第11話

 

 「あ、ここやったんやぁ雨宮くん」


 のんびりとした独特の口調が椿の名を呼ぶ。科白から察するに椿を捜していたらしい。椿は触れていたキャンバスから指を離す。それは明らかに名残惜しさを表す緩やかさだった。


 「捜してんで? 木下が。明日のステージ進行、もっかい確認しときたいんて」

 「昨日、確認したのにね」

 「完璧主義の生徒会長様やからなあ。とか言いつつー、オレは別に話したいことあるんちゃうかなー、と思てる」

 「……別」


 野口の言葉を捕まえるべきはそこではないだろう。何の話なの、だとか、誰と話したいの、だとか。口に出しかけて止めた。分かっているからだ。「ふり」をしてみたところで辛さも苦しさも痛みも変わらない。あの日からずっと、それは変わらない。


 「……志摩の経過のことなら。本当に分からないんだけどなあ、僕は」

 「んー。まあ、誰かと共有しときたい心細さってあんねやろ」

 「……心細さ、…って遠い感じがする。木下くんから」


 あは、と声を上げた野口は美術室から椿を連れ出そうとするどころか、ぺたりぺたりと上履きを鳴らし椿へ歩み寄ってきた。明日の文化祭展示に備え、室内へはパーテーションが所狭しと並べ立てられ、部員各自の作品が掲げられている。今年は文化祭のその先に国際高校美術展も控えていることから、出品を、そして入賞を見据え、それぞれが熱の籠もった出来映えだと言えた。

 つい先ほどまで椿が触れていたキャンバスの下、顧問の楢崎自らが部員ひとりひとりへ丁寧に作ってくれた作品タイトルへ、野口は目を留めている。


 「“幸せの在処”」

 「……うん」

 「……あんな? 雨宮くん」


 なんとなく。

 あ、くるな。と直感した瞬間だった。

 野口の声は、特にトーンが落ちたわけでもなく日常の延長にすぎないのに。纏う空気は、途端に色を変えたわけでもなく相も変わらず柔らかく陽だまりのようなのに。

 椿は、感じてしまった。関係する誰もが、ずっと器用に避け続けていた。


 「結局。志摩っちと、どうなったん?」

 「……え?」


 今度は「ふり」などではなく、本当に分からなかった。志摩が学校へ姿を見せなくなってから、その代わりのように椿の傍らへ野口は寄り添ってくれている。時々、口を開くも声を発することはなく唇を舐めて噤まれる、そんな仕草を何度となく目にしてきた椿だ。さすがに野口が言葉にしたい何か、があるのだろうと察せられた。察してきたものの、それは真相を究明したい問いかけなのか、はたまた新しい情報の伝達なのか、までは手に取れず、ただタイミングに任せるように放置してきた。

 それが、今の、これ、なのか?

 野口の指す“どう”を、直截的に捉えることが正解なのか? いや、そもそもどうなるも何も、その前提は何も無いと思うのだけれど。


 「……意味が、分からない」

 「これ。この絵のモデルさん、志摩っちなんやろ?」

 「……そう、だけど」


 だからなに、とたどたどしく紡ごうとして、椿は止めた。否、正しくは、続けられなくなった。目に入る野口の視線は作品へひたりと置かれ、踏み入ることを許さない瞬間の静謐さがあったからだ。

 作品へ触れないでください、と。そこかしこにある注意書きを律儀に守る野口は、キャンバスから一歩、二歩をそろりと下がった。あぁここがええな、と動きを止めた場所までの距離はおそらく、デッサンの最中、椿が一心不乱に志摩を見つめていたそれと変わらない。

 たおやかに持ち上げられた口角はやがて笑みを象り、その表情と変わらない野口の柔らかな声がそっと想いを語りだす。


 「志摩っちが輝いとるわ。この薄ーい青な、なんやさみしい色 使とんなあ雨宮くん、ってはじめ思ててんけど。ちゃうねんなあ」

 「………」

 「空に向こうて、羽ばたいとんのやね。志摩っちが。幸せの青い鳥さんや」


 鳥さん、という言い回しが——おそらくは関西弁独特のアメちゃん、などに通ずるものだろうが——とても愛らしく聞こえ、椿は物言わず考えこんでいたはずなのに思わず笑みをこぼした。


 「え? なに? 雨宮くんの笑いのツボがいまだによう分からんわ」

 「……鳥さん、って。可愛い」

 「ああ、そこなん?」


 あの日からずっと、小さきものを愛でるような温もりや愛しさや慈しみに溢れた情感とはまるで遠いところにいた。


 (ごめんね志摩)


 決して本人には届くことのないそればかりを何度もなんども繰り返した。声にも出せず、ただただ己の内側で。一旦 向けて、放った刺々しさは絶対に取り返すことなど出来ず、まして時間を巻き戻すことなど出来ず、呼吸のひとたびに苦しくなる胸を掴んでは、痛みを和らげてはならないと言い聞かせてきた。明らかな傷痕がいつまでも残るほどに、志摩を抉ったのは他ならぬ自分だ。そうしたかったはずなどないが、結果として椿の手元にあるのは、その事実だけだった。


 何故あんな酷いことをあの時の自分は、と幾たび過去を責めたてても、胃が痛みを覚えるばかりで、ため息しかない。せめて、と投げ出すことを放棄して、なんとか筆を進めてきた。今日まで、たったそれだけしかない。

 遠目から一見すると、椿の作品にあるのはただ志摩の横顔だ。にもかかわらず数歩分、離れたところから鳥さん、を見抜いた野口は洞察力に優れているとも言えるし、制作過程の椿を陰ながら富田とともに見守ってくれたからこそ、とも言える。志摩の横顔は、数えきれないほどの小さな青い鳥を羽ばたかせ、その重なりへ濃淡をつけた立体感によって浮かび上がっているのだ。


 「……羽ばたいて、くれるといいけど」


 得てして世にある作品は、創り手の訴求を反映しているものだろう。少なくともこれまでの椿は、そう考えてきた。親から愛されることも顧みられることもなかった自分が、それでもここにいることを認めてもらえる世界。逃げた先にある安寧の場所で、ただ、息が出来た。生きることに、彩りがあるのかもしれないと、微かな可能性が隅っこにあった。自己表現の手段として、絵を描くこと、が傍らにあった自分は恵まれていたのかもしれない、と考えている。世の中にはきっと、たったひと声を上げることすらままならないまま、生を奪われる幼き生命だって多くあるのだから。そんな比べ方が正しいとは思わない。そしてその手段を、結局は承認欲求を満たすに留まってきた己の幼稚さも、正しいとは思わない。


 だからこれは、贖罪だ。

 あるいは、志摩への永遠なる訣別か。

 いずれにしても椿の一方的な心情を、上手く言葉に出来ないからこそ、描いた。

 どうしたって、美しく収まりきれないのだ。無論、椿の圧倒的な技量不足が災いして、本当に描きたかったものはこれだ、と明言出来ないことは分かっている。それでも、籠めたつもりだった。

 釘を刺されたにもかかわらず、志摩を好きになりすぎていた自分。友達「ごっこ」だとどこか冷め気味に俯瞰しながらもホンモノを諦められなかった自分。何をも望まない、ただ「死」までの日々を淡々と生きていたはずの自分が、ある日、多くを欲し始めてしまった。

 まるで、と椿は思う。「因幡の白ウサギ」の話が浮かぶのだ。ワニだったかサメだったか、或いはシャチだったか。向こうの島まで自分の背を、一、二、と数えながら楽しげに飛び跳ねていたウサギが、実は目的を果たすために自分を利用したのだと、騙されていたのだと覚った刹那。凶暴で残忍な一部分を剥き出したあの生き物に、それこそ椿は似ているのではないかと思うのだ。己のすべてを先天的な因子に擦りつけるつもりはないが、それでも眠れる本性に寒気がする。皮こそ剥ぎ取らなかったものの、きっと志摩は痛くて痛くてしくしくと泣き続けたことだろう。


 (……可哀想な志摩)


 やはり、と言うべきか、哀しく予感した通り、HLAの型は志摩の家族の誰よりも椿が適合した。後見人として姉のスミレも交え、コーディネーターを中心に骨髄提供の段取りが淡々と進められていく中で、椿はもはや申し訳なさしかなかった。合わせる顔などなく――実際、志摩とはあれきり一度も会っていない――ずっと俯いたままでいたように思う。こんな自分の一部分が、これから先、志摩 爽一郎という人間をつくっていくのだ。それこそ彼の血となり肉となり、志摩の生を繋げていく根幹となるのだ。


 (こんな僕が…、だ)


 これが志摩ではなく見ず知らずの誰かだったならば、その幸せをもっと上手に願えたのだろうか。もともとの卑屈さに加え、取り返しのつかない志摩への仕打ちが椿の後ろ向きさに拍車をかけた。そんな鬱々とした時間の過ごし方が作品へ恐ろしく表れていると思っている。デッサンの時点では本物の志摩が視界にいて、その美しき蒼を塗り重ねた輝かしい完成形を椿は確かに見ていたはずなのに、出来映えは程遠いと感じていた。


 それなのに、よもや生きる歓びを、生命の息吹を、心地好い鳴き声で高らかに歌いあげる、かくも前向きな所感をもらえるとは考えてもみなかった。しかも野口は、どちらかといえば椿と距離が近い人間だ。ここのところの椿を、傍近くでずっと見てきたはずなのだ。それなのに、ともう一度、野口をぼんやり視界に置きながら考えた。そういえば、顧問の楢崎も、嬉々としてタイトルカードを作ってくれたのだった。椿が告げた命名の、第一案は素気なく却下されたのだけれど。


 「羽ばたくて絶対。志摩っち、今ごろめっちゃ元気になってんやないかなあ」

 「………」

 「野口、雨宮のこと連れて来てくれるんじゃなかったのか」


 突如現れた野口以外の存在に、弾かれたように身体が震えた。凛としてよく通るその声は、姿を見る前から木下のものだと分かる。


 「人聞き悪ぅ、木下。雨宮くんとちょこおっとお話してから連れてこ思ててんて」

 「んだよ。俺だって雨宮とちょこおっとお話したいっつーの」


 それまで教室の、出入口から顔だけを覗かせていた木下だったが、まるで邪魔するよ、とでも断るように軽く手刀を切り距離を縮めてきた。じゃあ今この瞬間から、と約束したわけでも何でもないが、木下の口調も態度も、病院での一件以来、随分と近しい。


 「なんや、やっぱ口実やったん? 明日のステージ進行最終確認」

 「あんなの、雨宮だったら一発で暗記出来んだろ」


 木下は、椿を見ることなく椿を語り、その視線をじっと完成作品へ留めている。鑑賞されるためにそこにあるわけなのだが、よもや自分の作品がこうも間近で真剣に見つめられるとは。聡い人間には何かを見透かすような力があるのでは、などと疑いたくもなり、気恥ずかしさが血流にのってざわざわと全身を駆け巡る。そうしてやはり、木下の端整な横顔も何かを言いたげなのだった。


 「……志摩ん家の箝口令は相変わらず厳重よ。もーマジ、俺すっげ近所なんだけどね? アイツが今どうなってんのか全っ然分からんくて」

 「……それは、僕も、」

 「だから。家 行ってきたのね、俺」


 わお、と間の抜けた野口の感嘆が、今の椿にはひどくありがたかった。この場を沈みこませないためのわざとらしいリアクションなのだろうと、推測できる程度には野口という人物を掴んでいる気がしている。


 「どやった? 会えたん? 志摩っちと」


 木下は口の端にほんのり笑みをのせて首肯するとようやく視線を椿へ向けた。

 ああ、始まる。これは間違いなく志摩の話が始まってしまう。椿は知らず、身構えた。知りたくとも知り得なかった——いや、正しくは、怖くて、自分にはその資格がないと言い訳して、手立てはあったのに知ろうとしなかった——志摩の話が。


 「昨日はちょい早く帰れたからさ、兄貴とご近所、散歩してたんだわ。ちっと目ぇ離すとヒッキーだからね兄貴、リハビリ兼ねて。まあ、足向けるわな、志摩ん家の方にさ」


 足向けるわな、の当然ぶりに木下の健やかさを感じ思わず妬みそうになる。そうなりかけて椿は慌てて木下から目を逸らした。馬鹿だな僕は、と己を叱咤する。そんな感情の抱き方は全くもってお門違いだし、もしも分けるならば椿だけが違う側だ。


 「……志摩、は」


 どうしてた? どんな様子だった? 


 ただ、クラスメイトの近況を問うだけだ。だというのに椿の声はひどく掠れて小さく震えた。明らかに緊張を孕んだそれは、椿が志摩を単なるクラスメイトと諦めきれていないことの、恥ずかしいほどの証だと思う。


 「……そうやって、同じこと訊くのな? お前ら」

 「……え?」

 「なのになんでそんな距離とってんの? なんでそんなモダモダすれ違ってんの? なんか願掛けでもしてるわけ?」


 それこそ堰をきったようにあふれ出た木下の質問攻めに気圧され、椿は瞬間、身動きひとつ出来なかった。割って入ったのは野口の声で、ええええ、ちょお待って木下、と若干の焦りが含まれている。


 「やめたげてー! オレもさっき聞いてもたんよ、似たようなこと! オレら二人してめっちゃ雨宮くん問い詰めてるて!」

 「え、マジ?! や、ごめん雨宮、別に野次馬根性で好き勝手根掘り葉掘りしたいわけじゃなくてな、」


 本当にこの二人はどうしてここまで僕に気を遣ってくれるのだろう、と椿は身を竦める。そう胸中で抱える想いは口に出さねば伝わらず、態度で示さねば理解されないままなのだ。きっとそれは志摩が教えてくれたことである。椿は慌てて胸の前で掌を振り、いいよ、と重ねた。


 「……みんな、たぶん、全部を知らないから。だから余計に、気になるよね」


 志摩は入院前、一度だけ教室へ姿を見せたのだと聞いた。それは野口の口からではなく、ひそひそと囁かれる小さな声が遠巻きに椿へ知らせてくれたのだった。椿が骨髄採取前の健康診断のため学校を休んだ数日と重なっていたのは、きっと偶然ではない。

 高野の計らいだったのか、志摩のたっての願いだったのか。急遽 設けられたLHRの場で、志摩は自身がしばらく療養を必要とする病に侵されていることを告げたらしい。夏休みを含め三~四ヶ月いなくなるから、と何でもないことのように語った志摩の相変わらずさに、教室内は静まり返ったと耳にした。とはいえ真の病名は明かさず終いだったようで、噂には尾ひれだけではなく背びれも胸びれまでも、これでもかとつきまとっている有様だ。それでもここ数ヶ月を志摩の傍近くで過ごしてきた椿が、何をも深く問い質されなかったのは、志摩がなおも椿を見捨てず、野口や富田、木下はもとより、中島や高野や、はては楢崎へまでも頭を下げ、椿を守って欲しい、と。優しい包囲網を作ってくれたからなのだ。だから誰も、好奇心を軽々しく突きつけてこない。


 「……志摩の、正確な病名は、知らないんだ。でも、僕は志摩に、僕の骨髄を、提供した」

 「……ドナー登録、とか。してたん? 雨宮くん」

 「いや、それなら提供先は明かされないだろ、普通…」


 各々がひと息をのんで吐き出した言葉に、含まれている思考が窺い知れた。その先を続けることは、他の、その他大勢のクラスメイトが無遠慮に口の端に上らせる下世話さと何ら変わらないと自重しているであろうことも。

 いいのに、と思う。野口とも木下とも、志摩が切に願ってくれたおかげで関係が続いているけれど、支点がいない土壌はあまりにバランスが悪く脆いと感じている。志摩、という人間性があってこそ成り立ってきた環境は、その存在を失ってなお、偽りを加えながら永らえることに無理があるのだ。だから鋭く突いてくれて構わない、と思う。椿の醜さを暴いてくれて、非難されて、責められて、いいのに、と思う。覚悟こそ分からないが、育み方も分からない。どうせ自分は母親のことも、姉のことも、木下先輩のことも。そして、志摩のことも、壊してしまったのだから。

 

 「……志摩と、僕は。半分、兄弟なんだよ。適合、するかも、って。志摩はずっと前から、知ってたんだって。僕は、知らなくて、それを聞いて…、なんて言うのかな、利用? 騙された? みたいに感じて、キレて…、志摩を、すごく、傷つけた。なんかそんな、友達のふりみたいな、手間かけなくてもよかったのに、とか…、とにかく、酷いことたくさん言って、志摩を、泣かせた」

 「雨宮くん…」

 「いや、実際、拒絶反応のリスクは、ゼロじゃないけど、他のご家族より、低くて、たぶん、手術は上手くいってて、志摩は…、げん、元気に、なってるんじゃ、ないかなあ?」

 「雨宮、」

 「ぼく、僕は…、」


 つかえながらもいっそひと息に口にしてしまえば、なんと幼稚な表現で終わってしまうのだろう。キレて、傷つけた。言い回しは他にあるのかもしれないが、事実だ。そして志摩の真意は志摩にしか分かり得ないのだから、志摩の言動にはできる限り触れないようにした。利用、と、騙された、の語尾が上がってしまったのは、むしろ己への問いかけだ。的確な表現が見つからぬもどかしさをそうやって誤魔化した。

 客観的に、第三者の公平な目と立場で、椿の愚かさを突き付けて欲しかった。志摩のおかげで手に出来たものよりずっとずっと多くを、己の浅慮と衝動で失ってしまったのだということを。


 (そしてこれからも失うんだ、たった今からも)


 震える言葉の合間に息を継いで、泣いてはならないと自分を戒め眼に力を籠めた。心優しい二人のことだ、たとえそれが椿であっても、目の前で涙を流されたら言いたいことも言えなくなってしまうだろう。のみこませてはいけないのだ。馬鹿かお前、志摩のことを考えてみろ。ひどいわ雨宮くん、何も泣かせんでも。そんな風に浴びせて欲しい、自虐的だと分かっている、それでも優しさにくるまれて過ごすのは、慣れてなさすぎて辛い。


 「……いっこだけ、ええかな?」

 「野口? なに…」

 「“ふり”…、やないと思うねんオレは。いや正直、オレはそう、思いたいだけかもしらんけど」


 すっかり俯いてしまった椿を下から覗きこむように、野口はその距離を詰めてきた。志摩とはまた少し違った温もりがふわりと近づいてくる。彼のことも「志摩」というきっかけが無ければ、椿はずっと知らないまま無為に一年間を過ごしたクラスメイトの一人にすぎなかったのだろう。

 そんな、勿体無い、もうひとつの自分像をもはや上手く描けない。志摩と出逢う前ならば、それは容易に想像出来たし、それが椿にとっての当たり前で普通だったはずなのに。欲深さを知ってしまった人間の業は尽きない。


 「上手いこと言えんけど。雨宮くんがおって、その向こう側に志摩っちを知ったわけやんか? オレ。友達のふり、とかそんな嘘くささ、よう感じえんかったけどね?」

 「……え?」

 「なんちゅうんかな、俺が椿の一番の友達でおりたいー、みたいな。小学生の独占欲みたいやけどね? 言うたら。でも志摩っちからはそんなんがダダ漏れやったと思うねん、あれ演技やったらオレもうだぁーれーも信じられん」


 確かに、と呟いた木下のひと言は、どこに掛かるのだろう。あ、木下もそう思てた? と続ける野口は、ちゃんと分かっているのだろうが。

 疑問符を浮かべながら、野口の言葉を反芻する。聞き違いでなければ、彼は志摩との関係を、さも椿つながりのように言い表わさなかったか。椿が見立てていたそれとあまりに真逆すぎて、椿は軽く混乱した。


 「アイツ、あんま執着とか拘りとかなかった気ぃするんだよな。来る者拒まず去る者追わず、っつうか、何に関してもサラッとしてた、っつうか」


 木下と志摩は幼い頃から互いを知っているはずだ。志摩の言葉を借りるならば、認知、と、仲の良さ、は比例しないかもしれないが。とは言え、木下は時間を巻き戻して思い返して、そう評する志摩の理由も背景も理解しているはずなのだ。


 「……病気に、なったから。ずっと、生き急いでた、からだよね」


 こんなこと、わざわざつけ加えるまでもない。そうは思っていても、何かを口に出さずにはいられなかった。この話の向かう先が見えないからこその居た堪れなさが手伝っている。

 もしくは、と考える。木下から引き出したい別の言葉がある。そちらの方が自分の真意に近いと椿だけが分かっていた。この自分の、話の持って行き様が、小狡くて嫌になる。


 「そっか。そういう…生き急いで。なるほどね、そうだったんだな」


 腕を組み、静かに過去へと想いを馳せていたらしい木下の視線は、ひたりと椿へ戻ってきた。雨宮、と名を呼ぶ声は、知らず椿の背を正し、先ほどまでとは違った震えが身を走りそうになる。


 「理解の深度は、つき合いの長さにゃ関係ねぇな。お前の方が、よっぽど志摩を分かってんじゃん」

 「……そんなことない」

 「んなことあるよ、あるから、分かんだろ? 生き急いでた志摩が、雨宮には時間をかけた。いや過去形じゃないな、今だってアイツは、雨宮にずっとしがみついてる。たとえ元気になったって、動き出さねえよ。元はと言えばいろいろ包み隠して誤解させるようなことした志摩が悪いけど、」

 「志摩は悪くないよ!」


 思わず木下の言葉を、遮ってしまった。合わせ辛かったはずなのに、射抜くような視線を木下へ向けていた。野口までも瞠目している様子が視界に入り、どこか他人事のようである。衝動は続き、僕が悪いんだよ、と紡いだ弱々しさに野口がことりと首を傾げた。


 「志摩っちも、そない言うてたよ?」

 「あー…、うん。だな」

 「雨宮くんは、なぁんも悪ぅない、て。自分が、雨宮くんを傷つけてもた、自分が悪い、自分はもう雨宮くんを守れんから守ったってー、って」

 「なあ、そんなわけあるか? 例えば喧嘩して、どっちかだけが悪いなんてこと、あんまねえだろよ。兄貴のことだって、そうだったよな? 両成敗、っつったじゃん、悪いことしたらごめんなさい、って基本、確認しただろうがよ」


 声を荒げるでもなく、変わらぬ調子の二人をひどく大人びて感じた。椿ひとりが成長出来ぬまま、取り残されているような錯覚に陥る。


 しま、と声に出していた。

 いつぶりだろう。その名を呼んでも応えてもらえないことを、これほどまでに虚しいと、感じた覚えはなかった。

 志摩、と。もう一度、口にする。

 たった、それだけで、不思議と自分が柔らかくなったように感じた。優しく、穏やかに、ふわりと笑えるような気がする。志摩のように。


 (僕は、どうしたかった……?)


 あの時、何かが確かにささくれだってあんな態度をとってしまった。本当はどうすればよかったんだろう。いや、理想形などこの際どうでもいい、どうせ考えるようには行動出来ないのだ。だとしても、これから先をこのままずっと捨て置くわけにはいかない、それは、じっと椿を見つめる二人が教えてくれている。野口も木下も、一体どんな気持ちを抱え、今日この瞬間切り出してくれたのか。

 このままでいいはずないだろ、そんな風に荒く口火を切ってくれても良かったのだ。不幸な事故に巻き込まれたくらい、あまりに突然、彼らに纏わりついた空気の悪さを、何やってんだよ元通りに、それが無理なら綺麗に片付けろよ、くらい邪険にしてくれても良かったのだ。


 「志摩……」


 椿、と。

 呼び返して欲しいのだ。

 志摩の隣で味わった心地好さを、やはり自分は失いたくなかったのだ。

 木下が、雨宮、と呼ぶ。それも悪くない。でもやっぱり、と知らず順番をつけている己の強欲さに呆れる。


 「昨日は、ホナミちゃん…、一番上の姉ちゃんの誕生日だったんだと。だもんで何時間かだけ、外出許可もらったらしいわ」

 「ほなまだ入院しとるん? 志摩っち」

 「そ。だからな?」


 見舞いに、行こうぜ。


 その、至極シンプルな誘い文句は、とてもとても甘く聞こえた。それと同時に、とてもとても恐ろしく感じられた。じわりと歩み寄る喜色よりも恐怖が優って、咄嗟にかぶりを振ってしまうくらいに。


 「む、無理…、」

 「ふはっ、ほんと、お前ら同じこと言うのなあ。志摩も即答だった、雨宮と見舞い行くわ、っつったら“無理”って」

 「………」


 無理だと口にしたのは自分なのに、志摩の口からこぼれたものも同じだったと聞いた途端、感じる遣る瀬無さは全くもって勝手としか表しようがない。


 「なんで無理やと思うん? 雨宮くん」

 「なんで、って……」

 「志摩っちのこと、泣かしてもたから? 酷いこと言うてもたから?」


 当てはまるのはどちらもだ。椿は急いで頷きを二つ返す。


 「……仲直りは、ね。出来る時にしといたがええと思う。オレは仲直りしとうてももう、相手がいぃひんねん」


 もう相手がいない、という不穏な表現に驚いたのは椿だけではなかったようだ。木下も、まるで先を促すようにその強い眼力を野口へ向けている。


 「いっこ上に兄ちゃんがおってね、オレ。めっちゃ仲悪かってん、いっつもケンカしよって。でも中2の時、親が離婚してもうて、兄ちゃんはオヤジの方、オレは母ちゃんの方に引き取られて、」


 それきりや、と野口は、俯き加減で小さく笑った。笑ってはいるのに、その顔は今にも泣き出しそうだった。途端に、野口に今も兄がいる、という現在進行形の理解は誤りで、兄がいた、という過去形が正しいのだと悟る。

 それと時を同じくして、木下も薄く息を吐いた。驚きにも、困惑にも、それは似ていた。


 「もう、な。最後のケンカとかたぶん、めっちゃくだらん原因やったんよ、よう思い出せんくらいの。でもオレはずーっと後悔抱えとる。ごめんて言えば済むことやったんちゃうか、って。この先どこまで生きても消化不良や、兄ちゃんが生きかえらん限り。あの世でしか、言えんのんよ」

 「野口くん……」


 椿の声音があまりに落ちていたからか、野口はハッと音が立ちそうな勢いで顔を上げると、明らかに失敗したと書いてある表情を見せた。


 「や、ごめ、なに言いよんやろね? オレ。えー、っと」

 「……ごめんね、は。僕の方だよ」

 「ちゃうねん、こないな話 聞かすつもりやのうて、」

 「ううん…。聞かせてくれて、ありがとう」


 なんて能天気な言い草か、と椿は思う。そこまでを言わせてしまってごめんなさい、が正しいのではないだろうかと、迷う自分がいるのは確かだ。

 でも、と逡巡を振り切る。いや、振り切りたかった。今この瞬間から、と勢い背を押されたわけではないのだが、この二人をこれ以上、つき合わせるのが忍びなくなった。こんな自分を終わらせたくなった。理由を探すより速く衝動が椿を追い立てる。

 思いがけない不測の事態、は何も世界中でたった一人、椿だけを目がけて突然降ってくるわけではないのだ。そんな風に野口は、椿を決して責めたりしない。兄の話も、何かを強く意図したのではなく、本当にぽろりと、思い出話の一つがついこぼれ落ちた、そんな様に見えた。それだけに、胸が突かれ鈍い痛みが椿を侵蝕する。

 愚図愚図とひとり、悲劇の主人公ぶる椿を、野口は歯噛みしながら見守ってくれていたのではないか。ごめんね、の一言で、何かが変わる——吉凶こそ分からないが——未来がそこに見えているのに、詫びるべき相手はちゃんといるのに、何ひとつ、動き出そうとしない自分を。

 変われない自分をいつまで呪う気なのか。きっと正しい理由ではなく言い訳を繕うことばかり巧くなってしまって、変わろうと動き出さなければ変わらないのだ、という基本をどこかへ捨て置いていた。


 暮れ落ちる放課後の廊下へ茜色の光が一筋走る。それはいつしかじわりじわりと室内へにじり寄って、キャンバス上の志摩の頬を朱に染めた。誰が指したわけでもないが、椿を含め三人ともの視線がそこへ向かう。

 とても健康的で、艶やかに浮かび立つ志摩の横顔。あえて表情をこれと定めなかったそこに薄白い蒼と薄暮が織り成す眩しさは、人の手で決して生み出せない美しさだと椿は思った。


 「……志摩が。笑ってる」


 ほんまや、と間髪入れず野口が賛同をくれる。うん、と端的に頷いた木下の声も迷いがなく、不意に一筋、椿の頬を涙が伝った。


 「……言えるのにね、僕。志摩、いるのに…、言いたかった、のに」


 笑っていて、欲しかった。ずっと、椿の隣にいて欲しかった。過去形でしか表現できない志摩へ渇望を、今ほど口惜しく感じたことはない。歪む椿の頬を、木下の袖口がゆっくりと撫でていく。泣いてしまった、と恥ずかしさを意識するより先、俺さ、と紡ぎだされた木下の低い声に思わずその顔を見上げた。


 「……ホント言うと、さ。フツーの毎日が延々続くのにウンザリしてたんだわ。正直、兄貴の一件もね、俺、心のどっかで小躍りしてた。うわー、こんなドラマみたいなこと俺の人生にも起きるんじゃん、って」


 頭、オカシイよな俺。


 そうこぼして自嘲する木下へ、野口も椿もかけるひと声の正解が分からなかった。ましてや、そうだねオカシイね、などと軽々しく同意も出来なかった。わが身を抱きしめるように自身の二の腕を抱え込んだ木下は、だって小さく震えていたから。


 「志摩のこともさ。俺らガキの頃から結構 比べられたりしてて…、アイツがなんか病気らしい、って聞いても、なに同情集めちゃってんの、って…。悔しいっつーか羨ましいっつーか、へんに距離とったりしてさあ、あー言ってて俺、サイテーだわ。いや分かってる分かってた分かってたんだけどね」


 木下は何かを払い落とそうとでもするように、両の掌でごしごしと顔を拭い、ふるふると激しくかぶりを振る。そんな木下の逐一を凝視していた野口は、口元に手を当て ふは、とふき出した。


 「なんや、そない完璧でもないんやな? 木下て。安心したわ、コイツ実はえろう歳くっとんちゃうか、て疑うとった」

 「……若輩者です18歳ですー。てか歳相応だろ、どっからどう見てもー。んだよ、フケてるとでも言いたいのか遠回しに野口コンチクショウ」

 「いやいや、ほら! 生徒会長やら責任ある要職に就いとるから出るんやろなぁ思て、ほら、貫禄っちゅうの? 落ち着きっちゅうの?」

 「フォローが必死だなオイ!」


 椿もつられ、口元をわずかに綻ばせる。本当に野口は、場の空気を柔らかくさせる術に長けていると思う。それは単に、彼が関西に住んでいたから、などという分かり易いがまるで意味の無い理由からではなくて、辛く悲しい経験をただそのままにしておくのではなく、ともにあるためには、だとか。二度と同じことを繰り返さないためには、だとか。考えに考えて言動へ移しているからではないのか。


 「だぁーっもう! だからね雨宮!」


 木下はなおもその両頬をごしごしと荒く擦り、気恥ずかしげに俯けていた視線を椿へ宛てた。濁りのない黒の瞳が右へ左へちろちろと動く。まるで人間はこんな風に迷うのだと教えられているようだった。どれほど聡く賢く、人徳も人望もあり、何でも持っていて何でも出来る、木下のように完成形に近い好青年であっても。悩むのだ、足掻いて踠いて、じたばたするのだ。


 「俺は、今回の…、兄貴のこと含めモロモロ、雨宮と知り合えて、良かったと思ってる。お前つながりで志摩とも、すっげえ久しぶりにちゃんと喋れたし」 

 「せやな。オレも雨宮くんいぃひんかったら志摩っちと関わることなかった思うわ。富田かてそうや」


 まただ、と椿は気恥ずかしくなる。そんなはずはないのだ、まるで椿が存在しなければ、志摩と野口の、そして志摩と木下の関係性は生じえなかったと明かされるが、そんなはずはないと断言出来た。野口と木下、富田だってそうだ、彼らの社会性やコミュニケーション能力の高さを思えば、繋がりという糸は特に椿を必要としないだろう。いつか、何かのきっかけで、椿を介さず志摩へと紡がれたはずだ。

 それなのに、と思う。優しさなんて具現化出来るものではないが、確かにこれはそう表現するべきものだろうと感じた。認めた途端に胸の内へ、ぽ、と温もりが宿る。

 野口も木下も、ああそうだそして志摩も、何処でどうやってこんな高等技術を手に入れてきたのだろうと思う。その言動で、声音で、表情仕草ひとつで、誰かをこんなにも温もりだらけにしてしまえるスキル。育てられてきたその過程で、と答えられたならば、諦める他ない椿だが、きっと違う、とすぐさま否定した。今、椿の保護者と呼べる人間は誰もいなくて、その背中を見て自学したり、教え授けてもらえる機会は失したけれど、でも今からでも身につけていけるのではないだろうか。人より随分と出遅れた、それでも自分がしてもらって嬉しかったことをちゃんと覚えていきたい。そうして他の誰かへ受け渡す、真似は出来るはずだ。


 「だからな、俺は、俺の良心の呵責を、軽くしたい」

 「いやそれ、つながらんでしょー木下。なんなん? めっちゃ自己チュー発言が放たれましたけども」

 「志摩がいなくなんのを、ただ黙って見てるだけなのはもう嫌だ。雨宮が泣くの分かってんのに、ただ黙って見てるだけの自分ももう要らん。何か、したいんだよ。偽善とか欺瞞とかネガな言葉はどんだけでも思い浮かぶし、そうだよ結局、野口の言う通り自己チューだよ、お前を、志摩の見舞いに連れてくふりして、俺が満足したいだけなんだよ」

 「おお! 逆に潔ええな」


 発するひと言ごとに鼻息荒く昂ぶった木下を宥めるように、野口がその肩をぽんぽんと撫でる。なんだよ今度は子ども扱いか、と木下は若干うんざりしたように視線を向けるが、野口は意にも介していないらしい。いやオレかてそやもん、とリズミカルな口調が場にさらりと響く。


 「オレと同じような後悔して欲しないなあ、って。言うても傍で見とんのと当事者同士やと、ごめん、ってそない簡単にいかんのやろな、くらい思い遣れるんよ? ほやけどもう知らんわ二人とも勝手にしぃ、ってそっぽ向きたないねん。オレ結構好きやしね、二人のこと。縁起悪いこと言うてまうけど…、志摩っちに万が一のことがあったとして、オレはただ、葬儀に参列した一クラスメイト、とかで終わりたない。なんや、自分が兄ちゃんに上手いこと出来ひんかったんをどうにかしたいだけかもしらん、」


 木下の、野口の言葉は、ただ響きとして椿の耳に入ってくるのではなく、それ以上の想いが強く胸を打った。だから、ひと言ひと言に頷いて、そのたび頬を伝う涙を、流れるままに任せた。抗っても止めようとしても、きっと泣かずにいられない。そんな器用さを椿は知らない。


 「…あ、りがと、う…」

 「ひひ、謝ってもらうとこなんかいーっこもないで? 雨宮くん」

 「そうそう、見舞いに行くか行かないか、俺らが欲しい一択は、」

 「行く」


 いい子、とでも言いたげに、木下は椿の頭をぐりぐりと撫で回す。誰かに触れてもらえる有り難さは、この世にたったひとりではないと御墨付きをもらったも同義だ。志摩も、何かと椿に触れてくれた。過度なスキンシップに抵抗があったはずの志摩。それなのにあの掌は、まるで椿の曖昧な輪郭をリアルに彩っていくような魔法だった。


 「どうしたの? 雨宮」

 「あ、楢崎センセー」

 「え、何、泣いてるの? 泣かせたの? お前達」

 「先生、誤解もいいとこです」


 おそらくは教室を施錠するためにやって来たのだろう。チャリ、と鍵の束を音立てながら、楢崎がいつになく素早い動きで椿の傍近くに寄る。ぼんやりとその動きを視界にとらえていた椿の頬には、涙の跡が残っているのかもしれない。楢崎は視線をそこへ這わすと、眉根を寄せ、木下を見、野口を見やった。


 「泣いてたの? 泣かせてたの? お前達」

 「他に言いようはないんですか、楢崎先生。過去形に変わってるだけじゃないですか」

 「ホンマ、やめといてくださいね? 志摩っちにチクんの。めっさ怒りのスタンプ連打されるわぁ」

 「マジそれな」


 じゃあ何してたのさ、と半ば拗ねたように問いながら、楢崎は椿をのぞきこむ。その距離の近さにたじろぎながらも、椿とさほど変わらない楢崎の身長に、安堵を覚えるのも確かだ。上手く笑えていますように、と誤解を解きたい一心で笑みを浮かべる。ふと見れば楢崎の右の掌にはスマートフォンが握りこまれていた。


 「だって、志摩には毎日逐一報告することになってんの。じゃないとアイツ、イライラしてるガラの悪いウサギのスタンプとか連打してくるでしょ」

 「あ、センセーのとこにも? オレだけか思てた」

 「ホント、雨宮と直接コンタクトとればいいのに」


 ね? と柔らかく求められる同意に、責める気配は微塵も無い。自分は随分と甘やかされている。それは同情や憐憫という、位置として上から放たれる一方的なものではなく、ただただ何の見返りなく、心を配られているありがたさだ。

 応えたいな、と思った。だからこくりと首肯した。瞠目する楢崎を横目に、完成した作品をもう一度、改めて見つめる。


 (……志摩。逢いに、行かせて)


 無理、と。そう、一度は口にした志摩だ。病室を訪ねたところで、やっぱり無理、と重ねられるだけかもしれない。考えたくはないけれど、あり得ないと言い切ることは出来ない。根拠も無く信じていた志摩との絶対的な関係は一旦 無に帰したのだ。修復の見込みがあるのかすら分からない。ただ、小さな小さな欠片に縋るとするなら、「逢いたくない」と拒絶から放たれた「無理」ではなく。「逢わせる顔がない」と引け目が言わせた「無理」であるように、と祈るばかりだった。だって、椿もそうだから。


 「……志摩の、お見舞いに。行きたいと、思ってます」

 「そう」

 「……逢いたい、です。逢って、ちゃんと、謝りたい」

 「それは、凄く良い考えだね」


 楢崎が、薄く笑みを浮かべる椿の横顔を、スマートフォンのカメラ越しに見つめていたとは気づきもしないまま、椿はキャンバスの志摩を見つめ続けていた。

 今ならばなんとなく、この作品のタイトル第一案を却下した、楢崎の意図するところが解るような気がした。あれは、相応しくなかったのだ、と。

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