第2話

 (知った顔だ)


 志摩と椿が座る長机の真正面、司会席へ着いた男子生徒には見覚えがあった。名前も記憶している。彼との関係は、二学年の終わり、他の立候補者に圧倒的な差をつけて選ばれた期待の生徒会長と僕、というだけに留まらない。かと言って直接的でもない。銘打つなら「木下先輩の弟」が妥当なところだろう。向こうも「面倒見の良い兄が気にかけていた後輩」くらいの認識だと思われた。椿は名前さえ、知られていないかもしれない。

 とはいえ一時期、実しやかに囁かれた噂話を彼も耳にしているならば——そして万が一にも噂話だと捨て置いていないならば尚のこと——この集まりへ椿が参加しているのは気持ちが良いものではないだろう。それぐらいを思い遣ることは椿にだって出来るのだ。だから、出席者を確認するように我らが生徒会長様の視線が教室内全体へ行きわたり、椿の姿を認めた途端、見開かれた双眸が素気無く逸らされた瞬間も、椿は自分が悪いのだとしか感じられなかった。


 (……やっぱり、断ればよかったのかな…いや、でもそうしたら)


 志摩にそれこそ迷惑をかけてしまう。つい今しがたお互い様だなんだと偉そうに宣うたばかりだというのに。

 だから椿に出来ることはただ俯いて、彼の視界に存在しないよう気配をもひた隠そうと努めるくらい。しかしその不自然すぎる首の傾きを、隣に座る志摩が気に留めないわけがなかった。すぐさま、どうした? と邪気無く問われる。何でもない、と呟きながらかぶりを振りただ、早く会が始まればいいのに、と強く願った。


 「じゃあみんな集まってくれてるみたいなので、早速だけど第一回目の委員会を始めます」


 力強くよく通る声は、人前で話すことに躊躇いも苦手意識もない、いわゆるデキる人間のそれだな、と椿は思考する。何かしら考えていないとこの居たたまれなさがどうにもやり切れない。自分の思いこみだろうか、とポジティヴ側へ寄ろうとするも、いやあの目の逸らし方は拒絶だ、嫌悪の表れだ、噂の原因である僕を良く思っていないに違いない、とネガティヴ側の決めつけについ引きずりこまれてしまう。


 「文化祭の実行委員なんて、何やらされるんだろう、って心配な人もいるかな。要は裏方さんなんですよね、表だってのオイシイとこは僕ら生徒会が持ってくので」


 ぐっと涙をこらえてサポートをお願いします、などと冗談まじりににこり微笑まれれば、見るからに下級生だろう、頬を染めて背筋を正す姿が目の端に留まった。

 申し遅れましたが、などという立派すぎる前置きは生徒会長の自己紹介に不要だと思うのに彼は、木下 哉太です、と丁寧に名を述べる。そうしてコの字型に居並ぶ全員に同じことが促された。

 椿は思わず眉間に皺を寄せる。自己紹介なんて、いやそもそもかなりの人数の前で声を発するなんて、苦手以外の何物でもない。授業中に当てられて、解答を発表するのとはまた違う。自分のことを発信しなければならないのだ。今すぐここから逃げ出して、寮のベッドで布団に潜り込み、世界との繋がりを全て遮断してしまいたい、そんな大袈裟すぎるほどの衝動に駆られる。じとりと嫌な腋汗をかいていることだろう、制汗剤なんて塗ってこなかったのに。なんだか汗臭いとみんなが互いに目を合わせ、ひそひそと囁き始めないだろうか。


 「椿?」

 「!……、な、に」

 「次。順番」


 ほんの少し視線を上げた先で、志摩の指がひらひらと椿の左隣を指している。反時計回りに巡ってきた自己紹介は、椿の一つ前で不自然に途切れていた。


 「あっ、さっ、三年、一組の…雨宮、椿…です」

 「同じく三の一、志摩 爽一郎でーす。爽は爽やか、って字でーす」


 上ずって掠れ、切れぎれだった椿の声に志摩の、それこそ爽やかなそれがすぐさま重なり、椿は心底 救われた気分になった。聞こえなかった、もう一度、などとやり直しを命ぜられた苦々しい記憶など、もういっそ海馬から抹消されてしまえばいいと願うのに、さもお前を形づくっているのはこんな情けない要素ばかりなのだと見せつけられるように、時折 脳裏でちらつくのだ。



 せめて参加している姿勢は示そうと、椿は椅子の背に寄せておいたスクールバッグの中からノートを一冊、取り出した。ペンケースを開き、愛用のシャープペンに指をかける。裏表紙から一ページをめくり、今日の日付と第一回、を記入し始めた。


 「椿、字ぃ綺麗だな」

 「……習字を習ってたから。というか志摩は僕のことを褒めすぎだよ」

 「何がだよ、事実だろ事実」


 さすがに周囲を慮ってか、小声で話しかけてきた志摩であるが、さらにぐっと声を落とし隣り合わせの距離を縮めてくる。そうして書記係がホワイトボードへ書き連ねた内容をゆっくりと読み上げ始めた。

 本当に志摩は僕の性癖などどうでもいいのだろう、椿は気安い志摩の言動にどこかこそばゆく気恥ずかしさと安堵を覚えながら、要らぬ誤解を招きませんように、と切に願った。それは志摩のためでもあるし、と思いかけて否定する。違う、何より僕のためだ。


 「来週の水曜、四時から第二回目の委員会開催。それまでに各クラスの取り組みを決めることー…えー、うち何にするかなあ」


 ちらりと盗み見れば生徒会長はいつの間にか着座しており、取り組みの詳細について述べている。すっかり場を掌握したのだろう、時折 笑いの要素を交えながら巧みに話を進めているようだ。


 「一つは、体育館ステージで発表するか。毎年、男子校ならでは汚い女装が見物の劇、とかやってくれるクラスがあるよね? 今年も期待してまーす。もしくは自分とこの教室で何かやるか。残念ながら飲食系はNGだよ? 王道メイド喫茶なんてテレビかマンガの中だけだから。一般公開は、あくまで父兄向け。他校の女子と出逢える保証はいたしません」


 この頃になると教室内は適度なざわつきが許される雰囲気で包まれる。現金なことに椿もムードに追従し、ようやく姿勢を元に戻すことが出来た。志摩も声を顰めるのは止めたらしい、どうすっかなー、と暢気な口調で問いかけてくる。


 「今日の様子じゃあ、全員に訊いてもなあ。たいして意見なんか出なさそうだし」

 「……アンケート、でも。取る?」

 「お! グッジョブ椿。それいいわ」


 椿はまじまじと志摩を見据えた。ん? と目顔で反応する志摩を、それでも見据えた。よもや、志摩の考えが皆無だったわけではあるまいに。どうしてこの男は、僕を良い気分にさせるのだろう。そこに何の得があるのか、とはまだ考えたくなかった。


 「……いいの?」

 「積極的に参加したがらないヤツにも関わらせた感は持たせなきゃだろ? そもそも俺らが委員っての認めた時点でクラス全員、関わってんだけどな」

 「うー、ん。でも引き受けたのは、自分だし」

 「どこまで良いヤツなんだよ、椿。グダグダ言うんならテメエらがやりやがれー! くらいキレてもいい権利あると思うわー俺」

 「ふふ。想像出来ない」


 まあな、椿キレたりしなさそう、と返す志摩へ、そうじゃなくて、と反論する。ホワイトボードへ追記された内容を書き写し「アンケート」の文字も加えた。


 「志摩が、だよ。何のかんので暴走なんてしないじゃん」

 「何 言ってんすかアナタ、これからですよ? 臨界点 突破しちゃうからね俺」

 「あ、それから爽一郎、って名前。かっこいいね」

 「うおーい! 脈絡!」


 大丈夫だっただろうか、不自然ではなかっただろうか、普通の会話が成立しているだろうか。確かに志摩のご指摘通り、脈絡に欠けてしまったとは思う。それ以外はどうだっただろう。採点なんて誰もしてくれないと分かっていても、どれくらいの出来だったか客観的な指標が欲しいと望む自分がもはや普通じゃないと知っている。

 褒められて、嬉しかった。この短時間ではあるが志摩は椿をきちんと認め、小さな仕草一つ見逃さず、良い気分にさせてくれた。それをそのまま志摩へ返したいと思っただけなのだ、僕はちゃんとやれていただろうか。

 模倣が上達への一番の近道だと聞いた覚えがある。そんなやり方を同級生との単なるコミュニケーションに応用しようとしている自分が、本当に惨めだ。どくどくと不気味に鳴る脈動はなかなか収まらず、首筋から耳元にかけて変に熱を持っていると触らずとも分かる。間違いなく腋汗をかいていることだろう。


 「一・二年生で文化系の部活動をしてる子たちは、それぞれ出し物があるのでそこらへんは考慮してあげてください。特に吹奏楽部はコンクール出場も控えてるし、ステージ発表も父兄向けのメインイベントなんで。よろしくお願いしまーす」


 じゃあ来週までに決めてきてくださいね、とホワイトボードを指しながら復習を促す生徒会長の姿をさすがのカリスマ性だな、とぼんやり見やる。何の他意も無かったのだが、解散を告げられる直前、椿は強い眼力に捕らえられた。わらわらと他の生徒が動き出す中、ピクリとも動けずにいる椿と、そんな椿を不思議顔で覗き込む志摩と、二人の前に生徒会長がすくりと立った。


 「……そこの、色白二人組」

 「いや、木下。俺らちゃんと名前あるし。なんてくくり方すんの? 失礼な」

 「大丈夫なんだろうな?」


 志摩の言葉を遮るような確認の、具体的な指示語が何なのか見当がつかない。動けなかった理由はそれだけではないが、椿は瞬き一つ落とすのがやっとであった。目の端に位置する志摩の不思議顔はますます深まり、はあ? とぞんざいに疑問符を返している。


 「志摩はしょっちゅう学校休んでるだろう? そっちは…クラスでの発言力なんてまるで無さそうだし。まとめられるんだろうな? ちゃんと」

 「お前な、喧嘩売ってんの? 売られた喧嘩は買う根性だけど俺」

 「はあ? ひ弱なくせに何 言ってんだ」

 「誰が暴力に訴えるっつったよ、口喧嘩ならひ弱も何も関係ねえだろが。それにな、そっち、じゃねえっつの。雨宮 椿だ、って自己紹介しただろ? 覚えとけよ、この腹黒生徒会長が」

 「知ってるよ」


 椿はゆるりと視線を上げた。つられるように、だった。もしかするとそれは木下の誘導作戦だったのかもしれない。志摩は今日、この場での自己紹介に触れたはずだ、全員へ伝えたはずの椿の名前を記憶しておけ、という意味で。それに対する木下の応え方はどうだ。まるで以前から椿を椿と認識していたかのような。

 向けられるのは嫌悪か憎悪か、それとも怒気か。木下の作戦は見事に成功し、いずれにしても椿には相応しいものを浴びせられるのだろう、志摩の、椿に対する扱いがむしろ異例なのだ。

 ところが、椿の視界に映りこむ木下の表情はあまりに弱々しく、思わずうろたえてしまうほどだった。何故だろう、確かに志摩が向けた言葉も口調も荒いものであったが、それほど生気を奪うものではなかったと思うのに。


 「……兄貴と、たまに連絡とか、とってるか?」

 「え」

 

 連絡をとるな、と断じられるのならば、まだ理解が及ぶような気がする。兄を迷惑な噂話へ巻き込んだ諸悪の根源である自分を快く思っていないだろう、そんな推察が根拠である。とっているか、と確認される理由が分からず、椿は二の句が継げずにいた。


 「木下? 何 言ってんの? お前。俺らに何 したいワケ? 嫌がらせ? 委員ならちゃんとやるし、椿のこと困らせんな」

 「……困らせてるつもりはない。むしろ困ってんのはこっちだ」

 「え」


 ああさっきから僕は「え」しか発していない。木下へ良いところを見せようなどとは無理で無駄な足掻きであるが、せっかくさっきは志摩との会話が幾分 上手くいったのに、と同じ土俵に乗りそうにも無い比較をして思考を逸らそうとした。何故、木下の方が困っているのか。僕が困らせてしまっているのか。それは文化祭の実行委員であることと関係があるのか。それとも木下先輩と?


 「兄貴、卒業してからこっち、まるで覇気がなくてさ。生きてんだか死んでんだか、見てる方が気が滅入るっつーか。あんたと絵 描いてた時は楽しそうに見えたのにな」

 「どっか悪いんじゃねえの? 病院行かせたのかよ」

 「いたって健康体だよ。ご心配ドウモアリガトウ」

 「棒読み! 気持ち入ってねえ!」

 「ちなみにちょっと早めの五月病、ってワケでもないから、志摩」

 「お前は人の思考を覗き見してんのか!」


 ちらりと隣の志摩を窺うと、本気で怒っているという風ではない。つまりはこれくらいの軽さで悪口を言い合える仲だということなのだろう、志摩と木下は。そう認めた途端、ちくりと胸の奥が痛んだ。気づかなかったささくれが何かに触れてそうと認めてしまったような。馬鹿な、と思う。何かに期待する愚行を繰り返してはいけない。


 「あんたかなあ、と思って。兄貴の回復の鍵」

 「だからなあ、雨宮 椿、って美しい名前があんの!」

 「だからなあ、知ってるって。俺は賢い生徒会長様だよ」

 「嘘つけ! この腹黒! そして色黒!」

 「うるせえな、俺のは健康的スポーツ日焼けなんだよ。その無駄に良い身体、活かしきれてない残念な色白もやしっ子が」

 「もう帰ろうぜ椿! 馬鹿相手にしてっと馬鹿がうつるから!」


 決して本物の罵り合いではないのだろう、笑いすら含まれそうなそれらを交わす志摩と木下を、羨ましいとさえ思い始めそうな自分に嫌気がさす。

 それでも行動として本当にスクールバッグを手に取った志摩から促され、立ち上がる。志摩と木下の身長差はさほどないのに、自分だけがやけに小さく感じられた。


 「ま、兄貴にたまには連絡してやってくれな。志摩はほいほい休むんじゃねえぞ、雨宮に迷惑かけんなよ」

 「てめ、誰がいつほいほい休んだよ! んっとにみんな騙されてるよなー、こいつの外面の良さにさあ。そう思わん? 椿」

 「雨宮がそんな黒いこと思うわけないだろ。早く帰れよ」

 「誰が引き留めたんですか、って話! まったくー」


 バッグを片手で肩にかけ、ひらひらともう片方の手を振る志摩の所作は、どれも無駄がなくスマートに思える。さすがにこれが真似出来そうとは思えないが。

 椿は、無様だな、と感じながらも、とにかく首肯をひとつ、木下へ返した。連絡をとってみようと思う、という意が木下へそっくりそのまま伝わったかどうか分からないが、賢い生徒会長様のことだ、きっと汲んでくれるだろう。

 斟酌を任せてしまった木下の、瞳に宿った色はどこかしら先輩のそれと似ていた。優しく、豊かな温もりに満ちているそれ。ああやはり、血のつながりがある兄弟なのだな、と思う。僕はまた、勝手な決めつけを繰り返してしまったのか。後から悔やむ、と書くから後悔なのだけれど、先に悔やむであろう未来を見せてはもらえないものか。志摩の背中を追いかけながら、椿はまたふるふるとかぶりを振った。事前に見せてもらえたからと言って、自分が上手に立ち回れるとは思えない。


 「椿、寮生だっけ? それとも自宅組?」


 多目的教室を出た廊下のつき当たり、三学年の昇降口へと続く場所で志摩に追いついた。問いかけに、寮生、と短く答える。さほど急いだわけでもないのに息が上がっていた。椿のそれまでに存在しなかった非日常へ、突如放り込まれたかの今日の目まぐるしさは、椿の周りの酸素を薄くしているような気がする。


 「そっか。俺、自宅組なんだわ」


 門のとこまで一緒行こうぜー。


 その口調の明るさは、先ほど難病を抱えているのだと打ち明けられた時と何ら変わらない。もっと拡げて感じるならば、木下と楽しげな応酬を重ねていた時とも。

 だから、確認する必要など無いように思えた。けれど同時に、どうしてもここで確認しておきたい衝動に駆られた。そうしなければ椿はこのまま、ずるずると醜い勘違いに囚われ続けてしまう。まるで志摩と僕は、友だちのようだ、と。


 「……いいの?」

 「は? 何が」

 「もしも、僕と一緒に帰って、噂にでもなったりしたら……志摩が、嫌な思いを、するよ」

 「はあ? 何だそれ」


 志摩の声音が少し落ちて、椿はたちまち後悔した。ああやっぱり、こんな確認などしなければよかった、怒らせてしまったのか、それとも呆れさせてしまったのか。確認せずとも一緒に帰ることは出来たのだろうし、それこそ僕は誰かと一緒に帰る「普通」を手にしたがっていたはずなのに。

 自分のことを天の邪鬼だと感じたことはないが、それでもすんなりと欲が叶えられるわけが無いと経験から知っている。人間はどこまでも欲深で、でもそのたびに何かを失っていくのだ。代償なしに得られる甘さなんて恐怖でしかない。その怖さには、何とか事前に上手く立ち回ろうとした自分を心底 悔やむ。

 学校指定の革靴を履き終えた志摩の、踏み出した一歩がざり、と濁音をたてた。


 「違うだろ、それ」

 「……え、」

 「嫌な思いすんのは、椿だろ? 木下の兄ちゃん以外と噂になったら困るんだろ」

 「違う!」

 

 声を荒げたことなど恐らく人生初だと思う。ああ僕にもこんな荒れた音が出せるのか、と俯瞰する冷静な自分と、単に怒り、とは表し難い熱がぐるぐると血流に乗り制御しがたい自分がいた。また泣くなんて女々しすぎるにも程がある。ぐっと目を開き、瞼に力を籠めた。視界を水膜が覆い、この俯いた姿勢では重力に逆らえそうにない。先ほど叫んだ拍子に取り落としたのだろう、椿の革靴がころりとひっくり返っているのがぼんやりと映った。


 「腹筋あったのな? 椿。腹から声、出せんじゃん」

 「!……、」


 志摩はしゃがみ込み、腰を落とした姿勢で椿を見上げていた。その表情はおよそ怒りや呆れからかけ離れた穏やかなものだった。ぼんやりと歪んで映るが、笑みが浮かんでいるようでさえある。

 志摩の長い指がすい、と動いて、椿の靴を綺麗に並べた。


 「椿のものは椿のもの。考えも感情も行動も、決めつけられたら嫌じゃね?」

 「……う、」


 うん、と言いかけて、頷くことが正解なのかどうか、と躊躇う。ここで間違ってしまったら、志摩とこの先、挨拶ひとつすることなど叶わないのかもしれない。けれど今日の自分が勝手な決めつけでどれほど悔やんだのか。さっと思いを巡らせて、やはりうん、と頷いた。


 「俺が嫌だと思うかどうか、とか。これからどんだけ仲良くなったとしても決めつけて欲しくないワケ。嫌だ、も好きだ、も辛い、も楽だ、も。俺の気持ちは俺のものだし。俺、サトラレじゃねんだから、椿が分かるワケないじゃんか」


 こくこくと頷いた。ありがたいことに涙腺は決壊せず、また恥ずかしい姿を志摩の前で晒さずに済みそうだ。椿を見上げる志摩の表情は笑顔で間違いなかったらしい。ん、と椿の革靴を指し、履くように促す。


 「そういう時は確認、な? そんなんナシで俺のこと思い遣る体だったろ? そういうの、マジ要らんのよ?」


 両の踵までをきっちりと納めたところで、椿の動きは止まる。半身をこちらへ向けて立つ志摩は、どうやら椿が一歩を踏み出す時を待っているらしい。しかして要らん、という否定的な言葉にびくりと反応して、なかなか志摩との距離を縮められないままの椿だった。


 「俺が嫌な思いをするかもしれない。そう思い遣ってくれたのはありがたいし、嬉しいわ。けど、嫌なはずだ、って決めつけてそっから先、だから一緒に帰らない、って方向に結論出すのは椿の勝手じゃね? ってこと。俺、同意した覚えないしね? 一緒に帰りたいから一緒に帰ろうぜ、ってお誘いしてるんですよ、まんまの意味で。マジでお前の性癖とかどうっちゃ良いの、俺は。オーケー?」


 志摩は弁がたつ人間なのだろう、言いくるめるかの勢いで滑らかに捲し立てられれば、椿にもはや頷く以外の余地はなかった。


 「でも椿が、どうしても俺とは一緒に帰りたくない、ってんなら」

 「そんなことない」

 「早ぇな、人の話を最後まで聴け」

 「ごめん…」

 「ちょ、素直ー、椿!」


 抗わない選択は今まで、椿にさほどの心地好さを与えなかった。疎まれないためにせめて、と採ってきた流されるままの生き方は、その実あまり喜ばれなかった。まるでそこに存在しないかの如く息をひそめることに終始した日もあった。なのに今日は一体、どうしたというのだろう。自分が求められているなんて、何が起きているのだろう。


 「志摩くん、青春の汗臭そうで隣歩くの嫌! とか。理由言って? ちゃんと」

 「今の、誰かの真似だったの?」

 「あ、そこ? あれ? 椿は人の話を聴かないヤツなの? いやまあ、モノのたとえ、ね。一緒に帰りたくない時は理由をちゃんと」

 「それは、ないと思う」

 「え、ない? なさそうなの? いや、うーん、じゃあアレ、一緒に帰れない、って時もあるかもじゃん? 指導室に呼び出しくらった、とか放課後居残り追試、とか」

 「それも、ないと思う」

 「あ、ないんだ? お利口さんか! 椿」


 からからと、志摩の放つ朗らかさが音をたてて宙を舞っているようだ。

 本当に、忘れてしまう。志摩が病を抱えているということ。難しい病と闘っているということ。

 椿が知り得る情報は、せいぜいテレビのドキュメンタリー番組がいいところだ。外国の、まだ年端もいかぬ小さな子どもが、何百万の一という想像もつかない確率で発症する先天的な難病を抱えこの世に生まれ落ち、日々を懸命に生きる姿だった。

 可哀想だな、と同情を寄せたあの時の自分を今なら、間違っているかもしれないと思う。頑張れ、という未来に何の約束もない投げやりな応援も必要ないのだろう。だって志摩はそんなものを、欲しがってはいないはずだ。

 ただ、今は、生き急いでいる、という志摩へ寄り添うこと。あの正門までの短い帰り道を、ともに歩くこと。分かっている答えをきちんと掴んでいこうと椿は考えた。つま先が、軽くなる。踊り出すような一歩は、すぐに志摩との間を詰めた。


 「言いたいヤツには好きなように言わせときゃいいんだよ。マザーテレサにケチつけるヤツだって多分いるぜ? ましてや凡人の俺らですよ? アレコレ言われて当然だ、っつの。俺にはそんなん構ってる時間が勿体ない」


 時間が勿体ない、とはよく使われる表現だ。とはいえ志摩が口にすると途端に現実味を帯びて、喉の奥がからからに渇く。

 「生」のその先に「死」はあるのだと椿は考えていた。なんとなく、ぼんやりと、曖昧に、漠然と、ではあるが。生き続けた最期にあるものだととらまえていた。しかし志摩にとっては、違うものかもしれない。

 知りたい、と強く感じた。

 そう決めたのは、椿だった。

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