003 九十九
おかしい。と、将は思った。
先ほどは眩しいくらいの笑顔を向けてくれた
コンビニから姿を現した九十九の後を、将は追いかけていた。別に明確な意図があるわけではない。スカートの中身をもう一度とか、そんなやましいことも考えていない。ただ、彼女についていきたいと思ったから、それだけだった。ぎんを捜すことが先決のはずだが、これまで散々な目に遭って来た彼は少し自暴自棄になっていたのである。願わくば、彼女の笑顔をもう一度拝みたかった。
それが、どうだ。九十九は将がついてきていることに気づくや否や、早足で歩き出したではないか。まるで彼から逃げるように。将は傷ついた。自分と同じで、猫が苦手だとか……? それとも、スカートの中身を見られたことに気づいたとか。それにしても、避けられるのがこんなにもキツいとは。これまで猫に酷いことをしてきたんだな、と今更ながら反省した。
そうこうしている内に駅に到着した九十九は、さっさと中に入って行ってしまった。やはり避けられたのだ、と将は愕然とその場に立ち尽くした。
今日はろくなことがないな。大人しくぎんを探せばよかった。溜め息をついて、彼はとぼとぼと元来た道を引き返し始める。
「猫さーん」
その時、将の三角耳が声を捉えてぴくり、と動いた。
「九十九さ……ん?」
はじめて名前を呼ぶことに緊張しつつも振り向いた将は、今の自分が猫であったことを思い出す。相手は彼が名前を呼んだなど知るはずもないだろう。
それでも、彼女は。九十九灯は将に笑顔を向けていた。息を切らし、肩を上下させている……走ってきたのだろうか? 将がぼうっと彼女を見上げていると、相手は照れたような笑みを浮かべて、あるものを彼に見せた。
○●○●○●
「……」
将はまたも彫刻さながらに固まってしまっていた。
「はい、どうぞ」
彼の隣には、九十九が腰かけている。
「あーん」
優しい声と同時に、九十九は箸を差し出した。
将は心の中で叫んだ――なんなんだこの状況は!
駅前の広場は、中心にある大きな木を石造りのベンチが囲んでいて、憩いの場になっている。老人や子どもが、鳩やら猫やらにパンくずを撒いているのがよく見かけられるが、本当はいけないことだと将は教わったことがあった。人慣れしたり無駄に繁殖したりするから、だったか。しかしそのくらいは許されてもいいのではないか、と今の彼は思う。むしろ誰にもこのひとときを邪魔して欲しくなかった。
将と九十九は並んでベンチに座っている。雨の所為でベンチは濡れていたが、将は元からずぶ濡れで、九十九はタオルを敷いて座っているため気にならないようだった。ふたりの間には、人間ひとり分の距離がある。
あの時、将を呼び止めた九十九がかざしたものは、にぎり寿司のパックだった。ビニールで袋とじされているが、猫である将にはその美味しそうなにおいが分かった。思わずよだれが垂れてしまう。そのまま彼は広場に誘われて、今に至るというわけだ。
九十九は彼の頭上に、焦らすようにそれを振ってみせた。将は無意識に鼻をひくつかせて、それに猫パンチする。その風貌はすっかり猫である。だがそれも仕方なかろう。
神か、天使の計らいか。もう何もかもがどうでもよくなるくらい、今の将は幸せだった。わざわざ、自分のために、駅内のスーパーで寿司を買ってきてくれたなんて――世の中にはいい人がいるものだと感激する。
正確には獣道将のためではなく、九十九から見れば道端で見かけた幼い黒猫なのだが……それほど腹をすかしているように見えたのだろう。将には分からなかったが、今の彼は幼い、庇護欲が湧きそうな見た目をしているのである。
「えへへ、かわいい」
まぐろにパンチした将を見て、九十九はくすりと笑った。そっと箸をおろし、「どうぞ」と彼の目の前に置く。すぐに切り身にかぶりついた将だが、とても一口では食べきれない。その大きさに驚きながらも、猫の鋭い歯でゆっくりと生の魚を噛みきっていく。なんだか贅沢な気分だった。
「美味しい?」
相手が訊いてきたので、美味しいと応える。彼の口からはもちろんにゃあおという声しか出ないが、それでも九十九は喜んだ。続けて将は玉子と鰹をもらったが、いずれもワサビの類は入っていないようだった。ご飯の方は、「猫って味がついたお米食べていいんだっけ、怖いからやめとこうね」と彼女自身が平らげた。同学年の女子に食べさせてもらう、という行為は将にとってそこそこ恥ずかしいことであったが、こういう「青春」っぽいことは好きだった。寿司は美味しいし、九十九がご飯を口に含んで味わう姿はとても可愛い。お腹も心も大満足だった。
九十九の箸が鯛の切り身をつまむ。だが、それは途中で躊躇うように降ろされてしまった。どうしたんだろうと将が見上げてみると、彼女は僅かに肩を落として俯いていた。
「あっ……ごめんね」
猫の視線に気づいた九十九は、慌てて切り身を再び持ち上げる。だが将は、彼女を見つめ続けることで寿司を無視した。言葉を伝えることはできないが、話を聞くことや、態度や仕種で感情を伝えることなら、できるはずだ。そう思っての行動だった。とても恥ずかしくて何度も目を逸らしたくなったが、自分の気持ちを相手に分かってもらうために、彼は見つめ続けた。
それに九十九は目を丸くして驚いたようだった。そうして先ほどとは違う、悲しげな微笑を浮かべる。
「話、聞いてくれる?」
もちろん、と将は言った。
○●○●○●
九十九は小さな声で、しかしはっきりとした口調で告白した。
「今日、ひどいことしちゃったんだ――」
その言葉に将は一瞬、期待をしてしまう。今朝の自分とのやりとりのことかもしれない、と。
「学校でね、休み時間に近くで雷が落ちたんだ。びっくりした拍子に女の子にぶつかっちゃって、転ばせちゃった。怪我はないって言ってたけど……ちゃんと謝れなくて」
だが、彼のことではなかった。女の子とぶつかった……そのことを彼女は気にしているらしい。
九十九はどこかのほほんとして、天然なところがある。将が少なからず感じていたことだった。猫に親しげに話しかけているところも、そうだ。雷に驚いて近くの生徒を巻き込んだと聞いてもすぐに納得できた。
「大丈夫って言ってたけど、相手の顔が怖かった。だから、顔を見て、目を合わせて、謝れなかったの……あなたでさえ、こうして目を合わせているのにね」
少し自虐的に言うその姿に、胸が締め付けられた。思わず、
「そんなことを言うな」
と彼女に近づく。すると、九十九はスカートの下のタオルに手を添えて、将と少し距離をとった。
もう少し近づくと、彼女はまた距離をとる。
「えっ……?」
「ごめんね。私って、こんな風に酷いこと、いっぱいしてるのかもしれないね」
少しも縮まらない距離。とうとう将は諦めて腰を下ろしてしまった。九十九は心から申し訳なさそうに彼を見ている。
「私ね、猫アレルギーなんだ」
「猫アレルギー!?」
将は思わず叫んで後ずさった。九十九はそれに気づかずに話し続けている。
「命に関わるほどじゃないんだけど……今は大丈夫だけど、もしかしたら……ううん、何でもない。猫に触るとね、パパに怒られちゃうんだ」
ごめんね、と彼女は将の目を見て謝った。しかし、謝ることなんて何もない――と将は思った。猫アレルギーは九十九が望んだことではない、好きで猫を避けているわけではないのだ。自分と違って。
ぶつかったというのも、ただの事故だ。怪我もなかったのなら、心配することなど何もないように将には思えた。
だがここで、わざとではないんだから気にするな、と言うのも違うような気がする。そういうことほど、忘れるのが難しいことを、今朝がた恥をかいた将自身、よく知っていた。気にすることはないという台詞は、他人事だから言えることである。
いずれにせよ、将にはこうして黙って話を聞くことしかできなかった。それ以外、何も思い浮かばなかった。
〔――おい。おい、そち〕
その時、声が将の頭に響いた。一度耳にしたら忘れることはない、あの猫の声だ。
「ぎん……!?」
「どうしたの?」
驚いて声を上げた将に、九十九が声をかける。彼女にはぎんの声が聞こえていないようだ。頭の中で反響する声は、構わず語りかけてくる。
〔何をしとる、たわけ。霊力は無駄にはしとうなかったのに〕
(わけのわからないこと言うなよ。俺を勝手に猫にしておいて)
まさかと思いつつ、将は心の中で言い返してみる。聞こえないだろうと思って言ってみたのだが、驚くべきことにぎんはそれに応えるのだった。
〔確かに勝手に猫かつ下僕にはしたが、勝手に妾の傍をふらふら離れたのはそちじゃ〕
どうやらぎんは、俗に言うテレパシーを使えるらしい。そういえば初めて彼女の声を聴いたときから、言葉は頭の中に響いていた。
猫になってしまってから色々すんなり受け入れすぎな気もするが、そうでもしないと将はやりきれなかった。
続いてぎんは彼に、あるイメージを送ってきた。それは駅の近くにある、小さな公園だった。
〔ここで待っておる。さっさと来い。ついでにそこの鯛も持ってくるがいい〕
上から目線で偉そうな台詞だった。切り身を持って行くこと自体は将も反論はない。だが、頭の中にぽんぽん鯛のイメージが現れるのには辟易した。煩悩まみれだとこうなるのかもしれない、注意しようと決心する。
〔おなごの下半身や口移しに欲情しておった奴には言われとうない〕
(他にいい言い方があっただろ!)
時すでに遅し、将の心中はばっちり見られていたらしい。それでもぎんの言い方は確実に勘違いを生む、と思った。
〔あんまり遅いと人間に戻してやらんぞ〕
その時。将の突っ込みを無視して彼女は言った。
もとに、戻れるのか? 将はどきりとした。てっきり一生猫として過ごさなければならないと諦めかけていたからである――九十九と過ごすうち、猫のままでもいいかと半ば思っていた。
〔誰も戻れんとは言うておらんじゃろうが。それとも何じゃ、戻りとうないのか〕
(……分かった、すぐに行くから)
〔はじめからそう言えばよいのじゃ〕
霊力が勿体ない、ではな。という携帯の電池切れを気にするような台詞を最後に、ぎんの声は聞こえなくなった。何て勝手な奴だろうと思ったが、ぎん曰わく彼女は
とにかく、もう長居はできない。九十九と別れることは悲しいが、本来はぎんを探すことが優先だったのだ。
「行っちゃうの?」
九十九が言う。それは呼び止める言葉ではなく、確認のものだった。彼がどこかに行くことを察したらしい。将は頷いて、別れの挨拶をする。言葉は通じなくても、気持ちは伝えておきたいと思った。
「うん。ありがとうね」
本当は言葉が通じてるんじゃないか。そう勘違いしそうになるくらい、絶妙なタイミングで九十九はそう返した。将は心臓が跳ねるのを感じつつ、彼女に背を向けて鯛の切り身を咥えた。そうして振り返らずに、その場を後にした。
将は、九十九と接するなかで、彼女がちょっと天然で、純粋な少女であることを知った。おまけに猫アレルギーであるにも関わらず、猫を大切にするような優しい奴だった。今朝は可愛い子だなと、見た目ばかり見ていた彼だったが、話している間はそんなことが気にならないくらいに、彼女そのものに惹かれていた。
「好きなの?」と訊いてきた末永の言葉――それがふと蘇る。それに対して、もしかしたら、と将は自答した。
「死ねばいいのに」
その時とんでもない言葉が聞こえて、彼ははっと我に返る。首を上げると、ぽかぽかしていた心が、冷や水を浴びせられたように一気に冷えてしまった。
人気のない細い路地。夜になれば賑わう居酒屋も、今はシャッターを閉ざして沈黙している。そんな人気のない場所に、声の主と思われる少女がいた。一メートルほど先で、進路を塞ぐように、仁王立ちをして将を睨みつけている。
同じ高校の制服、つり目で長身美麗、ナチュラルショートボブの髪は威嚇するように逆立っている。周囲の空気を制圧しているかのような存在感があった。漫画だったら、めらめら燃える炎が背景にありそうだ。それも、青い炎である。
白状すると、将はものすごく怖かった。周囲には誰もいない。となると必然的に、この女子は彼に敵意を剥き出しにしていることになる。何故だ。将には思い当たる節は何もなかった。もしかして、俺以上に過激な猫嫌いなのだろうか……ありえなくはなが、いずれにしてもまずい状況である。
「九十九さんと、」
少女の足が一歩前に出る。
「九十九さんと仲良くしちゃって。許さない」
えっ、なんだこいつ。
将は怪訝そうに眉をひそめた。
九十九さん、というのは間違いなく彼女のことを指すだろう。もしかしてこの女子は、猫に対して嫉妬しているのか? そんな馬鹿なと思ったが、将にはそれ以外の可能性を考えられなかった。
「どうせ私なんて」
彼女はもう一歩前進する。ふわり、とそれに合わせてスカートが揺れた。激しく動けば見えてしまうんじゃないかという位、短く改造されている。相手のスカートやら脚やらを見ている場合でもないのに、将はそこから目を離すことができなかった。彼女の白い膝小僧に、痣のようなものがあるのが目に留まったからである。
けれどもこれ以上関わるのはまずいだろう。猫の本能がそう告げている。将は妹とのやりとりを活かして逃げを決めた。分からないことはたくさんあるのだが、今はぎんに会うことを優先するべきだ。
相手が早足になった時には、彼はもうUターンして駆けだしていた。
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