008 最高の休日

 気持ちのいい目覚めだ。起きて一番に、将はそんなことを思った。なぜなら、昨日は一度も猫にならなかったからである。 


 ぎんに出会ってから一週間が経った。

 将は日に一度、あるいはそれ以上変身を繰り返していた。ただでさえ猫化は体が縮んで全身が痛いのに、妹に見つかりそうになったり授業をサボるはめになったり電車のトイレに駆け込んだりと、散々だった。将はその度にぎんにキスをされ、へろへろになっていたのだが――それが昨日はどうだ。一日猫化の気配すらなかった。だから彼には、何でもないこの土曜日が最高に輝かしい日になるような、そんな予感がした。もしかしたら、これから変身することも一生ないんじゃないか?


 鼻歌まじりで階段を降り、上機嫌で顔を洗う。朝食の時には妹のまもるが「ばかにい気持ち悪い」と言ったが、特に気にならない将はスルーできた。ところが母親も、将の様子が変だと思ったようだった。

 そんなにハイになっているというのか……ふたりから心配(?)されたことにショックを受けた将は、再び洗面所に戻って自分を観察してみることにした。

 鏡の前に立つ少年は、確かに気持ち悪いくらいにまにましていた。……誰だこいつは。将は上がった口角を手の平で伸ばして元に戻した。これで幾分かましになっただろう。 


 将の顔は高校生にしては童顔寄りで、年下と勘違いされることもしばしばだ。これで身長がさらに10~20センチ低かったら、中学生に見えるかもしれない。髪は癖っ毛で、寝癖のようにいつもくしゃくしゃと伸びている。真っ直ぐにしようと小脇からヘアワックスの類を貸してもらって試したこともあったが、将の髪の毛は根っからねじ曲がっているのか、全然ましにならなかった。ちなみに、猫になったときの毛はさらさらのストレートである。ストパーに憧れる将だが、それとこれとは話が別だと思った。これっぽっちも嬉しくない。


 軽く歯を磨いて、自分の部屋へと戻る。ぎんはといえば、基本的に将の部屋でごろごろしている。惰性で菓子を貪りはするが、食べ物を接種する必要はないそうだ。食事もトイレも必要ない、毛も爪も伸びない、そんな猫はペットとしてはお金もかからなくて最高かもしれないが、残念ながらぎんはペットでも猫でもなく、妖怪である。

 彼女は将の家に居つくようになってからというもの、読書が日課になっていた。本棚から小説やら漫画やらを失敬して、最近の文化を学んでいるという。ドアを開けた将の目に真っ先に飛び込んできたのは、寝転がって読書をしている白い猫――床一面に俺の秘蔵のエロ本が並べられている。


「NOOOOOOOOO!」

 咄嗟にスライディングして本をかきあつめる。なぜか英語で叫んでしまったが、そんなことを気にしている場合ではなかった。今まで一度もばれたことなかったエロ本が検閲されているのだから。


『なんじゃいやかましいのう』

 不機嫌そうに金の目を細めて抗議するぎん。だが怒りたいのは将も同じだった。


「な、なななんで俺の本見てんだよ!」

『いつも読んどるじゃろ。今日は春画に手をつけてみようと思ってな』

「春画って……間違ってないけども……!」

 将の所持しているエロ本は、漫画が二冊と写真集が三冊。ぎんが来てからは始終監視状態に近かったため、隠し場所から出してもいなかったのだが……。


『ああいや、妾はそちの頭の中見えちゃうから、隠し事は無意味じゃぞ。じゃから気にせず堪能するが良い』

「……」

 そういえばそうだった……。将は静かに肩を落とした。将とぎんは主従関係で結ばれている。人間同士の形だけのものなどではなく、実際に心で意思の疎通ができるほどに彼らは繋がってるのだ。将はぎんを主人だと認めているわけではなかったし、心を読み取られることも嫌だったが、そんなプライバシーはぎんには関係がなかった。


「てか、今来たのが俺だったからよかったけれど、もし妹とかだったらどうするつもりだったんだよ」

 エロ本が見つかるのも十分まずいが、それを読んでる猫を目撃されるのも色々問題がありそうだ。そんな将の心配などどこ吹く風といった様子で、ぎんは誇らしげに胸を張る。


『気配で誰かくらいは分かるわい。それに、今の妾は人間にも感知される程度には回復しておるが、この子猫の姿でいる限りは奴らの目には映らんのじゃよ』

「そうなのか……」

 万一のことがあったら床に綺麗に並んだエロ本だけが発見されることになる、というわけだ。最悪だった。


『しかしそち、春画が一度も見つかったことがないとは言うが、実際母君なんかにはばればれじゃと思うぞ。黙ってくれておるだけで』

「嫌なことを聞いてしまった! しかも猫から!」

 理解のあるお姉さんのように、優しく諭すぎんだが、将は立ち直れそうにない。


『たまに、本の順番が入れ替わったりしておってな』

「そんなリアルにありそうなこと言わないでくれ……」

 最近のぎんの趣味に将弄りが追加されたのか、そもそも元からこんな性格なのか。いずれにせよ彼をからかうぎんの目は、きらきらとして楽しそうだった。

 いつまでも大事そうに抱えていても仕方がない。将は本を元の場所に隠すことにした。ぎんの目はあるが、だだ漏れ状態ならもはや気にする意味もなかった。


『それにしても我がしもべは、女々しい顔をしていながら、かように特殊な性癖の……』

「だー! 特殊じゃないし女々しいとか言うなよ!」

 危うく本を取り落すところだった。

 将自身、男らしくない顔だというのは自覚していた。将も護も母親似で、三人並ぶとそっくりだ。せめて中性的な顔と言ってほしい、と将は思った。


『そうか? まあ特殊ではない、か……しかしそち、黒髪で清純なおなごが好みなんじゃな? そんなの御伽噺じゃぞ?』

「妖怪に言われても……」

 なんで三百歳の妖怪であるお前が詳しいんだよ、と将は突っ込みを入れる。その頃は髪を染める文化とかだってなかっただろ。……あったのかな?

 だが、彼の持っている本はどれも黒髪ロングの女の子がメインなのは確かだった。艶々して綺麗なキューティクルの黒髪ロング。それが将の好みの異性だ。何より、白い肌に映えるのがいい。

 

『にやにやしおって。気持ち悪いのう――どうせあの九十九とかいうおなごにも欲情しておるのじゃろ』

 だか猫は、将が一気に冷めることを言う。

 近頃の将は困ったことに、――元からそういう子が好きということもあるのだろうが――しょっちゅう九十九のことが頭に浮かぶようになっていた。あの日彼女と話したことを思い出しては、幸せな気持ちになるのだ。

 俺は顔も地味だし、成績がいいわけでも、部活で人気者なわけでもない。どこにでもいるような冴えない男子なのにも関わらず、九十九は自分のことを覚えていてくれた、名前まで呼んでくれた。それだけでもう嬉しくて舞い上がってしまうくらいだ。それなのに。

 かちんときてしまった。彼にだって分かっていた、ぎんは自分の心の内を口にしたに過ぎないということは――だが欲情などと、言ってほしくはなかった。将は溜め息をついて、椅子に腰かける。


「はやく契約を解いてくれたりは、しないのか」

 足元にいるぎんとは目を合わさずに、言った。

 流石に我慢ならない。このままプライベートな領域に踏み込まれたら心身が持たない、だからこその要求だった。そういうことが積み重なって、将はだんだん苛々が募ってくるのを感じていた。ぎんとはいい関係でいたかったが、相手がこうではこちらの負担が増すばかりである。

 苛々を最小限に抑えながら、すぐ脇の窓の外を眺めながら返事を待っていると、いつもの調子でぎんは答えた。


『妾が回復するまでは乗れない相談じゃな』

 その偉そうな口調も、今の将には起爆剤になりかねない。将は深呼吸をしてから、できるだけ落ち着いた口調で訊ねた。


「そもそもなんでそんなに霊力が要るんだよ、この一週間ずっとお前にあげてきたよな。もう姿を維持できるくらいは貯まっただろう? そうだ、消えたくないなら霊力を使わずにいればいいじゃないか」

『……』

 ぎんは黙っている。将の気分は今や悪くなる一方だった。エロ本を物色されたり心を読まれたり――九十九のことを、言われたり。どうしてこんな目に遭わなくちゃいけないんだろう。

 せっかく我慢していた怒りが、ふつふつとこみ上げてきた。


「……それともなんだ、お前は霊力を悪いことに使おうとか企んでるのか」

 とうとう口にしてしまう。これは嫌味ではなく、ずっと彼の中で引っかかっていたことのひとつだった。もしかしたらぎんは悪い妖怪かもしれないと、心の片隅で疑っていた。言って、彼はちょっぴり後悔する――本人には言わないようにと決めていたのに。

 ぎんは静かにひらりと勉強机に飛び乗って、将と目の高さを合わせて身を乗り出してきた。彼女も怒っているのか、微かに毛を逆立てている。


『それは今は答えられん。じゃが、幾ら嫌だと言うても、そちは妾に頼るしかない、じゃろう?』

 誘惑するように艶めかしい声でぎんは言う。黄金の瞳はふたつの月のように真ん丸で、そこに将が映り込むほどに澄んでいた。瞳孔は、塗りつぶされたかのように真っ黒で大きく、吸い込まれてしまいそうだ。

 将は眼力に屈して、その通りだと思わず言ってしまいそうになった。だが勇気を出して立ち上がると、怒りに任せて叫んだ。


「だから今すぐどっか行けって言ってんだろ!」

 それから、色んなことが次々と起こった。

 将の身体が彼の意思に反してびくりと震える。かと思うと、静かに変身を始めた。全身がみるみる縮んで、黒い毛が手を、足を、這うようにゆっりと覆い始める。


「い――いやだ、い、やだ!」

 彼の拒絶も虚しく変化は止まらない。全身を襲う痛みに耐えきれず、将は体をくの字に折り曲げた。

 最悪のタイミングだった。ぎんが変身させたというわけではないだろうが、抵抗して身をよじる将を傍観する彼女はどこまでも冷静で、冷淡だった。


『ほうほう、見物みものじゃのう。妾に頼らねば何もできんくせにな』

 と鼻で笑ったかと思うと、ぎんは窓をすりぬけて外に飛び出していった。


『よかろう、今すぐ消えてやろう。そちの言う通りにな』

「ふざけんな!」

 体が小さくなる中、なんとか窓をこじ開け、将が身を乗り出して叫んだその時、


「ばか兄うるさい!」

 と隣の部屋から護がやってきた。

 部屋のドアを開けっ放しにしたままだった。これでは彼の声が筒抜けだったに違いない。護にはぎんの声は聞こえない。だから、将が独りで叫んでるようにしか聞こえなかっただろう。


「あれ? あれれ?」

 護は普段はおさげにしている髪をおろし、部屋着姿だった。眉を吊り上げかなりご立腹の様子だったが、肝心の将の姿が見当たらないのに気付くと呆けた顔になった。

 きょろきょろと辺りを見て首を傾げる護。将はぐしゃぐしゃになった自分の洋服からなんとか抜け出して、机の下で息をひそめていた。猫になってしまってはこうしているしかない。しばらくすれば出ていくだろう……彼の予想通り、やがて護はすたすた自分の部屋へ戻って行った。


「……やれやれ」

 机から這い出た将は、これからどうするかぼんやり考えた。ぎんはどこかへ行ってしまった。呼べば来てくれるのかもしれないが、今はてこでも彼女に頼りたくなかった。ほれみたことか、とせせら笑われるだろうというのは目に見えている。自分でも子どもっぽいと思うが、ここは譲れなかった。悩んだ末に、


「忘れてしまおう!」

 とベッドに向かってジャンプした。大の字になってぽすんとダイブする。意外と楽しかった。

 今日は土曜日だ。別にぎんがいなくたって、一日戻れなくたって平気だ……ご飯は食べられないし、親は心配するだろうが、いっそ猫の状態を楽しんでみようと思った。ごろごろとベッドの上を転がって大きく欠伸をする。自分でも猫みたいだと笑ってしまった。ひとしきり笑ったあと、小さな溜め息がこぼれた。

 それでも俺は猫じゃない。人間なんだ。


「なんか、眠くなってきたな」

 いつも猫になるたびに神経を研ぎ澄ましていて、こうしてのんびりできたためしがなかった。自分の部屋ということもあって、今はかなりリラックスできている。将はぐぐっと伸びをして――これが気持ち良かった――丸くなる。早い昼寝をすることに決めた。

 目が覚めたら、これが全部夢だって分かるかもしれない。まだ土曜日は始まってないのだと信じたかった。


 今日はいい日になるって思ってたのに。

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