006 不器用

 校庭のグラウンドとは別に、校内には広々とした裏庭があった。生徒が天気のいい日に飲食したり、勉強したりできるよう幾つもベンチが設置されている。この季節は特に、ここで過ごす生徒も多かった。

 

 そこを一匹の黒猫が、そろそろと横切ろうとしていた。生徒たちはそれに興味を示したが、自分から近づいて触ろうとはしなかった。

 猫が、近づくことすら躊躇われるほどに綺麗な毛並みだったからである。太陽の光に照らされて、黒の毛は銀色に輝いていた。まるでこの世のものとは思えない、触れたら消えてしまうのではないかというほどに。皆そうして、ただ見ているだけであった。

 そんなことを知りもしない猫は、何かを探しているのか、きょろきょろとして落ち着きがない。まだ子猫ということもあるからだろうか、足どりもふらふらとしてどこかおぼつかない。そうして黒猫は、ふいにバランスを崩してとあるベンチに倒れ込む形で近づいた。ベンチにいた先客が、その様子をじっと見ていることにはまだ気がついていない。



○●○●○●



「げ……!」

 迂闊だった。


 この季節は暖かいため、どのベンチも生徒が占領している。将はかなり猫「らしく」ふるまいつつ空いている席を探したが、どこもいっぱいのようだった。ううむ、これは待ち合わせ場所を変更したほうがいいな……首を上げて周囲を観察しながら考え事をしていた将だったが。ながら四足歩行はまだ慣れておらず、バランスを崩してしまう。


「うわっとと……」

 将の顔面に脚が迫ってきて、慌てて飛びのく――いや、俺の方が、脚に突進しちゃったのか。気をつけないとな――そう気づいて顏を上げた将は、全身の筋肉が硬直してしまった。

 そこにいたのは天野しずくだった。冷たい視線は、今にも将を刺しそうなほどである。

 彼女は一人で弁当を食べていた。黒猫の目線に気づいた彼女はかぱりと蓋をするなり、


「あなたにやる分なんてないわ。私は九十九さんみたいに優しくないの」

 と言い放った。……あっそう。将は不機嫌そうに目を細めた。別に欲しくはないけれど。

だが、九十九灯といい天野しずくといい、女子というのは普通に動物に話しかけるものなんだろうか?

 それに、やはり、彼女は将が九十九から寿司をもらっていたことを見ていたようだった。


「……何よ。じっとそこに座り込んでても何もないから」

「……へいへい」

 どうせこちらの言葉は分からないだろう、と将は適当に返事をする。

 とっととどこかに行けということだろうか。将だって、死ねばいいのにと言ってきた奴の傍にいたいとは思わない。彼もできることならすぐさま移動したかったのだが、腰を抜かして対応が遅れてしまったのである。驚くと腰を抜かすというのは本当にあるようだ。

 やれやれ。

 ようやく動けるようになったので、将は重い腰を上げてその場を立ち去ることにした。


「あっ」

 その時、天野が声を上げた。残念そうな声だった。将がちらりと振り返ってみると、険しい表情をした天野が右腕を伸ばしていた。今にも掴みかかられそうな迫力がある。しかし将が見ていることに気づくと、しかめっ面をして腕を引っ込めた。


「な、何よ。早くあっち行きなさいよ」

 なんだこいつ。言われるまでもなくそうしようと、再び歩き出す将。するとまた天野は残念そうな声を出すのだった。腕を伸ばす仕種も忘れていない。まるで将を引きとめるかのようだった。


「あっ」

「も、もうしつこいわね。とっとと――」

「あっ」

 この繰り返しである。将は薄々感づいていた。もしかするとだけども、こいつ……。


「お前、かなりの不器用さんなのか……?」

 そう言いつつ引き返すと、天野はぴくりと肩を震わせた。彼の言葉に反応したのではなく、黒猫がにゃあと鳴きながら近づいてきたことに驚いたにすぎない。


「な、撫でてもいいのかな……首輪をしていないから野良だろうけど、でも……」

 天野は呟いた。今の将はかなり耳がいいので、そんな小さな独り言も筒抜けだった。

 ぎんが来るまでは、暫く時間があるだろう。


「よっせ」

 ひらり、とまでは行かないが、うまくジャンプしてしてベンチに乗ることができた。将は若干距離をとりつつ、隣に座って天野を見上げる――反射的に毛を逆立ててしまった。


「……」

 なんでこいつ、こんな険悪な表情なんだろう。

 天野はそのつり目も手伝って、敵意をむき出しにしているようにしか見えなかった。でも、そうじゃないんだ、と将は自分に言い聞かせる。

 黒猫を撫でようと、天野は腕を伸ばす。将も自分から首を伸ばした。そうして彼女の指先が触れる。


「……綺麗」

 ため息交じりに、天野の右手が猫の頭を包むように撫でる――彼女の手はひんやりとしていた。


「そうやって色んな女の子を誘惑して、ご飯を手に入れてきたのね。その手には乗らない」

 そう言う彼女の手は止まる気配がない。将がちらりと見上げててみると、彼女はやはり睨むような表情でこちらを見つめていた。


「なんでなんだろうな」

 なんでお前は。損してるよ、本当。

 将は、天野のあの声と、伸ばされた手を見た瞬間、分かってしまったのだ。天野は、ただ強面で、不器用なだけなのだと。


「あ、れ?」

 その時、女子の声がふたりの頭上から降ってきた。


「……」

 天野と将は、無言で声の主を見上げた。

 恐らく下校途中でたまたま通りかかったのか、九十九灯がふたりの前に現れていた。


「……つく、も、さん」

 震える声で名前を呼ぶ天野。その顔つきは、隣にいる将も思わず悲鳴を上げるほど険しい。


 勿体ない、と将は思う。

 天野は感情を表に出すことが不器用――口下手よりさらに性質タチの悪い、感情下手なのだ。九十九の名前を呼ぶことも、笑って手を振るべきだったところを、失敗してしまっている。

 さらに悪いことに、天野は緊張していると余計に眉間に皺を寄せて、強面になってしまうようだった。顏の造形は決して悪くない。むしろ美人といえるほど整っているのに、高身長や姿勢の良さも手伝って、印象はかなり悪い。事情を悟った将でさえ、彼女を見上げるのはいっぱいいっぱいだ。将が視線を落とすと、天野の膝の上で、小さな拳が小刻みに震えているのに気がついた。少し前の彼なら、怒りで震えているのだと勘違いしていただろう。むしろ、普通ならそう勘違いしても仕方がない。


「あっ、天野さん――」

 実際、九十九もそう思ったらしい。明らかに怖がっている様子で、おずおずと返事をする。返事ができるだけでも凄いと、将は感心した。


「あの!」

 その言葉は二人同時に発せられた。そうしてお互い困ったように黙り込んでしまう。居心地が悪い将は、どうにかできないものかと頭を巡らせた。そうして、

「にゃあ」

せめて場を和ませられればと一声鳴いてみた。


「……ふふっ」

 思わず吹き出したのは九十九の方だった。天野はきょとんと無表情のまま首を傾げている。おいおい、ここは一緒になって笑うところだろう。将は呆れたが、ひとりでも笑顔にできただけ大成功だろう。


「この猫可愛いよね。昨日駅で見かけたんだけど、」

「知ってるわ」

「え?」

「昨日、あなたを捜していたから。私、あなたに謝らなくちゃいけない」

 堅い口調で、天野はようやく本題を口にした。将は内心はらはらしながらも、会話の行方を見守っていた。



○●○●○●



 真実は至って単純なものだった。

 落雷に驚いた九十九灯が、天野しずくにぶつかって怪我をさせた。それだけなのだが、二人とも罪悪感を抱いているために、あやふやになってしまっていた。

九十九灯は自分の所為で相手が転んで、膝に痣を作ってしまったとひどく気に病んでおり、一方の天野しずくは自分の所為で相手の気が動転したのだと信じて疑わなかった。天野は自身の感情下手と表情下手にはかなり自覚があったのである。

 ベンチには、左から順番に、黒猫の姿の獣道将、天野しずく、九十九灯が座っている。その奇妙な組み合わせに、通りがかる生徒たちはちらちらと彼らを盗み見ていた。


「私、いつも緊張しちゃって。みんなを怖がらせてしまうの」

 そう天野は謝罪と同時に打ち明けた。人と接するのがとても苦手だ、と。

 顔の筋肉が強張って、しかめ面になってしまう。緊張すればするほど、思い詰めればそれだけ、彼女の表情は険しいものになるのだった。その不器用さの所為で、天野には友人と呼べる存在が少なかった。


 そんな天野が今年こそはと、同級生に話しかけようとした。だが、タイミングの悪いことに、九十九は雷に驚いて跳び上がってしまう。それを、天野は自分の所為だと勘違いしてしまったというわけだ。

 それから誤解したまま、天野は九十九に謝るために声をかけようとしては失敗し、結局学校の外まで追いかけて――彼女が駅で野良猫に仲良く接している様子を見て、心が折れてしまった。猫でさえ九十九と親しげに接しているのに。

「死ねばいいのに」「どうせ私なんて」そう天野は言っていた。それらは全て自虐で、彼女の放つ怒気は彼女自身に向けられたものだったわけだ。それでも、と将は思う。彼女の本音はただ「九十九灯と仲良くなりたい」だけだった。それがうまくできずに、やきもきしていた気持ちを猫にぶつけてしまうことも、まあ、たまにはあるだろう。

 そして今日。自分を許せない気持ちが募りに募って、天野は思い詰めた表情で登校した。そのあまりに恐ろしい剣幕に、クラスメイトはますます彼女を避けた。九十九が怪我を気にしないようにと、タイツを履いてくるような繊細な女の子であるのにも、誰にも気づかれなかった。


「ごめんなさい!」

 それを聞いた九十九は酷く動揺した。怪我をさせたことや怯んですぐに謝れなかったことを後悔しているようだった。


「自分を責めないで……! 私が全部悪いの。しずくちゃんは私を捜しまわってくれてたのに、私、自分からは何もしないで……」

「ちょ、ちょっと待って」

 頭を下げて謝る九十九に、天野もまた狼狽する。


「その、『しずくちゃん』って何?」

「えっ……天野さんのほうが良かった?」

「そ、そうじゃなくて」

 黙って様子を見ていた将は、もうここに座っている理由もないだろうと悟った。二人は和解したし、邪魔者は去るべきだ。最後に、


「昨日はごめんなさい。こんな私だけど、これから一年、よろしくお願いしたいな」

 という九十九の眩しい笑顔と、唇を噛みしめて目元を僅かに緩める天野のぎこちない笑顔を見て、将はベンチから飛び降りた。

 ところで、こうして九十九と天野がばったり出会ったのは偶然ではなく、どうやら二人は予めここで待ち合わせをしていたという。最初から二人はこうして仲直り、お互いの気持ちを確かめるつもりだった。別に俺がいてもいなくても変わらなかったな、と将は脱力する。これでは末永美智の言った通りではないか。


『終わったか?』

 いきなり背後から声をかけられて将は跳び上がった。見れば、ベンチの下で二つのビー玉がまばたきしている。どうやらぎんは一部始終を聞いていたらしい。


「びっくりさせるなよ……ああ、待たせて悪かったな」

『妙に清々しい顔をしておるが、なんじゃ、両手に花でそんなに嬉しかったのか』

「違えよ!」

 そうして歩き出す二匹の猫の背中を、九十九と天野は見送った。否――ぎんの姿は、彼女たちには見えていない。


「不思議な猫ね。太陽できらきら光って、銀色に見える」

「しずくちゃんもそう思った? 小さいのにお利口だし、まるで人間の言葉が分かってるみたい。……私、猫アレルギーなのって言ったら、自分から離れたの!」

「アレルギー? 程度はあるそうだけど――アレルギー反応、ひどいの?」

「うん。いつもは猫の近くにいるとくしゃみが止まらなくなるんだ。それでも可愛いから、触らないように気をつけてご飯とかあげちゃうんだけど――でもあの猫は違った。くしゃみ、全然出なかったし」

「……もしかしたら猫アレルギーじゃなくて、ダニとかのアレルギーなのかもしれないわね。猫に対してじゃなくて、それについてるものに敏感に反応しちゃっただけかも。一度看てもらった方がいいわ」

「だったらあの猫はそれだけ綺麗な猫ってこと?」

「そうね。……そうに違いないわ」



 太陽がてっぺんに昇る。二匹の猫は、見蕩れるほど美しい毛並みを輝かせてどこかへ去っていく。

 雨上がりで葉に溜まっていた雫や、あちこちに広がる水たまりも、眩しくきらめいていた。


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