少強引にでも分かった風に自分を納得させて、今以上の痛みと苦しみから逃れようとしている自分がいるのだから。志摩の傍近く、その居心地の好さを求めたのは自分のくせに。誰から強要されたわけでもない、傷つけられても構わないと決めた上でそこを求めたのは、誰あろう椿自身だったはずなのに。


 だからひょっとするとこの源は、恐怖かもしれない、と椿は思った。遅かれ早かれ、自分は捨てられるから。検査を経て、結果が出て、志摩が必要としているのは椿自身ではなく、椿の中に流れる遺伝的要素のみだ。本体は必要ないだろう。

 己の出自を辿れば下衆でクズな男へ行き着くが、今は感謝するほかあるまい。想像していたより楽しい時間だった。自分の傍らに誰かがいてくれるのは。志摩にとっては「ごっこ遊び」に過ぎなかったのかもしれないが。少なくとも友だちという錯覚を味わうことが出来た。椿がこの先を生きていく上で真に必要だったのかどうかは分からないが、それは死の間際、他のあらゆる真理とともに一瞬で悟れるものかもしれない。


 「……もったいなくなんか、なかった…、俺は、」

 「そう? 別に、適合するかどうか検査受けてみてくれない? って。それだけで、良かったのにほんと。志摩の病気のこと、言いふらしたり、しなかったし。いや、言いふらす相手すらいなかったし。そういうのも、調べて、知ってたんでしょ?」

 「そんな、」

 「で、どうすればいい? 僕は。今からでも、病院へ行く? カジ先生、だったっけ? ああでも、時間外かな」


 志摩は両の掌で頭を抱え込み、ふるふると弱く首を振った。

 血が、巡り過ぎているのか。椿はぐらぐらと揺れるような自分をなんとか支えることに必死だった。否、そんなふりをして何かを強く意識していないと、どろどろとした得体の知れない感情が、或いは口にしてはならない想いや言葉が、もっともっと、と言霊を宿して言の葉となり志摩を傷つけてしまうかもしれないと危うんだからだ。頬の筋肉がひくひくと不気味に痙攣している。もう自分のどこに力を籠めているのか分からなかった。自分が本当にどうしたいのかも。


 「……つばき、」

 「今すぐ決められないなら、連絡して? 僕はいつでもいいよ。志摩に合わせるし、志摩に任せる」

 「っ、なあ椿、話を、」

 「大丈夫、僕は、うん、平気だし。むしろこんな僕でも誰かに何かしてあげられることがある、って、光栄なことだし。だからこれ以上、時間を無駄にすることないよ? 志摩。気を遣って話しかけてくれなくていいし、学校で、ほら、もともと志摩と僕とじゃ、なんかいろいろ、違ってて、申し訳なかったし。もう、無理しなくていいし、やり取りが、どうしても必要ならメールとかでいいし、ああそうだ実委のことも気にしないで」


 縋るような弱々しい志摩の視線がむしろ刺さってくるのは何故だろう。常ならば志摩の方がよほど饒舌なのに、椿一人がまくし立てているこの滑稽さを誰か正してくれないだろうか。志摩が、何かを告げたそうにしているのはよく分かっているのだ。それなのに、椿の奥底に居座る意地の悪さが邪魔をして、その暇を与えぬように口を回らせる。よどみなく、すらすらと、滑らかに。そして、こんな時ばかり。


 「じゃあ、話は、これくらいでいいかな? 寮の門限もあるし、おいとまします」


 もはや椿の視線は志摩へ向かっておらず、志摩の母親と姉をちらりとかすめる程度に動いた。丁寧さを心がけた言葉じりに合わせ頭も下げる。揺れ動いていた身体はそろりと立ち上がってもやはり定まらず、ふわふわと覚束ない。それでも何とか玄関へと足を動かす力が残っていたのは、火事場の馬鹿力的な何かとしか表しようがなかった。こんな自分を、椿は知らなかった。涙することなく、相手の言葉も待たず、言いたいことのみ意地悪く発する自分。ずっと知らないままでよかったのに、とも思う。なんと、後味の悪いことか。


 (……まるで、同じだ)


 向けられて、この身に受けて嫌だった言動を、関係の無い他の誰かへぶつけること、それは確かに椿が最も忌避してきたはずだった。それなのに、母親とまるで同じことをしている。血のつながりとはなんと恐ろしいものか。そうして、思う。今、その大きな体躯を小さく丸め、肩を震わせているこの男とも、血のつながりという点だけでなら、あるのだと。

 志摩との間にあったものは、本当にそれだけだったのか。それだけだった、と椿は思いこもうとした。そうでなければこんな風に悲しく、声もたてずにすすり泣く志摩を、狡いよ、と罵ってしまいそうだったから。


 「あまり泣くと、身体にさわるよ志摩。それじゃあね」

 「つ、ばき、」

 「さよなら」


 うう、と続いた籠る泣き声は、どうやら志摩の母親のものらしい。背を向けていた椿には知る由もなかったが、姉は一人、気丈に振舞っているようだ。お母さん、と窘める声はひどく優しかった。そうして椿へと声をかけてくる。


 「……雨宮くん、良かったら寮まで送らせてください」

 「いえ、大丈夫です。お構いなく」


 それは社交辞令などではなく本心からの断りだった。一刻も早く、独りになりたかった。そうですか、と落ちた、深追いをしてこない姉の引き際は、むしろありがたい気遣いに感じられた。それでもやはり気にはなるのか、玄関へと歩を進める椿の後を静かについてくる。


 「……爽一郎が泣くのは、卑怯でしたね。本当に、申し訳ありませんでした」

 「……お姉さんが、そんな風に言う必要、ないです。志摩を悪く言う、必要なんて」

 「……いえ。だってあの子は、欲張りすぎました」


 もう、この人の言葉へこれ以上、耳を傾けてはいけない。そう理解しながらも椿は、椿の背で佇む、志摩と到底似ていない志摩の姉を振り返った。姉なのだ、この人は。卑怯、と弟へ向けるにはおよそ相応しくない表現を用いながらも、電話一本ですぐさま駆けつけてくれる優しい人なのだから。爽ちゃん、とあんなにも慈しみ深く呼んでくれる人なのだから、志摩のことを本当に悪く言うはずなんかがないのだ。

 それなのに、椿は振り返ってしまった。続く言葉を知りたがってしまった。何かを求めて良い結果が得られた試しなど無いというのに、この家から今の自分は何を持ち帰りたいのだろう。何に救われたいのだろう。きっとこの姉は志摩を庇う。椿がニセモノと決めつけた志摩の本質を塗り替えようとする。そうして椿一人が分からず屋で狭量な無勢となるのだ。だから聴いてはいけないはずなのに、ゆっくりと動き始めた姉の口許から目を離すことが出来なかった。欲張りすぎたのは、椿の方だった。


 「……私達は、無理だと思いました。爽一郎へも、伝えました。あの子はあなた自身から検査を受けてみたいと…、そう、申し出てもらいたいと」


 姉が一旦 息をのみ言葉を切ったのは、椿のせいかもしれない。自分でもよく分かるほどに己の眉間はきつく寄ったからだ。


 「……叶ったじゃないですか」


 ひどい声だな、と椿は思う。こんなにも低い音域を自分が持っていたことにも驚くが、放った力で相手を射抜きそうな乱暴さにも驚きだ。何を言いたいのだこの人は、やはり振り向いてはならなかったと悔いたのは確かだが、それにしてもとても初対面の人ときちんと話をする態度ではない。なりたくなかった人物像へどんどん近づいていくようで、知らなかったこんな自分を本当に一生知らなくてよかったのに、と心底呪う。


 「……友だちになりたいのだと、言っていました。半分だけの、血のつながりに囚われるのではなくて。そこに、無理を言わせるのではなくて。あの子は、あなたが描いた絵を見ながら、そんな風に」

 「……失礼します」

 「不純な目的だけで、あなたに近づいたわけではないんです」


 解ってください、だから許してあげてください、とでも続くのだろうか。それよりも前に椿は、志摩の姉へ向けていた半身を翻し、急ぎ靴を履いた。ほらやっぱり、と己を罵りながら歯噛みする。目的に、純粋も不純もあるものか、と口端が歪んだ。結局、志摩が射たかった的は椿で、それだけのことだ。その中途の標べに「声をかける」「絵のモデルになる」「休みの日に遊びに出かける」などと友だちごっこをよりリアルに飾るためのオプションが手段としてあっただけだ。

 まだ、検査を受けていない。そもそも適合するのかも分からない。それでも椿はなんとなく、他の誰よりも合うのだろうと感じていた。理由なんてものももう、どうでもよかった。そう感じるから、そうなのだ。

 俺のことを好きになりすぎるな、と。志摩は言ったのだった。志摩の姉の言葉に含まれる志摩の真意はどうあれ、志摩は確かに椿の言質をとった。今、泣いている志摩が椿を傷つけたと感じているのなら、そうなのだろう。となれば、そこに涙している志摩はやはり偽りなく心根の優しい好青年なのだろう。 自分の感情も操れず、考えすらもまとまらない中で、しかし椿は志摩をフォローし慰めることなど到底出来ないという断定に囚われていた。本当は、志摩に対して湧き上がるこの激情の根拠をどこまでも深掘りした方がよいのだろう。そうでなければ己を無に帰しこの一連の件について「ふうん、そうだったの」くらいの関心の無さを示した方がよいのだろう。そのどちらへも歩み寄れない中途半端な自分の器。つまり、志摩を失ってしまうのは自分のせいなのか、と椿は悟った。状況を拗らせてしまったのは、素直じゃなかった自分のせいだ。人と正しく関わってこなかった、流されるままに場当たり的な諦めを選んできた自分のせいだ。

 ほんの数時間前、志摩の手を「離さない」と言いきったはずなのに。自分がいくつもに分裂してしまったようで、苦しくて痛くて悲しくて仕方がない。それでも劇的な状況変化など起こるはずもなく、まして椿の胸の内を代弁してくれる誰かもいやしない。


 「ただいまー…、って、あれ? え、っと、え?」


 椿が玄関のドアノブへ触れるよりも早く、ガチャリと大きな音がして木製の扉が開いた。現れた女性は目の前の影に気づくや顔を上げ、椿を見とめ瞠目する。今日一日だけでこの反応は何度目だっけ、とぼんやり思考しながらやはり思った。


 (この人も、似てないな)


 どこまでも志摩を中心として相手を寄せる自分に苦々しい笑いがこみ上げた。どちらかといえば、逆なのだ。志摩が、家族に似ていないのだ。かといって、椿自身を志摩へ寄せることも出来なかった。してはならない気がした。


 「……おかえり、ミドリ。雨宮くん、具合が悪くなった爽ちゃんに付き添ってわざわざ来てくれたの」

 「……お邪魔しました」

 「え、あの、」


 志摩の姉が、おそらく次女であろう“ミドリ”と呼んだもう一人の姉に伝えた言葉は、端的で無駄のない説明ではあるが完璧ではない。頭を下げて志摩家を後にしながら、そんな風に椿は考えた。付き添って、来たのではない。姉の言にかかればふんわりとした優しさに彩られていたが、それとは対極のぎすぎすした居心地の悪さが確かにあったし、「わざわざ」などと椿を持ち上げてもらうのは違う気がする。


 (……そもそも)


 椿は深く、ため息した。あたりには静かな闇がひたりと貼りついていて、椿の吐く息ひとつでその片隅でも捲れ上がるようなことはない。

 よく知らない場所、ということも相俟って、ひどくこの世でたった独りきりのような錯覚に囚われる。拒絶される前に拒絶したくて、それくらいの抗いをみせたくて、椿はスクールバッグからイヤホンを取り出すや耳へと当てがった。


 (……傷ついたのかな、僕は)


 志摩をただ、傷つけてしまった気がしてならない。いや、間違いなく傷つけてしまった。閉じた瞼の裏に志摩のすすり泣く姿が蘇る。瞬間、喉元へ苦いものがこみ上げ、慌ててごくりと嚥下した。

 原因は分かっている。椿の言動が志摩を泣かせたのだ。ただ、理由がよく分からなかった。何故、自分はあんな態度しかとれなかったのだろう。悔いてみても今更だ、そしてこれはただの「ふり」で、本当はなんとなく、分かっている。

 街灯が疎らな住宅街を抜けながら、椿はスマートフォンを手繰る。背面のライトが灯り、数歩分の足元へ機械的な明るさを確保した。


 「……好きに、なりすぎちゃってたのかな。志摩のこと」


 誰に聞かせるでもない呟きは、肌寒さすら覚える夜の風がゆっくりとさらっていく。


 「……そうなんだろうな」


 イヤホンから流れ込む音楽の大音量が椿の声をかき消して、自分の内側へ響かない。それでいいと思った。そうでないと、と思った。耳から取り込んだ情報は脳が理解し定着してしまう。認めてはいけないのだ、もう、どうしようもないのだから。

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