第一章
しろとくろ、出会う
001 厄日
その日はまさに厄日であった。
○●○●○●
「獣道くん、獣道くん」
ケモノミチくん。
そう呼ばれた少年が不機嫌そうに顔を上げると、ひとりの少女と目が合った。机を挟んで、彼女はこちらの顔を覗き込むようにして立っている。
新しい教室。見知らぬ顔、顔、顔。今日は新学期で、クラス替えがあったばかりだった。人見知りの彼は、目の前の女の子のことも、どころか、教室のクラスメイトのことも何も知らない。だからとりあえず、新しい同級生にこう返した。
「俺、ケモノミチじゃなくて
「えっ? あ、ごめんっ」
相手は赤面して、申し訳なさそうな顔になる。幾度となく名前の読み間違いをされてきた少年であったが、その表情を見て、早くも苛々が引っ込んでしまった。
……可愛いな。
それが彼の率直な感想であった。
ロングの黒髪は結われずそのままストレートにおろしてある。校則違反もない、ありきたりな髪型ではあるが、見ているだけでふわりといい香りがしてきそうな、綺麗な髪だった。きっと触れればさらさらと心地よいに違いないと、彼は不躾ながらも思った。
顔だちも整っていて、大きな目に小さく色素のある唇が可愛らしい。そして彼女の白い肌は、黒寄りの緑色のブレザーによく映えていた。
気まずい沈黙が流れる。少年はもどかしい思いだったが、相手がいつまで経っても目の前でもじもじとしているものだから、つい観察してしまった。だが同時に、それほど魅力的な少女であったことも事実である。この時彼は、少し期待してしまっていた。
少年、
「じゃ、じゃあ」
少女がゆっくりと手を差し出す。握手をするのだろうか、と将はごくりとその指先を見つめた。
「ジュウドウ、くん?」
相手は教室の外を指さしていた。
「……?」
「クラス、隣じゃないかな」
「…………」
すごすご教室を出て行った。
「くそ――――恥ずかしいっ!!」
将が勢いよく机を叩くと、周囲の視線が刺さった。
二年C組。
正しい自分のクラスにて、彼は運よく同じクラスになった親友に慰めてもらっていた。ぽんぽん、と肩を叩かれる。
「まあ、これが運命の出会いってやつかもしれねーじゃん? その子、可愛かったんだろ?」
「だからこそだよ! あんな馬鹿したもんだから、今後を思うと恥ずかしくて死にそうだ」
「うっわ、マジかよ……」
冗談に対して将が本気で返したことに、相手は引いているようだった。
彼は将とは対照的だった。身長は将が170センチもないのに対して、小脇は180もある。将と違ってフレンドリーでクラスの人気者。顔だちも男らしく、どちらかといえば童顔の将はそれを羨ましがっていた。隣に立つと本当に同じ高校生なのかと自信をなくしてしまう。
「ああああ、せっかく俺好みの女子だったのに恥ずかしい……消えたい……彼女の後ろでさ、その友達? がみんな笑ってるしさ」
「あー、じゃあその子は代表で言いに行ったんだな」
「なのに俺はなんて言ったと思うよ!? 『俺の名前は
「お前、真っ赤だぞ」
「わーってる!」
新学期早々何を騒いでいるんだろうと好奇の目で見ていたクラスメイト達が、視線を逸らしていく。最初から失敗の連続の将であったが、本人はそれどころではなかった。
「そんなに可愛かったのかねえ。なあ、なんて名前? ちょっと見てくる」
「……ん、そういえば名前知らない。そんな場合じゃなかったし」
「なんだよー!」
大げさに悔しがる小脇。だが、と将は思う。彼女は飛びぬけて可愛かったし、きっと小脇も、顔を見ただけで分かるかもしれない。
そのとき二人の後ろから、小さな人影が近づいてきた。
「ああその子、
振り向くと、ひとりの女子が話しかけてきていた。
今日に限って知らない女子に話しかけられる日だとでもいうのか。いったいなんなんだよ。
先ほどの出来事も手伝ってしどろもどろしていると、小脇がさりげなく近づいてきて囁いた。
「……名札見ろ、名札。
そう教えてくれたのはありがたかったが、残念ながら将にとっては初めて聞く名前だった。さりげなく、ブレザーの胸元に刺さる名札に目をやると、確かに末永
なるほど、あの子は九十九灯というのか。……だけど、わざわざ九十九は友達だと声をかけてくるこの女子、ちょっと変わっているかもしれない。
「あんただったんだね、教室を間違えたって男子。あはははは!」
いきなりの大爆笑。さすがに将はカチンときてしまう。この女子は自分を馬鹿にしたかっただけなのだろうか。しかし笑い話にされて仕方のないことなので、黙ってやりすごすことにする。
「見てたよー。あんたが呆けた顔して灯のこと見てたの。まあねー、灯は可愛いもんね」
「……」
「好きなの?」
図々しいなあ。
将は顔をしかめた。積極的に女子から話しかけられることがあまりない将は、どうしたらいいのか分からなくなってしまう。……まあ適当に返せばいいだろう。彼は小さく息をつく。
「まだ会ったばかりだろ。そんな好きとか嫌いとか――」
そう言いかけたが、その声は大きな雷鳴にかき消された。
「ぇ……?」
クラス中が外を見る。いつの間にか暗雲が空を覆い、大粒の雨が窓ガラスを叩いていた。先ほどまで晴れていたはずなのに、今はその面影すらない。傘を持ってきていない、どうしようなどと教室がざわつく中、ひとり末永美智が笑みを浮かべていた。
「何かあるね。こんな雨の日は、何かあるねー」
歌うようにそう言うと、彼女は今までの会話などまるでなかったかのように、自分の席へと戻っていった。
「……なんだあいつ」
呆気にとられた将は小脇に向き直る。相手はやれやれと苦笑して、言った。
「知らないのか? 不思議さんだって、有名だぞ」
そうなのか。なるほど確かに変わったやつだった……将は頷く。
さっきのことは忘れよう。そう決めた将だったが、結局、九十九の顔や仕種――それに末永の「好きなの?」という言葉が、彼の頭から離れることはなかった。
○●○●○●
「厄日だ、今日はろくなことがない」
雨の中、彼はそうぼやいた。
始業式が終わっても雨は激しく降り続いていた。時刻はもうそろそろ正午だが、太陽は厚い雲に覆われて全く見えない。ほとんどの生徒が傘を持っておらず、濡れながら、あるいは鞄を傘代わりにしながら、駆けていく様子が多く見受けられた。獣道将もその一人だった。
学校から最寄駅まで約二十分、電車に揺られて二十分、駅から自宅まで徒歩で約十五分といったところか。滝のような雨に体の芯まで冷えながら、なんとか家までたどり着く。
将の家は周囲のそれと大差ない一軒家である。表札がなければ他人の家との違いが分からないほどだ。ゆえに、門を開け、玄関に近づいたところで見慣れないものが目に入ったとき、土砂降りで家を間違えてしまったのではないかと思った。
玄関扉の前に、一匹の白い子猫がいた。
将の家ではペットの類は飼っていない。妹の
そんな彼の前に猫が現れたのだ。自分の家でないと思いたくなるのも当然だ。将は後ずさりをして表札を確認した――だが残念なことに、そこにはしっかりと獣道の名が刻まれていた。
「……厄日だ」
今日はろくなことがない、将はため息をつく。この酷い雨だ、しのぎたいのも分かるが他の家でもいいではないか。
猫が苦手とはいっても、さすがに土砂降りの外へ追い出そうなどという残酷な考えは彼にはなかった。将はとりあえず猫をいないものとして扱おうとした。相手がじいとこちらを見つめてきても、知らん顔をして鍵を取り出す。鍵穴に差し入れて回したとき、将はあることに気づいて猫の方を見てしまった。
はじめはただの白い猫に見えた。ところが今は何色ともいえない、どころか猫がいないと錯覚してしまうくらい、おぼろげであやふやに感じたのだ。今にもこの場から消えてしまいそうだ。
ふと触れてみたいと興味が湧く。だが将にはその勇気が出なかった。だから、互いに見つめ合う形になる。不思議だ。猫はこちらの視線に気づくと、瞳をさらにまん丸くさせて先ほどよりもいっそう強い視線を向けてくる。金色の瞳に、吸い込まれそうだった。さすがに気味が悪くなって、将はドアに向き直って扉を開けた。
瞬間、である。
まるでそれを待っていたかのように、猫がひらりと跳躍した。将はそれには気づかず、そのまま中へと入っていく――猫は構わず彼の首筋にしがみつくと、がぶりと噛みついた。
「あ痛っ!?」
ガン、と横開きのスライド扉が音を立てる。将が驚いた拍子に勢いよく開いたために、扉は開けっ放しの状態となった。慌てて振り払おうと手を伸ばすが、鞄が邪魔をしてうまくいかない。それに、なぜか体にうまく力が入らなかった。
「なんだこいつ――」
信じられないことに、猫は血を吸っているようだった。人間の血を吸う猫など聞いたことがない。やはり普通の猫ではなかったんだ。朦朧とする意識の中、将は玄関に前のめりに倒れた――受け身をとることはなんとか成功したので、大事には至らなかった。
今日は両親共に帰りが遅い。妹もどうやら帰ってきていないようだ。助けが来る見込みもない。畜生、俺はこのまま吸血猫に血を吸い尽くされるんだろうか。将がそう思ったときである。彼の予想に反して、猫は首筋から離れ、うつ伏せになった将の頭の近くに座った。じいという視線を感じるが、将にはもう何をする力も残っていなかった。
変化は突然に起きた。
全身がぴりぴりと痺れる。だが不快というほどでもなく、春の海に浮かんで揺れているような、優しく暖かくてどこまでも不思議な感覚がした。だから将は、それを拒まず身を委ねてしまった。
ふと、異変を感じて、頭の横に投げ出されていた手を見やる。それがみるみる小さく、そして黒くなっていく。その様子を将はぼんやりと眺めていた――もう驚くことも何かを考えることも、今の彼にはできなかった。彼の手は勝手に拳を握る形をとったかと思うと、そこから肉球と爪が生えた。だんだんと丸みを帯びるそれを黒い毛が覆っていく。
「あっ、……ああ、」
思わず声が漏れる。心地の良い波は去り、次いでばきばきと全身の骨と筋肉を圧迫する痛みが彼を襲った。無理もない。将の体は縮んでいた。手は制服の袖に隠れて見えなくなり、首もブレザーの襟あたりにすっぽりとおさまってしまった。
そうして嘘のように痛みは消えた。その時には将はまともに思考ができるようになっていたが、状況はもはや最悪と言って良かった。
考えたくはなかったが、自分の身に何が起こったかは分かる。全身が黒い毛に覆われたうえ体も小さくなり、人間とは程遠いものと化してしまった。そう、それは――
『ふうむ、うまくいったようじゃ』
満足そうな女の声。凛と鈴を鳴らしたような美しさ。その言葉は、目の前の白い猫の口から紡がれていた。否、それは今や白ではなかった。この世のものとは思えない、鮮烈な銀色の毛並みだ。
『どれ』
すっと華奢な足が動いて、猫がこちらに身を寄せてきた。将のにおいを嗅いでいるらしい。しばらくすんすんと鼻を鳴らしたあと、慈しむように彼の顔を、耳を、胸を舐め始めた。さすがにたまらなくなった将は飛び退いて怒った。彼の感情に合わせて、毛は逆立っている。
「お、お前、いきなり何するんだ!」
そう叫んだつもりだったが、将の口から出てくるのは不可思議な音だった。はっきりと発音しているつもりでも、ごにょごにょと呂律が回らずとても言葉には聞こえない。猫は不思議そうに首をかしげて(将には本当に首をかしげたように見えたのだ。おまけに表情もあるように見える)、『ああ』とビー玉のような目を細めた。
『名を言うておらんかったな。
喉を鳴らす白猫の瞳に映る将の目は真ん丸で、口は呆けたように開いていた。
そこに映る姿は紛れもなく。
色を除けば白猫とまるで瓜二つの、一匹の黒猫であった。
間違いなく、今日は彼にとって厄日だった。
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