005 きっかけ

「なあ獣道、寝不足なのか? すげー眠そうだな」

「……まあ。昨日ちょっと寝付けなくて」


 翌日。授業はまだないものの、クラスでは早速教科書が配られたり委員会決めが行われたりした。今日も午前中に授業は終わり、残り一限を乗り越えれば放課後だ。授業がなくて本当によかった、と将はほっとした。眠すぎて何度も意識が飛びそうだった。


 猫化というものは結構疲れるものらしい。正確には、ぎんに霊力を吸い取られるという行為によって、将の体力精神力は消耗してしまうのだ。

 結局昨日、彼は計四回も変身してしまった。最初は玄関で、次に風呂、食事中、そして真夜中。特にまずかったのは三回目の食事中だろう。昨晩は将と護の二人での夕食で(その日の料理担当は将である)、彼の大好物である牡蛎フライを食べようとした途端にあの痙攣が走った。慌ててリビングを飛び出て階段を昇ったところで、将は猫になってしまった。そのままとぼとぼと自室に行った彼は、ぎんに嬉々としてキスされてしまったのであった。ちなみに牡蛎フライはほとんど護に平らげられた。まさに厄日、最悪の一日である。


 四度にわたる変身を経て、将は自分が一体どんな状況におかれているのか、なんとなく把握した。

 彼は霊猫という妖怪に血を吸われ、同じ霊猫になってしまった。この時点で既に、将がぎんの下僕――霊力という栄養提供をするという「契約」が完了していた。

 このシステムは、将に拒否権のない、ぎんに都合の良いものになっている。突然猫にされてしまえば、人間に戻りたいと思うのが普通だろう。そしてぎんにはその力がある。ゆえに戻してもらう――このプロセスの中でぎんは難なく人間の霊力を得ることができる。互いが互いに頼るしかなくなる。


 そして将はなぜか相当な霊力を持っているらしく、ぎんにとっては恰好なエネルギー源だ。はじめ、ぎんがやたら将を舐めていたのも、人間に戻したがっていたのも、そういうわけである。

 人間に戻った時点で、主従関係はなくなったものだと将は思っていたのだが、どうやら全然そんなことはないようだ。寧ろこれからよろしくという感じである。将からすれば、「よくもやってくれたな、この白猫」という腹立たしい気持ちでいっぱいだが――ぎんが満足するまで、彼は猫になり続けるだろう。


「ところでお前、末永と同じ委員会になったろ? 色々大変だと思うぞ、去年一緒の委員会だった奴が言ってたんだけど、しょっちゅうサボるわ変な話をしてくるわで」

「ふうん」

「ん、なんか反応薄いな。ほんとに大丈夫か?」

「あー悪い。寝不足なだけだから」

 将と末永は同じ保険委員になった。主な活動内容のひとつには、毎朝出欠表を保健室まで持っていくというものがある。

 そんなわけで、新保険委員となった将は、友達の小脇と一緒に保健室に向かっていた。小脇は将を気にかけてついてきてくれたらしいので、いいやつだと彼は思った。

 末永とは交代で仕事をする話をしたけど、小脇の話を聞くに、うまくはいかなさそうだな……。

 将がぼんやり考えていた、その時である。


「あ」

 全身を震えが走った。また猫になるのかと将は目の前が真っ白になる。だが、そうではなかった。鳥肌がぞわぞわと立つ、嫌な予感……この感覚は猫化ではなく、また別の――


「どうした?」

 小脇が将の目線を追う。二人の目の前に、一人の生徒が姿を現していた。

 彼女は怒気を放っていた。昨日それを味わった将が忘れられるはずもない。

 少女は昨日と同じように、将を睨みつけながら近づいてくる。小脇にではなく、明らかに将に怒りを向けている。ショートボブ、整った顔だち、吊り目。短く改造したスカートにタイツ。背丈は将と同じくらいだが、その存在感が実際の身長より高く見せていた。


「……お前、天野あまのに喧嘩でも売ったのか?」

 小さい声で小脇が囁く。将は小さく首を横にふる。彼女の名前すら知らなかったのに、喧嘩なんて売るはずがない。


「天野しずくだよ。ソフト部で有名だろ」

 何も分かっていない将に彼は早口で教えてくれたが、サッカー部で交友関係の広い小脇と違って部活に所属していない将には、そう言われてもぴんとこなかった。そんな彼女がどうして俺に対して怒っているのだろう?


「獣道とか言ったわね」

 二人の前に立つと、天野は何の前触れもなく切り出した。とにかく姿勢がいいためか、迫力がある。


「そうだけど……」

 どうしてそんなに怒ってるのか将は問いたかったが、できなかった。ぶっ飛ばされてしまうのではないかと思うほどの剣幕が、彼女にはある。

 やがて天野は、いつかと同じようにあの名前を口にした。


「昨日、九十九さんと話していた……」

 思わずぎくりとする。駅で彼女と話していたのを見られたのだろうか……いや違う、あの時の自分は、猫だったのだから――やがて将は、彼女が昨朝のことを言っていることに気がついた。だが、それが何故彼女を怒らせることになる?

 天野の鋭い視線から逃れようと、目線を泳がせた将は、ふと、タイツに違和感を覚えた。


「何よ」

 将の視線の先に気づいた天野は不機嫌そうに言う。


「い、いや、その」

 しまった、変態だと思われたかもしれない。

 何とか言い逃れなければ。慌てた将は、ふと思い出したことをそのまま口にしてしまっていた。


「膝、怪我してたよな。大丈夫なのかなって思って」

 ちょっとした違和感。昨日彼女の膝にあった怪我は、今日はタイツを履いている所為で見えない。

 今度は天野がぎくりと身を竦める番だった。


「なんで――知ってるの」

「あっ……いや、前々から気になってて」

 思わずどもりながら適当に誤魔化してしまう。言ってしまってから、将はますます後悔した。なんだよ、これじゃあ日々女子の脚を観察してるみたいじゃないか。

 天野は彼を胡散臭そうな目で睨んだ。


「前々から? あの子とぶつかったのは昨日なのに」

「――え? ぶつかったって、つくも」

「言わないで」

 すかさず天野は遮った。ゆえに将は、口をつぐんで彼女を見ることしかできなくなる。天野の瞳はまるで青い炎が灯ったかのように煌々と輝いていた。それが息をのむほど綺麗で、怖かった。


「聞きたくない。……全部私の所為だから」

 そう言うと、彼女は歩き出す。そうして自分の教室――九十九と同じ教室――に入っていった。


「……獣道、お前本っ当に、心当たりとかないのか」

 教室の扉を見ていた将に、困ったように小脇が声をかける。


「ねえよ。あいつ、何であんなに怒ってるんだ? 昨日初めて会ったんだけど、その時も何故か怒っていたし」

「うーん、まああいつはいつも怒ってるっていうか怖いオーラがあるけどな。それで試合では敵チームをビビらせて三振させたエースとかいう噂もあるくらいだぜ。でもあんなに怒ってるのは初めて見た」

 ただ、将には分かったことがあった。


 天野の膝の怪我は昨日負ったもののようだということ――「あの子」とぶつかったと言っていた。

 それに、昨日の九十九との会話。彼女が怪我させてしまったという女子の話――怖くてちゃんと謝れなかったと言っていた。

 つまり、この二人が当事者なのだろう。そうは思うが、どこか噛み合わない気がする。将は、てっきり天野が被害者だと思っていた。それが、全部私の所為とはどういうことだろう?


 それに、昨日の天野の言動も引っかかる。彼女が怪我を負わせた九十九に腹を立てているのなら分かるが、猫だった将に対して「死ねばいいのに」「九十九さんと仲良くしちゃって」ときた。どうにも、不可解だった。


「よく分からないな」

 そんな彼の心中を察したわけではないだろうが、小脇が唸る。


「本当にな」

 と、将は返した。



○●○●○●



 ホームルームが終わった時には、時刻は一時になろうとしていた。家に帰るまで空腹に耐えられそうになかった将は、さっそく午後から部活がはじまるという小脇と学食を食べた。その後は小脇と別れ、将は一人で教室へ戻ってきた。食堂はそれなりに混むため、食べに行くときは邪魔になる荷物は置いていくことにしているのだ。

 さすがに二度も教室を間違えたりはしなかった。二年C組の表示をしっかり確認してから、将は教室に入る。


 教室には午後に部活があると思われる生徒が何人か残っていて、各々弁当を広げ食べていた。ただ一人、呆けたように外を眺めている生徒を除いては。窓際の一番後ろの席、末永だった。仕事をサボると聞いているし、委員会の仕事のことをもう一度言っておこうか……などと将は思ったが、面倒なのでやめることにした。だが末永は彼の視線に気づいたらしい。


「んー」

 末永はゆっくり将の方に顏を向けると、手招きした。


「……?」

 将は思わず怪訝そうな顔をしてしまう。彼女が自分を呼ぶ理由がわからないが、思い至ることといえば、昨日の彼女との会話だった。また馬鹿にされるのだろうか……だったら嫌だなあと思ったが、机の上に置いていた鞄を取りに行くついでに、末永の机まで向かうことにした。なに、と口を開くか開かないかの時に相手は訊いてきた。


「あんたさ、何か動物飼ったの?」

「は?」

 末永の突飛な発言に、拍子抜けた声を出してしまう。


「いやほら。なんかそれっぽいにおいがするなーって」

 将は流石に驚いた。どういうことだ? 俺、もしかして猫くさいのか? 猫になったから? それともぎんのにおいがするのだろうか……。


「よく分かったな。実はさ、昨日猫を拾って。今うちに居候してるんだ」

「まあね。あたしにはそういうの分かる」

 将がそれっぽく返答すると、末永は自慢げに胸を張った――やはり不思議さんであることは本当のようだ、と彼は思った。なんだか会話が成立しているようで、していないようなちぐはぐ感がある。

 

「でも、不思議だね。あんたは猫が嫌いなはずなのに……」

 ちょっと待てよ。相槌を打とうとして、将は気づいた。どうして俺が猫が嫌いだって知ってるんだ?


「ところで、女子同士の問題には首突っ込まないほうがいいよ」

「え?」

 話の切り替わりの速さに、将はついていけなかった。末永の言葉は一つ一つが的確に彼を射ぬいていく。ゆえに処理しきれずに混乱してしまうのだった。女子同士の問題? こいつは何を知っていて、何を言っているんだ――?


「部外者が関わってもこじれるだけっていうかさー、なんていうかな。自然となんとかなるものだから、放っておいていいんじゃないかな」

「……、何のことを言ってるか分かんないけど……俺は別に」

 そう言いながらも彼は、九十九灯と天野しずくのことを頭に浮かべていた。末永が何を言おうとしているかは分からなかったが、将にとってどきりとする指摘だった。

 部外者の将にとって、この問題は他人事でしかない。それでも偶然ふたりの証言を耳にしてしまった。そして、本当は何があったのかを知りたいと思っている――それは当事者からすればただの迷惑だろう。


「そうお? じゃ、余計なことを言っちゃったかな」

「……末永は何か知って、――いや、なんでもない」

 周囲の視線が集まってきた。将はてきとうに話を切り上げることにした。末永も既に満足しているらしく、目尻をゆるりと下げる。


「ん、引き止めてごめんね。そいじゃまた明日」

「お、おう」

 脈絡を得ない会話だったが、相手は再び目線を外に移した。


「ん……」

 将は一瞬自分が何をするんだったかを忘れてぼうっとしてしまったが、帰ろうとしていたことを思い出した。もうこちらを見ようともしない末永を最後に振り返ってから、教室をあとにする。その途端にである。

 痛み。将の全身を小刻みに痙攣が走った――おいおい嘘だろ! ここは学校だぞ!


「――っ」

 畜生、と将は咄嗟にトイレへと駆けた。間一髪、といったところだろうか。トイレに飛び込んで、瞬時に掃除用具入れを見定める。その扉を開けた瞬間に変身が始まった。


「ぐ、マジでありえねえ」

 暫くして、将は掃除用具入れから姿を現した。既に猫の姿へと変化してしまっている。彼の制服は洗面台に引っかかるようにぐちゃぐちゃに折りたたまれていて――これは帰って洗濯しなきゃいけないだろう――それを除けば今回は運がよかった。トイレは無人で、一連の流れは誰にも見られていない。それに授業中や試験中でなかっただけ充分ではないだろうか。いつ変身が始まるか分からないのは本当に不便だと将は実感した。これでは落ち着いて学校生活も送れない。


「ええと、これはぎんに助けてもらうしかないよな……?」

 家からここまで来てくれるかは分からないが、将としては猫の姿で外をうろうろしたくなかった。昨日も、嗅覚や聴覚があるとはいえ、猫の視点の低さや視界の狭さに慣れていない将は、何度も踏まれそうになっていた。あれは本当にひやひやした。それに、制服や鞄を置いて帰りたくもない。制服には学生証も入っている。トイレに(下着含め)上下フルセット服を置いて行った生徒……嫌すぎる。早急に戻してほしい。


「どうすればいいんだったか……おーい、ぎん?」

 とりあえず、声にも出して念じてみる。返答はすぐにあった。頭に声が直接響いてくる。


〔把握した。今どこにおる〕

 把握って……早いだろ。まだこちらは何も言っていないというのに。


〔そちの霊力が格段に増したからな。霊猫になったことくらいは分かる。して、どこにおるんじゃ。霊力をたどってそちの元に行くことは容易いが、念の為場所を把握しておきたい〕

(どこって……学校のトイレ……)

 そう念じてみると、ぎんは黙り込んでしまった。聞こえなかったのだろうか。将はもう一度呼びかける。


(ん? 電波? が悪いのか……俺はいま)

〔聞こえておるわ。何? 厠? 妾はいまから男の厠に行ってやらんといかんのか?〕

(え、そのつもりだけど……何か不都合でもあるのか?)

〔……黙れ痴れ者が)

 ぎんの氷のような念に、将の毛が逆立った。なぜ急に機嫌が悪くなったんだろう? 未だかつて、彼女からこんな暴言を吐かれたことはなかった。


(俺としては制服を置いてこの場を離れたくはないというか、……場所を変えた方がいいってなら、そうするけど)

〔分かりやすいところにおれ。霊力をたどってすぐに行く。じゃが厠のような場は許さん〕

(じゃ、じゃあ外に出るから。校庭――っていうかな、まあ外にベンチがあるんだ。その辺りに行ってみるから)

〔そうしてくれ〕

 ぎんはそう残すと、将の意識から遠ざかって行った。将にとっては未だに慣れない、不思議な感覚だった。

 さて。さっそく外に出るとするか……服を置いてこの場を離れたくはなかったが、戻してもらうためだと将は割り切った。昨日みたいに壁をすり抜けて行こうか。校内をうろうろしているのを見られたくはないからな――こういう思考がすんなりできてる辺り、霊猫になったことになじんできているのではと将は呆れてしまう。もうちょっと何か抵抗ないのかよ、自分。


「まあつべこべ言ってもしょうがない……ここは一階の、ちょうど裏庭の辺りだから待ち合わせ場所にも近いな」

 歩きながら考える。なぜぎんが先ほど不機嫌になったのか……もし俺が女子との待ち合わせで、男子トイレの中で何て言ったら相手はどんな顔をするだろう? 答は言わずもがなだった。

 ぎんも、猫とはいえ女である。それを将は再認識した。彼はぎんを女性として見ていなかったのである。

 本当に俺は痴れ者だったんだ。将は唇を噛んだ。


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