004 霊猫
昼過ぎ、気温が最も高くなるとされる時間。小さな公園に、一匹の白い猫がいた。その毛は日の光で反射して、銀色に輝いているように見える。
その公園には、遊具と呼べる物があまりない。すべり台と、動物を模したスプリング遊具、そしてベンチ。それだけだった。猫はベンチの上に我が物顔で丸くなっていたが、何かに気づいたのか耳を立てて公園の出入り口を凝視した。
現れたのは黒い猫だった。まるで白猫の毛を黒く染めたかのように、そっくりな体格、見た目をしている。二匹は色を除けば、兄弟のように瓜二つであった。
『遅いぞ、下僕』
白い猫は相手がこちらに歩いてくるのを認めるなり言った。美しい女の声を持つ雌猫は、名をぎんといった。そしてその正体は、ただの猫ではなく
一方の黒猫は、口に魚の切り身を咥えているのか返答できないようであった。不機嫌そうに目を細めて、ベンチの方へ歩いている。どう見てもただの猫にしか見えないが、その正体はぎんによって猫に姿を変えられた人間の少年である。名前を
将はベンチに上がると、ぎんの前に鯛の切り身を置いた。途端、将はぎんから前脚で突かれ地面に落とされてしまった。
「何すんだ!」
『下僕の分際で馴れ馴れしく近づくな』
どこまでも高飛車に白猫は言う。だが将は自分が猫のしもべになった覚えはなかった。威張られても反応に困る。
ぎんは素知らぬ顔で、将が持ってきた切り身を食べ始めた。
「はあ……俺にはその類の趣味はないんだけど」
渋々将はベンチの下で相手と会話をすることにした。機嫌を悪くされると、人間に戻してもらう約束をあっさり取り消されてしまうかもしれない。そう思ったからだ。
「なあ、質問してもいいか」
『良い。手短にな』
「じゃあ、あのさ――」
『ほい
「えっ」
『手短にと言うたじゃろ。それで終わりじゃ』
「気短すぎじゃね!?」
『冗談じゃよ』
どうやら彼女なりにふざけたらしい。よく分からない奴だと思いながら、しばらく間を置いて将は訊いてみた。
「霊猫って言ったっけ、それって何なんだ? 人間を猫にする妖怪か何かなのか?」
それは先ほど聞きそびれたことだった。また一蹴されてろくな答えが聞けないのではと予想したが、切り身を平らげた相手は将をじっと見つめてこう言った。
『霊猫は霊猫じゃよ、霊力を持った猫。浮世と常世、どちらの上にも立つ猫。こう見えても妾は
そんな妾がなぜそちを猫にしたかと問われれば――正しくは、しもべにしたのであって猫化はおまけのようなものじゃが――その霊力が欲しかったからじゃ』
霊力。ぎんがよく口にしている単語のひとつだ。将は質問を続けたかったが、今は黙って聞こうと決めた。
『恥ずかしながら、妾の持つ霊力が尽きそうでな。霊猫とは言われるが、力を使えばその分だけ消耗するばかり。蓄えがないと消えてしまう……これまでは下級の妖怪を喰らってなんとかしのいできたが、もっと効率の良い方法を使うことにした』
ゆえに、そちの血を吸って下僕にしたのじゃ、とぎんは締めくくった。
なるほど、確かに初めて見たとき彼女はあやふやで、今にも消えそうであった。それは霊力とやらが尽きそうだったからだったというのか。突っ込みを入れたくなるのを我慢して、鵜呑みにしようと将は努力する。霊力だの妖怪だの、にわかには信じがたかったが。そこで、彼はある疑問を覚えた。
「待てよ。霊力が欲しかったから俺の血を吸ったのか?」
『その通りじゃ』
「……俺には霊力があるってことか? 霊感とかそんなの全然ないんだけど」
『さあ。妾にそんなことを言われても困るな。そもそも霊感は霊力の一種であってそのものではないぞ。
とにかく――存在も消えかかって、為すすべもなかった妾を見つけてくれたのは、そちだけじゃったよ。徳の高そうな坊主でさえ気づかなかったというのに。とにかく妾を認知できる、それだけが重要じゃった。視認できるほどの者は、きっと強い霊力を持っているに違いないと。そしてそれは間違っておらんかったな。少し吸っただけで、これだけ回復できたのじゃから』
「……」
どれだけ回復できたかは分からないし、霊力が何なのかも将にはよく分からない。ただこれまでの会話をまとめると、
ぎんは存在維持のために将をしもべにした。そしてその理由は、彼に「霊力」という栄養があったから、ということになりそうだ。
『小難しい話はもういいじゃろう。そろそろ、そちを人間に戻してやろうかの』
「えっ……? いいのか?」
『何度も言わせるな』
ひらりと白猫はベンチから降りて、将に近づく。将はその優美な動きに一瞬見惚れてしまった。だがいいのだろうか? こんなにあっさりと人間に戻すと言っているけれど――そういえば猫化はおまけのようなものと言っていた。血を吸った際の副作用みたいなもので、彼女にとってはあまり重要ではないのかもしれない。
『では戻すぞ』
将は頷こうとして、重大なことにすんでのところで気がついた。
「いやいや待て待て! ここで戻したらまずいだろう!」
『何がじゃ? 先ほどからそちは……もしや焦らすのが好きなのか?』
「焦らしてない! ここで俺が人間に戻ったら、公園に佇む裸の不審者が一人完成するだろうが」
『ふうん』
「ふうんて!」
『ここでは都合が悪いということじゃな。ならなんじゃ、そちの――家か? そこでなら問題ないじゃろう?』
どこか要領を得ない風にぎんはそう提案をした。だが、将はまだ不安だった。
「ああ……ただ、さっき見たと思うけど、家にはあの猫好きの妹がいるんだよ。そいつに気づかれないように俺の部屋まで戻れるか……家のドアだって、もう閉まってるだろうし」
『ああ言えばこう言う奴じゃのう。あの小娘に悟られぬようにすることくらい容易いわ』
「え?」
『いいから案内せんか。そちの家までな』
やはりどこまでも偉そうに言って、ぎんは妖艶な笑みを浮かべた。
○●○●○●
そんなわけで、将とぎんは再び家の前までやって来た。案の定、既に玄関の扉は閉まっている。裏戸はどうだろう、と将が見に行こうとしたが、
『勝手に動くな』
とぎんに尻尾を踏まれて止められた。地味に痛かった。
『そちの妹とやらはそこの部屋でテレビを観ておるようじゃの』
ぎんはある一角を見て顎でしゃくった。そこは玄関のすぐ隣にあるリビングで、将が耳を澄ましてみると、テレビの音と護の笑い声が時折聞こえてきた。
「ん? お前テレビとか知ってるんだな」
少し意外だった。口調がやたら古風だから、ぎんは現代のものには詳しくないと思っていたのだ。
『馬鹿にするでない。伊達に三百年を生きておらんわ』
「霊力不足で下僕を作ったくせに、そういう時は大口叩くよな……」
将がそう静かに突っ込むと、ぎんは「うっ」と声を上げて、わざとらしく咳払いを始めた。結構ダメージが大きかったようだ。
『そ、それより、そちの部屋はどの辺りにあるのかや?』
「俺の部屋? それは二階だけど……」
『では階段に最も近いのはどこかの』
「ええっと……」
将は家の間取りを思い浮かべる。うちは二階に行くためには必ずリビングを通っていかなければならない。一軒家は通常二階を子供部屋にすることが多い。建設者は、子どもが必ず一度はリビングに顏を出すような設計を心掛けたのだろう。だがこの間取りは今の将にとってはただの有難迷惑だった。
『成程わかった』
ぎんが頷いた。まだ説明もしてないのに――いや、勝手に頭の中を見たんだ。将は確信する。どうやら心に浮かべたことは彼女には筒抜けのようだ。主従関係というのも、あまりいい心地はしない。
『面倒じゃし霊力をまた消耗することになるが、やるしかないな。いいか下僕、まず裏に回って階段に一番近い壁を通る』
「いやいや無理だろ。お前なら壁を通り抜けるなんて芸当ができるかもしれないけど、俺は普通の人間だよ」
『たわけ。そちは妾のしもべじゃ、人間でもなければ猫でもない。今のそちは、妾と同じ霊猫じゃぞ、壁くらい普通に通れる』
「えっ、そうなのか?」
将は驚いた。ぎんは呆れたように首を横に振る。
『そんなことも分かっておらんかったのか。やれやれ。下僕はあるじと同じ存在になるのが当たり前であろ』
「そういう理屈なのか……?」
『理屈じゃ。では行くぞ。着いてこい』
凛とした声で言うと、ぎんは駆け出した。将はその後を慌てて追いかけた。
○●○●○●
結論から述べると、家にはあっさりと入ることができた。護に気づかれることもトラブルもなく、難なく将は自分の部屋まで辿りつけてしまった。色々心配していたのが馬鹿らしくなるくらいだ。
壁をすり抜けることは簡単だった。水の中を泳ぐように、あっさりとである。通りたいと念じただけで、将の身体は透明になって、頑丈な壁を平気で通り抜けることができた。これが霊体とか幽体とかいうやつなのだろうか。非現実的なことばかりで、すんなりできたのかもしれないな、と将は思った。
「じゃあ、今の俺は霊力を持った猫ってことなんだな」
『む?
霊猫というのは、浮世と常世のどちらにも存在する者のことらしいが、それは人間と幽霊のどちらでもある、ようなものなのだろうか。辺りをぐるりと見回しながら、将は思考する。
自分の部屋。猫の姿で見ると、視点が違って見えて新鮮だ。それでも将は、自分のにおいに囲まれてリラックスできた。
「俺が霊猫なら、今ので結構力を消費したってことか? そんな感じはしないんだが」
『いや、そちは霊力の塊みたいなもんじゃから、あの程度では疲弊せんよ』
「ん……?」
ぎんは消耗するくせに、俺は大丈夫って、なんだそれ……理解できずに将は首をかしげた。新品で充電満タンなスマホと、中古で電池が切れかけのスマホみたいなものなのだろうか。
『その例えはよう分からんが、意味は伝わったぞ。そちは妾を馬鹿にしておろう。確かに今は霊力が底をついておる妾じゃが、回復をした暁にはそちの何倍もの霊力を誇る猫になっておるわい!』
「はあ」
熱く語るぎんだったが、あまり興味のなかった将は空返事した。ぎんは明らかに苛々した調子で説明する。
『まあ実感がないのも仕方なかろう。今のその体は、そちが元から持っておった霊力と、妾が結んだ契約によってできておる。じゃから霊力は並大抵のものではない』
「さっきから俺の持ってる霊力が膨大だっていうのは分かるんだけど……ん、契約ってなんだ?」
『あ、契約というのは血を吸ったと同時に勝手に結ばれるものなのじゃが』
「勝手になのかよ。それは契約成立してないんじゃないか」
『今話したから良いじゃろ』
「俺はまだいいとも悪いとも言ってないだろ!」
突っ込みと同時に将は溜め息をついた。この猫、随分適当だな……今からもとに戻してくれるっていうんだから、別にいいんだけど。
『成立できておるかは今から試してみれば分かる。そちが人間に戻れば、な』
「ふうん?」
よく分からないが、質問はまた後にしようと決めた。ぎんがこちらをじっと見つめて、ゆっくりと近づいてきたからだ。怖い、と将は思った。自然と自分の毛が逆立っているのが分かる。やっぱり猫は苦手だ。あの真ん丸の目で見つめられると、胃がざわざわして落ち着かない。それを避けるように彼は瞳を閉じた――ああ、また噛まれるんだろうな。
『ではゆくぞ』
「……うん」
しかし、いくら待っても将の首に痛みが走ることはなかった。違和感を覚えて目を開ける。
目の前にはぎんの顏があった。彼女もまた、先ほど将と同じように、目を閉じている。猫にしては長いまつ毛が一際綺麗だった。そして、彼女は口を少し開けて――キスをした。
「――!!?」
将は思わず飛びのきそうになるが、そうはならなかった。体がまったく言うことを利かない。あの、全身の力が抜ける不思議な感覚が再び彼を襲う。ぎんは舌で将の唇を舐め始めた。途端に彼の体はかっと熱くなる。それが生理的な反応なのか、恥ずかしいからなのかは分からなかった。
全身が痺れ――気がつくと、将は元の人間の姿に戻っていた。彼はしばらくぼうっと自分の口を撫でていたが、相手が何をしたか気づくと一気に体温が上がった。俺にとってのファーストキスが、よりにもよって苦手な猫からとか……悪い冗談だろ。
「噛みつかれるのかと思ったのに」
『なんじゃ、顏が真っ赤じゃぞ』
下のほうで声がした。はっとして見れば、尾を満足そうに揺らしているぎんがいた。先ほどに比べて、毛が銀色に輝いているように見える。
「……喋れるのか」
『主従関係を結んでおるのじゃから意志疎通はできて当然。人間で妾の声が分かるのは、まあそちだけじゃろうがな』
そういえば自分が裸なことに気づいて、将は適当に着替えようと思った。猫でいるときは何ともなかったのだが、今はなんだか恥ずかしい。あとで、玄関にある制服も取りに行かなくてはならない。
「……いや」
それよりもシャワーを浴びたいな、と思った。ずっと外にいたから体中が埃っぽくて、髪はばさばさしている。下着だけ身に着けた将は、ぎんの方を見ずに言った。
「戻してくれてありがとう。猫になるのも、悪くなかったよ」
『おお、そう言うてもらえるとは思わなんだ。良き下僕を持てて妾も幸せじゃわい』
「じゃあ、俺は風呂に入ってくるから」
さよなら、と言いかけた将だが、ぎんがそれを途中で遮った。真ん丸の目がすっと細くなる。
『妾も行こうかのう。風呂は嫌いじゃが、体を洗いたい』
おや、何かがおかしいぞ、と将は思った。
「もう栄養は接種したからさようなら、じゃないのか?」
『阿呆か。そんな簡単に解決できるんじゃったらわざわざ下僕なぞ作らんわ』
「……? じゃあまだお前は霊力が足りないっていうのか」
『当たり前じゃ。まだ一割も貯まっておらん』
「また……するのか」
『まあそうなるのう』
「……はあ」
なんだろう、このモヤモヤした感じは……将はまた溜め息をついてしまう。噛みつかれるほうがマシか、と訊かれればそんなことはないが。決して認めたくはないが、彼女の口づけは気持ちがよかったと感じているのも事実であった。
「妹にバレたら何て言われるか」
『安心せい。バレるなぞありえん』
妾は霊猫じゃからのう、と謎の自信を持ったぎんは、将について部屋を出た。
いくら猫とはいえ、霊猫という妖怪とはいえ、誰かの目線がある中で風呂というのは落ち着かないものだった。将は普段よりも深く湯船に浸かりながら、さりげない風を装いつつ訊ねる。
「じゃあ色々と話を聞こうかな。まだ分かってないこと、たくさんあるし」
『はあ。飽きず質問をするのう。別にそういうのは分からんままでもいいと思うぞ』
ぎんは石鹸に興味を持っているようで、泡立てて遊んでいる。将は呆れた。
全く――これからも暫くこいつと付き合っていかなければならないのだから、分からないことは少しでも減らしておきたい。
「霊力ってどのくらい必要なんだ? 俺としては――」
その時である。全身がむずむずと痒くなり、将の身体が小刻みに痙攣を始めた。この感覚は忘れるはずもない、これは……。
体が黒く小さくなっていく。将は絶句した。そんな、また猫にならなくちゃいけないのかよ、噛みつかれたわけでもないのに!
『それはもっともっと、沢山必要じゃなあ』
溺れかけている彼のことなど気にも留めずに、ぎんが答える。
『言うておらんかったが、妾が噛みついた時点で〔そちを下僕にする〕契約は完了しておる。つまり、霊猫に成ることは逆らえん――初めのうちは不安定じゃから何度も成ってしまうじゃろうが、しばらくすれば回数も減って自由に変化できるようになろ』
「勝手に、」
なんてことをしやがったんだ、こいつ。
なんとか湯船から這い上がった将は、転がるように浴槽から脱出する。べたりとタイルの床に落ちた彼の前に、ぎんがゆっくり近付いてきた。まるで獲物を見るようなぎらぎらとした瞳。舌をぺろりと出して、
『良いではないか。先ほど猫になるのも悪くないと言うておったじゃろ?』
にやり、とどこまでも妖艶にぎんは笑う。
そうして将は、再び猫になってしまい。
ぎんにキスされることになるのだった。
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