第一章 その男、異能探偵

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□サキ


十月九日


 どうしてこんなことになっちゃったんだろう。


 ひとまず現状の説明よりも、現地の説明から。

 私こと、福満咲希ふくみつさきは産まれも育ちもここ経退町たちのきちょう。経退町は小さな町で、見るところも行くところもない。

だけど、私はこの町が好き。近所の人たちは小さい頃から私のことをよく知っていて、遊んでくれたり、お裾分けもたくさんしてもらった。そのことからも、心の優しい人が多いことは、信じて疑わない。たぶん、ほとんどの家庭がご近所さんとはそういう関わり方をしていると思う。

ときどきせっかちで、心配性なところがたまに傷ではあるんだけれど。

 家の形も普通の所とは少し違っている。

ある程度の大きさのプレハブみたいな形をした家が縦に一列ずつ、計二列ずらっと何十軒も並んでいて、屋根の高さが全て同じ。そんな二列一組のような家屋が、さらに横に何組か建ち並んでいる。

 この辺の住宅街に関しては、出口も入り口も一つだけ。立ち退くところはその一箇所以外どこにもない。少し窮屈な分、寧ろそれが功を奏したかのように、近所の絆は深くて長いんだ。

 一つだけの出入口を抜けてからはバスや自家用車を使ってみんな商い通りに向かっているみたい。まぁ、それ以外に手段がないのもまた事実。少しも面倒だなんて思ったことはないし、生活していく上でそれは必要な手間なわけで。言ってしまえば、仕様がないというやつだ。

 そして、およそ三十分バスに揺られるとたどり着く、この商い通りは広い。

住宅街を離れていくにつれ、景色も変わっていく。ここはいろんな建物が密集しているけど、少しの隙間もあくことなく渦を描くように、スーパーや家電量販店、さらには需要があるのかどうかわからないちょっと怪しい店まで、様々なお店が軒を連ねている。

 そしてそして、そこからさらにバスにゆらゆら揺られること四十分。

一時間以上もバスに揺らされていたせいで、痛く固く重くなってしまったお尻を持ち上げて、ようやく降りたったところに、私の通っている経退第一高等学校がある。

 この高校がどんなところなのかというのを、良、可、不可で表してみよう。

成績、可。スポーツ、可。風紀、可。ルックス、可。

まさに可もなく不可もなくの高校、いや、この言い回しは少し違うのかな。不可だけはない可の高校。それがここ、経退第一高等学校なんだ。

 ただ、それも、ついさっきまでの話になっちゃうんだけど。


 さてさて、じゃあいよいよ満を持して。

なんて言い方はちょっと不謹慎か。何て言えばいいのか、そもそも何とも言えないというか。

 とりあえず、現地の説明から現状の説明に戻ろうと思う。

私が教室に来た頃には、すでにこの現状ができあがってしまっていた。友人から聞いた話を繋ぎ合わせて、頭の中でそのシーンを思い描いてみることにする。

頭を使うのは慣れていないからちょっと難しいけど。

 まず、教室のクラスプレートがある方の扉。

そこから教室に入った教壇のところに、同じ二年三組の楠田洋一君が立っている。

 彼は、この学校の生徒にしてはとても優秀で、入学したての頃から野球部を牽引し、エースまで登り詰め、彼の活躍のおかげで試合に勝利したこともしばしば。

見た目も野球部そのもので、丸刈り頭に頬にはそばかす、切れ長の目で耳が大きい。これに関しては、多少私の偏見も混じっている気がする。

 そんな彼は、ユニフォーム姿のままグローブを左手に持ち、顔を青くして棒のように立ち尽くしていた。こめかみの辺りからは、冷や汗とも脂汗ともとれぬ嫌な汗が流れ落ちている。

 そして次。その楠田君が見据えているのは教室の真ん中。

そこには別のクラス(たしか二年一組だったかな)の千葉大地君が、定位置からだいぶ派手に散らばってしまっている机に挟まれ床に倒れ込んでいた。

 彼は所謂イケメンというやつだ。これまたこの学校の生徒にしては珍しく、学内でも随一を誇るほど整った容姿をその顔面に有している。まあ、それはもちろん顔面だけに限定した話ではないのだけれど、どれだけスタイルが良くても、どれだけ優れたフィジカルを持っていたとしても、それを超越してしまうほど彼の顔面には破壊力があった。

破壊力、という言葉が正しい表現なのかどうかはこの際もう置いておこう。

 そんな彼は床に尻餅をついているのだけれど、なんともまあおっかなびっくり。どうもその辺には疎いらしいこの私でさえも、あれほど絶賛した彼の顔面には、殴られたような痣に加え、口の端からは僅かばかりの血も流れてしまっていた。

 恨むような憎むような目で、一方の千葉君も楠田君を睥睨している。

 ひととおり現状の説明が終わったところで回想に入ろう。

 それは今朝、朝練終わりで楠田君が教室に来た頃の話。

普段ならば朝練の終わった楠田君は、ホームルームが始まるまでそのまましばらくは教室に一人で自習をしているのだが、教室に入ろうとしたとき、扉のそばにはすでに千葉君が立っていたという。おそらくは、そこに千葉君がいたことによって一つのイベントが発生してしまったのだろう。

 その場でしばらく立ち話をしていた二人は、とある話題が引き金となってしまい、楠田君が千葉君の顔面に、日々の鍛練で鍛え上げられたその拳を振るってしまった、ということらしい。

 現場には二人以外誰もいなかったことから、詳しい状況まではわからないし、ほんとに口論になって楠田君が殴ってしまったのかは定かではない。なにぶん、時間が時間なだけに目撃証言は皆無に等しい。

 しかし、同じクラスの誼というわけではないが、それにしたって同じクラスだからこそわかるというもので、楠田君がそう簡単に人を傷つけるような真似をやってのけるとは思えないんだよね。

 すると、千葉君が口を開いた。


「お前がこんな凶暴な奴だなんて知らなかったよ、楠田」


 それは………、と千葉君の言葉におされ口ごもってしまう楠田君。

 さっきよりも状況は悪くなっている。こうしている間にも野次馬はどんどん増えているのだから。

 私の気持ち的には、普段から親しくしている楠田君の力になってあげたいところなのだけれど、それはただの贔屓でしかない。ただ、私が千葉君を贔屓したくない理由は他にもある。

 この学校の生徒(ただし私と同じ学年に限る)の巷間の噂によれば、千葉君は相当の女ったらしらしい。それが原因の一つだという可能性もなくはないのかもしれない。

噂好きの友達が言うには、この学校の生徒だけではなく、他校の生徒にまで手を出して、股にかけている女子生徒の数は両手の指では足りないのだそうだ。

まさにそう、女の敵だ。

 人間的には、人格的には、遥かに楠田君の方が上回っているものの、今のこの現状が、それを事実とさせまいとしていた。

 楠田君が何か反論の言葉を絞りだそうとしていたところで、けたたましい足音とともに、一人の女子生徒が二年三組の教室まで駆けてきた。後ろの扉に手をかけ、慌てた様子でその光景を視界に入れる。

 あの子はたしか。


「ーーー大ちゃん!?」


 一目散に千葉君の傍に駆け寄り、教室の床に膝をつく。

そして彼の両肩に手を置きながら、その後にはもう彼女も一緒になって楠田君を睨め始めていた。


「………なにこれ。説明してよ、洋一!」


 そうだ。

あの子のことは、楠田君の口から何度か聞いたことがある。名前は、橋本恵理はしもとめぐりちゃん。

幼稚園からずっと一緒で、家も隣同士。典型的な幼なじみの関係にある二人は、この学校の中でもけっこう一緒にいることが多かった。

 しかしそれも数週間前までの話。幼い頃から昵懇にしている二人だったが、最近では恵理ちゃんの方に彼氏ができたらしく、一緒にいるところをほとんど見ない。

 まさか、その彼氏というのがよりにもよって、なのかな?


「違うんだよ恵理!こいつはーーーー」

「俺はただ、借りてた教科書をこの教室に返しにきただけなんだ。それで教室を出ようとしたら楠田がいきなり殴ってきて。俺何か悪いことしたのか?なあ、恵理」

「大ちゃんは何も悪くないよ。洋一とは長い付き合いだけど、まさかこんなにひどい奴だなんてあたしも知らなかった。ごめんね大ちゃん」


 間違いない、のかな。

どうやらよりにもよってが当たってしまったみたい。

 それに、聞いていた話とも少し違っているようだ。話などしていなくて、問答無用とでも言うように、いきなり楠田君が殴ってきたと千葉君は言っている。

 だけど、やっぱり私には楠田君がそんなに気性の荒い人間だとは思えない。

 心配の意を込めて楠田君に視界を動かそうとした瞬間、まさに私の視界の端で何かが見えた。

誰も見てはいないだろうが、私だけが気付いたその違和感を確かめようと俯く千葉君を見る。

 すると、彼の口角は厭らしいまでにつり上がっていた。そこでようやく理解する。楠田君はハメられてしまったのだと。

 しかし、どこに嘘があるのか、どう看破すればいいのか、私にはさっぱりわからない。

このままだと楠田君に悪いイメージばかりが定着してしまう。衆人の目にとまっていることも相俟って、それは加速するばかりだろう。

 もしも恵理ちゃんが、千葉君の性悪な本性に気付いていないのだとしたら、それを知らないのだとしたら、そこをついてみるのも有りなのかもしれない。

 それでもやっぱり、語彙力も構成力もほとんどない理系の私には、正しい手順を踏んでそれができるとは到底思えなかった。

 藁にもすがる思いって、こういうことを言うのかな。

 いよいよ場の空気も悪くなるところまで悪くなると、廊下で窓越しに彼らを見ていた野次馬の皆さんが、一人の発声を合図にそれぞれ各々で楠田君を罵倒しにかかる。

恐れていたことが現実になってしまった感じだ。

 声を潜めることも忘れ、少しの慮りもなくその声量(この場合、声の大きさではなく、声の数のことを言う)はどんどん増していき、悪化の一途をたどっている。あに図らんや、こうも易々と、野次馬の皆さんが千葉君側についてしまうとは思ってもみなかった。

千葉君の素性を、正体を、まさか皆知らないなんて言うつもりじゃないよね。

だとしたら、間抜けもいいところだ。


「俺の話を聞けよ恵理!そもそも、俺は千葉を殴ってなんかいない」

「この期に及んでそんな馬鹿な言い訳をするつもり?あたしが一度洋一を振ったからって、大ちゃんにその腹いせをすることないじゃん。信じらんない!」


 凄まじい程に重大極まりない情報が、さらっと恵理ちゃんの口から零れるものだから、危うく聞き逃してしまいそうになった。

 振った?恵理ちゃんが、楠田君を?

 なるほど。とは言わないまでも、もしかしたらそれが動機なのかもしれないと言われてしまえば、千葉君説が濃厚になってくるし、楠田君の立場はもはや、立つところさえも無くなってしまう。

 ていうか、いつの間に告白していたんだ。

たしかに、幼い頃から常に一緒にいると、そういう対象としてではなく、家族同然の感情を抱いてしまい、今さら付き合えないという意見(?)を一度か二度は耳にしたことがあるけれども。

 しかし、それは恵理ちゃんの方だけで、楠田君の場合に限っては、そうではなかったということなのかも。

 しかしもまたしかし、いよいよそんな不毛な思考を巡らせるいとますら無くなってきてしまった。膠着状態は半ば崩れ始めてきている。

こうなれば、意を決して両者間に介入し、侵入し、何とか和解という形でこの場は収めてくれないかと、私が。

 そもそも何故私は、私がそこまでしようと思っているのか自分でもさっぱりだけど、それでもやっぱり平和的に場を収めてもらえないかと、交渉へと段階を進めようとしたすんでのところだった。

 廊下の奥(ちなみに二年の教室は二階にある)の方から聞こえてくる、普段私達が履いている上履きとは違う、床を擦って歩くような音がやけに私の耳朶を揺さぶってきた。

どうしてか、その音が気になる。

奮い立っていた私を、こうもあっさりと鎮静したその音が聞こえる方に目をやった。

 教室の中では相も変わらず、さも彼が全ての元凶であるかのように、恵理ちゃんも千葉君と一緒になって、楠田君を責め続けている。

 そんな中、ゆっくり近付いてくるその人物は、明らかに学生などではなく、そこそこいい年した大人だった。

 上履きとは足音が違ったのも、足元を見れば一目瞭然で、怠そうに歩いてくるその人物は来客用のスリッパを履いていた。

 けれどもどうにも頷けない。

年齢的には二十代後半といったところだろうか。誰かの保護者にしてはもちろん若すぎるし、用があるから来たとは言っても、それは私達学生ではなく本来ならば教師陣の誰かであるというのが相場だろう。

 そんな些細な謎でさえも答えを導き出せぬまま、ついぞその人は私達のいる二年三組の教室の前で立ち止まった。

 背の高い男の人だった。


「ちゃんと許可とって入ってきてるから、騒がないでくれ。なあ、校長室ってどこだ?」


 と、藪から棒に彼は言ってきた。もとい、聞いてきた。

 ん、あれ?私に聞いてるの?


 見た目年齢は私が遠目で見たのとおよそ相違なかった。

白黒ボーダーのシャツの上に深緑色のトレンチコートを羽織っている。その怠そうな雰囲気から、おそらくはロールアップする手間を省いたのだろう。わりと暗めの色に染まっているデニムパンツは足元の辺りでだぼついている。

 足元に視線をやって気付いたけど、この人裸足だ。校内はスリッパだからいいとして、ここまで何を履いてきたんだろう。

まさかどこぞやのトレンディ俳優じゃあるまいし、裸足に革靴を履くような人なんじゃないだろうね。

 もう一度視線を下から上に戻し、顔を見る。凝視する。

真っ黒な髪の毛は、耳にかぶさる程度に伸びていて、全体的にパーマがかかっているのか、これでもかというほどくるくると全ての髪が渦を巻いている。

 基本的に目付きが悪いな。目から何か飛び出してきそう。


「…………………聞こえてないのか?」


 おっといけない。


「え、あの、………………あなたは一体」


 この人、誰?


2


■シンタ


「え、あの、………………あなたは一体」


 誰なんだって顔をしてるな。

無理もない話だ。本来、毎日真面目にいそいそと、馬鹿正直に勉学に励んでいるこの学校の生徒からしてみれば、俺は部外者ってことになるんだからな。

だからわざわざ懇切丁寧に怪しい者じゃないと言葉で示したつもりだったが、丁寧に言葉を使ったつもりだったんだが、どうやらその甲斐虚しく、俺のそんな自己満足な丁寧さは伝わっていなかったらしい。

 それにしても見すぎだ。なんだこのガキは。

 高校生にもなってガキと言われれば少なからず頭にくる奴もそこそこいるのだろうが、しかし目の前にいるこの女子生徒はまさにガキだった。

いや、チビだった。推定推測、百五十二センチ。

 制服に着られている感が非常に否めないし、少しでも大人っぽく見せたいがためなのか、わりと高い位置で結わえられた髪(所謂ポニーテール)にさえも弄ばれているようだった。

それにしても見事なまでのぱっつん前髪だな。ここまで地面と平行な代物、四半世紀生きてきて初めて見たぞ。

 初見に対しての所見を述べたところで、そろそろ質問の答えが欲しいところなんだが、どうしても答えるつもりはないらしい。それとも、やはり聞こえていないのか。

 それにしても何だか騒がしいな。

もう何年も前のことだから、俺の記憶からは追放されている部分もあるが、高校ってのはこんなに騒がしいところだったか?


「………どちらさまですか?生憎、今それどころじゃなくて」


 なんだ。やっぱり聞こえてるんじゃないか。


「名乗るつもりはない。この学校の校長に用があるだけだ。場所さえ教えてもらえれば、それでいい」

「教えたいのはやぶさかなんですけど、とてもそんな状況じゃ」

「……………あいつらのせいか」


 視線を教室の中へと移動させる。

そこでは三人の生徒がいがみ合い、言い争っていた。

 本来ならば必要のない手間が増えて、面倒くさいことこの上ない話なのだが、このままではおそらく埒があかないだろう。

 この女子生徒(チビ)も本気で教えるつもりはないみたいだし、一刻も早く帰宅したいのならとりあえずはこの場をどうにかして収めるしか他に方法はないみたいだ。

 話を聞かせてもらおう。

 全くもって不本意だが、必要ならば話だけでなく、も聞くしかない。

 他所のテリトリーに足を踏み入れるのはなんだか気持ちが悪い気分だが、それもやむなしと教室の中に躊躇なく入っていく。


「えっ、ちょっと。今は駄目ですよ!」


 煩い女子生徒(チビ)だ。


「話を聞かせろ」


 野次馬らしき人だかりから、教室の中にいた渦中の人物らしき三人から、あの女子生徒から、様々な方向から一様に視線を浴びせられる。

 部外者の登場に動揺を隠せない様子だ。


「誰ですか?邪魔しないでください。これは私たちの問題なんです」


 こっちの女子生徒は気が強そうだな。

 教師が来ていないところを見ると、まだホームルームの時間てわけじゃなさそうだな。

あとどれくらい時間があるのかは知らないが、まあ十分間に合うだろう。さっさと終わらせて、俺は俺の用事を済ませよう。


「見たところ痴話喧嘩みたいだが、それよりもさっさと話せ。こっちも時間がないんだ」

「なっ、なんですかその言い方!部外者は邪魔しないでって言いましたよね?」

「恵理、言葉を選べよ。一応大人の人なんだから」

「洋一は黙ってて!大体誰のせいでこんなことに………」


 大人に一応もくそもないと思うんだが。

 それに、思っていた以上に厄介そうだな。悪手だったか?

 話してもらわないことには、どうすることもできないわけなんだけれども。

 そう思った時には、見ていられないと言わんばかりに(というか実際小言のように呟いていたような気もするが)、さっきのチビ(女子生徒)が教室内の彼らの間に入り、勢いそのまま言葉を続けた。


「っは、はい!私、私が話しますから。だから、一旦楠田君たちも落ち着かない?休戦といかない?もういっそのことお茶しない?」


 一瞬で空気が冷えきってしまう瞬間をまじまじと見せつけられ、こっちまでその寒さにあてられ凍えそうになってしまうが、まあ話してくれるというのならそれでいい。

 今の失言はさらりと水に流して、聞く必要のあることだけを、「聞かせてもらう」そう言った。


 斯々然々かくかくしかじか


 文章力や構成力のお粗末さはともかくとして、このチビ生徒の話から大体の事情は把握することができた。

 つまりは、この楠田とかいう男が実際に拳を振るったのかどうか、嘘をついているのかいないのか、それを顕にすればいいというわけだ。

 その後の処理はこのチビ生徒、いや、チビに任せよう。


 こんな痴話喧嘩ごとき、今までにないほど最速で解決まで導けると予め予想していたが、しかしそんな予想に反して、意外とややこしく、それなりに、少々、ようやく歯牙くらいにはかかるほどの、ちょっと厄介な出来事だった。

 俺自身、こんな芸とも呼べない芸当ができる俺があまり好きではないし、それこそ好き好んで自主的に使おうだなんて、いっそ吐き気がしてくるのだけれど、いよいよ面倒だ。聞いてしまえ。

 一度落ち着かせあのチビが三人をとりあえずは椅子に座らせている。そんな三人に対して俺はこう言った。


「嘘をついているのは誰だ?」


「ん、なんですか?」

「ああもうっ!」

「………なんだよ」


 まさに三者三様の反応だったが、それは俺が正面から三人を凝視しているからだ。一人ずつ、ゆっくり時間をかけ、目を閉じ、耳で聞いた。

三人が何かを喋ったわけではない。俺は、三人の心臓めがけて耳をすました。

 そんなことをした理由を俺の口から語るということはない。

自分の嫌いな部分を、ひいては欠点とさえ思っているそれを、おいそれと他人に話すような趣味は生憎持ち合わせてはいないのだ。

 しかしこれではっきりした。否、わかった、というべきか。

 そしてあのチビが縷々に語った話と照らし合わせる。考える。

 すると、なんてことのない。それは、長考するにも及ばない。考えてみれば、これほどあっけなく、簡単な答えはなかった。

 最終確認だ。あの野球部員の手元に視線を落とす。

 なるほどやはり、そういうことだな。

これで。


「繋がった。お前が嘘つきだ」


 千葉と呼ばれていた男を指さした。


□サキ


「あのねぇ!さすがに横暴にも程があるんじゃないの!?」


 だよねえ。そうなるよねえ。

 いつの間にこんな状況になっていたのか私にもさっぱりだし、次に口を開いたかと思えば千葉君が嘘をついているとか言い出すし。

 実際、私もそうなんじゃないかと疑ってはいたけれど、勘ぐってはいたけれど、この人は一体何の根拠があってそんなことを。

まさか何の根拠もなしにこんな暴挙に出たわけじゃあるまいし。

 そもそも、あの人も一応大人なわけだし、常識的なことに関してはある程度弁えているだろうとは思うんだけれど。

 いや、風貌を見る限りとてもそんな風には思えないかも。ぎりぎりのところだ。

 すると彼は、そんな私の考えを無視するかのように次の言葉を続けた。


「声が大きい。音が嫌いなんだ、静かに頼む。ちゃんと順を追って、わかりやすく説明してやるから」


 そうなのかと言えばそうなのかと思ってしまうが、よくわからない理屈だ。

 それを言うのとほぼ同時に歩き出し、教卓のあるほうの扉のところで立ち止まった。

 そういえばまだ名前も聞いてなかった。

何て人なんだろう。もちろん今は聞くに聞けず。


「まず、お前が言ってた状況説明。あれはおかしい」

「…………と、言いますと?」


 わからない。


「そこの千葉という男は、借りていた教科書を返すためこの教室に来た。そしてそれを終え、教室を出ようとしたら、ちょうどやってきた野球部員にいきなり殴られてしまった。そう言ったんだろう?しかし、それは矛盾している」

「は?矛盾も何も、実際そうなんだって。見てもいねえおっさんが勝手なこと言ってんじゃねえよ」

「確かに見てはいない。だからこうやって考えてやってるんだろう。それに、俺はまだ二十五歳だ。おっさんじゃない」


 高校生の皮肉にもいちいち対処しながら、次に彼は、その場で目の前を指さした。

それが、何を意味しているのか。そもそもどこを指さしているのかわからない。

 今となっては野次を飛ばしていた野次馬の皆さんも、彼の言葉に期待、とはちょっと違うけれど、その先を促すような視線を浴びせている。

 なぜか彼には魅せられるような、目を離せないような、不思議な魅力があった。

 と、いうのは私だけ?


「こっちじゃなきゃおかしいな」

「おかしいって………、何がだよ」


 なるほど。

指さしていたのは、物じゃなくて方向だったんだ。

 って、そうだよね。何がおかしいんだろう。


「机まで散らかしたのは失敗だったな。教室から出ようとしたところで殴られたんなら、教室の真ん中じゃなく、この方向。つまり、一直線上のどこかに倒れてなくちゃおかしい。いくら野球部員だからといっても、そんなでたらめな方向まで飛ばすほどの力はないだろうからな」


 たしかに一理ある。

 どうして今までこんな簡単なことに気がつかなかったんだろう。

 千葉君は自らの口で、殴られたのが教室の扉の辺りだと発言してしまっている以上、倒れている位置が真ん中だと余計に矛盾が生じてくる。

 身から出た錆というやつだ。

 少しずつではあるけれども、千葉君に傾いていた流れがこちらに戻りつつある。それは、彼が嘘をついているということにほかならない。

 楠田君の疑いがこのまま晴れることを切に願うばかりだ。


「そ、そんなのたまたまだよ。殴られた衝撃で、少し記憶が飛んでしまっただけだ!ほんとはこの辺りで殴られたんだ、楠田に」


この期に及んでまだ抗うか。おのれ。


「ほんとに殴ったのか?」


その場でモジャさん(トレンチコートの彼のこと)は楠田君に問いかけた。


「い、いや、そんな!俺は本当に殴ってなんかいません。千葉の言いがかりです」

「そっちこそ言いがかりだろ。いきなり殴ってきたくせに、騙されんな恵理!」


 焦燥が隠しきれていない様子がひしひしと伝わってくる。急に話を振られた恵理ちゃんも困惑している様子だ。


「うるさい、静かにしろと言ったろ。………じゃあ聞くが、どっちの手で殴られたか覚えてるか?」

「…………え、手?」


 そのままオウム返しで、まぬけな声を出す千葉君。その千葉君を心配そうな眼差しで恵理ちゃんは見つめていた。

 それは疑惑の眼差しとも、信頼の眼差しとも、両方ともとれるような非常に曖昧なものだった。

 さっきまでの反抗的な勢いはとうに消え去り、今は場の行く末をただ静かに見守っているだけのような、そんな雰囲気が恵理ちゃんからは感じられた。


「お前、立て。ここまで来い」


 指をさされた楠田君は言われるがままそれに従い、教卓の前に立つ。

 ユニフォーム姿の彼の左手には未だグローブが握られていた。

しっかりと手入れの行き届いた、そこそこ年季の入ったグローブだ。楠田君の性格がそこにはあらわれている。


「もう一度聞く。お前は、どっちの手で、殴られた?それくらいは覚えてるだろう」

「どっちって………、それは」


 千葉君の視線が、楠田君の手に落ちる。

彼はしばらく凝視し続けると、わずかに息を吸い込んでその問いに答えた。


「ひ、………左手だよ」

「だろうな、そう言うと思ったよ。お前、馬鹿だろ」

「ちぃっ!なめてんのかおっさん!!」


 はっきり言うんだなあこの人。

そりゃあ誰だって馬鹿だと言われればこういう反応を示しちゃうよ。

 そして再び千葉君が馬鹿だと罵倒された意味がわからない私。

 あれ?もしかして私が馬鹿なのかな?


「こいつは左手では殴らない。だな?」

「…………まあ、そうですね。というか、殴ってませんて」


 どうして言いきれるんだろう。

 どうして楠田君もそう言いきるんだろう。


「どうしてそう言いきれんだよ!」


 おお、代弁者よ。


「これでお前が殴られていないのは確定した。山勘ではなく、きちんと手元まで見て確認したまでは良かったが、考えが足りなかったな」


 モジャさんは楠田君が左手に持っていたグローブを自らの手に持ち掲げて見せる。

 廊下にたむろしている野次馬の皆さんにも、それはそれはよく見えることだろう。


「お前はこいつがグローブを左手に持っていることから右利きだと思い、さらにはエースピッチャーだという情報とも照らし合わせ、ピッチャーの命でもあるその肩を痛めないよう、ほんとに殴るのなら利き腕でない左手で殴るだろうと踏んだ。だが、よく見てみろ。このグローブ、親指を通す穴が逆についてる。つまり、これは左利き用のグローブだ」

「ーーーーーーー!?」


 まさか、そんな。

 一瞬で千葉君は崖の淵まで追いやられてしまった。

 確かにその通りだ。

あれだけ毎日一生懸命練習に明け暮れていた楠田君が、こう言っては失礼だけれど、こんなことで己の肩を犠牲にするはずがない。

 たったの二択でさえ外してしまった千葉君は、それがイコール真実だと、まじまじとその無駄にイケメンな顔面に叩きつけられたことになる。

 もはや言い逃れはできまい。

どちらの手で殴られたかなんて、それを一番近くで見ていたのは他の誰でもない彼なのだから。

 今度ばかりは覚えていないでは済まされないだろう。気絶しているわけじゃないんだから。

 ということはつまり、あの傷は自分でつけたってこと?用意周到というか、あざといというか、そこまでするかな?普通。そもそも、一体何のためにこんなことをしたんだろう。

 それに、あのモジャさん。話を聞いただけでここまで状況を理解してあんな短時間で答えを導き出すなんて、ほんとに何者なんだろう。

 単純に頭が良いとか、そういうことではない気がするんだよね。


「まあよくある話だが、スポーツをするときと普段とで利き腕利き脚の違うやつはざらにいる。こいつが左手にグローブを持っていたのは、野球以外では右利きだったからなんだろう。残念だったな。これで全て解決だ」


「…………大ちゃん?」

「ち、違う!ほんとに楠田は殴ったんだ、左手で。俺は殴られたんだ。なあ恵理、ひどい奴だろうこいつ」


 恵理ちゃんの両肩を掴み、乱暴に揺さぶり始めた。

しかし恵理ちゃんの顔色は悪くなる一方で、千葉君ともに、両者はまだ現実を受け入れきれていないようだった。


「乱暴はよせ千葉!これ以上お前の遊びに恵理を巻き込むな」

「そうだぞ。遊びがどうとかいう部分は俺は一切知らないが、俺に嘘は通じない。観念しろ。そして早く校長室の場所を教えろ」


 自分本位だなあこの人はほんとに。

今それどころじゃないことくらいはわかるだろうに。

 え、楠田君?千葉君がどんな人なのか知ってたの?もしかしてそのことで千葉君に用があったのかな。


「だいたいユニフォーム姿でここにいるのもおかしいだろう。教室の窓はグラウンド側に面しているからな。大方、窓から呼び止めてここに呼んだとか、そんなところじゃないか。所詮は子供騙し。文字どおり子供しか騙せない。上手く騙したいのなら、お前ももう少し大人になるんだな」

「………あぁもうっ!せっかく上手くいってたのに」

「説明して、大ちゃん」


 恵理ちゃんの目付きが変わった。

その目には全てを受け入れる覚悟が感じられた。意外と強いんだなあ、恵理ちゃんって。

 おっと、こうしちゃいられない。


「って、おい、なんだよ」


 モジャさんの腕を取り廊下まで引っ張り出した。

 このあとどうするかはあの三人が決めることだ。わたしたちの出る幕じゃない。

邪魔者はとっとと退いてちゃんと空気を作ってあげないと。そしてほんとの邪魔者であるこの人にもいい加減退いてもらわないと。


「校長室の場所なら、私が教えますから」

「そうか、悪いな」


 教室の中からは三人の話す声が聞こえてくる。

 それまで野次馬だった皆さんも事の顛末を見届けると教室に入り、机を整理したり、教科書を取り出し準備を始めている。

普段の生活に戻りつつありながらも、三人には気を遣い、絶妙な空気間を作り上げている。

 わたしはこのクラスのこういうところが、案外好きでもある。



「なんだよ恵理まで。俺は嘘はついてない。信用してないのか?」


「それは………。私だって信じたいけど」


「いい加減目を覚ませ馬鹿。こいつが何股かけてんのか知らないのか。学校じゃ専らの噂だぞ」


「あくまで噂だろ?ほら見ろよ恵理。お前から貰ったピアス、今日もちゃんと付けてんだぜ?」


「……………………違う」


「え?」


「それ、あたしがあげたやつじゃない。そんなの、見たことない」


「だとよ、千葉」


「………ちっ、どいつもこいつも。あーあぁ、せっかく記録更新できるところだったのに。邪魔な楠田を引き剥がせば、もう少し長く続くと思ってたが、仕様がない。じゃあな恵理、楽しかったよ。せいぜい楠田と仲良くな」


素っ気なく、足早に教室を後にする千葉。


「……………ふぅ。何やってんだろ、あたし」


「ほんとに馬鹿だよな、昔から」


「洋一に言われたくない」


「なんだよそれ」


「ねぇ、洋一」


「ん?」


「…………………ありがと」


「まぁ、ガキの頃からの腐れ縁だからな。さてと、さっさと着替えてくるか」


□サキ


「あの、ありがとうございました。助かりました」

「自分のためにやっただけだ。礼はいらない」

「………そう、ですか。あ、校長室なら一階正面玄関を右に曲がった突き当たりですよ」

「なんだ、下だったのか。なんで上がってきちまったんだろ」

「こっちが聞きたいですよ」


 ずっと聞きたがっていたことも教え、本当ならばさっさと立ち去ってもらいたいところなのだけれど、なぜかモジャさんはその場で顔だけを後ろにまわし、背後を気にしていた。

 わたしもそれにならって同じ方向を向いてみる。

 そこにいたのは、教室と教室の間の壁にもたれかかる千葉君だった。まだいたんだ。


「俺は商い通りで探偵屋をやってる。なんか困ったことがあったらいつでも来い」


 またこの人は。相手の傷口に塩を塗りたくっちゃって。

今千葉君にそんなこと言ったらさすがに憤慨すると思うんだけどなあ。

 それにしても言い終わるや否やモジャさんは千葉君には目もくれず下の方ばかり気にしている。

何かあるのかと、つられてついわたしの目線も動く。

 すると千葉君はポケットに手を入れ何かを探っているようだった。携帯かな?あ、でも携帯は今手に持ってるし。

それに、探っていると言うよりは、寧ろ何かを触っているような。

 って、ちょっと、違う!そんな、はしたない!

今想像してしまったことは、わたしの心の倉庫に厳重に保管しておくことにしよう。そして忘れよう、早急に。

 一方の声をかけられた千葉君は大きな舌打ちをして自らの教室へと足を運んでいった。


「最近のガキは愛想がないねぇ」

「あのぉ、そろそろ行ってもらえませんか?もう先生が来ちゃうので」

「わかったよ」


 再び気怠そうにスリッパを擦りながら廊下を歩いていくモジャさん。

 結局名前は聞けずじまいだった。だけど、一つあの人についての情報を仕入れることができた、たった今。

 あの人、探偵だったんだ。


■シンタ


 ようやく当初の目的を果たすための場所を教えてもらえたはいいが、それまでにだいぶ無駄な時間と体力を使ってしまった。

 嘘を聞き分けるのにも、それなりに疲れるのだ。

使った日に限っては、そうでないときと比べてわりと早くに寝入ってしまう。

 職業柄夜を更かしてでも調べなければいけないことがたくさんあるのにはあるのだが、これは今日はもう無理だと腹をくくった方が悩まずに済みそうだ。

 なんて考えを巡らせているうちに、校長室に到着する。

 授業が始まったせいか、さっきまでの喧騒が嘘のように、今は閑散としている。

 扉を二回、ノックする。


「はい、どうぞ」


 思っていたよりは随分と野太い声が返ってきたことに多少驚きながらも、冷えきったノブを回し押し開ける。


「昨日、電話を貰った者なんだが」

「ええ、お待ちしておりました。さあ、座ってください」


 いかにも校長室であるというような部屋だった。

規則正しく並んでいる棚にはいくつかのトロフィーがあり、空調もかなり気が利いている。全て焦げ茶一色で統一された部屋は、僅かに息苦しくも感じるが、まあ一人で仕事をする分には問題ないだろう。

 グレーのスーツに身を包んだ、白髪で眼鏡(老眼鏡)をかけた五十代ほどの男が、校長専用の椅子から目の前にあるコの字型のソファーに移動するところだった。

 やはり校長なだけあって、日々の仕事で体が疲労しているのだろうか。

そのソファーに辿り着くまでに、校長は肩のあたりに手をあて、首をいろんな方向に曲げては伸ばしてを繰り返している。

 座る瞬間、オーデコロンの香りが鼻の中を通り抜けていった。

 このまま立ち尽くしていても、それこそ話にならないので、催促される前に俺も腰を下ろす。座り心地は抜群だ。


「私はこの学校の校長の、篠原といいます」

「探偵屋の来井くるいだ。それで、依頼ってのは何なんだ?」

「単刀直入に聞いていただいて助かります。実は最近、この学校でよくない噂が広まり始めているみたいなんです」

「よくない噂、というと?都市伝説とか七不思議的なことか?」

「いいえ、もっと直接的なことです」


 篠原校長は座る位置を調整し、両膝に肘をのせ拳を握りながら、前のめりになって話し出す。

 その際に見えた、目の下のくまが印象的だった。寝る間も惜しんで仕事とは、ご苦労なことだ。

 俺の場合、いかに楽に生きられるかということしか考えていないというのに。


「私も人伝で聞いた話なので、真偽までは分からないのですが、どうやらこの学校の生徒の中に薬を使っている者がいるらしいのです」

「それは、穏やかじゃないな。高校生で覚醒剤か」

「経退第一高等学校は設立されて、まだ幾ばくも経っていません。今が非常に大事な時期で、我が校の評判は落としたくないんです。できれば穏便にその生徒を見つけていただき、さらに贅沢を言うならば自首をすすめてもらいたいというのが今回の依頼です」

「なるほど、たしかに評判は大事だ。さっき人伝と言ったが、それは誰から聞いたんだ?」


 普段は誰かに入れてもらっているのだろう。校長は慣れない手付きで、申し訳程度にお茶を差し出してきた。

 ここは甘えて、一口だけ口に含む。


「私は教師からそんな噂があるようだと報告を受けました。そしてその教師は、どうやら生徒から教えてもらったようです」

「…………そうか、わかった。受けよう。もう検討もついてる」

「本当ですか!?」

「一週間時間をくれ」

「わかりました」


 意外とあっさり話が終わったことに対しては少し拍子抜けだったが、これでようやく帰路につけると安堵する。

 早起きはあまり得意な方じゃない。学校の朝は俺にとっては早すぎる。

 疲労もおそらく溜まっていることだろうし、今日のところは大人しく寝ようと心に決める。

 また変な奴が来ていなければいいが。

 話は終わったとばかりに、加えて急かすように校長は扉を開き退出を催促する。

そんなに急がなくても、もう出ていくつもりでいたんだが。


「こちらでも何かわかったことがあればまた連絡します。それでは、よろしくお願いします」

「ああ、失礼する」


 こうして面倒な一日は、その面倒さとは裏腹に、大半を睡眠に費やすことによって終わりを迎えることとなる。

 まあ、明日以降でないと意味がないし、仕方ないということにしておこう。



■シンタ


 十月十日土曜日。

平日に比べて、週末に入った途端に俺の心は憂鬱になる。

もちろんそれにはそれ相応の理由がある。

 人の集まる所、ないし、人の多い所が極端に苦手だ。

苦手というか、早い話がただ単に心底嫌いだというだけだ。

 それだけでと言われたことはこれまでに何度もある。しかしそれでも人だかりを見ると苛々してしまう。

これを短所だとは思っていない。だいたい、最近の連中は周囲への配慮が全くなっていない。

 馬鹿みたいに騒いでいれば、自分が今日の主役にでもなった気分でいつまでも舞い上がり続ける。

成人式の輩がいい例だ。

 こっちはただ静かに平穏に、平和に日々を過ごしたいだけだというのに。

 そして今週末はおそらく世間は三連休だろう。体育の日と銘打つのならば、学校でもどこへでも行って一日中息を荒らげながら運動でもしといてもらいたいものだ。

 まったく、俺の憂鬱はまだまだ続きそうだ。


「頭、痛くなってきた」


 午後二時二十分。今日も商い通りは賑わっている。もとい、騒がしい。

 それでも自宅までの数メートルは耐えるしかない。

頃日舌が刺激を求めているのか、自宅から五十メートル程歩いたところにある中華料理屋で昼食をとるのが日課になっている。

 今日は作業がずれこんで遅めの昼食になってしまったが、逆に言えば、昼飯時を過ぎたこの時間帯でさえも、この街はこれだけ騒がしいということだ。

 恐るべし、経退町。

 心中でそんな独白を巡らせていると、我が家の小さな看板が見えてきた。歩を進める。


「待て。見えてるんだろ、止まれ」


 止まってたまるか。俺の安息の地はもう目と鼻の先なんだ。


「逃げるな」


 声は後ろから聞こえていたはずなのに、そいつは突然目の前に現れた。きっとまた脚を使ったんだろう。意地が悪すぎる。

 こいつ苦手なんだけどな。


「なんだ、俺は家に帰るんだ。邪魔すんな」

「お前が情報を持って来いと言ったんだろ。ここじゃ話せない。こっちに来い」

「……………面倒だな」


 しかし情報を持って来たというこいつの誘いを無下にはできない。おそらくは件の高校生の覚醒剤使用についてのそれだろう。そういえば前以て調べさせていたんだったな。

 検討がついているとは言ったものの、持てるだけの情報は一応所持しておきたい。

 様々な店舗が軒を連ねるこの商い通りに時々存在する、細い路地へと身を運ぶ。


「場所的には全く別のところになってしまうが、実際に使用している奴を見つけた。問い詰めても売り子に関しては知らない見たことないの一点張りだ」

「本当にそんな奴がいたんだな。少し前から話だけは耳にしていたが。というか、知らないのなら、どうやって購入していたんだ」

「日付が変わる頃に公公園に行けば、入り口右手にあるベンチの下にトランクが置いてあるらしい。毎回開けるための番号は変わっていて、無くなる頃を見計らって、今夜だと知らないアドレスからメールが来ていたそうだ。金はその時にトランクに入れるんだと」


 室外機の音がやけに耳につく。活気は増すばかりで、そろそろ苛々がストレスに変わってくる頃だろう。

 しかしこんなときでも猫という生き物は気楽らしい。室外機の上で赤毛の野良猫が飄々としている。

 そんな野良を一瞥すると話の続きを促す。


「公公園?すぐそこじゃないか。んで、そのアドレスってのは?」

「調べても意味ないだろうな。アドレスも毎回変わっているらしい。売り子との接点はゼロだ」

「おかしくないか?そもそもどうやってそのことを知れたんだ?」

「さっきも言っただろう。メールだよ。どうやら無差別に、不特定多数の連中へと一方的に送られてくるみたいだ」

「でたらめだな。金さえあれば誰でも手にできるってわけか」

「ああ。今回ばかりは、奴等が関わっていてもおかしくはないが、確証はない」

「まあ、そんな回りくどいことをするのが得意な連中だからな。十中八九関わってるだろう」


 それだけ話が聞ければ十分だ。

躊躇なく身を翻し路地を抜けていく。一瞬だけ気を遣い後ろを振り返るが、すでにそいつの姿はなかった。

 同業者というのは、どうにもやりにくくてかなわん。今後はなるべく関わるのを控えよう。

 ひとまず、ある程度は情報も揃ったことだし、今度こそ家に帰ろう。

 路地を抜けた先にある錆び付いた螺旋階段をゆっくりとのぼっていく。軋む音が微かに心地いい。


「ただいま」


 安い造りの扉を開け、誰に問いかけるでもない独り言を呟くと靴を脱ぎ、家に入る。

 だいぶ古いと思われる木造の家で、商い通りにあるためあまり広さに充実しているとは言い難いが、これでも一軒家だ。

 そして、俺の仕事場でもある。

 縦に伸びた部屋はシンプルで、真ん中左手には申し分ない大きさのデスクが置かれている。これは前に住んでいた家から盗み出してきたものだ。

 普段は仕事をするときしか座らないが。

 デスクの奥にはもう一つ扉が。談話室のような造りになっているそこは、衝立などが無意味に放置してあり、依頼者に話を聞くときなんかに使用している部屋だ。

 いらん世話かもしれないが、ちなみに寝室はその奥だ。風呂場やトイレも然り。

 とくに用事や整理する書類等もない。だから談話室のソファーで仮眠でもとろうかと思っていたところだったのだけれど、カーテンの膨らみに気付いてしまう。

 また厄介なのが紛れ込んでやがるのか。これで何度めだ。


「また来たのか。隠れても無駄だ。観念してさっさと出てこい」


 反応はない。

 しかし、いることはわかっている。


「いつまでも俺を煩わせるな。早く出てこい」


 大体いつもなら二度目の呼び掛けに応じて出てくるから、今回もそうだろうと思っていたが。


「す、すいませんでした!」


 期せずして、そんなことを言ったその声は俺の後ろから聞こえてきた。

 一体何だ。一体、誰だ?他にもこの部屋に誰かいたのか。


□サキ


 さてさて、一体どうしてわたしはこんなところまで来ちゃったんだろうか。

 たしか今日は他にちゃんとした用事があったんだ。普段学校でも仲良くさせてもらっている友達と一緒にショッピングにでも行こうと約束をしていた。

 だって今日から三連休なんだもん。

 なのにどうしてわたしはここに?

 ここというのはつまり、商い通り。

商い通りだからここでもショッピングができないこともない。

 でも違う。わたし達が行こうとしていたのは、隣街にあるここよりももっと大きなショッピングモールで、自分の住む街をこんな言い方してしまうと申し訳ないのだけれど、本来ならこんなショボいところに用はないはずなんだ。

 なのにどうして。そうだ、落ち着いて思い出してみよう。

 今朝は普通に起きた。いつもよりも若干ゆとりを持って目が覚めた。でも約束は昼からだから、それまでは十分すぎるほどの時間が空いている。だからわたしは一旦お風呂に入ることにした。それから、昨日のうちから決めてあった洋服を着て、おめかししていざ家を出発。歩いてバス停まで向かい、乗車。左側の前から五番目の座席に座り窓からぼんやりと外を眺めていた。すると、商い通りの大きなアーチ状の看板が目に入る。そのとき、何故かその看板がやけにわたしの心を落ち着かなくさせた。たぶん昨日のあのモジャさんのせいだ。それからは早かった。誰かが押した降車ボタンに便乗し、乗車賃を支払いこの地に降り立った、と。この時すでにメールで友達には約束のキャンセル済み。

 ………わたし、自分からしっかりここに来ちゃってるじゃん。なにやってんだろう。

 友達との約束を破棄してまでここに来るなんて、自分でも自覚しないうちに気になってしまっていたってことか。情けない。

 だけど、ここまで来ちゃったんならもう仕様がない。徹底的にあのモジャさんについて調べあげてやるんだから。

 本物の探偵顔負けの策敵スキルで。ああ、別に敵ではないのか。

 とりあえずこの辺をうろうろしてみよう。

 渦を巻いているとは言ったものの、商い通りは一本道だ。入れ違いも、見過ごしも確率的にはほぼないだろうと、思う。

わたし次第だけど。


「そういえば久しぶりだな」


 昔は家族でよく買い物に来てたけど、今はもう自分のことは自分でできるようになったし、そういう意味では親もわたしも、歳を取ったってことなのかな。

 まあ、お父さんに限ってはほとんど家にいないからよくわかんないんだけれど。

 それにしても、やっぱり週末だけあって人が多い。嫌いではないけれど、ちょっと緊張しちゃうかも。

 今やすっかり人気店になってしまったこの中華料理屋も、開店当初はガラガラだったな。たまにお父さんと食べに来てたっけ。

 そんな風に昔のことを思い出しながら懐かしんでいると、まるでそこに突然現れたように一人の男の人が出現した。まさに瞬間移動と呼ぶに相応しい一瞬だった。

 今のどうやってやったんだろう。手品か何かかな。誰か男の人と話をしているみたいだけど。


「………あ」


 いた。

 まさかこうもあっさりと見つけてしまうとは。いた、いたよ、モジャさんが。

これでは探しがいというものが一切ないじゃないか。

 友達とのショッピングをキャンセルしてまでここにやってきたというのに。

 あの二人知り合いなのかな?どういう関係なんだろう。

 いよいよ二人は辺りを警戒しながら歩き出す。

 見失わないように注意しておかなきゃ。

 しばらく歩くと、二人は細い路地に姿を消した。なんだかいかにもで、怪しいことこの上ないのだけれど、それでも意を決して着いていき、見張っているしか選択肢はない。

 そう思いわたしも路地に入ろうとしたところだった。

 色褪せた木でできた、小さな小さな看板が目に止まった。

昨日あの人を初めて見たときと同じように、その看板には何やら不思議な魅力のようなものを感じた。

 そしてそこには、『来井探偵屋』と毛筆で、達筆とは言い難いけれど、なかなか味のある字体で、勢いよくそう記されていた。


「…………もしかしたら、ここが」


 そうだ。昨日たしかにあの人は、自分は探偵だと言っていた。

もっとも、全て終わったあとにわざわざ千葉君にあんなことを言った意味はわたしにはさっぱりわからないけれど。

 それに、目線や体の向き的にも、この家に入ろうとしていたはず(たぶんだけれど)。

 よし、今おそらくあの男の人と話しているであろうまさにこの隙に、この家に潜り込んでやろう。

 そうと決まれば善は急げ(?)だ。なんだかめちゃめちゃ錆びてしまっているけれど、わたしは颯爽と、軽快に螺旋階段をのぼっていった。

 のぼった先には一枚の扉が。なんだか安い扉だなあ。お金ないのかなあ、あの人。

 でも今考えてみると、ここまで来たはいいけれど普通は入れるはずないか。当然、鍵だって閉まっているだろうし。

 そう思いはしたものの、無駄だとわかってはいたものの、なんとなくノブに手をかけ捻ってみると、それはきちんと最後まで回ってしまった。


「あれ、開いてる?」


 これはどうしたものだろうか。

わたしの中で好奇心と自制心とがせめぎ合いを始めている。激しい葛藤に頭が支配されてしまう。

 ああ、でも駄目だ。好奇心には勝てっこない。

 駄目だとはわかっていても、それが不法侵入だとわかってはいても、好奇心に背中を押され体が勝手に動いてしまう。

 とうとうおそらくあのモジャさんの自宅であろう来井探偵屋というところに足を踏み入れてしまった。不法侵入だ。

 良い子じゃなくなってしまいました。お父さん、ごめんなさい。

 そこはやけに長い家だった。

真ん中には作業台だと思われる比較的大きめなデスクが。そしてその先には、扉がもう一つ。

 テレビドラマとかで見るのとは違って意外と地味かも。探偵事務所ってもっとこう、小綺麗な雰囲気のあるものだとばかり思っていたけれど。

 そういえば看板には探偵屋って書いてあったから事務所ではないのか、ここ。

 しかし次の瞬間、玄関と思われる場所で立ち尽くし考えを巡らせていた私に危機が訪れる。


「げっ、…………そんな」


 螺旋階段をのぼる足音がわたしの耳朶を叩いてくる。

 まさか、モジャさんが来た?もう?話終わるの早くない?いつまでもこんなところにいないで早く帰れば良かった。というか、そもそもこんなことしなければ。

 どうしよう。今出て行けば確実に鉢合わせしてしまう。逃げ場はない。追い込まれた。万事休すとはこのことだ。一生縁のない言葉だと思っていたのに。

 錆び付いた階段の軋む音が聞こえる度に、鼓動がはやまり、わたしをどんどん責め立ててくる。

 どこか、やり過ごせる場所。隠れる場所。なんでも、どこでもいいから。少しの間だけ。

 一番手近にあった棚のようなものを焦らず、音をたてないように開いてみた。どうやら天井まで続く靴箱のようだけれど、とてもじゃないけれど、人が隠れられるようなスペースではない。

 いや、わたしならいけるかも。ずっとコンプレックスだった短身がまさかこんなところで役に立つ日が来ようとは。

 急いで忍ぶようにその靴箱に身を隠し息を潜めた。

 本当にギリギリだったみたい。身を隠した瞬間に、ノブを回す音が聞こえる。息を止める。

 建物全体に響くように扉の閉まる音が豪快に鳴り響く。


「ただいま」


 !?

 ………危なかった。

 危うくおかえりと呑気に言葉を発してしまいそうになる。癖って怖い。

 そもそも、モジャさんって独り暮らしなのにいちいちただいまとか言うタイプなんだ。なんて紛らわしいことを。

 どうかこのまま息災に事が終わりますように。

 そう願ったのも束の間、わたしの耳に悪魔の声が届く。


「また来たのか。隠れても無駄だ。観念してさっさと出てこい」


 終わった。なんということだ。

 どうりで全然奥に進む気配がないと思っていた。それもそのはず、わたしがここにいることがもうバレてしまっているだなんて。

 ん?でもここに来たのは今日が初めてなんだけれど。


「いつまでも俺を煩わせるな。早く出てこい」


 ヤバいヤバいヤバい。

 ごめんなさいすいませんでしたすぐにここから出ます。


「す、すいませんでした!」


 一度は封印したはずのただの扉を、もとい、棚の扉を開け放ち、飛び跳ねるように外に出ると開口一番謝罪の言葉を口にした。


「……………………なんだお前。なんだ誰だなんでだ」


 あれ?


■シンタ


 誰だこいつ。今まで一体どこに隠れてやがったんだ。全く気付かなかったぞ。

 本来狭いと言えるこの家には、更に言うと玄関という限られた空間の中じゃ隠れられるところなんて皆無なはずだが。こっちが辟易してしまいそうな気分だ。

 待てよ。まさかこの靴箱に入っていたっていうのか?

たしかに高さは十分にあるが、とても人が隠れられるような場所では。

 いや、ちょっと待て。こいつはたしか昨日のチビ。

 視覚から得られる情報をとりあえず冷静に述べてみる。

 ピンク色のキュロットに、上は白いニットセーター。足には黒タイツを履いているが、足下は淡い色のスニーカーだった。

 この組み合わせが果たしてお洒落かと言われると、そういうものに関しては一切頓着のない俺からしてみればよくわからない。

 ただ、短身なわりには上手く着こなせていて、正直違和感というものはあまり感じられなかった。

 というか、このチビだったのならいろいろ納得だ。ギリギリ隠れられたのかもしれない。

 って、納得している場合なんかじゃない。

 不法侵入だよな、これ。そもそもどうしてこいつが我が家に。


「あら、もう一人お客さんが来ていたの?」

「やっぱりお前か、霧子」

「ほぇ?」


 膨らんでいたカーテンの中からゆっくりと、そいつは出てきた。


□サキ


 これは一体どういう。

 モジャさんが声をかけたカーテンの中からブロンドヘアの女性が現れた。

 はいそうです。どうやら完全にわたしの早とちりだったみたい。こっちだったのかあ。

 あのまま隠れ続けていれば、あるいは無事に脱出できたかもしれないものを。自分の愚かさにもはや脱帽しそうな勢いだ。

 自分で言うのもなんだけれど、幼い頃から廉直に生きてきたわたしが、嘘をついてやり過ごそうなんてこと自体が、土台無理な話だったのだ。それこそ、荒唐無稽だ。

 それにしても、誰なんだろうあの超絶美人は。

 余裕の八頭身は見事なもので、腰の辺りまで真っ直ぐ伸びたブロンドヘアは射し込む光を吸収し、何倍にも増幅させ解き放っているかのよう。

 遠目で見れば外人のように思えてしまうが、綺麗なブラウンの瞳が特徴的で、そんな瞳を持つ顔は欧米人のような自由さと、古きよき日本人の上品さの両方を兼ね備えている。全く非の打ち所がない。完璧人間だ、この人。

 肌の白さを引き立たせる白いシャツにブルーのタイトスカート。上品なだけでなく、とても良い意味で、下品なところも持ち合わせているとは。

 こういう人を女性と呼ぶんだ、たぶん。穴があったら入りたい。

この人と同じ空間にいると、まるで自分が裸で立っているんじゃないだろうかという錯覚さえ覚えてしまう。

 一体何者?


「まあ、霧子はいつものことだとしてもだ。お前はなんだ。何故我が家に潜んでたんだ」


 てへうふ(てへぺろだっけ?)。

 そうでした。


「ごめんなさい」

「いつからいたんだ」

「ごめんなさい」

「なんでいるんだ」

「ごめんなさい」

「何しに来たんだ」

「ごめんください」

「…………ふざけんなよチビおい」


 するとブロンドヘアの女性が遮るようにして、わたしとモジャさんの間に立った。


「女の子に一方的に質問するなんてちょっと失礼じゃない?真ちゃん」

「その呼び方はよせっていつも言ってるだろ。それに、こいつは女の子じゃない。女の子供だ」

「あら、真ちゃんって屁理屈も言えたのね。案外可愛いとこあるじゃない」

「はあ。お前なぁ」

「あのぉ………………」


 なんだか二人で漫才を始めちゃったけど、わたしからしてみれば一刻も早くここから立ち去りたいというのが今の心境だ。

 自業自得だということは端から自覚済みなので、早いうちに洗いざらい白状しておいとまさせてもらおう。


「なんだ、話す気になったのか?」

「はい、すいませんでした。ちょっと、その、気になったので」

「それだけか?」

「はい」

「本当にそれだけなのか?」

「いえす」

「なんだただのアホか。もういい、とっとと帰れ」


 なんか軽く自然にディスられてしまったけれど、あっさりと帰してくれるらしい。お咎めなし?


「え?帰っていいんですか?不法侵入なのに」

「わかってるならするな。面倒くさいだけだ。お前もその方が都合がいいだろう。まだ高校生なんだし」

「やだ、真ちゃんったらついに高校生にまで手を出しちゃったの?」

「誤解を生むような発言をするな。そこまで飢えちゃいない」


 なにはともあれ、帰してくれるというなら大人しくそれに従おう。

 やっぱりモジャさんのことは気にはなるけれど(この時点でもわたしはなんでこんなにモジャさんのことが気になるのかはわかっていない)、ここはお言葉に甘えさせていただくことにする。

 そう思って引き返そうとしたとき、霧子と呼ばれていたブロンドヘアの女性がわたしの目線に合わせるように少ししゃがみ言葉をかけてくる。

 べつにわたしの身長が低いわけではない。彼女が高すぎるのだ。きっとそうに決まっている。


「なぁに?そんなに真ちゃんのことが気になるの?じゃあ代わりにあたしが教えてあげようか」

「え、ほんとですか?」


 これは予期せぬ見返りがきた。棚ぼた的な?

 わたしはこっちの言葉にこそ甘えるべきだと踏んだ。デレデレになるべきだとわたしの脳がそう判断した。


「教えてください!あ、でも、あなたは?」

「これは失礼。あたしは目隠霧子めがくれきりこ。神出鬼没の凄腕敏腕女探偵よ」

「なにが敏腕だ。明らかにお前のそれは偽名だろう」

「モジャさんは黙って。」


 今一番良いとこなんだから、話の腰を折るのはやめて欲しいものだ。

 あ、しまった。わたしの心の中だけの二人称をつい口走ってしまった。失言だったかな?

 まあいいや。


「なっ、もじゃーーー!?」

「っふふ、あなた面白い子ね。気に入ったわ、さあ座って」

「有り難うございます。失礼します。申し遅れました、わたし福満咲希って言います」

「まあ、お行儀の良い子ね」

「なに勝手に座らせて、なに勝手に他人の素性語ろうとしてんだよ」

「いいじゃないべつに。どうせ暇なんでしょ?それに、ここで女二人を敵に回すと面倒なんじゃない?」

「………………もういい。勝手にしろ」


 ついに観念したか。妖怪モジャモジャ天パー男。

 なんてことはさすがに口にするわけにもいかず、割と座り心地のいい回転椅子に座って万全の聞く態勢を整える。


「まずはあたしの自己紹介が先かしら。名前はさっきの通りよ。一応本名のつもり」


 つもりで本名を名乗られてはたまったものじゃないけれど、気にしないことにしよう。


「そしてこれもさっき言ったけど、あたしも探偵なの。ここから真逆のところになるんだけど、この来井探偵屋に対して、あたしのところは目隠探偵館って言うの。何か入り用があればいつでも歓迎するわ。こんな辛気くさいとこなんかより何倍も力になってあげられると思うから」

「よく言う」

「霧子さんは、ここで働いているわけじゃないんですね」

「ええ。個人経営ってことになるわね。他にも色々おかしな連中はいるけど、みんな協会の傘下で繋がってるわ」

「協会?」

「そう。あたし達が勝手なことをしないための、見張り役みたいなものよ。まあこの街は、というか、この街の探偵は普通じゃないから」


 微かに霧子さんは口角を吊り上げた。

 それは妖艶とも違和とも言える漠然としたものだった。

 なんだか、理由もなく霧子という女性そのものに嫌疑をかけてしまいそうなほどの。

 気にしだすと切りが無いし、そんなことは頭の片隅に追いやって話の続きを聞こう。

 どうせわたし鳥頭だし(よく言われる)、すぐ忘れるでしょ。


「普通じゃないって、どういう。それに、他にも探偵さんがいるんですか?」

「たくさんいるわよ」

「霧子については俺が話してやろうか」


 モジャさんが話に割り込んでくる。

 いらん世話だ。


「どうぞどうぞ。真ちゃんの方が説明は上手だし」

「普通じゃないってのは、俺も含めてだが、どこかにおいて常人とはかけ離れてしまっているということだ」

「うーん、つまり?」

「例えば、霧子の場合」


 モジャさんは唐突に自分の顔のあるパーツを指差す。

 それまで何も考えていなかったせいか、意図せず勝手に口がその名称を声に変える。


「鼻?」

「ああ。霧子の鼻は最早人間の鼻とは比べ物にならない。つまり、極端に鼻が利くってわけだ。例えるなら、シェパードと同等の嗅覚。探偵にはうってつけだな」

「ああ、シェパード。シェパードってあの、警察犬の」


 よくわからない。

 犬の嗅覚は人間より優れているとよく耳にはするものの、実際わたしは人間なわけで、それを体感できればその凄さがわかるのだろうが、なんだかいまいち釈然としない。


「あんまりわかってなさそうだな。数字で言った方がわかりやすいか?」

「あ、はい。わたし理系なので、ぜひ数字で表してください」

「俺も犬に対してそこまで詳しいわけじゃないんだが、おおよそで言えば人間のーーーーーー三千倍だ」

「さっ、ーーーーーーー三千倍!!?」


 驚きすぎてその場で噎せかえってしまった。

 いや、だって。三千倍?霧子さんの嗅覚が?そんなバカな。それって反則じゃないの?

 犬ならまだしも、物を考えられる人間がそんな嗅覚を手にしてしまったら誰も逃げられなくなるんじゃ。

 霧子さんが優しくわたしの背中をさすってくれる。


「あらあら、大丈夫?」

「っは、はい。でも、だって三千倍ってさすがに」

「真ちゃんは嘘ついてないわよ。先天性のものなの。生まれた時からずっとそうだったわ。そうね、それじゃあ」


 そう言って霧子さんはわたしを、というか、わたしの周りの空間、とでも言うんだろうか。とにかくその辺りに鼻を近付け、犬がするのと同じ要領でくんくんを始める。


「うん、わかった」

「わかったって何がです?」

「昨日の夕飯は白蜜屋しろみつやの最高級白粒餡ぱん。今日のお昼は、蜂宝堂はっぽうどうにあるこし餡&クリームの今川焼ね。咲希ちゃん?相当あんこが好きみたいだけど、もう少し体型には気を遣った方がいいわよ。食べても太らないのは若いうちだけなんだから」

「すごい!どうしてわかるんですか!?」

「それが霧子の嗅覚だよ。霧子が言うには、臭いにも新しいものと古いものがあるんだと。こいつは一週間前までの臭いなら簡単に嗅ぎ分けられる」

「すごい。尊敬です。尊崇です」


 芸だと言ってしまえば聞こえは悪いが、それだけで十分お金を稼げるほどの特殊能力だ。

 そんな人が探偵になってしまった暁には鬼に金棒どころか、きっとエクスカリバーさえ手にしてしまっている。末恐ろしい限りだ。


「やだもう。そんなに褒めちゃって、可愛い子ね」

「いいえ、ほんとのことです。霧子さん格好いいです」

「気をつけろよ、そいつレズだから」

「……………え」


 耳を疑う。視線でその真偽を彼女に自白させようと促す。


「ああ、うん。本当よ。昔はそりゃ男が好きだったんだけどねえ。ほら、鼻がいいとすぐわかっちゃうのよ。浮気でもなんでも。それで男には愛想尽かしちゃったって感じかしら」

「苦労してるんですね………」

「っふふ。高校生に言われちゃったんじゃ世も末ね。さてと、次は真ちゃんの番ね」


 そうだそうだ。

霧子さんの凄さに忘れてしまうところだった。

 ここに来たそもそもの目的がこのモジャさんのことを気にしだしたからなんだった。

 昨日の手際は見事なものだった。ただ頭がいいだけじゃあそこまで早くは済ませないと思うんだけれど。

 一体彼にはどんなカラクリが。


「余計なことは言うなよ。お前の暇潰しに付き合ってやっただけなんだから」

「はいはい、わかってるわよ」

「モジャさんは一体、どこが普通の人とは違うんですか?」

「その前に、モジャさんじゃなくて、彼は来井真太くるいしんたという名前よ」


 慣れたのか、はたまた早々に諦めたのか、そのどちらかかはわからないが、モジャさんに対してのモジャさんという二人称にはもう反論もツッコミもされなくなっていた。されたのは訂正だけだ。

 それはそれでなんだか寂しい気がしないでもないけど。

 そんなことはどうでもよくて、霧子さんがいざモジャさんの素性を話し出そうとしたとき、彼女は先刻のモジャさんと同じように、今度は自分の胸を指さした。


「えっと、胸、ですか?」


 怪訝さが滲み出ているのが自分でもよくわかる。

 今回のそれに関しては一切意味がわからない。


「胸が変わっているんじゃなくて、真ちゃんには心臓の音が聞こえるの」

「心臓の、おと?」

「そう。変わっているのは耳よ。真ちゃんは小さい時に巻き込まれた事件の影響で、それまで眠っていた力が目覚めてしまったの。あたしが先天性なのに対して、真ちゃんのは突然変異ってところかしら」


 それはまた。よくわからないけれど。

 説明してくれるであろう霧子さんの口元を思わず凝視してしまう。


「真ちゃんは嘘が分かるの。正確には、相手に質問を投げかけてその返ってきた答えで嘘かどうかを判断する。直接どの部分が嘘なのか、どういう嘘をついているのかがわかるわけじゃないわ」

「じゃあどうやって?」

「真ちゃんの耳には、普通の人ではあり得ないけれど、人の心拍の音がはっきりと聞こえてしまうらしいのよ。真ちゃん曰く、嘘をつけば無意識下に心拍数が上昇してしまいそれで嘘かどうかがわかっちゃうんですって。不思議よね」

「え、あの、はい。なんだか聞いた今でもパッとしないですけど、可能なんですか?そんなことが、ほんとに」

「霧子の言葉は嘘じゃない。その証拠に、今もちゃんと、はっきりと、俺の耳には聞こえてる」

「だそうよ。元々は普通の子だったんだけど、嘘が聞こえるようになってからは、どうしてそれが嘘なのかを考え、さらには、もちろん他の人にはそれすらも聞こえていないわけだから、それをわかってもらうために説明していくうちに、いつの間にか語彙力、推理力、思考力、論理力が身についちゃって、今は仕方なく探偵をやっているってわけ。どう?わかった?」

「はい。未だに漠然としてますが、なんかそれはそれでモジャさんの方も意外と大変そうだなって、今思ってます」

「素直でよろしいわ。嫌いじゃないわよそういう子」


 一通りの説明を終えたところで、霧子さんは伸びをしながら回転椅子に任せくるくると体を回転させる。

 一方のわたしも、一通り説明を聞き終えたわけだけど、一応は昨日の謎が解けたということになるのかな。

 昨日モジャさんは三人に会った時点で誰が犯人かがわかっていて、そこからどうやったかを考えていったってことか。

もしくはボロを出させるための罠を張ったりとか。

 つまり、普通の人とは逆に物事を考えているってことになるんだ。

 圧巻で、凄いと思えることは思えるのだけれど、その傍らでわたしの心にはなんとも言えぬモヤモヤした気持ちが漂っていた。

 他人の嘘が聞こえるってどんな気持ちなんだろう。知らない方がいいことだって当然あるだろうに。

 わたしの気になっていたことの真相は思いもよらない、全く想像だにしていなかった結末になってしまった。

 それにしても。


「それにしても、その事件っていうのは一体どんな」

「それを言うと、たぶん余計なことになってしまうから、言えないわね」

「あ、ごめんなさい」


 微妙な空気が流れてしまったが、決して悪気はなく、ほんとに謝罪の意があるのだということが、モジャさんに伝わっていればいいけど。

 わたしが余計なこと言っちゃった。

 すると、モジャさんは立ち上がり際にパンッと手を打つと上着を羽織り靴を履き始める。


「さて、霧子の言葉も終わったところで、行くか」

「え、行くってどこにですか?ん、わたしも?」

「同じ高校の生徒が目撃者だった方がたぶん何かと都合もいいだろう。とりあえずは黙ってついてこい」

「は、はあ………」

「えー、なに?あたしだけ仲間外れなの?」

「いや、今回はお前は来ない方がいい。気絶でもされたら面倒が増える」

「ああ、そういうこと。じゃあ、お言葉に甘えて遠慮させてもらうわ。ここで待ってるから」

「いや帰れよ」


 そのあともぶつぶつと文句を垂らしながらも、渋々家を出ていくモジャさん。

 ああ言われた後でさすがに帰るわけにもいかず、わけもわからぬままモジャさんのあとをアヒルの子のようにわたしも追いかけていった。



■シンタ


 再び螺旋階段を降りて、先程あいつと話した路地の辺りをまずは目的地として自分の中に登録する。

 しかしこのチビがいたときには驚いたものだが、今となってはいてもらった方が助かるのかもな。どうやら顔見知りみたいだし。

 いつの間にか俺の横につけていたチビは顔を上に向けながら少々苦しそうに問いかけてくる。


「どこに向かうんですか?」

「どこにも向かってなんかいない。誘き寄せてるんだ」

「誘き寄せる?誰を」

「ほら、今日は土曜日だろ」

「あまり答えになっていないのですが」


 困惑している様子のチビは放っておいて、とりあえず足を動かし続ける。しばらく遠回りしたあと、また同じ路地へと入っていく。


「どうしてこんなところに?……………はっ!まさか、モジャさんわたしをどうにかするつもりじゃ!?」

「はっ!じゃねえよバカ。俺にロリコンの趣味はない」

「うわ、失礼ですねぇ」

「いいから、後ろ見んなよ」


 それだけ注意しておくと、真っ直ぐに薄暗い路地を歩く。アスファルトの固さが不安をかきたてるようだったが、さっき我が家を出る前に一応連絡は入れておいた。

もうぼちぼち来る頃だろう。あいつも、奴も。

 そうこうしているうちに行き止まりまでついぞ到着してしまう。


「え、なんで」


 先に後ろを振り向いたチビは気付いたみたいだ。

 頭の中で再度言葉を整理しながら時間をかけて俺も体の向きを百八十度変えた。

 そこに立っていたのはやはり、昨日追い詰めた千葉大地だった。


「どうして千葉君が?」

「よ、おっさん」

「昨日言ったことをもう忘れたのか?俺はまだ二十五だ」

「うるさい黙れ。昨日はよくも恥をかかせてくれたな」


 後ろからぞろぞろと、お連れの方が登場してくる。

 一体千葉とどういう関係なのかはわからないが、千葉よりも遥かに年上だと一目でわかるような輩までいる。

 まあ、大体予想はつくけれど。


「ひえぇ、ヤバいですよこれ!」

「うるさいな。音が嫌いだと昨日も言ったろ」

「そんな悠長なこと言ってる場合じゃ!あ、そうだ。物凄くいい作戦を思い付きました。さっそく取りかかりますね!」


 そう言ってチビは何やらスマホを操作し始めるが、今は無視しておこう。面倒だ。

 そして目の前の奴らには一切触れることなく、ただ一点、千葉だけを見つめ話を切り出す。

 ここからどれだけ時間を伸ばせるかが勝負だな。


「昨日からおかしいとは思っていたんだ」

「ちっ、は?何だよ急に」


 立ったままで激しく貧乏揺すりを始める千葉。

 右手で左腕の腹の辺りをぼりぼりと掻いている。

 千葉の声で我に帰ったのか、チビは機敏に顔を前に向き直る。


「お前には昨日のこと以外で、もっと根本的な何かを隠している節があった。奥の方で微かにだが、違う音が聞こえていたんだ」

「意味わかんね。あんたもしかして厨二病?」

「違う音ってなんですか?」

「俺が聞いてんだよチビごるぁ!!」


 チビという言葉に反応し、睥睨する千葉に対し顔をくしゃくしゃに歪めながら怒りを顕にするチビ。

 構わず語りを続ける。でなければ、おそらく口を閉ざした瞬間に全員で襲いかかってくるだろう。


「お前は誰にでもなく、また、誰にでも、一つ大きな嘘をついているな」

「………………………」

「大きな嘘?」

「ああ。お前は昨日自分が追い詰められる度に、しきりに自分のポケットに入っているものを触っていたな。あれは安心するためだ、違うか?」

「ああ、違うね」

「いいや、違わないはずだ。あのポケットの膨らみ方からすると、おそらく中に入っているのはスマホだ。だが俺が廊下で声をかけたとき、お前はポケットの中を触りながら、同時にもう一方の手で別のスマホをいじっていた」

「でも、今どき二台持ちなんて当たり前ですよ?」

「そうだ、そのチビの言う通りだ」


 二度目のそれには、今度は獣が唸るような声で返していた。何度言われてもそういう態度を見せるところを見ると、さてはこいつ相当気にしているな。

 いよいよそんな余裕をこいている余裕すらなくなってきているが、あと少し。


「それも違う。おそらく一つはダミー。普段実際に使っているのは昨日手にしていた方。そして、もう一方のスマホはそこにあるはずがないと思い込ませるため」

「あるはずがないって、何がですか?さっきから何のことを言っているのか、わたしにはさっぱりで」

「お前は黙って話を聞いてろ。見てるだけでいいんだから」


「それ以上喋るな!」


 そんな怒号が路地裏に一瞬で轟々と響きわたった。それまでただ見ているだけだったが、聞いているだけだったが、いよいよ自分の知られたくない核心に触れられたと思ったのだろう。

その辺に落ちていた鉄パイプを手に握り、ジリジリと間合いを詰めてくる。

 いい加減やる気になったらしい。

 鉄パイプなんてゴミだろ。ゴミぐらいちゃんと片しとけよ。商い通りの連中はどうなってやがるんだまったく。

 だが、そんな悪態をつく余裕はある。なぜなら、どうやらあいつが間に合ったみたいだからな。


「その真ん中の男でいいのか?」

「ああ。お前から見て左のポケットだ」

「あいわかった」


 誰もがその声に後ろを振り向かずにはいられなかった。

面白いほど同時に柄の悪い連中はあいつのいる方向に顔を動かす。


「あ、あの人。さっき話してた人ですよね?」

「なんだ、お前見てたのか?」


 するとあいつは先刻同様一瞬で俺の目の前に移動する。

 その手にはスマホがしっかりと握られていた。さすがの手際だな。


「うぇっ!?今、何がどうなって」

「ぐ、あああぁ!返せ、今すぐ返せ!!」


 千葉は取られたことに今気付き、顔を紅潮させながら怒鳴り散らす。

 そう。こいつにはあいつのスマホをすれ違い様に取ってくるよう前以て言ってあった。

 ここまでは順調。作戦通りだ。


「誰なんですかこの人!急に現れて」

「時間がないから手短に話すぞ。こいつも同業者、探偵だ。名前は足腰剛あしこしつよし。名は体を表すとは上手く言ったもので、こいつも変わってる。毎日借金の取り立てから逃げ回ってるうちに、高速で歩けるようになったんだと」

「まあ、そういうことだお嬢さん」

「はい、わかりませんがわかりました。一日に色んな人を見すぎて頭がパンクしそうです」


 剛についてはさして重要だとも思ってないからな。どんな見た目かなんて省略しても構わないだろう。


「というか、どうして千葉君のスマホを?」

「さっきも言っただろ。こんな絶妙な隠し場所、他にはないからな」

「やめろ………!」

「さっきから何のことを言ってるんですか?何がなんだかさっぱり」

「日常的に使い、何よりも普及しているスマホだからこそ、お前は隠し場所にここを選んだんだ」


 これでとどめだとばかりに、歪む千葉の顔に刻みつけるかのように、俺はスマホを掲げゆっくりと、本来電池パックの入っている筈の場所から蓋を取り外した。

 中から出てきた小さな袋に入った白い粉は、アスファルトに弾み無造作に放り出される。


「そんな、これって…………」

「覚醒剤だ」


□サキ


「覚、醒剤………」


 高校生が、覚醒剤!?

 高校生というか、未成年者が?千葉君が?経高たちこう(経退第一高等学校)の生徒が?

 だからモジャさんはわたしについて来いって言ったのかな。同じ高校の生徒が証言した方が信憑性が高いから。とか、そんな理由で?(実際のところはよくわからない)

 喫驚して口をあんぐり開けてしまっているわたしをよそに、モジャさんが挑発するような視線を千葉君に向けながら言う。


「どうやら、当たりみたいだな」

「ふ、ふざけるな!それは俺のものじゃない。騙されたんだ、てめえに!昨日あんなこと言われなけりゃ、こんなところになんか来やしなかった」


 そういえば昨日わざわざ千葉君に向かってわざとらしく自分の素性を明かしていたモジャさん。

さっきの誘き出すという言葉から察するに、昨日はほんとにわざとあんなことを言っていたんだ。

 千葉君を煽って、休日の今日商い通りに誘き寄せるために。

 一体どこまで考えて行動を起こしているんだろうこの人。可能性に懸けているのか。確信を持ってやっているのか。

 未だ謎多き探偵だ。


「証拠が出た以上、そんな言い訳が通用するとでも?」

「っの野郎……、ただじゃ済まさねぇ」

「暴力に頼ってもいいが、その場合お前がこれを所持していたのを認めることになってしまうが、それでもいいのか?」

「くっーー!」


 一緒に来ていお連れの方達は、千葉君がそれを所有していたことを知ってか知らずか、たじろぎ、戦き、どうすればいいか、その感情のやり場を見失っているようにも見える。

 暗い路地だからか、額に浮かぶ各々の汗が不気味に輝いている。

 千葉君はそれでも諦めがつかない様子で、しびれを切らしたのか手に持っている鉄パイプを振りかぶりながら、モジャさん目掛けて一気に突っ込んでくる。


「ぅあああぁぁ!!」

「剛」

「やれやれ、だな」


 いよいよその凶器がモジャさんの脳天を叩き割ろうかと降り下ろされる瞬間、モジャさんよりさらに後ろに下がっていたはずの高速さん(道路みたいだけど一応足腰さんの二人称)が、またもや瞬きさえも許さない速さで千葉君の背後へ回り鉄パイプを握りしめる。


「観念しろ。ところで、その薬はどうやって手に入れた?やはり公公園でか?」

「うるせえ離せ!知るかそんなもん。誰が教えてやるかクソ野郎!!」


 高速さんの言うとおりさっさと観念してしまえば面倒なことにならずに済みそうなのに。

 まあでも観念しちゃうと学校には行けなくなっちゃうんだけど。


「それも違うな。鼓動に規則性がなくなってる。嘘ではなく真実を言え」


 再び千葉君が嘘をついていることを見抜いてしまうモジャさん。

 ただ、この場合は端から見ていても嘘だということがわからなくもないので、わざわざモジャさんが聞く必要はなかったんじゃないかと、わたしなんかは思ってしまう。

 もしかしたら、意外とモジャさんは抜けているというか、天然なところがあるのかもしれない。その頭と同じで。


「薬の入っているトランクについてはどこまで知ってる?教えてくれたら見逃してやらなくもない」

「………本当か?」


 突拍子もなくとんでもないことを言い出すモジャさん。

 そんな犯罪に荷担するような行為許されるはずがない。

相手が未成年者だからこそ大人が正すべきじゃないのか。

 それだけはお父さんから受け継いだ正義の細胞(自分でも独白してて恥ずかしい)が許さない。


「駄目ですよそんなの!お父さんが言ってました。若さ故の失敗は数多の選択肢から自分の進むべき道を探しているだけだ。その先を照らしてやるのが大人の務めなんだって。千葉君にはまだ更生の余地があります」

「今どきそんな格言流行らん。損得で物事を考えるのが自然だろ」

「絶対に違います。間違ってますそんなの!」


 モジャさんが振り向く瞬間にさらさらと動く頭のチリチリモジャモジャに腹を立てながらも、その顔を見上げ鋭い視線を送る。

 しかし一方のモジャさんは一切気にした様子もなくただ真顔で見返してくるだけだった。


「俺の格言教えてやろうか」

「なんですか」

「この世の中な、真面目に生きてる奴から順に損するようにできてるんだ、最初からな」

「え?は?え?」

「だから、この世の中………」

「すいません聞こえません」

「まだ最後まで言ってないだろ」

「すいません聞こえません」

「子供かお前は!」


 どうせ子供ですよ。女性というよりは女の子供ですよ。

 そっちがそう来るならこっちだって考えがあるんだから。

そろそろわたしのとった作戦に動きが出てくるはずなんだから。そのときは逃亡幇助で一緒に連れてってもらうから。


「真太、なにやってるんだ」

「うるせぇ!おいお前、質問に答えろ」

「トランクのことは本当に知らない。半年前に急に俺のところにもメールが来たんだ。誰がトランクを置いてるのかも、誰の薬を買ってるのかも、俺達は一切知らない」

「俺達ってのは、具体的にどれくらいだ」

「トランクのある日がメールされるとき、一緒にリストも送られてくるんだよ。こんなに買ってる奴がいるんなら俺もやってみようかなって、始めるきっかけはそれだった。そのときは、たしか二十人くらいいたと思う」

「そんなに前からそんな人数の奴が常用してたのか。腐ってんなこの街は」

「この街のことをそんな風に言わないでください!」


 いよいよ堪忍袋の尾が切れそうだ。さっきからなんなんだこの人は。モジャさんがこんなに最低な人間だなんて思いもしなかった。

 少しでも凄いと思って尊敬しかけた自分がバカだった。絶対に一緒に警察に突きだしてやる。

 到着の遅さにいい加減待ちくたびれる寸前で、聞き慣れた音がわたしの耳の中を通り抜ける。


「あ、やっと来た」

「………嘘だろ。なんでこのタイミングで警察が」

「わたしがさっきスマホで電話して呼んだんです」

「ああ、あのときか………」


鳴り響くパトカーのサイレンが狭い路地を埋め尽くす。

 どうだ。参ったか。

これで今度こそ本当に観念してもらうんだから。

 千葉君にだって、普通の人と同じようにまた暮らせる日が来るはずなんだ。ちょっと道を間違えただけで、その権利は誰にだってあるはずなんだ。

 これが、お父さんから受け継いだわたしの正義だ。


「まったく、余計なことしやがって。というか、よくもまあ躊躇もせずに警察なんか呼べるな」

「だって、わたしのお父さん刑事課長ですから」

「は!!?なんでそんな大事なこと今まで黙ってたんだよ!しかもそこそこ偉いし」

「聞かれなかったので。それに、このままだと千葉君を逃がすつもりだったんですよね?そんなの見逃せませんから」

「聞くこと聞いたらちゃんと警察に突きだすつもりだったんだよ!ああでも言わないと自白しないだろうが」


「「…………へ?」」


 思わぬところで千葉君とシンクロしてしまったわたし。

 え?そうだったの?ということはつまり、またわたしの早とちり?

 でも、もうけっこう話を聞けてた感はわたしの周りにふわふわと漂っていたけど?あ、わたしの周りだけじゃ意味ないのか。

 その旨をモジャさんに伝えると。


「まだ十あるうちの一しか聞き出せてない。だが、警察が来た以上長居するわけにもいかない」


 近くに何故か落ちていたザイルで、慌ただしく、せっせと慣れた手つきで千葉君を縛りあげ、さらに、後ろに回した腕を電柱に結びつける。

 高速さんも一緒になってそれをやっている。なぜ彼までそんなに急いで?


「俺たち探偵は、じゃないな。この街の探偵は昔から警察と反りが合わないんだ。見つかったら何されるかわかったもんじゃない。せっかく話を聞けるチャンスだったってのに」

「あ、あちゃー。あの、すいません」

「ごめんで済むなら警察はいらん。俺たちはもう行くから、お前は警察に詳しい状況を説明してやれ」


 崩れた上着をきなおし、モジャさんは高速さんの肩に乗る。

一体何をするつもりなんだろうと怪訝に思うが、その答えは三十秒後に明らかになる。

 その前に、とでもいうようにモジャさんはわたしの方に顔を向け、面倒そうな表情で口を開く。


「あと、最後に一つだけ」

「なんですか?」

「お前の学校の校長。たぶん、あの校長も常習者だ」

「はぇ!?な、なにを!」


二十五秒前。


「特徴的な症状がいくつか出ていたし、ああもコロンの臭いをぷんぷんさせていれば、自ら自白しているようなもんだ。おそらく千葉の噂を聞き付けた篠原は、あいつに罪をなすり付け自分を容疑対象から外そうとしたんだろう。警察が来たらそれも一緒に話して調べてもらえ。篠原なら一週間は学校で大人しくしているはずだから。ただ、音を聞いたわけじゃないから確証はない。わかったか?」

「は、はい………」


十秒前。


「行け剛」

「当たってる。後頭部に何か当たってる」

「いいからさっさと行けってんだよバカ!」


 どう見ても二人でじゃれているようにしか見えないが、どうやら立ち去りそうな雰囲気だったので、台無しにしたわたしが言えることかはわからないけれど、最後にモジャさんにお願いしてみた。


「あの!」


五秒前。


「あ?なんだ」

「もう一度。また今度、行ってもいいですか?モジャさんの家」

「好きにしろ」


 瞬間、モジャさんを肩車していた高速さんは凄まじい速度で路地を抜け、商い通りを駆け抜けていった。だからわざわざモジャさんを肩に担いでいたのか。

 それにしても、あの速度で歩いてるってでたらめだよね。どれだけ逃げ回ったらあんなことになるのか。

 歩き出す瞬間にモジャさんの頭が後ろに大きく仰け反っていたような気もしたけど、気にしないでおこう。

想像しただけでも、その抵抗はかなりきつそうだ。

 さてと、わたしはモジャさんに言われたことをちゃんと警察の人に伝えないと。辺りでおどおどしていたお連れの方達もいつの間にかいなくなっちゃってるし、そのことも含めて。顔はいまいち覚えてないけれど。

 昔はお父さんのとこによく遊びに行っていたから警察に行くのは慣れてるし、わたしはわたしのやるべきことをちゃんと果たさないと。

 余計なことをしちゃったせめてもの罪滅ぼしとして。じゃないと明るい顔でまたあの縦長の家には行けそうもない。

 ちゃんとお願いしたいこともないこともないし、謝罪がてら依頼しに行くとしよう。

 この街の、ちょっと変わった探偵さんに。

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