007 スタートライン

 将は結局、ぎんに土下座する勢いでお願いして、男子トイレまでついてきてもらわねばならなかった。幸い、部屋は無人で、一行は無事に掃除用具入れの中に忍び込めた。この収納スペースは、トイレの個室ほどの大きさがある。小さな猫二匹では、広すぎるほどだ。

 ここ数日と同じように、将はぎんに手早くキスされたのだが、今までよりも執拗に霊力を吸われた気がした。すっかり脱力して、身動きが全くとれなくなってしまったのである。ここでするのが嫌だと言っていたぎんが、渋々承諾して戻してくれたのだ。これくらいは甘んじて受け入れようと思った。


 そうして、彼の体が動くようになったころには、ぎんの姿はなかった。長居をする気も、将と帰る気もさらさらないらしい。

 俺はあいつにとってただの充電器で、あくまで主従で結ばれただけの関係なのだからそんなものなのかな――ほんのちょっと、寂しくなった。寂しいだなんて、そんな感情を抱いていることに将は驚く。


「……着替えないとな」

 すっ裸でぼんやりしていたことに気づいて、将はのろのろと着替えをはじめる。今後校内で変身してしまった時のために、もっといい場所を探しておいたほうがよさそうだ。制服が少し湿ってしまったし、ぎんが機嫌を損ねてしまったし。彼女とはこれからも良好な関係を築いておきたかった。

 不思議と、ぎんを恨むとか避けたいとかいった、マイナスの気持ちは沸かなかった。将はぎんが何者なのか、何も知らない。悪い妖怪である可能性だってあるというのに。


「だからってどうすればいいんだよ」

 もう契約は結ばれてしまった。将はぎんがいなければどうすることもできない。しばらくはこの関係を保ち続けるしかないだろう。

 静かな廊下を歩き、靴箱で外靴に履き替えて外に出る。陽はぽかぽか暖かく、疲れた将の眠気を誘った。歩いて数歩、というところで、彼は向こうから歩いてくる九十九灯にばったり出くわした。先ほどまで話していた天野は部活に行ったのか、その姿は見当たらない。ひとりで下校するところなのだろう。


「……」

 九十九さん、と出かかった言葉を将は慌てて呑み込んだ。今の自分は、そんな親しげに話をする関係でもないだろう。会話をしたのは昨日のことだ――それも、まともに会話できていない。

 相手は俺のことを教室を間違えたやつとしか認識していないはず……いや、忘れていたっておかしくないんだ。

 そう、思っていた。


「じゅ、獣道くん、だっけ?」

 親しげに微笑んで、九十九は手を振るのだった。そうして将に歩み寄る。将は面食らって、その場に馬鹿みたいに突っ立っていた。彼がこういったシチュエーションにことごとく弱いというのもある――そう、気になる女の子と偶然鉢合わせ、とか。


「昨日は名前、間違えちゃってごめんなさい」

 でももう間違えないよ。と九十九は胸を張った。将はその得意げな表情に見惚れて、反応を返すのが遅れてしまう。


「……よくあることだから。気にしないでくれ」

 そう言ってしまったあとで、これだと相手を突き放すみたいだと後悔する。何か話題はないものか。気づけば、彼はそのまま

「今日はいい天気だな」

 と続けていた。余計に失敗した、と真っ赤になってしまう。消えることができるなら、今すぐ太陽に焼かれて蒸発したかった。そんな彼に、九十九はおっとりした口調で、


「そうだねー」

 とはにかんだ。やばい、滅茶苦茶可愛い。将はさらに顔を赤らめる。九十九は自覚なくこちらのツボを突いてくる。


「でも獣道くん、なんだか制服濡れてない? どうかしたの?」

「……っ!」

 身だしなみをしっかり見られていることに将はびっくりしてしまう。

 そんなに目立ってるかな……もしかして臭いもかなりするんじゃ!? どうして俺は、九十九の前で恰好悪いところばっかり見せてしまうんだろう。


「い、いや、ちょっと水たまりで転んだ感じで」

 仕方なく、咄嗟に思いついた言い訳をする。内心かなり凹んでいる彼をよそに、九十九は小首を傾げてこう言い放つ。


「獣道くんって、もしかしておっちょこちょいなのかな」

 グサッ。将の中で何かが抉られた音がした。九十九は天然ゆえにか、いい意味でも悪い意味でも、自分の発言の威力に自覚がないようだ。 

「そうかもなー、あはは」

 将は笑いながら心の中で地面に突っ伏する。俺の第一印象はおっちょこちょいな奴になってしまった。トイレで制服を脱ぎ捨てた奴とばれるよりは、ずっといいだろう。けど。けど! 正直もっといいい印象を持たれたい将であった。


 昨日、入る教室を間違えてさえいなければ、そうならなかったのだろうか。いや、それでは彼が九十九と話すこともなかったはずである。それに将が猫にならなければ、九十九や天野の人柄を知ることもなかった。


「そ、そうだ、九十九さんも今から帰り?」

 並んで校門に向かって歩きながら問いかける。


「うん。あれ? 私、名前言ったっけ?」

「いや、末永さんから聞いたんだ。同じクラスの」

「ああ、みっちゃんからかあ」

 いいぞ! 会話もいい感じにできてる! 将は自分を褒めた。この調子でいくと一緒に下校できるんじゃ――中学生以降、異性と下校した経験のない彼にとっては夢のようだった。

 だが。


「あっ」

 何かに気づいたらしい九十九は、短く声を上げるとそのまま駆けだした。校門の前には手を振る女子が複数人。彼女の新しいクラスメイトか、友だちか、あるいはその両方だろう。


「はは……はあ」

 笑おうとしたが、虚しくなるだけだった。

 人生そううまくいかないらしい。だが……と将は思い直す。このまま一緒に帰っていれば、話題が尽きていただろう。ならば会話が途切れたのはかなりラッキーだった。

 例えば「俺はあの時の黒猫なんだ」と言ってもみろ。彼女にとっての俺はおっちょこちょいに加え不思議さんだと認識されかねない。俺は誰にも、自分が猫に変身してしまうことを打ち明けられない。どころか、バレたりなんてしたら一大事……あれ、もしかしてこれって、かなり深刻な問題じゃないか? 

 事態の重さに不安になっていく。

 その時将は、こちらに振り返った九十九と目が合った。


「ばいばい」

 口パクつきで手を振るのを見て、自然と笑顔になってしまう。将はぎこちなく手を振り返して、やがて大股で歩き出した。彼女のおかげで、前を向いて歩くことができる。


 猫化の心配ばかりしてもいられない。九十九と違って、将はまだクラスに馴染めていなかった。九十九は今日既に友達ができているようだし、天野しずくというクラスメイトともすぐに仲良くなった。将はといえば、たまたま一年からの付き合いの小脇と、あとは末永と少し話をしたぐらいである。それ以外の同級生とは話もしていないどころか、まともに顔も覚えていない。

 頑張らないとな。九十九とその友達がとうにくぐっていった校門を抜けて、将は駆けだした。

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