002 雨、のち

 信じられないことだが、獣道将は猫になってしまった。

 よりにもよって、彼が苦手な猫にである。目の前の白猫――銀色にも見えるが――に噛まれた所為せいで。やれやれ、某蜘蛛男でもあるまいに、と将は悪態をついた。

 今や彼は体じゅうが真っ黒の毛に覆われている。人間の時の髪と、ほとんど同じ黒色だ。右手を上げようとすると、彼の小さな右前脚が持ち上がる。そこには、一度も地を踏んでいなさそうなピンク色の肉球がついていた。続いて将は、首を捻って背中を見てみる――やっぱりだ、と落胆する――臀部には、警戒するようにぴんと立つ長い尻尾が生えていた。すべてがすべて、猫のものだった。


『しかしまあ瓜二つじゃな。まさか黒猫に成るとは思ってもおらんかったが……わらわの目が確かじゃったことは変わりない』

 現実を受け入れきれない将をよそに、ぎんと名乗った猫は、うんうんと頷きながら彼を観察している。

 やたら古風な口調ではあるが、その声は将も素直に綺麗だと思えるほどだった。艶やかで、ずっと聞いていたくなるくらい、耳に心地よい女性のものだ。

 だが今はそんな場合ではない。現実味こそないが、今は緊急事態である。将は我に返ると、白猫を警戒して見つめた。結果、目と目が合う。怖かったが、彼は睨むのをやめなかった。


「お前……何なんだ。ただの猫じゃ、ないんだろ」

 無難にそう訊いてみることにした。相変わらず彼の口から零れるのは、にゃあにゃあという猫の声だった。


如何いかにも』

 伝わっているかどうか将には自信がなかったのだが、どうやら言葉は通じるらしい。ぎんは誇らしげに背筋を伸ばした。


『妾は只の猫ではない。お前などと呼ばれるような存在ではないのじゃが――あるじに対して無礼な口をきくことも、特別に許そう。妾を救ってくれたのじゃからな……。妾は浮世と常世、どちらの者でもある。人は妾を〔霊猫れいびょう〕と呼ぶな』

 れいびょう、という単語は聞き慣れないものであったが、将は理解することができた。ぎんは人間と違って、念のようなもので語りかけてくる。ゆえに、聞き慣れない言葉にも関わらず、将の頭の中にはひとつの漢字が浮かび上がってくる。霊猫……おばけの猫、妖怪みたいなものだろうか。それに、

「救ってくれた、ってなんだ? 俺は何かをした覚えは――」

 いや、もしかして、と将は途中で言葉を切った。


「……血、か」

 開いたままのドアの向こう、激しい雨の音が将の声をかき消した。だが、ぎんには聞こえたらしい。彼女はほう、と目を細めて笑った。猫に表情はないはずだが、猫となったためか、今の将には妖艶に笑ったように見えたのだ。心臓がどくりと跳ねるのを感じながら、彼は続ける。


「お前は人間の血を吸って強くなる、みたいな、そんな妖怪だろう。はじめ見たときはぼんやりとした姿だったけど、今は――眩しいくらいの銀色だ」

『小僧にしてはなかなか聡いのう。じゃがそれでは、何故そちを選んだかの説明はできておらんな』

 選んだ? 将は動揺した。適当に、その辺の奴を狙ったんじゃないのか?


「それって、どういう」

「ばかにい-、帰ってきてるの?」

 その時、家の中から少女の声がした。妹のまもるである。既に帰宅していたようだ。声の主に気づくと同時に、将は焦った。護は中学二年生、絶賛反抗期で、将のことをばか兄などと呼ぶ。そして――大の猫好きである。猫の将とぎんを見たら、どんな行動に出るか、想像しただけで恐ろしい。

 それだけではなかった。将にとってはさらにまずいことに、返事がないのを訝しんだ護は、風呂場から顏を覗かせた。つまり、

 裸にタオルを巻いただけという恰好で、彼らの前に姿を現したのである。


 この土砂降りで、帰ってすぐにシャワーを浴びていたのだろう。彼女のセミロングの髪はしっとりと肌に張り付いて、露わになっている肩や脚はほんのり色づいている。将としては、妹の裸などどうでもよかったが、もしも実の兄にそれを目撃されたと知られれば、二度と口をきいてくれなさそうだと思った。


「あれ? ドア開けっ放し! それに、な、なんで制服だけ――あっ」

 護の目がドアに、将の制服に、そして玄関で静止している将へと移った。


『逃げるぞ』

 ぎんの声にはっとして横を見るが、既に白猫の姿はどこにもない。危険察知能力が高すぎるだろ。将は舌打ちして、右に倣えと外へ向かったが――


「ねこだあああ!」

「のわっ!」

 相手の方が速かった。いきなり跳びかかってくる護。慌てて走ろうとした将だったが、もたもたと自分の足につまずいてしまった――四足歩行であることを忘れ、二本の足で走ろうとしたからである。

 

「かわいい、かわいいい!」

「むーっ、ぐーっ!」

 将そっくりの顏を上気させ、護は自分の胸に押し付けるようにして、彼を抱き締めた。

 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ。窒息する窒息する窒息する!

 将は酸素を欲してもがいた。決して妹の胸が大きいわけではないのだが、こうも密着されると息ができなくなるのも当然だ。因みに――黒猫を捕獲しようとスライディングをした彼女は今や、全裸であった。


「お兄ちゃんのことだから、猫にびっくりして服だけ置いて二階に行っちゃったんだろうね。もう、仕方ないにゃー」

 兄の服だけが玄関に置き去りにされているという状況を都合よく解釈し、護は猫撫で声で囁く。いやいや、そこまで猫は苦手じゃねえよ。将は抗議したかったが、猫になってしまってはそれも叶わない。

 高い高いをされながら将はようやく深呼吸をする。風呂上りの妹からは、石鹸のいい香りがした。匂いの所為か、抱っこされている所為か。だんだんくらくらしてきた。

 そんな将をよそに、護は彼の頭や喉、腹を触りはじめる。


「びちょびちょねー、雨がひどかったからね。今からお風呂入りましょうにゃー」

「な、何っ!?」

 妹と風呂!? そればかりは御免だ! 猫撫で声やらあられもない姿やらを見て、既にバレたら人生終了確定の将だが、せめて風呂だけは回避したかった。妹に体を洗われる……想像しただけで鳥肌が立ってしまう。

 これは引っ掻いてでも逃げるべきだろうか。と、躊躇いがちに右手を上げてみるが、爪は伸びずにそのままだった。伸ばし方が分からないからうまくいかない。


「? どうしたの?」

 ぽんぽんと護の腕を叩いているように思ったのだろう、彼女は不思議そうに将を見下ろした。これはチャンスかもしれないと、将は「ぽんぽん」を繰り返した。ついでに、下ろしてくださいと甘ったるい声を上げてみる。これは相手には効果覿面のはずである。


「うっ……かわいすぎる……!」

 鼻血が出そうなのか、護は鼻をおさえて黒猫を解放した。ひらりと玄関マットに着地した将は、念のためと右前脚、左前脚、続いて左後脚、右後脚と順に上げてみた。これで、猫の手足の感覚はつかめた。護は未だに悶えている――この動作は彼女から見れば足踏みをしている愛らしい猫にしか見えなかっただろう。

 解放された将は、脇目も振らずに外へと飛び出した。護の呼び止める声は、彼の耳には届かなかった。



○●○●○●



 ぎんはどこに行ってしまったのだろう。

 妹の魔手から逃れたはいいが、これからどうすればいいのか将には見当もつかなかった。とぼとぼと雨に濡れながら考える。このままずっと、猫として生きていかなければならないんだろうか……そんなの、まっぴら御免だった。

 体は、全身雨に濡れたせいでじっとりと重い。足はさっきまではじんじんと痛んでいたが、今はもう感覚すらなかった。


「寒いなあ」

 ふと、いい匂いがして顏を上げる。そこにはコンビニエンスストアがあった。今の将は猫なので、店を確認するのには、相当首を持ち上げなければならなかった。中に入るわけにもいかず、彼は自動ドアの前で立ち止まった。ガラスには、一匹の猫が映っていた。あまりにも近くにいたので驚いて跳び上がりそうになったが、自分だと気づいてまじまじと観察する。


 本当に猫になったのだ。

 見た目は、ぐしょ濡れであることを除けばそこそこ可愛らしい黒猫なのではないか、という印象である。子猫、とまではいかないが、三角の耳に大きな目、少しぽっこりと出た腹――幼さを残す体型であった。確実に護のストライクゾーンではあるだろう……実際そうだったことだし。将は分析する。


 鶏肉のいい匂いが空腹を刺激する。もう一生、人間の食べ物は食べられないかもしれない……このまま少し行くと、小さな商店街がある。そこで他の野良猫と一緒に食べ物を求め、うろうろするしかないのかもしれない。将の頭を絶望がよぎった。


 自動ドアが開き、一層いい匂いが将の鼻をついた。猫の本能なのか、気を抜くとそのままふらふらと中へ入ってしまいそうで、ぐっとこらえる。

 ふわり。

 と、頭上で風が舞った。甘い香りのする風だった――次の瞬間、将の目の前に黒のハイソックスで覆われたほっそりとした脚と、ローファーが現れる。学校帰りの女子生徒のようだ。将は無意識の内に見上げて、途端に硬直してしまった。この角度から、女子生徒を下から見上げたらどうなるかなど考えてもいなかった――とんだ棚ぼたであった。スカートの中身というのは男にとってはまさに未知の空間で、ゆえにそれが眼前に広がる光景は、神々しくもあった。


「……ん?」

 頭上から降ってきた声は、聞き覚えのあるものだった。将は少し後ろに下がって、顏を見ようとさらに首を上げる。これほどの神域の持ち主は、いったい誰なのだろうという純粋な興味だった。


「…………」

 その少女は、九十九つくもあかりだった。


「あっ、晴れたねー」

 まるで親しい人間に話しかけるように。

 彼女は将に微笑んで見せた。

 いつの間にか、先ほどまでの大雨が嘘のように止んでいた。雲の間から顏を見せた太陽は、九十九の顏をきらきらと照らしていた。

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