さよなら、ブルーバード

Lyra

第1話

 「なあ、お前どっちなの?」


 目の前に立つ男から突然そのように問われ、雨宮 椿は小さく嘆息した。

 それはつい先程までからかわれていた真意を示唆するに相違ないのだろう。重ねて確認してくるとはタチが悪い人間もいたものだ。このクラスには良くも悪くも馬鹿か無関心な野郎しかいないと決めてかかっていたのに。

 勇者だな、これは。


 椿はそんな風に思考を逸らしながら、己の後ろめたさを拭い去ろうともしていた。

 どっちなの? と。それはただの質問で深読みする自分の方が愚かなのだろう。

 けれどそうとしか深読み出来ない事実を内包している自分もまた、確かなのだ。


 「どっち、って……噂のまんまだよ」

 「は」

 「ゲイ、ってやつだよ。ホモでも、何でもいいけど」


 繰り返し言わせるな、と悪態を吐きながら、ひょっとすると放課後の、クラスメイトが一人もいなくなった教室内を選んで声をかけてきたこの男の、これは気遣いなのだろうかと考えを這わせた。

 と同時に、まだ人間の善意をどこか見出そうとしている甘さに自嘲が漏れる。そんなものはもうとっくに諦めたはずなのに。


 「違ぇよ、なに勝手に解釈してんだ。別にお前の性癖なんてどうでもいいんだよ」


 そうじゃなくて、と続ける男の口元を椿はぼんやり見つめた。ここ最近、とみに増えた一部の人間からのあてこすりを思い返すと、とても「どうでもいい」と括れる範囲ではなかったのだが、それは主観だ。

 どうでもいい、と考えてくれる人間もいる。そう口に出し、そのように行動してくれる者は、実際とても少ないのだとしても。

 椿はどこか救われた気分になった。久しぶりに血の通いを自身で感じ、それはそのまま椿の頬と目の縁を赤らめさせた。


 「お前の名前を訊いてんの! あまみや、なの? それとも、あめみや? どっち?」

 「……あめみや」

 「やっぱフリガナの方が正解か! つか担任からして間違えてんじゃん、お前、ちゃんと訂正しろよ」

 「……それこそ僕にはどうでもいいよ」


 この勇者はよほど正義感が強いのだろうか、それとも善悪や是非の一つ一つを詳らかにしたい気質なのだろうか。いずれにしても、椿は少しの憧れと同時に面倒くささも感じ、もういい? とスクールバッグを手にした。


 「あめみや、あめみや……呼びにくいのな、マ行が続いてさらにヤ行ときた日には」

 「……そりゃあそっちは二文字だからね」

 「あ? 知ってんの? 俺の名前」

 「……さっき呼ばれたばっかじゃん」


 なかなか決まらない文化祭の実行委員。ロングホームルームの時間をオーバーしてしまうのではないかと、教室内に苛立ちを孕んだ空気が垂れこめていた。クラス替えが行われて馴染みの感覚が行き渡らない四月、今年は受験を控えているせいか、誰もが黙したまま他の誰かの手が挙がることを期待していた。


 『アマミヤくんがいいと思いまーす』


 立候補者がいなければ推薦を、と担任教師が言い出したのは無理もないことだろう。高校三年生、という負担がかかる学年を、結局は彼も押しつけられたはずだ、積極的に挙手して任に着いた訳ではないだろう。そんな風に慮ることは出来ても、徒に椿の名を推挙する行為に結びついて良しとする理由にはならないと思う。

 誰が言い出したのか確かめるのも面倒くさい。事を投げやりに捨て置きがちな自分の態度も良くないのだと分かりながら、この種の傾向は相手方が飽きるか満足し尽くすか、まで続くのだ。どうせ、と椿は考えをまとめそっとため息する。机の上で軽く手を組んでぼんやりと窓の外へ視線を移した。せめて凛とした姿勢くらい崩さずにおこうか、と思った。それをなけなしのプライドと称してよいのかどうか苦々しく感じるところではあるが。


 『いいと思いまーす、可愛い後輩くんと仲良くできるしー』

 『いろんなおホモダチができるんじゃないですかあ』

 『あー、でもアマミヤくんのお色気に惑わされちゃうヤロウがまた出てきちゃうかもな?』


 また、という一語が他よりも大きく響いたのは決して椿の気のせいではない。明らかに意図された発言に、ひとり歩きする噂の恐ろしさを痛感する。

 惑わそうとしたつもりなど、椿には一切なかった。それでも誰かがそう口にすればそれが真実とすり変わるのだ。その方がより、楽しめるからだろう。或いは妄想の枝葉がより付けやすいからだろうか。実際のところ惑わされたのかどうか、相手方の真相は知るよしもない。卒業して、今や大学生活を謳歌しているはずのあの穏やかな背中を思い出すことはもはや苦行の域であるが、時折こうして否応無く、振り返る時間がもたらされる。それは自分の動きだけでどうにもならない現状の打破を、覚束無い未来の模索を、誰かに頼った己の甘さゆえだと椿は受けとめてきたのだった。


 ざわつく教室内をなんとか収めようとしてのことか、担任が目顔で椿に推薦の諾、を求めてくる。あれ民主主義ってこんなだっけ、と半ば呆れながら椿は小さく首肯した。せめてもの抵抗を示すように肩を落としため息する。そんな姿を認めたクラスメイト達がまたそれぞれに騒ぎ立てる様と、担任教師があからさまに安堵した様に椿はひっそり苛立ちを覚えた。かと言ってそれを言動へ投影させる度胸などなく、ただひたすらに周囲の色から鮮やかさを消すことのみに終始する。


 『あと一人——』

 『あ、俺やりまーす。こんなん続けるの時間の無駄でしょ』


 志摩、と嗜める教師のそれは、まったくの本気でないように聞こえた。フリをするくらいなら黙っていてくれた方がこんなに苛立たずに済むのに、と。酷くひねくれた考えが浮かんだ。自分の感情だというのに、いつだって椿自身を置いていく胸の内を、どうやったら平坦に保てるのか、椿は未だコントロールする術を知らない。

 反抗期だとか第二次性徴だとか、はたまた青春だとか。そんな使い古された表現で収まるようなエネルギーの放出ではないような気もする。とはいえ具体的な行動に移すとなると、それはどのような形であれ、罪の域に踏み込むのではないかと危惧もされた。いや、危惧ではないか、杞憂だ、と。椿は思い直す。伴う度胸の無さはよく知っている。だからこうして窓の外の景色を眺めて、思考を逸らし現実逃避することにいつまでも留まっているのだ。


 『じゃあ、アマミヤと志摩。早速だけど放課後、一回目の集まりがあるから』


 担任は集合時間と場所を端的に告げると、重大任務から解放されたとばかりに教室を後にしようとする。起立、礼、という締まりのない日直の声が空気をさらにだらしないものにした。

 よほど小学生の頃の方が、人としての礼儀正しさを全うしていたように感じる。挨拶は大きな声で、そう。先生さようなら、皆さんさようなら。特に低学年の日々には「な・か・よ・し」という合い言葉もあったように覚えている。なかよくみんなでかえります、かってなみちをとおりません、よりみちをしません、しらない人についていきません。毎日の繰り返しは幼心へ正しい根づきを与えたのではなかったか。

 それが果たしてこのザマだ、そんな風に何かに対して何かを嘲る。ここには残念ながら素晴らしき社会性を発揮する者はいなかったようだ。それぞれが好きなように散っていく。かく言う自分も同類なのだが、せめて一日の終わりを共に労い明日を約束する、そんな相手がいたならば、と小さな欲を妄想に変えた。じゃあな、バイバイ、また明日。そんな日常の欠片を望み叶えることがこうも難しくなってしまったのは何故なのだろう。やはり自分の性癖のせいか。どこまで遡れば「普通の」自分を手に入れることが出来るのだろう。そこに答えなどあるはずもないのに、椿は窓の外の蒼から目を離さなかった。程なくして登場したのがくだんの勇者だ。


 「椿、でオッケ?」

 「……一体、何の話」

 「お前の呼び方。あめみや、って言いにくい」

 「……志摩は全員のフルネームを覚えてるの?」

 「いやいやまさか、そこまで興味ないわ。椿は一番じゃん、出席番号。いいよな、あ、から始まる苗字ってさ。そんだけで人の記憶に残るアドバンテージあんじゃん」


 随分とポジティヴな発言をする男だと、椿は素直に感心した。何であれ、自分を取り巻く要素が良い様に言われるのは面映ゆい。もうずっとそんな経験から遠ざかっていた——むしろ悪し様に多くの口の端に上ることが多かった——椿は、与えられたプラスの感覚をそのまま相手へ向けた。知らず声音がやや弾む。


 「……そう、かな」

 「そうだろ。俺、たぶん中一からのあ、から始まるクン、言えるわ」

 「ふ、はは。言ってみてよ」


 ほんの軽口のつもりだった。言えるわけが無いとどこか高をくくっていた。この、志摩という男を椿はよく知らない。断ずることに何の根拠も持ち合わせないが、だって僕は、と自身と比した。だって僕は、言えない。いや、何より恐らく自分なのだと思う、中一の頃の、出席番号一番。恐らく、という曖昧な記憶しか僕には残されていない。そう自嘲する椿の傍らで志摩は、アンドウ ケイスケ、アカギ タクヤ、と次々に五人の男子の名を挙げてみせた。瞠目したまま志摩の横顔を見上げると、涼しげな目元がほんのり緩み、椿を見下ろしてくる。


 「で、雨宮 椿。なぁんか美しいよな、雨宮 椿。響き、っつーの? 字面っつーの? 芸能人みたいじゃねえ?」

 「……そんなの。初めて言われた」

 「そ? アレじゃね? お前、とっつきにくそうに見えるからじゃ?」

 「……否定はしないけど。そういうの面と向かって言われたのも初めて」


 不思議と苛立ちは無かった。失礼な物言いだと思わなくもない。それでも真っ直ぐ届く言葉に取り繕った痕が見つからなかった。それを嬉しいとすら感じる己の感覚は、どこか麻痺しているのかもしれない。それとも志摩が内包する徳なのだろうか。不快さを抱かせず他者の懐へするりと入り込むことが出来るスキル。勇者じゃなくて賢者だったか、志摩は。いや、魔法使いかもしれない。


 「なまじ顔が整ってるとなんつーか、澄まして見えんだよ。お前、あんま笑わねえだろ」

 「……可笑しくもないのに笑えないし」

 「まあな。そりゃそうだ」


 く、と喉の奥で志摩は小さく笑い、それきり黙りこんだ。互いに不機嫌さを残す会話の途切れ方ではなかったと思う。それでも不意に落ちた静けさを、椿はいたたまれなく感じた。と同時に勿体ないことをしたと感じる自分もいる。理由もよく分からぬまま無意識が繰り出した感情を認めれば、放課後の、顔合せの場所へ進める一歩が重くなった。


 「……ごめん。なんか、」

 「ん?」

 「……感じ、悪くなかった? さっきの」


 疑問形をぶつけるのは狡猾な会話の続け方だと思う。問われた相手は某か返さなければならない。会話というものはそうして成り立っていくのだと説かれても、僅かな強制がそこにあるような気がして椿は滅入った。


 (僕みたいなのをコミュ障って言うんだろうな)


 そもそも志摩とは、多少の非礼が赦されるような間柄ではない。通りすがりに道を訊かれでもした程度の、見知らぬ他人と変わりない関係性だ。クラスメイト、という名詞はあれど、元来 人づきあいが苦手な椿。それを大義名分として気安さや馴れ馴れしさを押し出すことなど出来やしない。


 (普通の……ただ、普通に会話したいだけなんだけど)


 さらにそもそも、と論じるならば、そもそも「普通」がよく分からない。己の不器用さもこう可愛げがなければ腹立たしくなるばかりだ、椿はひっそりとため息を漏らす。せめてこれ以上、志摩に対し礼を欠かないようにと静かに控えめに肩を落とした。


 「気ぃ遣いだなあ、椿。俺がズケズケ言ってるだけだろー」

 「……いや、そんな」

 「別に感じ悪くもなんともねえよ、俺だって可笑しくもなきゃ笑わねえし」


 特に語尾にかぶるというわけではない。それでも志摩の言葉は、椿の口から次々と溢れ出そうなネガティヴ発言を鮮やかに躱す。

 まるで肯定されたような、奇妙な心地好さを椿は覚えた。多目的教室へと向かいながら、隣を歩く人間の歩調に合わせ、言葉を交わす。これは、いたって、普通か?


 「オブラートに包む、とか。俺、あんま出来ねえんだわ。こういうの向いてねえな、って分かってんだけどさすがにさっきはイラついて」

 「……こういうの?」

 「なんかの委員、とか。今日もさあ、いろいろ大勢で決めてく感じなんだろ? なかなか決まらねえと俺たぶんキレて暴走するわー」

 「……ぼうそう」

 「そ、暴走。ヤバいなコイツと思ったら止めて」


 本当に止めて欲しいと思っているのか。志摩の朗らかさはもはや冗談としか受け取れない。暴走、ね。椿はもう一度、小さく繰り返したのち、どう応えればよいのかと逡巡した。せっかく呈された機会なのだ。高校生らしい、クラスメイトとの、「普通の」会話を交わすチャンス。とはいえ面白可笑しく応じる術など生憎 持ち合わせていない。これは日頃の鍛錬が足りなかったせいなのか、鍛え合う相手もいないのだけれど。脳内シミュレーションだけではやはりリアルに敵わない。血の通った人間が繰り出す言葉にはその人物の背景がある。椿が勝手に作り上げる設定とは違うのだ。椿はなにせ志摩という人物を知らない。そうしてたどり着く。いつだって、悪いのは自分なのだと。


 「……無理だよ。僕、非力だし。志摩とじゃ体格差がありすぎる」

 「あ、力づくって話? いや、そこまで事は荒立てねえよ」

 「じゃあ、どうすれば?」

 「そうだなあ。要はさっさと何でも決まってくれたらノープロブレム」


 ふうん、と相槌を打ちながら何となく浮かんだ印象をそのまま口にしてよいものか、椿は迷った。何となく、だから自分の中できちんと咀嚼したわけではない。誰かを形容する言葉としてそれは妥当なのかどうかも分からない。ただ、この会話を続かせるには、ふうん、で終わらせるわけにはいかないのだ。


 「……なんか」

 「ん?」

 「志摩って……せっかち? って言うのかな、生き急いでる? というか」


 そう口に出してみたものの、やはりまずかったのか、と一瞬で悟る。志摩は明らかに息をのんで、吐き出す次の言の葉を選び抜いているようだった。己の右隣でそんな気配をまざまざと感じる。ごめん、と取り急ぎ用意した詫びは、へえ、と笑いを含んだ明るい声に遮られた。


 「意外と観察力あるんじゃん、椿」

 「……え」

 「そうなんだよ。俺、生き急いでんの。あんま出さないようにしてるつもりなんだけどな」


 本物の、リアルな会話というものは、事前の想定がものを言わないものなのだと痛感する。どれほど綿密な想定問答を作ったとしても。そう仮定しながら椿は、綿密な想定問答など自分の黒歴史に必要なかったと自虐した。作れないのだ、そもそも誰かと深く関わったことが無いのだから。自分がこんな風に発言したなら相手はこんな風に返すんじゃないかな、あるいはこんな風に返して欲しいからこう伝えてみよう、そんなやり取りの成立は相手を知らずして進められるものではない。


 (……返ってくるのは言葉だけじゃないしな)


 時に表情だったり感情だったり。拡げて考えれば、背中だったり無視だったり、銀色が鋭く光る切っ先だったこともあった。瞼の裏でぴかりと何かが散って、椿は慌てて思考を止める。かぶりを振りながらこれ以上を思い出せば自分の体調がどうなるか、経験からよく理解出来ていた。


 「え? なに? 椿」

 「!……あ、ごめん」

 「いや、別にいんだけど」


 こうした突然の奇行が他者を遠ざけてしまうのだ。分かっていながらも椿は、なかなかに改めることが出来ずにいた。自分の心の黒い部分を、出さないように見せないようにするには、自分自身を黒く塗りつぶしていくしかないのだ、あるいは無色透明、無味無臭の毒と化すか。そんな思考と言動を憐れみ、蔑み、嘲笑い、綺羅綺羅しい屈託の無い場所へ憧れを抱きながらただため息をついて諦めるしかない。


 「駄目だってこと?」

 「……え?」

 「その頭プルプルは、生き急いじゃダメゼッタイ、的ななんか?」


 ただぽかりと、志摩を見上げた。惰性で踏み出し続けている両の脚に感謝する。ここで立ち止まりでもすれば奇行の重ね塗りだ。

 窺うようにこちらを見つめくる志摩の言葉を、頭の中だけで繰り返した。繰り返して、椿は気づいてしまった。椿の小さな仕草一つ、見逃さず志摩は拾い上げてくれたのか。


 「……えーっ、と。違くて」

 「そ? じゃあ何だろかね」

 「い、生き急ぐのは、別に…悪くないと、思う。志摩の、自由だよね。あの…何か理由が、あるんだろう、けど」

 「あぁ、そいつは訊いちゃいけねえな、のプルプルか」


 言って ハハ、と笑う志摩に明るさ以外の影は無い。疑うまでもない。何故だろう、椿にはそれが酷く堪えた。音になるような声は出さず、ただうっすらと控えめな笑みを貼りつけて、鈍い痛みの理由を考える。知らず掌が胸元へ伸び、制服を皺寄せた。そんな自分の再びの奇行を、志摩がちらりと認めたとも気づかぬまま。

 痛みの理由は分かっているのだ。先ほどの自分の発言はいわば取り繕ったものだ。己の奇行を棚上げするための急ごしらえだった。だと言うのにそれをまったくの嘘、とはしたくない自身の都合の良さに椿は驚く。咄嗟に口をついたとは言え、自分の言葉であることに変わりはないから、などと正当性を主張し始める浅はかさが必死すぎて息が苦しい。ただ、本心からの、心底からの発言とするには純粋さが足りなかっただけだ、と。そう、味わわされた恐怖を思い出したくなかったからだ。それこそ椿の本心も、心底も、この志摩との会話を終わらせたくない、それに尽きた。

 そんな本当の心を、どうして素直に言動へ直結させることが出来ないのだろう。例えば、とシミュレーションしてみる。


 『頭プルプルしたのは、嫌な思い出が蘇りそうでそれを振り払おうとしたからだよ』


 ああ正しい、と思う。取り繕ってもいないし偽りもない。でもその先に会話はどう続いただろう。ふーん、でそこは一旦カタがつき、別の流れが生まれただろうか。多目的教室まではまだ幾分かの距離が残っている。


 『嫌な思い出?』


 志摩ならば反射のようにそう返しただろうか。オブラートに包む、とか。俺、あんま出来ねえんだわ。椿は先ほどの志摩の言葉をなぞった。それとも得体の知れない単なるクラスメイトの「嫌な思い出」など耳にしたくもなかっただろうか。

 そうして自分は、どう応えただろうか。


 『母親に殺されそうになったんだ』


 ああ、駄目だ。知らず眉間に深く刻まれた皺を和らげたくて、椿はきつく目を瞑る。そっと開けた視線の先、盗み見るだけのつもりだったのに、思いもよらぬ志摩の強い双眸があった。


 「アレよ? そんな気ぃ遣ってくれんでも。別に訊かれて困らんのよ?」


 はくはくと音を成さない口の動きは、水中で息継ぎが上手く出来ない魚のようだと思う。なんて無様で不器用なのだろう。なのに志摩の目は緩く三日月の形を描き、それは優しい、と形容するに値する範疇だった。だとするとこれは、と椿は勘違いをしそうになる。許されているのだろうか? 僕は、訊ねてもよいのだろうか?


 「……いいの? 訊いて」

 「つか、話しといた方がいいと思ったわ、今。椿に迷惑かけることあるかもだし」

 「……めいわく?」


 お前の存在自体が迷惑なのだ、と。そんな風に淡々と詰られたのはいつだったか。実体のない、目に見えないそれを、椿はたぶん誰かへかけたことはあってもかけられた経験はないように思えた。机の中へ入れておいたはずの教科書が失くなっていたりだとか、家に帰っても夕食が用意されていなかったりだとか。そういうこととは違うのだろう。


 「俺さ、一年の時も二年の時も結構な日数、ガッコ休んでんだよ。こんな…委員とかに立候補しといてなんだけどさ」


 だから今年も、と続ける志摩の声音はそれまでよりほんの少し下がった。滑らかに紡がれてきた言葉が、不自然な間とともに途切れる。事実としてはそれだけなのに、椿は何故だか胸が苦しくなった。

 生き急ぐ理由、迷惑、学校を休みがちだという志摩。どう繋がるのか、椿には見当もつかなかったが、それは決して翳りひとつない輝きだけに満ちてはいないのだろう。この、わずかな関わりの間、志摩がこれまで生きてきた場所は明るくて眩しくて息がし易くて、およそ自分とは対極に位置しているものだと感じていた椿だが、それはあまりに勝手すぎる決めつけだったのかと猛省する。

 どう相槌をうつのが正解なのか、分からない。狡いし正しくないやり方だと思うも、ただ、志摩を見つめ続けるほかなかった。胸の苦しみはじくりじくりと椿を侵食する。


 「病気、抱えてんだわ、俺。難病指定…んー、とアレ、貧血の超ヒドイやつ。まあ、こう…普通に、ガッコ来たりとか、出来るっちゃ出来んだけどね、やっぱ時々しんどくなるから」


 ステージは、そんな高くなくて。

 あ、ステージ、とかちょっと専門ぽくね? 症状のレベル、って感じ、な。

 アレよ? 明日すぐに死んだりとかないからな?


 こんな時に限って廊下には人ひとりおらず、苦しくも厳かな静けさが二人を包む。

 志摩の誤魔化しは完全に失敗だ、と椿はぼんやり思考した。もうすっかり歩みは止まっていて、自分はよほど醜い表情をさらしているに違いない。それを証拠に椿を窺い見た志摩は、思いもよらぬ衝撃を堪えるように頬を歪めた。志摩の整った顔立ちは間違いなく笑みの方が似合っているのに。そんな決めつけも勝手だったか。僕は本当に、何度も同じことを繰り返してしまう。いよいよ苦しさは出口を求めて、椿の内側で暴れ出す。


 「うわうわうわ! なんでだよ! 椿が泣くことねえじゃんか!」

 「!」


 思わず、なのだろう、伸びてきた志摩の指をすっかり受け容れている自分に呆れる。たぶん志摩は止めたかっただけなのだ、溢れる何かを堰き止めようとして、それは彼特有の優しさ、もしくはお節介に分類されるべきものなのに。そうして椿は良い歳をした男同士なのだからと、それをやんわり断るべきなのだ。

 そんな「べき論」を頭の中でぐるぐる巡らせる椿は、自分で自分を頭でっかちだと笑いたくなった。いつだって、こうだ。自分の脳内と言動がきちんとリンクしたためしなどない。失敗したなあ、こんなつもりじゃ、と口にしながらカーディガンの袖で椿の目元を拭う志摩に結局、 何もかもを任せてしまっている。


 「どんだけ感受性高ぇんだよ椿ー、ビックリすんじゃんか! いや、確かにな? 暗い話になって悪かったけども!」

 「……ご、ごめ、」

 「ガッコ、来ない日があってもズル休みじゃねえ、って知っといてもらいたかっただけ。委員は二人でやんだしさ、集まりがある日は体調 気ぃつけるし。お前ひとりに押しつけるつもりとかないから」


 そんな「つもり」が志摩に無いことを、椿は信じたかった。これも勝手な決めつけだろうかと思う。志摩が病を抱える身だと知っても、それは志摩そのものを理解したことには何ら繋がらないのに。それでも静かにこくりこくりと頷いた。再び一歩を踏み出させようと椿の背を押す志摩の掌は、心地好い重みがある。ちらりと見上げた志摩の横顔は、なるほど貧血と銘されるに納得の蒼白さと言えた。つい先ほどまで志摩に対しぼんやりと重ねていた明るく綺羅綺羅しいイメージを、椿は慌ててそれだけではない、と修正した。


 「……無理は、よくないよ。志摩」

 「ぶ。お前は俺の母ちゃんか、って椿」

 「それに、迷惑、じゃない」

 「ん?」


 不意に口を突いた言葉だったが、あれ、これで正しいだろうかと椿は逡巡する。伝えたいことはこの言葉で合っているのだろうか。現国は得意とする椿だが、これは正答を読み解く作業とは違うから全くもって自信がない。一言の選択にこうも時間をかけていては普通の会話なんて成立しない、けれど椿は慎重さを事欠きたくなかった。志摩に誤解されたくない。自分が考えるところをきちんととらえて欲しい。その先に感情が何も生まれなくても、ただ他意なく理解して欲しい。

 

 (ああでも……困ったな)


 理解して欲しい、だなんて。志摩にすっかり期待を寄せている自分に気づく。期待をして、自分は今までどうであったか。味わってきたのは絶望、あるいは失望だったはずなのに。このわずかな間、自分は志摩の何にこれほど絆されてしまったのだろう。病気の話が介在したからか。同情、という陳腐な感情に身を滅ぼそうとしているのか。だとしたら志摩も気の毒だ。椿との関係性について、本当にあらぬ誤解をその身に受けてしまいかねない。

 それでも、と思う。志摩は椿とともに文化祭の実行委員をきちんとやり遂げるつもりでいるらしい。ならば自分も、それに倣いたくあった。たとえ半ば無理やりに押しつけられた役目であっても、頷いたのは椿なのだ。否、を表しにくい状況ではあった、けれど首肯まで強制されたわけではない。心の底から嫌だったのならば断固拒否すれば良かったのだ。そうしなかった自分は、特に何にも関心を寄せず生きてきたゆえんと言えるだろう。まさか引き受けたその先に、微かに気持ちを揺さぶられる人物との関わりが待っているとは思いもしないまま。


 「……僕だって、風邪をひいて学校を休んだりするかもしれない。そんな日に実行委員の集まりが、あるかもしれない。だから、たぶんそういうのは、迷惑、とかじゃなくて……」

 「……なくて?」

 「お互い様、って言うんじゃないかな。よく、分からないけど」


 誤魔化すように慌てて締めくくった。偉そうなことを言った、僕なんかが、どれだけ上から目線なんだ、よく分からないけど、なんて取って付けたセリフは、本当に意味がよく分からない。いや、そもそも意味なんてあったのか。恥ずかしさと照れを躱したくて適当に選んでしまった、さっきまで慎重に言葉を選ぼうと考えていたはずなのに。

 誰かと、関心を以って向き合うことの難しさを知る。世の中は、なんてままならないことだらけなのだろう。


 「なるほどー、お互い様ね。良いこと言うなあ、椿。ちょっと昭和臭ただよってるけど」

 「……し、しょうわしゅう?」

 「あ、そこ食いついた? 清く正しい青春熱血学園ドラマっぽかったぜという褒め言葉」

 「……全く褒められてる感じがしない」


 気のせい気のせい、と。志摩は変わらずの朗らかさでそう続ける。しかしその内面に幾ばくかの闇を抱えているのも、また事実なのだろう。その差があまりに際立って感じられ、椿は何とも表し難い息苦しさに捕らえられた。

 志摩の病気のことはみな周知の事実なのだろうか。少なくともクラス担任は知らないのだろうと思われた。恐らくは、これまでの二年間も。生徒一人ひとりの家庭の事情やアレルギー、既往歴等は諸々の個人情報とともに進級・進学の都度、引継ぎされているはずだ。そこに含まれていることを理解している人間なら、志摩の体調を慮って立候補を止めたのではないだろうか。

 かと言って、椿だけが共有する秘密、というわけでもあるまい。そう自分で結論づけておきながら「共有」「秘密」という単語が包んでいる甘美な響きに酔いしれそうな椿であった。まるで友だちみたいだ。そうしてそれはすぐさま否定の対象となるのだけれど。まさか、僕は誰とも、友だちになんてなれやしない。


 「つーことで、よろしくな椿」

 「……な、に」

 「暴走止めてよ、ってお願いしたじゃないですか」


 多目的教室へ一歩、足を踏み入れながら志摩は片方の口角だけを器用に上げてみせる。にやり、とでも形容出来そうなそれは、とても人好きのするものだった。悪ぶって見せたかったのなら失敗だな、と椿は思う。


 「……暴走、しなければいいと思うよ」

 「正論か!」


 教室内には既に、後輩と思われる見知らぬ顔が幾つか揃っていた。志摩の明るい声が惹きつけたのか、一斉に視線を吸い寄せる。場馴れしていない椿にとって、それだけで身を強張らせるに充分だった。


 「これ、席 決まってんの? あ、どこでもいい感じ?」


 なのに一人、既知でもなさそうな誰かへ気軽に問いかけ、あまつさえ簡単に答えを引き出している勇者が目の前にいる。思わず立ち竦んでいた椿であったが、目顔でこっち、と促す志摩から操られるように着座した。

 司会進行役の席と思しき机が教室奥のホワイトボード前に置かれている。それと相対するようコの字型に配置された机。空席は他にもあったのに、何故だか志摩は司会席の真正面を陣取った。

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